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人生徒然草 1

人生徒然草



良禽(りょうきん)は樹を選ぶ。自ら気に入った帝王が居れば、進んで幕賓(ばくひん)となる。その帝王を通じて、自分の理想を実現していく。そのために精魂を傾ける。粉骨砕身する。だが、これは容易なことではない。
 人は窮地に立たされれば窮する。苦境に立たされれば窮する。災難に出遭っても窮する。
 他人から才能を認められなけれは窮する。評価されなくても窮する。窮して、もがき苦しむ。
 窮して窮して、窮乏の後にドン底まで叩き落とされる。人生で窮することは多い。
 そういう場合、どうするか。耐え忍ぶしかない。窮乏することに甘んじる。その然る後に打開策が生まれる。そこに変化が起きる。変化が起きた時、既に道は天に通じている。野に臥す竜はそのことを知っている。知っているから、忍ぶことが出来る。そして、人物を俟
(ま)つのである。帝王が登場するのを辛抱強く俟つのである。
 だが、不幸にしてそういう帝王が見るからねば、野に下って一人の隠者
(いんじゃ)として晴耕雨読の生活を続ける。臥竜とはそういう人物である。


●第一段 いい酒と悪い酒

 巧く乗せられて踊る者は多い。物を売る方は、買う者を乗せるというのが物売りの世界である。そこに貧富の差が生じているのは事実である。
 例えば酒だ。
 酒は百薬の長などという。これはたいてい造って売る側の宣伝文句であり、むしろ病気は、酒が原因で罹病する場合が多い。人生でしくじるのも酒である。
 しかし、いい酒もある。
 乱れず、飲み過ぎず、呑まれ過ぎない酒品のある酒は、いい酒である。
 心置きなく友と呑む酒、花鳥風月を愛でながら呑む酒、近付きになってのむ祝い酒などは、とりわけいい酒であろう。



●第二段 自慢

 自分の持ち物でも、伴侶でも、あるいは恋人でも、何でも「自分の物」については持ち上げて表現する人がいる。持ち物自慢は、多分にそう言うところがある。
 そのために自分の物を高きに置いて、他人の物を低くきに置かないと我慢ならない。自分の物が優れていると周囲に、世間に評価してもらいたいからだ。これは自慢する人間の正体である。



●第三段 迷ったとき

 進もうか、戻ろうかと迷ったとき、こういう場合は戻った方がいい。
 また、行なおうか、止めようかと迷ったとき、こういう場合は止めた方がいい。
 迷いつつも、これを実行したときは、ろくなことがないからだ。そもそも迷いが生じたこと事態に取り止めの暗示が含まれているからである。



●第四段 長生きし過ぎて恥じ多し

 長生きしてもいいことばかりではない。
 高齢者が長生きすると、ローン持ちが年金暮らしの老人を詰
(なじ)る。長生きは、詰られる対象であることを忘れてはならない。
 若いローン持ちは言う。
 「お前が長生きするから、自分たちは積み立てた年金が老後に廻って来ない」と。
 一方で、娑婆
(しゃば)に長居し過ぎたと思う自覚症状の無い老人が多くなった。果たして、人生は長生きすることだけが目的だったのだろうか。



●第五段 晩年の大事

 晩年に人生を台無しする人は多い。若い頃は成功の道を順風満帆に進みながらも、晩年になって人生をしくじる人は意外にも多い。最たるものは人生半ばを過ぎてからの生活習慣病などから起こる罹病であろう。
 みな不断の不摂生が招く失敗である。
 これらの失敗には、生きることは何なのか、普段からじっくり考えなかったことが起因している場合が少なくない。



●第六段 任せる

 人生には逆風が吹き荒れたり、逆流に押しなされるときがある。また、人の運命には満潮があり、干潮がある。現象界は時々刻々として変化する。変化の潮勢を機敏に捉えて、これを乗り切っていくことが人生には要求されるのである。
 特に逆風や逆流の遭遇した時の対処の仕方は、その人の器量と力量を問われるものである。先ずは、一つの方法として、「流れるままに任せる」というのも奇手の一つであろう。
 逆らうのは愚である。
 流れるままというのは無為無策で手を拱
(こまね)くことでない。だらだらと流されて傍観することでない。
 自然体である。任せるのである。
 満潮時の勢いのある時はそれに乗じて素早く動き、干潮の時は焦らず、静かに時機
(とき)を俟(ま)つ。荒れ狂っていれば鎮(しず)まるのを俟つ。嵐も永遠には続かない。時が来れば鎮まる。



●第七段 上り坂と下り坂

 若い時は『老子』がなかなか理解出来ないものである。しかし、『論語』の教えは拒否反応を示さず、すんなりと入ってくる。したがって、人生前半は孔子の思想で上り坂を登り、人生の折り返し点からは老子の教えが晩年の人生を誤らずに済む。上り坂はアクセルを踏んで坂道を上り、下り坂に差し掛かればブレーキの準備が必要である。下り坂に、上り坂の要領で突き進むことは危険である。
 山でも、頂上に至ればそこから先は上り坂はない。あとは降るだけである。坂の上下は同じでも道には違いがある。人生は「上り坂」と「下り坂」の遣い途
(みち)の違いを知ることが肝心である。



●第八段 真理は晩年にあり

 死すべきときに死なざれば、死するにまさる恥辱ありという言葉がある。
 細川ガラシア夫人の辞世の句に、

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の

花は花なれ 人も人なれ

 というのがある。
 これは黄昏れて、恍惚状態になって、所構わず徘徊したり、人に迷惑を掛ける前に一線を退くことを教えてくれている。
 世の中には、「われ過
(あやま)てり」と、のちに後悔し、そこで目覚め、更に人生経験を積み、賢く、毅然として優れた人格に成長していく女性も少なくないのである。
 人生の大事は晩年にあり。
 始めになく、終わりにあり。若き日の栄光は、その人の人生では問題にされない。生き方になく、死に態
(ざま)にあり。
 「声妓
(せいき)も晩景に良に従えば、一世のエン花、碍(さまたげ)なし。貞婦も白頭に守りを失えば、半生の清苦、倶(とも)に非なり。語に言う。『人を看(み)るには、ただ後の半截(はんせつ)を看よ』と。真(まこと)に名言なり」
 若いとき貞操固く、淑女を気取っていても、晩年で崩れればそれまでだ。
 『菜根譚』に言う通り、これにまさる真理はないだろう。




●第九段 知識はあるが教養と常識がない現代

 日本は大東亜戦争に敗
(ま)けたことが契機となって、戦後民主主義は人々に平等の権利を齎した。
 貧者でも学ぶ権利を有したお陰で、男女を問わず、貧富を問わず、才能と実力さえあれば、誰にでも学習の機会が与えられ、多くに日本人は知識を得るようになった。殆どが、知識だけは豊富である。その豊富な知識をもって堂々と自分の主張し、自らの考えを述べ、事象を批判したり、同意したり、あるいは行動するようになった。
 ところがである。
 誰もが知識豊富でありながら、よく考えれば分かるような騙しにも、簡単に引っ掛かってしまう。
 毎日テレビで喧伝される健康食品やダイエット食品、そしてサプリメントの数々。それらに最初飛びつき、効果無しと看ると、次への物に目移りを始める。斯くして、サプリメント依存症なる病状が起こった。
 事実、サプリメント無しでは生きられない人まで出て来た。
 世に、依存症と名のつくものは多い。覚醒剤依存症を筆頭に、アルコール依存症、カジノ依存症、パチンコ依存症などであり、サプリメント依存症も例外ではない。
 さて、人体は秩序ある働きをするものである。一部の栄養素だけを大量に取り込んでも、効果を顕すことはない。これと同じことは食品にも言える。
 例えば、肉はスタミナの元という考えからである。食肉を解せば、肉は酸性食品であるために躰にはよくない。元凶は、動タンパクがコレステロールを殖やすからという理由である。しかし、知識豊富な人が殖えている割りには、依然として肉はスタミナの元と信じられている。現代の肉食信仰は、依然、猛威を揮っている。
 それは、肉がスタミナの元という概念が頭に染み込んでいるからである。そのために酸性食品として多少マイナス面はあるにしろ、スタミナを付けるのが先決と言わんばかりである。
 この矛盾に、現代の知識を有する多くの人々は全く気付いていないし、疑いも抱かない。
 卑しくとも、知識階級ならば、人間の躰は一つの秩序だった働きをしているからである。
 そもそも血液を酸毒化させておきながら、コレステロールを増大させ、動脈硬化を引き起こす一方で、躰にスタミナを付けるという生体現象は起こらないのである。
 食品を食べて、それは血となり肉となるためには、まず血液が弱アルカリ性
(生理的中性)の状態にあって、さらさらであり、動脈もしなやかな状態が維持されて、この条件が揃った場合に限り、始めてスタミナが付くものである。
 また、知識は科学的で唯物論に集約されているが、現世ご利益を窺って、神仏は信じないくせに、先祖の墓参りはするし、盆や彼岸、命日には坊主を呼んで法事をする。結婚式には神前にぬかずくか、教会で新郎新婦ともども神との契約をする。クリスマスを祝い、大晦日は除夜の鐘を聴き、一夜明ければ元旦の初詣である。入学試験前になれば合格祈願をし、合格すればしたでお礼参りをする。
 何とも、知識人といわれる階級は、この程度の中途半端な行為しか出来ないのである。多くが、信じないくせに信じ、信じるくせに信じない。中途半端な無神論者であり、中途半端な追伸論者である。
 現代人が身につけた筈の知識は、一体何処に行ってしまったのか。自らの主体性は何処に行ったのか。
 あれもこれもの欲張り根性は、やがて総てを喪
(うしな)うだろう。

現代の奇妙な現象。一年中、揚げられっぱなしで、下ろされることのない日本の国旗。昼夜を問わず、雨の日も風の日も、誰が見ようと見まいと、関係なく、掲揚されたままの「日の丸」の無慙。
 日の丸が下ろされることがあるとすれば、それは風雨に曝
(さら)され汚れて、ぼろぼろになった時で、また買い替えられて、新しい日の丸が揚げられている。奇妙なことだ。
 こんなに自国を馬鹿にし、自国を否定し、自国の国旗を蔑
(さげ)む国民は、世界中、何処を探しても居ないだろう。公立の小・中学校の教育現場にして、これである。現代日本人は教育現場の教師も含めて、これに疑問を感じたり、屈辱を感じないのだろうか。
 こういうことを言うと、七〇年代の全共闘の時代を経験し、革命の嵐に苛まされた七十路
(なぞじ)を過ぎ、老いた一般市民も、極右にされたり、国粋主義者になるのだろうか。
 日本は摩訶
(まか)不思議な社会である。英国人の数学者であり、童話作家のルイス・キャロル(Lewis Carroll)が著した『不思議の国のアリス』以上である。今日の日本人が、パロディの世界を通り越して、日本の国を悪く言ったり、国歌否定と国旗不在の現象は、どうも大東亜戦争に敗(ま)けたことが起因しているらしい。その症状を戦争後遺症というらしい。
 公立の小・中学校での一年中の揚げられっぱなしの日の丸。これは『不思議の国とアリス』ごときのパロディなのだろうか。
 屈辱にあってもその自覚症状を感じない。自分が馬鹿にされれば怒るくせに、国が馬鹿にされても怒らない。
 戦争はしているときよりも、戦争に敗れて、敗戦国になったときから本当の地獄が始まるとは、この事だろう。敗戦国は太古からの文化まで破壊されるようだ。



●第十段 真贋の正体

 窮地に立たされたときに毅然と出来るか、否かで、その人の正体が判
(わか)る。



●第十一段 自分を知るということ

 たいてい多くの人は他人
(ひと)のことを云々(うんぬん)言うが、自分のことは知らないものである。自分のことを知らないで、他人のことをとやかく言う道理はない。
 自分を深く掘り下げ、自分を知ると言うことは、つまり物事を知るといういことだ。物事を探求すると言うことは同時に自分を知ると言うことであり、それは極めて難しいことである。この難しいことに、人や一生費やして探求しなければならない。



●第十二段 感動喪失

 物が豊かになって、物が溢れてくると、感動する要素が急速に喪
(うし)われていく。仮に何かに感動したとしても、その感動には持続力はない。直ぐに消え失せ、興味の対象は次に移行していく。現代とは、かつての感動が味わえない時代になった。



●第十三段 運に恃む

 いつの時代も人材は転がっている。だが、人材はあっても、真価を発揮できる機会は、殆ど訪れることがない。
 かつては時代が、英傑が英傑たり得ることを需
(もと)め、招聘(しょうへい)していた。礼を尽くして招き寄せていた。
 ところが、現代はそう言う機会に恵まれなくなった。その機会は運に恃
(たの)むと言う、寔(まこと)に奇妙なものになってしまったのである。



●第十四段 悲哀の底

 明治二十五年
(1892)、恋愛至上主義者は、こう言った。
 「恋愛は人世の秘鑰
(ひやく)なり、恋愛ありて後(のち)人世あり」と。北村透谷(きたむら‐とうこく)の言葉である。
 北村透谷と言えば、進歩的文化人のハシリであり、この年に、日本人を恋愛至上主義に陥れた。この年を転機として日本人の多くは「恋愛」という呪縛に懸かった。老若男女を問わず、恋愛の金縛りに懸かり、悲哀の底に沈んだのである。



●第十五段 霊夢

 霊夢を観るという現象がある。ただし夢は、霊夢であっても確信しなければ、ただの夢である。
 観た通りになる!と確信したときに夢の暗示は確かな働きとなる。確信することで、心の深層部では心象化現象が起こっているのである。不可能と思えたことは、可能に向けて動き出すのである。
 特に「運命への貸し」がある場合は、その貸しの返済に対して運命が動き出す。
 これまで不運だったことや、ついてないと思って、それを運命への貸しと観念した場合、それは今度は貸しの返済に向けて運命が動き出す。それを念じる。強く思う。このように強く思念することが大事である。
 そうしなければ、ついてないことは、ついてないことで終わるだけである。運命に貸しがある場合は、遠慮なく請求すればいい。それによって運命はこれまでの借りを返すために動き出すのである。

研鑽した知識も腕力も通用しないとき、どうしたらよいか。
 人生には、時としてこういう場面に遭遇することがある。気負った無頼の訪問者が、続々と詰め掛けるときなどである。
 こうした手合いに耐え得る策は、人格の力と言うものであろう。
 世の中では、知識にも頼れず、腕力も無駄、更に見識も通用せぬとなれば、もはや人格の力以外ないのである。



●第十六段 己の身のほど

 我欲はどこから起こるものだろうか。
 欲望と言うものは、欲のおもむくままに生きることで、それは則ち自らを辱める行為である。欲張ることがやまないのは、生命
(いのち)の終わることの大事が解らないからである。生命は燃焼するだけ燃焼したら、たがてはその火が消える。永遠に生命の焔(ほのお)など、点(とも)し続けることは出来ないのである。
 その自覚が起こった場合、己の醜い容貌に気付かされるものである。その醜さを自覚したとき、人は始めて謙虚になれる。



●第十七段 相手を変える力

 相手に変わって欲しいければ、要求を突き付けるだけでは駄目である。要求者の寛容が要る。相手の非には眼を瞑り。まず自分の方が変わらなければならない。
 この世には一方的に相手の非を詰
(なじ)る誹謗合戦があるが、中傷も誹謗も、相手を感化させるだけの威力は持たない。



●第十八段 こだわりを棄てる

 春爛漫の花の下。仲秋の名月。そして、もろもろの花鳥風月……。
 そのような状態のときだけが愛
(め)でるときとは限らない。
 雨の煙る雲の向こうにも名月は存在し、そこに「想う」という行為が現れる。
 人生のいい時が訪れるのは稀
(まれ)であろう。結構な天気ばかりは続かないものである。好日に恵まれるのは稀である。よいと機だけが好日なら、曇ったり、雨が降ったり、風が吹いたり、雪が降れば厭(いや)になってしまう。これでは永遠に幸せなど訪れない。
 雲間でも、雨続きの中にも晴れ間があるように、雲の向うには陽があり月がある。それを想えば、雨が降れば雨が降ったで雨の風情を愉
(たの)しみ、晴れたら晴れたで喜ぶ。
 時の変化は自我の中にも訪れて来るものだが、こだわりを離れれば、自我は小さくなり、こだわればこだわるほど自我は大きくなって、結局それが心に霞
(かすみ)を掛け、靄(もや)を掛けるのである。



●第十九段 目の付け方

 下手な考えというのがある。それは目の付け処が浅いからであり、着眼点が悪いのである。
 着眼力を鍛え目の付け処を変えれば、新たなものが見えてくる。

憂き世に未練をもたない無邪気な名人気質。そして、芸に遊ぶ。
 また宜
(よろ)しきかな。
 仕事のために職人気質で仕事に没頭する。それに心血を注ぎ、極める。これも宜しきかな。
 そのように根性が据わっているとき、人間は最も美しく見えるものである。



●第二十段 長寿食と早老食

 人間は穀物菜食を主食にした、副食は野菜類の他に、近海で採れた掌サイズの魚介類や小動物を食して充分に生きていてるような肉体構造を持っているのである。一日わずか1,400キロカロリーの仙人食で、充分に遣って行けるようになっている。それ以上に過剰な動タンパクなどを喰らい過ぎると、肉体は病む。そのうえ白米や白パンを主食に肉を喰らうと泥腐る。
 では、白い食品が何故いけないのか。最大の理由は胚芽欠乏食品であるからだ。胚芽には不飽和脂肪酸、ビタミン、ミネラル、酵素などが豊富で、未精白の穀物には体質を中庸
(生理的バランスの完全化された状態)に保つ働きがあるからである。胚芽食品にはこれらの微量含有成分が高濃度でバランスよく含まれている。
 一方、白米や白パンにはこれらが精白の時点で削り落され、複合炭水化物食品である本来の玄米や玄麦が単純炭水化物に変化してしまうからである。この単純炭水化物が、一方で人体に様々な障害を引き起こすのである。代謝の潤滑油であるミネラルた酵素を欠如させてしまうからである。そのことから考えれば、障害として胃腸障害、便秘、痔、肩凝り、貧血、思考力低下、記憶力低下、自律神経失調症、ノイローゼなどの神経症、不眠症、糖尿病、基礎体力低下などを齎し、これらの食品が早老食であることが分かるであろう。



●第二十一段 どこで歯止めを掛けるか

 知識は知識の上に堆積を重ね、人間の知能は発達するが、感情は制御出来ない。ますますエスカレートするだろう。時代はそういう時代に突入した。人々は他を牽制しつつ、感情のまま、本能のまま、欲望のまま生きるという時代が来るだろう。
 惻隠ゼロの時代。
 この時代の突入するだろう。この突入の原動力に科学技術が注入されるかも知れない。決してあり得ないことではないだろう。



●第二十二段 万物は時々刻々と変化する

 人間と言うものは身を削るように闇雲に生を貪
(むさぼ)り、利を求めて止むことがない。愚者は老いと死を忌み嫌い、いつまでも若く、健康で、相変わらず生を貪っている。こうした愚行は、万物は常に変化するもので、無常であるという道理を知らないからである。それこそ、非科学的であろう。



●第二十三段 瞑想

 人間は波の変化の中で生きている。したがって、波形の変化を見て、次の動きが予測出来る。人の心も、世の中の動向も、波形の変化を見て次のどうなるか、予測することが出来るのである。
 では、どうしたら変化の波が予測出来るか。
 まず、人混みの、都会の雑踏や雑音に塗
(まみ)れていては無理だろう。人からも離れる。そこから離れることが必要である。それは「こだわりから離れる」ということでもある。
 人は一人で居るとき、そこには自分だけのこの上もない境地が拓
(ひら)けている。
 俗世の思慮分別、損得勘定などの諸縁を消し去り、独り静かに想うことである。瞑想の中にこそ、見えて来るものがある。



●第二十四段 何も需めない

 恩は売ってはならない。見返りを需
(もと)めてもならない。尽くせば済むことである。かつて、「あの人にはこういう事をしてやった、ああいう事をしてやったとか、散々世話になりながら……」などと、あとでほざくなら最初から恩を致すことはない。
 恩は売らないところ、見返りを需めないことに真の価値がある。そして、自分が慈悲で他人
(ひと)に遣ってあげたことを忘れてしまえば、「恩知らず」などと愚痴もこぼさず、喚(わめ)かずに済む。



●第二十五段 民主の正体

 個人主義は「民主」という政治的思想から生まれた。したがって、民主主義を標榜する国家では、一人ひとりが大事だと言うが、裏を返せば誰一人として大事にするべき重要な人物は、「その他大勢の庶民」の中には存在していないことになる。
 民主主義の胴元は、個人の中にいるのではなく、個人主義者を寄せ集めた柵
(さく)の中で、それを監視し監督し監視する、胴元とそのブレーンが重要な人物なのである。その他大勢の「庶民」と言われる顕微鏡下の微生物は、死のうが生きようが、差して体制には影響ないのである。もし、個人が大事だと考えられる場合は政治的な「利用価値が有るか無いか」のときにだけに懸かる。



●第二十六段 生き甲斐のウソ

 生き甲斐、生き甲斐と二言目には、生き甲斐論を論
(あげつら)うけれど、人生に冒険心を抱かずして、生き甲斐など見つかる訳がない。冒険回避の安全圏に居るうちは、生き甲斐など無用の長物である。目の覚めるような生き甲斐は、安全圏の内側にあるのでなく、外にある。



●第二十七段 哲人の必要性

 現代の世で沈黙家は、政治家として選出されない。かといって口舌の徒は、人気者になるししても、噺家
(はなし‐か)か漫才師程度である。娯楽の域を出ない。
 一方、哲人政治、神主政治は望まないにしても、哲人はやはり政治には必要である。

数うべき短所を多く持っている人は、それに相当する長所も多く持っている。



●第二十八段 因果応報

 この世には「因果応報
(いんが‐おうほう)の法則」が働いている。
 因果応報とは、過去における善悪の業
(ごう)に応じて、現在に反映され、その反射として幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて、未来の果報を生ずることである。常に反射し、反映が起っているのだ。これは壁にボールを投げて、それが跳ね返って来る現象に似ている。投げた力だけ、同じ力で跳(は)ね返って来る。摩擦などの抵抗力が働かない状態での反射と反映と思っていいだろう。
 しかし、因果応報が働いているといっても、この場合は一般にそれほど善い事も悪いこともしない「善良な市民」という人間が、その許容量以上に、善い事をしたり悪いことをしたりすると「顕われる現象」で、極悪人が悪事をその許容下で働いたとしても、それは悪事として発覚しない場合が多い。何故ならば、彼等の“罪の意識”がないからだ。



●第二十九段 善良な市民の正体

 誰でも、自他問わず、「善良な市民」という範疇
(はんちゅう)にある人なら、この因果応報には意識しなくても、「果たしてそんなものがあるのか?」と疑いながらも、実は何か事を仕出かした時に、「因果応報」という言葉が胸に翳(かす)めるだろう。この事自体が、その人は「善良な市民」なのである。可もなく不可もない小市民なのである。この市民は、特に善いこともしないが、そうかといって、人殺しや放火や強奪などの恐ろしい事もしないだろう。特に善良な市民にあっては、尚更(なおさら)だろう。
 人は常識と言う枠の中で、窮屈に生きているのである。押し合い圧
(へ)し合いの、通勤ラッシュ時の満員電車の中で生きているのである。生きることに自覚症状を感じる機能が毀(こわ)れれば、人間なのか動物なのかも忘れてしまうようだ。



●第三十段 縄張り意識の悪癖

 組織には何処でも「強い縄張り」がある。管轄外には口を出させない。非常時も同じ意識だろう。
 結局、縄張り意識で、互いを潰し合い。くれぐれもそういう事がないように願うのみ。



●第三十一段 刻苦勉励

 日本経済がこのまま順調に伸びていくと考えるのは短見である。
 現象界では、必ず作用に対し、反作用が働く。反作用と言う代償を、伸びた分、その見返りとして求められるからだ。
 かつて日本には「刻苦勉励
(こっく‐べんれい)」という時代があった。この時代こそ矛盾に満ちた時代だった。国民が総動員して、力を尽くし、大変な苦労をして、学問などに努めて励む時代で、日本人は貧しく、貧しきゆえに、当時の若者は真剣に考えた。今を鬱屈して考えるが故に、前途には広大な未来は広がっていた。
 可能性を秘めた洋々たる前途があった。その貧しい若者の青春が太陽の陽に輝き、爛々
(らんらん)と烱(ひか)っていた。
 だが、今そんな若者は居ない。殆どは「中の上」と自負する家庭で育ち、安楽に幼少年時代を送り、子供のまま知識だけ詰め込んで成人になった若者で溢れている。「貧乏な」と形容していいような若者は、殆ど見当たらない。そして、こものままの大人が出現した。
 この子供大人は、豊かさのみを追って、思考することをやめてしまった人種である。果たして、こういう日本人に、どういう未来が残されているのだろうか。
 日本の未来を担う若者や、私たちを含めて何に向って、何処に行こうとしているのか、それは更なる豊かされ裏打ちされた安楽に向って邁進
(まいしん)しているのだろうか。しかし、向った先にどういう希望があるのだろうか。
 日本の経済はやがて破綻
(はたん)を招くだろう。恐慌を呼ぶかも知れない。
 一層そうなれば、困窮が日本人に物事を正しく考え直す修正するチャンスを与えてくれるだろう。
 そうなれば、高齢者の私などは、老後の暮らしの不安や心配は金繰
(かなぐり)捨てて、この際、目を瞑(つぶ)り、日本の未来のために忍び難き忍び、黙って忍んでみようと思うのである。



●第三十二段 杯中の蛇影

 思い込みや先入観が入り込むと、疑心暗鬼に陥ったり、「杯中の蛇影」になって、在
(あ)りもしない物を見ることになる。
 ちなみに、杯中の蛇影とは、蛇の姿が見えた杯中の酒を飲んで重病になった人物が、その蛇は壁にかけた弓に描いた蛇の漆絵が映ったものだと分かった途端に治ったという故事から来ている。
 人間は心眼を鍛えていないと、在りもしない幻影に神経を悩まされることになる。



●第三十三段 迷ったら行なわず

 迷ったら止める。迷って行なえば結果は迷いの禍
(わざわい)が出る。



●第三十四段 二人三脚

 近頃、急増した夫婦別姓。何もこれにケチをつける気持ちはない。
 ただ、夫婦が分裂していることだ。セックスだけの同居人として、同じ屋根の下に居るだけである。そういう動物的な繋がりを持つ夫婦に疑問視しているだけである。
 双方は、ただ快楽だけを追い求めて、男女間での享楽主義の追求ならば、労りの言葉一つも出て来るまい。当事者同士は唯物論的官能を貪っているからである。
 亭主を一瞥
(いちべつ)し、「好きに遣れ」と見下しただけで、かつての熱はすっかり冷めている。恋愛の成れの果てには、こういう興醒めも襲って来る。
 更に浮気が発覚して、不倫現象の結末から、女房は女房で、自らの女根には、此処に入る男根を選
(よ)り好みし、入って来た男根を放すまいとして、時として、すったもんだの結果は、実に哀れである。
 結局はまた、その男根は別の女根に滑り込む。
 大人の恋愛といえば体裁がいいが、つまり不倫連鎖である。それで家族中が大騒ぎする。何と言う男女の悲喜劇だろう。この悲喜劇は、特に女性を興醒めさせる。そしてその反動が起こり、次に女房の方が堂々と不倫に奔る。既に亭主の浮気で公認済みであるからだ。そういう醒めた仲になって以降の、動物的な繋がりを気の毒に思うだけである。

今世、時代に時めく人は、見るところ一点の非の打ち所も無いように映る。頭もいいし、才もあって、そのうえ見栄えがし、スポーツも万能である。交際上手であり、なんの当たり障りもない。大して酒も呑まぬし、異性にもモテる。総てが、まことにこぢんまりしてトータル的に整っている。
 しかし、こうした人は、さっぱり、うま味がない。感激することもなければ、人間としての魅力も欠け、感動すら起こらない。
 いつも何やら多忙を装っている。秒単位でのスケジュールをこなし、多忙の只中に居る。その動き廻ること、忙
(せわ)しない。
 だが、よく観察すると、要するにどうでもいいような、誰にでも遣れることばかりで、その人物像は、可もなければ、不可もなしというところだろう。
 こういう手合い、果たして一騎当千の人物と言えるか。その牽引力のほどは……。そして、手応えのほどは……。



●第三十五段 晩年の過ごし方

 若いときに有頂天になってはならない。若いときに勇名を馳せたからと言っても、晩年の始末が悪ければ一切は帳消しになる。問題は晩年の身の振り方である。晩年がよければ、恥じ多し若気に至りも晩年の善行で帳消しになるが、逆に晩年が悪ければ、若いときの勇名は台無しになってしまう。晩年の態度如何で、その人の一生が決定されてしまうのである。晩年、どう落ち着くかに懸かる。



●第三十六段 身土不二

 牛や豚や羊や山羊
(やぎ)等の四ツ足動物は、胎生構造を持ち、極めて人間の性に近いものである。同じ感覚と感情を持っている。
 彼等は屠殺
(とさつ)の前日になると、自分が殺されることを悟り、大粒の涙をこぼす。この涙を見たに違いない。そして、殺される刹那(せつな)、自分を殺し、食べる人間に対して「恨みの念」を残す。この念が何らかの形で、人間に冥(くら)い陰を投げ掛ける。
 逆に、穀物や野菜や海藻等は植物性なので、人間の性より遠くなり、こうした感情は動物に比べて極小値に近いものになる。ゆえに「遠くて近いもの」を食べるという思想が生まれ、これが『身土不二』へと発展したのである。
 人間の肉体は、自分の生まれた土地、あるいは棲
(す)んでいる住環境と密接な関係を持つ。その土地の風習、風土、環境、磁場等の影響を受けて生きている。したがって人間は、自分の棲んでいる土地の条件下で様々な影響を受け、いわばこれが渾然一体(こんぜん‐いったい)となっている。
 これが大自然という大きな有機的生命体の中で呼吸し、霊気を受け、人体を養いながら、人生を修行の場として「人間道」を全うしているのである。
 自分の棲んでいる土地を霊的な見方で探究すれば、その土地の土産神
(うぶすな‐の‐かみ)の気(霊気や磁場)を頂くことにより、自分の気を養うことになる。
 これが人は、「土から生まれた」という所以であり、人は土から生まれて、土に戻るという順環の中で生きている。その土地の風土や環境の中から育まれた農作物を食べ、己の魂を養っているから、人はまさしく「土が肉体化した」と言えよう。


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