●上京
私は三泊四日の計画を立てた。
まず、朝一番の便で、福岡空港(当時は板付空港と称していた)から飛行機で一足飛びで、羽田に飛び、そこから永田町の国会図書館にタクシーで向かう。開館している時間をフル活用し、終日まで日本美術史の研究をする。徹底的に勉強し、これに没頭する。
夜は、神田神保町界隈の修学旅行相手の安旅館に泊まり、再び翌朝、国会図書館に向かい、研究を繰り返す。二日目も三日目も同じであり、通い続ける。最後の四日目は、午前中まで此処で研究した後、その研究の成果を京都まで出向き、仙洞御所(せんとう‐ごしょ/太上天皇(上皇)の御所で、仙院ともいわれる回遊式の庭園を持った庭園で名高い)で試してみようと思ったのである。
その日の午後、新幹線で京都まで向かい、そこからかつての平安京の南北に通ずる、烏丸通りを真っ直ぐ北上して、仙洞御所に行く予定を立てていた。此処までは、完璧であると自負したのである。
そして更に一つ、どうしても見なければならないものがあった。
それは雨に濡れると、光沢を帯びると同時に、付着していた苔(こけ)がはっきりと現われるという天下の名石の「一升石」であった。
更に、何よりも仙洞御所は回遊式庭園であり、これをじっくりと参観するつもりであった。こうしたことを綿密に計算したのである。これで準備は総(すべ)て整ったのであった。「よし、これで用意万端!」そんな自負が、裡側(うちがわ)に湧き起っていた。
ところが出発前に解決しなければならない事があった。それは由紀子への説得である。「義あって助太刀(すけだち)申す」旨(むね)を、由紀子に説明しても、果たして理解してくれるだろうか。さて、どうすれば説得出来るか、その思案に暮れていた。
─────由紀子が仕事から帰って来た。開口一番、こう切り出してみた。
「あの……ッ、明日から三、四日ほど留守にしますが宜(よろ)しいでしょうか」私は畳に両手を着き、深々と頭を下げていた。この場は低姿勢に徹するべきであった。頭を低くして頼み込む以外なかった。
「何処かにお出かけになるの?」
「はあ……、それが……」まだ畳みに頭(こうべ)を垂れていた。
「一体どうしたんですの、そんなに平蜘蛛(ひらくも)のように這(は)い蹲(つくば)って」
「実はですねェ……、ちょいとした野暮用で……」と言いかけた時、すかさず切り返してきた。
「やはり、どちらかにお出かけされるの……?」由紀子は、自分の着替えに余念がないと言うような口ぶりで、私に、こう訊ねた。
「はあ……」
「どちらへ」
「東京です」
「そう」
「何をなさりに?」
「ちょっと、調べものがあって」
「お仕事の関係かしら?」
「はい、古物の関係です」
「じゃァ、行ってらして」
意外な反応だった。ああだ、こうだと難癖(なんくせ)をつけられるのではないかと思ったからだ。あまりにも呆気(あっけ)無かった。
「行ってもいいのですか?」
「ええ、どうぞ。お仕事の関係であれば、あたくしは反対する理由がございませんわ」
こうして由紀子の承諾を取り付けたのである。
「でもね、羽目だけは外されないようにお願い致します」
「それは、一体どういう意味でしょうか?」
「だって、あなたは時々、あたくしの航空管制下から外れると、綱渡り的な、とんでもない曲芸飛行をお遣(や)りになりますもの」かなりに皮肉が罩(こも)っていた。
「えッ?綱渡り的な……曲芸飛行……?」私は思わず絶句しかかり、同じ言葉を心の中で繰り返して、苦笑していた。
「だって、そうじゃありませんか」
「随分と皮肉っぽい言い方ですねェ」私も尖(とが)って反論してみた。
「だって直ぐに、糸の切れた凧(たこ)のようになり、コントロール不能に陥(おちい)ってしまいますもの」
「うッ…………」言われればその通りで、言葉に接(つ)ぎ穂(ほ)がなかった。
「ところで、ご予定は?」
「えッ?…………」
「“外出許可願”及び“旅行日程計画書”です」
「えッ?それって、何ですか?」
「“外出許可願”及び“旅行日程計画書”を提出して頂きます」
私は苦笑しながら、「あのですねェ、小学生が二泊三日の修学旅行に出かけるのではないのですよ。僕は立派に二十歳(はたち)を過ぎた大人なのです。“外出許可願”及び“旅行日程計画書”なんで、ちゃんちゃら可笑しくて書けますか。何処かで遭難したりしませんから、絶対に心配いりません」
「まあ、よくもおっしゃいましたわね。ではご自分で、羽目を外さないとはっきり誓えるのですか!」こう、強く迫られると提出しないわけには行かない。取り消しになるより増しだ。
それに、その日の「終日ごとに電話する約束」まですることになってしまった。しかし、上京の返事を頂けたのは、願ってもない収穫だった。敵を欺(あざむ)くには、まず味方からだった。
─────翌日の早朝、由紀子に見送らて出発した。一路、博多駅経由で旧板付空港へ。当時は、米軍がこの空港に同居していた為に、まだ福岡空港とは呼ばれずに「板付(いたづけ)空港」と呼ばれていた。とにかく私は、AM6時50分・板付空港発、羽田行きの始発便に搭乗したのだった。ここから羽田までは、今と違って当時約2時間強かかった。
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▲YS-11(テスト飛行中のYS-11。「安保と高度成長」講談社より)
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旅客機はターボプロップの60人(日本航空稀製造のパンフレットによれば52〜60人)乗りのYS-11(日本航空機製造/NAMC)だった。しかし機内は朝っぱらから、ほぼ満席であった。
この飛行機は、日本初の純国産旅客機であった。また、この飛行機は中型旅客機でターボプロップ・エンジンを据え付けているが、ガスタービン・エンジンにより、プロペラを回転する飛行機の推進方式で、ジェット機とは名ばかりで、要するに騒音の煩いプロペラ機より、少しは増しというものであった。
飛行すると窓枠(まどわく)が、田舎のバス並みにガタガタと揺れ騒ぐのである。また上下振動も、今日の旅客機のように高度1万m以上の水平飛行をするわけでもなく、乱気流の影響で、田舎のバス並みによく揺れるのである。(【註】現在はこうした点は改良されて、以前に比べればよくなっている。当時はもっと揺れる飛行機に「ムーンライト」というのがあった)
私は出発が早かったので、そんな揺れなどお構え無しに、機内で2時間たっぷり寝かせてもらった。
羽田に着くと、空港ターミナルでコーヒー・ショップに寄り、ここで一杯のコーヒーを堪能(たんのう)した。朝方に飲むコーヒーと、その香は何とも言えないものがある。匂いを嗅ぎながら、ゆっくりと味あう。これが私のとって、至福の一時(ひととき)であった。そして一息ついたところで、タクシーに乗り、永田町の国会図書館まで向かった。午前9時30分開館なので、その時刻には充分に間に合う時間だった。
そして私は、朝9時30分から夕方の7時まで、じゅっくりと研究する時間を設けたのである。
─────宿は、高校・大学と、かつて訪れたことのある『さかいや旅館』だった。
高校の時は修学旅行で、大学の時は工場見学で日本航空を見学した時に訪れた、学生相手の旅館だった。
私が旅館を訪れると、ここの若い女中さんは、私がたいそうな美術書を持ち歩くものだから、神田神保町界隈(東京都千代田区内の一地区)の、近くにある大学の非常勤講師として招かれた、美術史講師と間違ったらしかった。
夕食の時も、私を「先生」と呼び、朝食の際も「先生」と呼んだ。そして朝、出かける際も「先生」だった。
その日一日の締め括(くく)りは、夕刻、由紀子へ電話をすることだった。社交辞令のような、在(あ)り来(き)たりの電話であるが、それでも約束通りに掛けてくる電話に、由紀子は私が羽目を外しているのではなく、真面目に古物関係の仕事をしているものと思われ、電話の応対には凄く機嫌が良かった。
私の遣(や)ることは、由紀子への電話で、その日が終了するのではない。食事を了(お)え、由紀子への電話が終ると、またこれからが一仕事なのである。午後七時頃から、深夜まで図書館で借りた美術書籍の猛勉強をしなければならなかった。重要事項をノートに書き抜き、それを頭に叩き込まなければならない。
私は日本美術と名の付くものの、総てに亘(わた)り猛勉強をする必要があった。そして午後七時頃から始まった日本美術史の勉強は、深夜まで及んだ。
次の日も図書館に通った。判を押したように同じことを繰り返した。そして、こうした繰り返しが三日間続き、明日は四日目の、いよいよ最終日となった夜の事である。
食事を了え、由紀子への電話も済ませて、東京での最後の夜、例の如く日本美術史の勉強を遣っていた。
その時である。部屋の襖(ふすま)の外から、毎日、私を先生と呼ぶ若い女中さんの声がした。
「あの……、先生。少しよろしいでしょうか」と、些(いささ)か遠慮気味の声を掛けられた。
私は襖越しに、「はあ、構いませんが」と返事をした。
女中さんは、「失礼します」と断って襖を開け、何か云い難そうにもじもじしていた。
私が「何か……」というと、その女中さんは、「実は……」と切り出した。
それでも、まだ何か云い難そうに、「実は、わたくしどもの処に、お嬢さまが居(お)りまして、その……実は……」と尻切れとんぼで、何か云い難そうに切り出した。
「それで……」私は聞き返す以外なかった。
「実はお嬢さまが、いま、お泊まりのお客さまの中に、大学の美術史の先生がいて……という、先生のことを御存じで、その先生とお話をしたいと申しておりますが、少々お時間を拝借願いませんでしょうか」
「はあ……?」私は一瞬、呆気(あっけ)にとられる以外なかった。
私は最後まで、この界隈の大学の美術史講師に間違われているらしい。N大芸術学部美術科の美術史講師にでも間違われているのであろうか。
「お嬢さまは、いま、お躰を悪くされ、もう大方、一年近くも床に臥せって闘病生活を続けられて居りますが、少し体調がよろしい時は起きて絵を描かれるのでございます。ご病気をされる前は、M芸術大学に通われておられたのですが、ご病気で休学したままで御座います。わたしどものお泊まりのお客さまに、美術の先生が居られると云うことを、たいそうお喜びになり、是非お合いしたいと申しているのでございます。もし、お時間を拝借願いますれば、少しだけでも結構で御座いますから、お話のお相手でもしてやって頂けないでしょうか」
女中さんの声が、あまりにも切なる願いのように、私には聴こえた。
「はあ、それは構いませんが」
「では、お嬢さまの処に御案内します」
女中さんはそう云って、私をその娘が臥(ふ)せっていると言う「離れ」へと案内した。恐らくそこは、此処の旅館に併設されている離れ家であろう。渡り廊下を通り、横に庭園らしき離れ石を見ながら、ある部屋へと案内された。
女中さんは、「お嬢さま。いま先生をお連れ致しました」と襖の前に坐り、中に声を掛けた。
中から「どうぞ、お入り下さい」と声掛かった。その声は何となく、弱々しい声だった。一年近くも闘病生活をしていると言うので、そのせいだろうか。
私は部屋の中に案内された。そして今まで床に伏せていたであろうと思われる娘の前に通された。娘は、「お見苦しいと存じますが……」と断り、床の中に静坐していた。その娘に、女中さんが羽織を羽織らせ、「大丈夫で御座いますか」と声を掛けた。
娘は、「志乃さん、お願い」と何かを要求したようだった。その要求が私には何かは知らないが、女中さんは「はい、畏(かし)まりました」と云って下がっていった。
娘は美形だが、躰の線は何故か細く、弱々しかった。病気の為だろうか。歳の頃は、二十歳前(はたち‐まえ)と言う感じだった。
そして、ふと、横に眼を遣(や)ると、大きな画紙に見事な燕子花(かきつばた)の画が水彩画で書かれていた。一瞬その絵の迫力に息を呑まれ、はッとした。
「その画、まだ途中なんです」
娘は、私がそれに気付くとすかさず切り返した。
実に大胆な画であった。娘の躰の線に反比例して、そこに描かれた燕子花の画の線は太くて力強かった。
燕子花はアヤメ科の多年草であり、池沼や湿地に生じ、高さ約70cmほどの背丈である。葉は広剣状で、初夏に花茎の先端に大形の花を開く。色は通常紫または白であり、大きな三枚の外花被片には、中央に一本の白線が入る。日本では古くから鑑賞用の花として知られている。
日本美術史では、燕子花は、江戸中期の画家の尾形光琳(おがた‐こうりん)の『燕子花図屏風』で有名である。
私が描き掛けの燕子花の画に眼を止めたことを、この娘は見逃さなかった。そして、その画に何らかの批評を受けたいふうであった。
「その画、あたしが三年前、京都に行った時に仙洞御所(せんとう‐ごしょ)の池で燕子花を観(み)て、スケッチしたものを起こして、いま描き上げているところですの」
私は「仙洞御所」という言葉に強く惹(ひ)き付けられた。私も予々(かねがね)そこを訪れたいと思っていたからだ。
「……………」
「でも、何か抜け落ちていて、それが何か分かりませんの。ご教授願えないものかと、先生を此処までわざわざお呼び致しました。何か、ひとこと申し添えて下さいませんか」
この娘は私を試しているのであろうか。私には、そんな気がしてならなかった。
私は、美術史の猛勉強の中で学んだ、古典から『伊勢物語』のある一首を口ずさんだ。『伊勢物語』は御存じのように、平安時代の歌物語で作者未詳である。しかし、在原業平(ありわら‐の‐なりひら)らしき男性の一代記風の形で、色好み、則(すなわ)ち男女の情事を中心に、風流な生活を叙した約125の説話から成る物語である。
唐衣(からごろも) きつつなれにし つましあれば
はるばるきぬる 旅(たび)をしぞ思ふ(『伊勢物語』より) |
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唐衣(からごろも) きつつなれにし つましあれば
はるばるきぬる 旅(たび)をしぞ思ふ(『伊勢物語』より)
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▲白虎池に咲く花菖蒲
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私は一昨日、俄(にわか)に覚えた一首を口にしたのだった。
娘もそれに応じたように、「まあ、“かきつばた”ですね」娘は驚いたような声を上げた。
「よく御存じですね」
「唐衣の“か”、きつつなれにしの“き”、つましあればの“つ”、はるばるきぬるの“は”、旅をしぞ思ふの“た”。それそれの頭をとって“かきつばた”でしょ?『伊勢物語』の一節じゃありません?」
娘は見事に伏せられた言葉の謎解きをしたのであった。私に返事を求めるように聞き返し、こぼれるような笑顔をつくった。
「そこまで御存じならば、何も考えあぐねる必要はありません。あなたの考え通りに描いて御覧なさい」
私も、嬉しくなったのである。
この、一見分けの分からぬ禅問答のような言葉に、娘は納得したのか、平安中期の歌人・平兼盛(たいら‐の‐かねもり)の一首を詠(よ)んだ。
「“忍ぶれど 色に出てにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで(平兼盛)”という歌、御存じかしら?」
不思議な縁により、いよいよ知能戦の始まりだった。
「?……………」
「恋とは、如何なるもので御座いましょう」
娘が澄んだ声で問うてきた。
(何か鋭いと思う)思わぬ不意を衝(つ)かれて絶句したが、「朝の露(あした‐の‐つゆ)と思って下さい」とすかさず切り返していた。喋ってしまった後で、一瞬、気障(きざ)な言葉を吐いたものだと後悔した。
「朝の露……?」
「そう。朝露(あさつゆ)」
「……………」
「朝露は朝、草葉などに溜(た)まる露(つゆ)ことです。しばしば、人生が儚(はか)く、人の命の消え易いことの喩(たと)えに遣(つか)われます。もともと、この世には存在しないもの。しかし、人はこの儚いものを追って奔走します。幻(まぼろし)を追いかけて、心をときめかせ、その一方で心を迷わせます。そして、肉の眼に見えるものは迷いを生みます。心の眼を開いてこそ、迷いが去り、本当のものが見えて来ます。本物をしっかりと見据えなさい」
「何だか、難しいですわねェ」
「そうです。難しいのです。難しいから、これは偉い禅僧の“受け売り”なのです」
私がこう云うと娘は矢庭(やにわ)に笑った。
「なんだ、そんなことかと思ったでしょ?」
「ええ、“受け売り”だなんて種明しするのですもの。つい、可笑しくなって」
娘は口許(くちもと)を、浴衣の上から着た羽織の袖(そで)で押さえた。
「こちらも困りましたよ、質問に禅問答で切り返されたのですから」私も皮肉まじりの笑いを返した。
しかし、“受け売り”と種明ししてから心は随分と楽になり、初対面ながら打ち解けた感じがしたのである。
「申し遅れましたが、あたし境美鈴と申します」娘は自己紹介した。
「ああ、これはこれは……。岩崎健太郎です」
二人が名乗り合ったところで、襖の外から先ほどの女中さんの声がした。
「お嬢さま、よろしゅうございますか」
「ええ、どうぞ」
女中さんが小さな包みを持って部屋に入り、それを美鈴と名乗った娘に手渡した。そして私にお茶と茶菓子を置いて下がって行った。
美鈴は小さな包みの結び目を解きながら、「これ、先生に貰って頂けるかしら?」と包みの中から小さな箱を取り出した。それは7cm×9cm程度の長方形に、厚みが3cmほどの漆黒塗りの箱だった。
私が手に取ると、「蓋(ふた)を開けていただけないかしら」と云い放った。
蓋を開けると、箱の底には実に見事で繊細な蒔絵(まきえ)が描かれていた。
「これは凄い」私は思わず感嘆の声を漏らしていた。
平安時代の貝合せのような貝の裡側(うちがわ)に、絵と歌の上の句を描いた見事な絵だった。
「それ、あたしが悪戯半分に描きましたの。色漆(いろ‐うるし)を遣(つか)って約半年掛りで」
「これを頂けるのですか?」
「ええ、是非先生に貰って頂きたいの。先生だったら絵を知る人と思っていますから」
「どうして、これを私のような者に?」
「あたし、血液の病気なんです。でも、移りませんから心配しないで」
そう聴いて言葉がなかった。白血病のような血液のガンを抱えているのだろうか。白血病は、白血球の腫瘍性増生を来す疾患である。
「……………」
「時々貧血を起こして、寝込んでしまいますの。感染抵抗力も低下しているので、外に出ることも、人に合うことも、今ではお医者さんから止められています。でも、毎日がこんなふうで、退屈でしょうがないから、絵を描いたり、本を読んだりで退屈を紛らわしているのです。
最近、フランスのアンドレ・ジードの書いた『狭き門』を読みましたの。この小説は、外見は甘味な恋愛を挙げていますが、あまりにも美しい反面、禁欲的信仰と生との矛盾を提起しています。恋愛を描きながらも、一方で悲劇的な展開がなされています。そして、お互いが相手を美化すると悲劇が起るとしています。
ヒロインのアリサはジェロムを愛しながらも、やはり離れていってしまいます。天国へ至る門は確かに狭き門と思いますが、アリサが天国に二人で入るには、これが如何に狭いかを感じて、遂には身を引きジェロムと別れていってしまうのです。そして、最後は孤独な旅に出て死んでしまいます。
でも、ジェロムはアリサが死んだ後も、彼女の幻を追い続けながら、慕い続けていくのです。恋とは、結局そんなものなのでしょうか。もし、そうだとすれば、いま先生が仰(おっしゃ)った“恋は朝露のようなもの”ということも、何だか理解できるような気持ちになります」
「……………」私はただ聞く以外なかった。
「あたし、もう直、死んでしまうのです。そんな気がします。恋を知らぬまま死んでいきます。だからこそ、その“蒔絵箱”を先生に貰って頂きたいのです」
「それは大変な思い違いでしょう。たいいち私はここの女中さんに、多くの美術書を抱えていたから、何処かの大学の講師と間違われたのでしょうが、私は大学講師でもないし、あなたが云うような先生でもありません」
これを聴いた美鈴は、しばらく黙っていたが、「では、何ものなの?」と訊(き)き返してきた。
即断を迫られ、返答に窮(きゅう)したが、「一介の痩せ浪人です」と答えてやった。
こう答えた私を、彼女はしばらく私の顔を見据えていたが、何か可笑しくなったのであろう、口許を袖で押え、くすくすと笑い出した。
「どうして痩せ浪人ですの?」
「これといった定職がなく、無職に近い自由人業だからです」
「自由人業?」
「そう、自由業ではなく自由人業です」
「その自由人業とは、如何なるお仕事でしょうか?」
「夢を追い掛けるから自由人。それを生業(なりわい)にすれば“自由人業”となります。無理に理解して頂かなくても結構です」
「でも、何となく分かりますわ」
「したがって、こうちた精魂を込めた素晴らしい作品を頂く人間としては、私は不適当です」
「だから、やはり貰って頂きたいの、痩せ浪人さんに」
どうやら私は、これを辞退することが出来ないようだ。運命は決定されたように思われた。これも、何か眼に見えない、神の手に操られているのであろう。
「死ぬなどと、簡単に諦めないで下さい。人の運命は病気が決定するものではありません。人間は病気では死なないのです。人が死ぬのは寿命で死んでいきます。生きる因縁があれば、如何なる最悪の病態であろうとも、長生きしますが、生きる因縁がなければ、人間は直ぐに運命の陰陽に操られて、天の命から殺されてしまいます。
見るところ、あなたは少なくとも、今直ぐに死ぬような因縁は持っていない。まだ寿命は尽きていません。大丈夫、もっともっと長く生きます。あなたの頭上には、そんな赫(かがや)きがあります」
別に励ます意味で云ったわけではなかったが、燕子花の画は、まだ未完成である。これが未完成である以上、彼女はまだまだ死ねないのである。運命は、天の命は、彼女に未完成を残して死なせるほど、甘くはないだろう。むしろ、まだまだ生きさせて、未完成を少しでも完成に導くはずである。私は彼女の描いた未完成の燕子花図を観(み)て、そう思ったのである。
「とても、いいお話、有難う御座います」
彼女は深々と頭を下げた。何か一つ勇気を取り戻したようであった。
私は彼女の差し出した小さな蒔絵箱を、一応預かることとして、この場を退散した。
部屋に戻り、再び蒔絵箱を開いてみたが、見れば見るほど素人離れしており、蒔絵師顔負けの作品と思われた。一つの執念が罩(こも)っていた。果たして私ごときが、これを頂くだけの資格があるのだろうか。そんな反芻(はんすう)が繰り返されたのである。
─────最終日の翌朝が遣(や)ってきた。
この日は、午前中までみっちりと勉強し、研究しなければならない。そして午後から新幹線で京都に向かうのである。それまでは猛勉強だ。
朝起きて、朝食の給仕を受けている時、昨日、美鈴と名乗った女性から預かった蒔絵箱の包みを、三日間世話をしてくれた女中さんに、「これは受け取れない。返して下さい」という旨を伝えた。
女中さんは、妙な顔をしたが、「一介の痩せ浪人には、荷が重過ぎますといえば分かります」といって、お返しする旨を伝えた。私ごときに痩せ浪人に、こうした大層なものを受け取る資格はないのだ。何故ならば、私は自由人業であるからだ。
私は昨日のうちに、蒔絵箱の中に『葉隠』道歌の一首を書いて、箱の中に入れておいたのである。
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恋死なん 後の煙にそれと知れ ついに漏(も)らさぬ中の思いは
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この短歌の意味を、彼女は果たして理解してくれるだろうか。私は理解してくれて、彼女が、字ずからを慈しんで、寿命を全うしてくれることを希望した。そして朝食後、この旅館を後にしたのである。
この最終日、全力を尽くす以外なかった。とにかく調べ尽くすことは、一応調べたつもりでいた。そして午後からは、その実践をするのだ。知る事は行う事の、陽明学で言う「知行合一(ちこう‐ごういつ)」を実践するのである。さあ、これからが正念場(しょうねんば)と思う。
この「知行合一」は、明の王陽明(おう‐ようめい)の学説である。
王陽明は、朱熹(しゅき)の説く朱子学の先知後行説が、「致知」の「知」を経験的知識とし、広く知を致して、事物の理を究めてこそ、これを実践しうると説いた学説に、真っ向から対立する哲学を展開した。
王陽明の学説は、「致知」の「知」を「良知」であるとし、知は「行」のもとであり、行は「知」の発現であるとし、知と行とを、同時一源のもの捉(とら)えたことにあった。これは当時としては革命的な学説であり、後に行動原理の根本真理となったのである。
私は今まで学んだことの「知」を「行」として、ただ「知行合一」を実践するのみであった。
正午を少し廻った頃、図書館を出て、タクシーで東京駅に向かった。そして新幹線の自由席のキップと乗車券を買い、一路、京都に向かった。
むかし大学の頃、京都御苑で道を尋ねて知り合った、京都市左京区在住の女子高生に郁子(いくこ)という言う女性がいた。苗字は既に忘れてしまったが、名前の「郁子」だけは、よく憶(おぼ)えていた。あの郁子はどうしているのかと思う。
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▲ 京都御苑全貌
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▲ 京都御苑正門
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その時、彼女から親切に京都市内を市電で案内されたことがあった。そして観光地を一通り観て廻った後、彼女が次に案内したところは、上京区の同志社大学の裏庭の芝生の上であった。
そこで坐り込み、陽が沈むまで語り合った事があった。いま、彼女はどうしているのだろうかと、ふと昔の想い出に浸る京都であった。私に過ぎ去りし日の京都を、一瞬思い出させてくれた。
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