─────その夜、街頭の公衆電話で由紀子を呼び出すという思い切った行動に出た。彼女に無性に逢いたかったからである。何故か落ち着かず、気が立って居た。アウトロー的な仕事を働いた後の小心者の心理か。
もう収拾の付かない、将来に不安を抱いていたのである。あるいは私に将来などあるのか。そんな気持ちが、一見自棄(やけ)に趨(はし)らせていたようだ。
しかし、私はある意味で、由紀子に電話を掛けることで、彼女を慕う為の納得と断念の気持ちを持ち、その何(いず)れかに転んでも、それを運命と考え、これから先の自分の運命を決定しようとしていた。
つまり、その何れかが運なのである。それは電話口に彼女が出た場合と、出なかった場合とでは、その先の運命が大きく狂ってくるからである。しかし、その分岐点において、何れかに転んでも、それが運命と思い、この成り行きを、納得か断念かで決定しようとしていた。
「今夜8時、小倉で逢って貰えませんか?」
私は電話の受話器を取るのは由紀子であると確信していた。それ以外の者は誰も想像できなかった。唐突に切り出した言葉だった。
「一体どなた様でございますか?」少々尖(とが)ったような由紀子の声だった。
「ですから、8時に逢ってくれるかどうか、お訊(たず)ねしているのです」
「その声は岩崎君ね?」
「はい、岩崎です」
「突然で吃驚(びっつくり)しましたわ。あの……、一言申し添えておきますが、あたくし、うちでは一人暮しではありませんのよ。お手伝いの者も居りますし、他の誰かが出たら悪戯(いたずら)電話だと思って、直ぐに受話器を下ろしてしまいますわ」
「そんなこと僕には関係ありません」
「まあ、勝手な方。今日の岩崎君、どうかしていますわ」
「僕は今夜8時に逢ってくれるかどうか、お訊(たず)ねしているのです」
「そんなこと急に言われても、あたくしにだって、都合というものがありますのよ」
「だから、僕には関係ないといっているのです」
「本当に勝手な方ね。ちょっと見損ないましたわ!」
怒っているようだった。尖った声がして、それから先の返答が急に跡絶(とだ)えてしまった。絶句したのだろうか。
私はその先の返事を待っていたが、返事は一言も返される事なく、遂に受話器を置かれてしまったのである。
しかし、このくらいのことで諦める私ではなかった。少し強引過ぎたという反省を頭の中で反芻(はんすう)しながら、彼女がまだ電話口の傍(そば)にから離れてないことを想像していた。
いや、絶対に離れずにいる筈だ。もう一度、私から電話が掛かってくると予測しているに違いない。私には変な自信があった。
再び、畳み掛けるようにダイヤルを回し、電話を掛けた。男が女に近付くには、何か秘策がいる。それなりの意図が必要で、然(しか)も、電話で呼び出す理由が適(かな)っていなければならない。それが道理と謂(い)うものだろう。
だが、私にはそんなものはない。決定的な要素も、説得力も、何も持ち合わせないのだ。それでいて、いざというときの強引さだけは不思議にも残っていた。圧(お)しの一手だと思った。時に、小心な人間は大胆な行動を採ることがあるのだ。
そして、自らの運命を決定するには、その結果を納得するにしろ、断念するにしろ、反復しなければならないと思った。攻撃は反復してこそ意味がある。反復して駄目なら、その時こそが断念する時なのだ。
もし、由紀子が私と逢おうとしないのなら、少年のような恋の想い出を残す他はないだろう。しかし、二十歳を過ぎた今、喪(うしな)った恋の想い出に浸るよりは、眼の前の玉(ぎょく)を強引に、掌中に納めたいと思うのが人情だろう。
「今晩8時は都合が悪いのですか?では、いつだったらいいのですか?」唐突な浴びせ掛けだった。
受話器は確かに取られていたが、直ぐには応答が無かった。いま由起子が受話器を握っているのだと言う確信があった。由起子が受話器をとっているから、直ぐに返事が出来ないのである。返事に窮(きゅう)しているのである。絶句の真っ只中だろう。
五秒か、十秒か、もっとそれ以上か、それくらい経って、「あたくし……ねェ……。そんなこと、いま言われても困りますわ。だって急(きゅう)すぎますもの」
「僕は一向に構いません。しかし残念ながら、僕には時間がありません。時間が無いのです。正確に言うと、時間だけではなく、明日が無いといった方が正しいかも知れません」
「一体それって、どう言うことですの?」
「一応場所を言っておきます。小倉魚町の『ロイヤル・ルナ』というスナック喫茶です。魚町電停の電車通りを平行して、二つ目の商店街から直ぐに入った所ですから、その辺で訊けば分かります」
彼女は訳の分からぬ心配の余り、心を混乱させ、その心配は頂点に達しているように思われた。時間がない、明日がないという浴びせ掛けが、混乱を招いたのだろうか。
「聞いているのですか?」
「ええ……」曖昧(あいまい)な返事だった。
一体彼女は何を戸惑っているのだろうか。
しかし私は、駄目押し的に再度念を押した。
「今夜8時ですよ」
「……………」
何か、今夜の都合でも考えているのだろうか。彼女は中々即決できないでいるらしい。
「とにかく待っています」私は強引に押し切った。
「……………」
「聴いているのですか?」
「……ええ、分かりましたわ」と、あやふやな返事をした。
本当に分かったのだろうかと言う疑念を抱きながら、逢いたい意向を伝えたら、何とか同意してくれて、落ち合うことになった。しかし何処か煮え切らないところがあった。彼女は何を考えていたのだろうか。
私がこういう行動を採ったのは他でもない。もう、二度と彼女に逢えないような気がしたからである。これが娑婆(しゃば)での見納めと思ったからだ。そして、「離れ離れ作戦」のサイは投げられたのだ。
逸(はや)る気持ち抑えながら、指定した喫茶店で、由紀子と落ち逢う手筈(て‐はず)を整えていた。
二万円で買ったサングラスは、内ポケットの奥に仕舞い込み、紳士を気取るつもりで、背広の胸のポケットには、その辺の何処かの衣料品店で買った上等の絹の白のハンカチをそこに飾った。この堅苦しい背広は、些(いささ)か着慣れない、晴れ着を着た窮屈(きゅうくつ)さがあった。
苦いブラックに、ブランディー垂らしたコーヒーをすすりながら約束の時間を待ったが、一向に彼女は姿を顕わさなかった。やがて約束の時間から20分程が過ぎて、段々不安が募り始めた。彼女の身に何かあったのだろうか。それともスッポかされたのだろうか。遂にこのまま来ないのではあるまいか。次々によからぬ無駄な穿鑿(せんさく)が脳裡に趨(はし)った。
時間が刻々と過ぎて行く中、(もしかしたら本当に来ないのでは?)そんな絶望的な気持ちに陥りながら、待ち合わせの時間から30分程遅れて、慌(あわ)ただしく彼女がやって来た。
私の姿を見つけると直に席の前に来て、ダーク・グリーンのコートを脱ぎながら、
「ごめんなさい、遅くなっちゃって。いつのも近道が工事中で車が渋滞していたの。進むことも退くこともできなくて。電話をしようと思ったのだけど、何処にも電話ボックスが見つからなくて……、本当にごめんさない」と熱意のこもった言い訳をした。
それは言い訳がましいというより、思いやりのある、暖かい、何かを感じさせるものであった。そしてそれは、待たされた時間を帳消しにするだけの、満足感と、親密さがあった。
すっかりコートを脱ぎ終わった彼女は、それを丁寧に畳み、席の横に置いて、真向(まむかい)のボックス席に座ると、今まで優しい眼差しを投げかけていた表情が一瞬にして豹変(ひょうへん)した。なぜか、私の身なりに酷く驚いた様子であった。
「どうしたの、その背広?」
「今日の仕事着です」
「どんなお仕事だったの?」
何かを穿鑿(せんさく)する言葉のようにとれた。
この間、ウェートレスが彼女の注文を取りに来たが、彼女はコーヒーを注文して、注文後、立ち去るのを待って、
「人に言えるような仕事ではありません」と俯(うつむ)き加減に吐露(とろ)したのだった。
「何か悪いことでもしたの?」
「まあ、そんなものです」
「刑法に触れるようなこと?」
彼女は鋭かった。
「触れるかも知れませんね、検挙する方が賢ければ……」
当時の選挙は、今と違って、狐と狸の化(ば)かし合いである。最終的には賢い方が勝つのである。
「えッ?!それはどういうことですの?」
私の投げ捨てるような言葉に由紀子は驚き、心配そうな顔をした。
彼女の目付きが、母親がよからぬことをした子供の眼を覗き込むような目付きになった。こんな敏感さが、彼女の母性の強いところであろう。
彼女の眼が、何処か私を叱責(しっせき)していた。
「昨日までは、悪い事をしたと言っても、試験でのカンニング程度のものでした。しかし今日の事は……」と云い掛けたが、そこで言葉が途切れ、その変わりに彼女は激しく切り返してきた。
「それでは真逆(まさか)?!」彼女は顔色を変えた。
私は図星という表情を覗かせながら、
「その真逆と言うやつですよ」と云ってやった。これは私の素直な告白だった。小心者のアウトローは、こういう切り返ししか言葉が浮かばなかった。
彼女の表情が豹変(ひょうへん)して、何処か青ざめたようであった。
私の危ない綱渡りは、彼女に感付かれたのだろうか。
そしてこれはもう、私の仕掛けた術策などと言うものではなく、本物の「不測の事態」を予感させるものであった。しかし今にして思えば、ほどほどの悪に係(かか)わったと言う自覚を持つ限り、私の意識は健全であるといえた。確かに、悪事に係わったことは事実であったからだ。
世間が指弾するような悪事を働いたとしても、それは自分の習性から出た好みであると意識していた。体裁よく謂(い)えば、一種の確信犯である。
それだけに嘘がつき難い。いまどき正直などとは、流行(はや)らない時代である。しかし、その反面、政治家の嘘に指弾するその他大勢の庶民は多い。選挙前の当選政治家の公約に揚げ足を取り、公約違反だと指弾する進歩的文化人や革新政治団体は多い。しかし、こうした集団の人達も、正直を趣味として生きている人ばかりではないだろう。 一方、自称、自分が正直な人間と自負している人は、自称自分の正直を楯に、他人にもその道徳を期待する。しかし、それはお節介の何ものでもないだろう。その癖に、殆どの人は税金を誤魔化(ごまか)し、浮気を隠すと言う策を用いるではないか。
私の場合、悪事に加担したと、確信的な意識がある為、時代に不相応な、間抜けな正直者といえた。この間抜け具合が、危ない綱渡りをする元凶だったかも知れない。
急にこの場の雰囲気が暗くなった。この暗さは、周囲の大気まで陰鬱(いんうつ)に侵し始めたような気がしてきた。由紀子が混乱していることが、よく分かった。そして彼女は、接(つ)ぎ穂の何かを探しているようであった。この間、時間は刻々と流れて行くようであった。
この間隙(がんげき)を縫って、彼女が注文したコーヒーが運ばれて来た。
コーヒーカップの縁に、微かに口を付けた彼女は、遂に質問の糸口を探したようであった。
「岩崎君、お尋ねしても宜(よろ)しいかしら」
「はい、何でしょうか?」 「あたしね、率直に申し上げますけれど……、その……、岩崎君は……」と、言葉を引き伸ばした後、こんなことをぽつりと云った。
「下手な綱渡りのような……」
「?……………」
私はそれを黙って聞く以外なかった。
「……何処か捨身で堕(お)ちそうな、そのくせ中々堕ちず、散々に勿体付けた挙げ句、周りの他人を巻き込んで、ハラハラさせずにはおかないような、危なかしい処が……、岩崎君にはありますのね……」俯(うつむ)き加減の、先細りのような言葉を洩らした。そして、その危ないところが、実は困り者だという指摘のようであった。
由紀子は何か言葉を繋(つな)ごうとしているのであろうが、抽象的な御託(ごたく)が先行して、彼女の言葉は、余も具体性に欠けていた。その真意が計りかねた。その「お返し」として、私も抽象的な言葉で対決するしかなかった。
「僕は運命から呪われて育ったのです。運命は何処までも勝者を愛し、敗者を無視します。無視するどころか、憎むかも知れません。僕は憎まれた敗者です。
この世の中は勝者の世の中で、敗者のための世の中ではありません。だからこそ、多くの人は、勝者になるために奔走(ほんそう)するのです。誰でも負け組に入るよりは、勝ち組に入りたいと願うのです。この世の中は、まさに勝負の世界です。だが僕は完全無欠には程遠い人間です。未完成極まりない、危ない綱渡りをする人間なのです。生れついての曲芸師です」自棄(やけ)半分で、矢継ぎ早に煽り立てた。
「もう少し、素直になったらいかがですか」彼女の叱責するような眼があった。
「僕は自分に素直に生きていますよ、真面目なくらい素直に」
「真当(ほんとう)かしら……」
「真当ですよ。喩(たと)えば鴉(からす)が孔雀(くじゃく)の真似をして、羽を広げるのは実に滑稽(こっけい)ですが、孔雀が鴉の真似をして枯れ枝に止まるなどは、全く似合いませんからね。これこそ滑稽といわねばなりません。この世の中で、お行儀よく、正直に生きたいと思っている反面、楽しむだけ楽しんで、現世に何も思い残すことはないという生き方も中々捨て難いものです。そう思いませんか?」
「そんな生き方、悲しいわ……」
由紀子は沈鬱(ちんうつ)な、それでいて、何処か私に哀れみを投げかけるような顔をした。己(おのれ)のうちの意馬心猿(いば‐しんえん/欲情の押さえ難さ)が、ややともすると狂い出しそうな感覚に囚(とら)われはじめていた。まさに欲情の押さえ難さが憑(つ)き纏(まと)う、煩悩(ぼんのう)の犬だった。
私は急遽(きゅうきょ)話の矛先(ほこさき)を変えた。
「ところで、あなたはいつまで北九州にいるのですか?」
「お正月が終わったら、直ぐに東京に戻りますわ。来年二月の最後の試験や卒業も間近だし、三月には国家試験は控えていますもの」
「勤務先は決まりましたか?」
「まだなの。でも、こちらに決めようかと思っていますわ。父も母も八幡ですから」
「そうですか。そしたら、また逢えるかも知れませんね」
私は、そんな遠い存在になってしまうような口ぶりで、彼女に囁(ささや)いた。勘のいい彼女は、豹(ひょう)が忍び足で私に近付いて来るような恐怖を逸(いち)早く感じ取り、これから起こることに、気付いているように思われた。
「何処か、遠くに行ってしまいますの?何だかそんな気がしますわ」
由紀子は何かを確かめるように訊いた。
私はそれをはぐらかすように、
「何処にも行きませんよ。僕には会津自現流の道場があります。それに気宇壮大な志もあります。僕にはこれを簡単に捨てられる程、勇気はありませんよ」
しかし由紀子は、この言葉の裏を見抜いているように思われた。その証拠に神妙な面持ちで、
「でも……、黙って何処かに行っちゃいやですよ」と、沈鬱(ちんうつ)な表情をして見せた。
「えッ?」思わず訊き返した。
これはどういう意味なのか、そして彼女の真意は何処にあるのだろうか。彼女にとって、篠田氏の存在は何処まで進んだ関係なのだろうか。それとも、どちらとも決めかねて、三角関係の板挟みになっているのか。そんなことを勝手に空想しながら、彼女の最後に言った言葉を思い起こしてみた。
空虚(くうきょ)と焦(あせ)りと不安が三つ巴(どもえ)になって交差し、鬩(せめ)ぎ合いをしながら、一時間程が過ぎた。私はもう帰るべき時が来たことを悟ったが、この場の甘美な空気をもっと吸っていたかった。しかしそれは許されないようだ。
私には後味の悪さが何処までも憑(つ)き纏(まと)っていた。一応由紀子に逢えて目的は達せられたものの、何か忘れ物をしたような、言葉に表わせない、すっきりしないものがあった。とにかく今宵は、これで席を立つ以外ないだろう。
私は席を立った。続いて彼女も席を立ち、私は勘定を済ませて、二人は店の外に出た。
「それでは此処で……。ご機嫌よう」
由紀子は微笑んで会釈(えしゃく)をした。
もうこれで立ち去ってしまうのかという、呆気(あっけ)無い別れであったが、果たして私の目論んだ密会は目的が達せられたのだろうか。
「もう少し付き合ってくれませんか」
私は畳み掛けるように切り出した。娑婆での見納めと言う未練があったからだ。
この言葉に、彼女は微笑み、ただ頸(くび)を横に振るだけだった。今夜はこれでお開きなのだ。そんな直截(ちょくせつ)な表現だった。私の惨めさを見るのは、これ以上沢山と言う感じだった。
それは今夜は駄目と言う意味なのか、もう二度と逢いたくないと言う意味なのか、その何(いず)れかが図りかねた。私の強引さに呆れたのだろうか。それとも自暴自棄(じぼう‐じき)に趨(はし)る人間の結末を懸念したのだろうか。
しかし由紀子のその微笑みは、何なのか。穿鑿(せんさく)しかねるものだったが、何処か作られたような、悲しい微笑みでもあった。そして、一瞬の哀切(あいせつ)が脳裡(のうり)を過(よぎ)った。
私も作り笑みで会釈を返すしかなかった。二人は此処で訣(わか)れた。
一瞬、寒風が吹き抜け、私の背筋を凍らせた。それは何か近い未来を暗示させるものであった。
私はこれから長い人生、無責任な傍観者(ぼうかん‐しゃ)として、また外野の野次馬(やじうま)として、何事も深入りしない、広く浅い人生を楽しむつもりでいた。
しかしこの生き方は、果敢(はか)なくも崩されていた。何事か、得体の知れないものに警戒し、回避した積もりであったが、最も望まざるものが押し寄せようとしていた。それは未知の不安への暗示だったかも知れない。アウトローに憑き纏う、後味の悪さとでも言おうか。
私は心の中で反芻(はんすう)する。何故、これ程までに急ぐのか。なにゆえ自暴自棄に趨るのか。何処から何処へ、何をしに行こうというのか。そして、急いだ先に何があるというのか。とにかく何かに急(せ)き立てられていた。
そんな反芻が脳裡(のうり)を過(よぎ)り、それは綾羅木(あやらぎ)の海で、由紀子を見た時の、あの時から、徐々に成長し始めいたのではないかと……。
そして、もう後戻り出来ない処まで来ていた。行く着くところまで、行くしかないのである。
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