西郷派大東流の呼吸法実践篇
●武術修行と呼吸法の関係 呼吸法は、武術修行の為の大切な行法の一つである。そしてこの修行や行法というものは、単に試合に出て勝とか、何者かと争い、その攻防に於て勝つと云った、敵を外に求めて奔走(ほんそう)することでなく、生き残る為の方法、あるいは負けない為の手段であることが分かろう。人は、一時的な勝ちを求めて、勝つ為に修行するのではなく、「負けない為」に修行していることが分かろう。 則(すなわ)ち、人生を区間区切りのみ短なものに取られるのではなく、人生を長期展望と捉えて、そこで生きていく上での、裡(うち)に棲(す)む、己(おの)が魂に「負けない境地」を発現させる為のものである。裡にこそ、自己との出合いがあるのである。「裡にいる自己」とは、強靱なる「良知」からなる自分であり、自分が自分として生きていく、最小単位の「己自身」ということになる。 その最小単位の「己」とは、則ち、その第一が、「死なない」ことであり、如何なる困難に出逢っても、消沈しない自分である。此処には、負けない自分があり、敵を外に求めるのでなく、裡に求めた結果、自己との格闘を意味するものである。 これこそが、死なないことを前提とした「負けない境地」である。死なずに生き残れば、まだ挽回するチャンスは幾らでもあり、起死回生を企てることができる。死ねば、どんな勇者でも、それでお仕舞いである。したがって、まず、どんな境遇にあっても生き残ることである。死なずに生きて、踏み止まれば、汚名を晴らすときも、やがて出て来るのである。その為には、「負けない自分」、「消沈しない自分」が必要である。 武術修行の根本には、簡単に死なない事、あるいは負けない事が含まれる。如何なる困難に遭遇しても、「最早これまで」という局面に至っても、此処で死なない自分である。死なないと言う、これ抜きして、武術修行の目的はあり得ないだろう。此処に、所謂(いわゆる)敗者復活戦があり、遺恨を晴らす材料が転がっている。これが「死からの復活」である。 しかし、昨今はこうした「死なない行法」や「負けない行法」を無視して、単に試合に出て、勝つ事ばかりを目論むスポーツ武道や格闘技が流行している。試合に出て、勝ちを求めるあまり、強弱の根本をハード・トレーニングに主体を置き、肉体を酷使すれば、それで勝てると思っている、この種の愛好者が少なくないようだ。 したがって、こうした修羅(しゅら)の世界を離れることにより、その後「負けない境地」の領域の探求が可能になる。つまり、こだわってはならないのである。何事にも、囚(とら)われないことが肝心である。 強弱論に囚(とら)われた場合、まず肉体が強いか、弱いかばかりに眼が行き、強弱の根本を肉体信奉の基本である体力に求め、強弱が「力」と「スピード」にあると解釈し、無理なハードトレーニングに励むようだ。体力の優劣が、勝敗を左右するように映るからだ。 こうした無理に挑戦して、無理に耐えられる肉体を持っていれば、それに越した事はないが、肉体を酷使する「体質」が悪ければ、途中でギブアップしなければならなくなるだろう。 生き残るか、それ以前に朽ち果てるかは、体力や体格が決定するものでないからだ。体力や体格にものを言わせて、格闘する格闘ほど、愚かだろう。体質が悪ければ、敵と戦う前に、自らの体質の悪さに敗れるからだ。 その結果、肉体の各箇所を損傷し、腰が痛い、膝か痛い、臂が痛い、頸(くび)が痛い、肩が痛いなどの病的アクシデントが起る。また、頭をやられて、早期半身不随症状が起る場合がある。更に、血圧の高騰を招き、脳内血管部の血栓や破裂状態が起る場合がある。こうしたものに合わせ、怪我や事故などのアクシデントも起るだろう。 怪我や事故は、思う程、簡単には完治しないものである。これは現代社会に起っている現代病や成人病を見れば明らかであろう。 それが若い頃に発生して、若い頃に早期治療で完治するのであれば問題ないが、多くは歳を取ってから、その本当の正体を顕(あら)わすようだ。そうした病的アクシデントを元凶に、老齢になっても、苦しんでいる武道や格闘技の愛好者は少なくない。その最たるものが、アルツハイマー老年痴呆病のような、晩年になって起る「ボケ老人症状」である。あるいは、その傷害が「力んだ為に発生した心臓肥大」などの発症であったり、肉や動蛋白摂取の箇条から起る「血管障害」などであろう。 これこそ、自分の人生を振り返った時、そこに存在したものが、肉体信奉からの発送の誤りであると気付かされるのである。つまり、「肉」というものは三次元行動しか出来ない、限界あるべき要素で出来上がっていると言う事になる。その為、三次元を超える「修行法」が要求された場合、肉体を損傷すると言う、怪我や事故が起こる。それは、「神(しん)」が冒(おか)されるからだ。 多くのスポーツや競技武道は、この点に問題を残し、心身障害に悩まされているのである。これから脱却する為には、先ず次元を変えて、高次に発想を進め、強弱論から、「負けない境地」へと思考を改めるべきだろう。次に、肉体の外筋に頼らない、内筋を鍛える「下腹運動」である。つまり、「丹田」を鍛えることだ。これを鍛えることにより、身体的には「内筋」が鍛えられ、精神的には「胆力」が身に付く。つまり、「胆力」とは、ものに恐れず臆しない気力の事をいい、一般には「度胸」と言う言葉で知られている。度胸が養成されることこそ、それは「負けない境地」の「練る力」を指し、此処に九死に一生を得る者と、そうでない者を隔てるのである。 この「負けない境地」に辿り着く為には、「死なない事」が前提となっているので、何処までも「生き延びる術」が探求されなければならない。その為には、病気に罹(かか)らない事ではなく、病気に罹っても、直に治るということが大事なのだ。また、健康体であることよりも、健康のように見えるということが大事なのだ。 ここで説かれているのは予防医学ではない。「体質の良さの医学」である。 これは病気に罹(かか)らないことではなく、病気に罹っても、直に治る「体質の良さ」を問題にしているのである。したがって、重要なのは体質改善術の方法を知っているか否かにかかる。 その為に必要になるのが、動蛋白を一切摂らない、血液サラサラの状態を獲得することである。血管や心臓に障害が合ってはならないのである。 また、この体質改善術を通じて、温冷浴を実践すると、はじめて毛細血管の手前にある「グローミュー回路」が開かれるのである。これは滝行などを通じても、会得できるし、家庭内の風呂場を利用して、温冷浴を次ッs年すれば、新たな毛細血管の開発が可能になるのである。 毛細血管の回路の開発なしに、「合気揚げ」を完成させる境地には辿り着けないし、また、それを基盤とする呼吸法も会得できないであろう。そこで「負けない境地」を得る為の、種々の精神鍛練術を紹介する事にしていくことにしよう。 ●呼吸法の最初は、まず禊から その鍛練術の一つに、呼吸法と言うものがある。しかし、呼吸法は単に胸式呼吸を繰り返すだけの、呼吸をすることではない。深い呼吸である、深呼吸を繰り返すことを言う。これは一般には「腹式呼吸と言う菜で知られているが、この腹式呼吸の呼吸の法を更に進めて、調息法を行う。 そして「調息の呼吸法」とは、体内の木の循環を良好にする禊(みぞぎ)であり、この禊には大自然の中にあって行う「外禊(そと‐みそぎ)」と、道場内で行う「内禊(うち‐みそぎ)」がある。
外禊は屋外で行う禊の事で、川や海で身を洗い清めることをいう。あるいは滝行と言う、些(いささ)かハードなす水行を行う。水行が何故m「些かハード」なのかは、まず、滝行を行う為には、深山幽谷を踏み入り、滝がある山奥へと徒歩で入っていかなければならない。次に、滝の場所に生き当てて、そこではまず、裸になって、冷気に触れるという空気浴が課せられる。それから滝の水を浴びるわけであるが、水浴自体、空気浴プラス水浴の効果が得られ、次に一番重要な、滝の水が落花の際に発生する、マイナス・イオンを全身に浴びることができるからだ。 こうした行法は、日本では千年以上の伝統があり、仏教や神道の修行には欠かせないものであった。特に滝行は、真言密教では欠かせないものであり、また、修験道でも仏教と神道の習合修行として、古くから繰り返されて来た修行法であった。 また、水行は高野山の金剛峯寺でも、修行僧は奥之院に入り、玉川に浸って陰を結び、ひたすら般若心経を唱え続けながら修行をして来た歴史がある。 人間が、空気浴と倶(とも)に水に触れるという行法は、実は優れた健康法でもあったのである。この健康法の特長は、皮膚が冷たい空気と水に触れると言う、その接点に大きな秘密がある。 現代人は、厚着をしている人種であり、薄着を実践して、肌を鍛えるように出来ていない人間種族である。その為に肌が弱く、脆く、特に午後の太陽である「紫外線」に冒され易い。その為に、「皮膚ガンになる元凶」を背負っている。厚着をする現代社会の生活が間違っているからである。 多くの現代人は、下駄を履いたり、雪駄を履くと言う習慣も殆ど無い。足の拇指(おやゆび)と人差指(ひとさしゆび)は、「靴」という西洋履物の為に、閉じてしまい、その指の開きから来る胆力も失われている。そして、それに併せて、厚着の習慣であり、冬は厚着をし、夏はその習慣を引き摺って、クーラーの生活が待っている。こうしたエアコンの生活をして居る以上、自律神経の調節もうまく行かないのが現代人の特長である。自律神経の活発さがなくなるから、ストレスを募らせ、それが高血圧症、心臓障害、統合失調症などの精神障害、血管傷害や心臓障害などを起こす。 こうした元凶から解脱する為には、まずフォー・シーズンを関係なく、札を冷たい空気に曝し、同時に冷水に浸らせることであろう。 皮膚が冷たい空気に触れると、血液を供給している先端の毛細血管が一気に縮んでしまう。これが冷水ならば、更に顕著に顕われる。毛細血管の回路は閉じてしまうのである。その時、動脈血液は、毛細血管の手前にあるグローミュー(glomus/動静脈吻合枝)を通って静脈側に流れよとする。
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グローミューの回路を開くと言うことは、一種のバイパス作用を増進させるものであるが、このグローミュー開発が繰り返されると、動静脈吻合枝がかなりの本数開発されて、血圧高騰に対する抑止力として働いてくれるのである。 一般に、血圧が急激に高まると小動脈が破裂するアクシデントが起る。これは内出血を起こす恐ろしい、脳卒中と言われるものだ。 この病気は、脳の急激な血液循環障害による症状であり、これが発症した場合、急に意識を失って倒れ、手足の随意運動は不能となる。脳出血によることが最も多いが、脳塞栓や脳膜出血などでも似た症状が起る。蜘蛛膜下出血などもこれであり、この症状は頭蓋腔内で蜘蛛膜下に出血する疾患である。 蜘蛛膜下または隣接する脳実質内の血管の破綻によるものが大部分で、外傷・脳動脈瘤・高血圧・動脈硬化などを原因とし、突然はげしい頭痛や項部硬直や嘔吐を来し、しばしば意識を失うものである。更に脳脊髄液は、高度に血性を呈するのである。 脳卒中が起因とする病気は実に恐ろしいものがあり、その根源には生活習慣が大きく絡んでいる。また、生活習慣から派生する「炎症」を始めとする様々な疾患は、多かれ少なかれ、内出血と、血管内を通る血球に問題がある。 したがって、グローミューを強化することは単に大袈裟な表現ではなく、修行者の必須科目と言えるだろう。健康と不健康を隔てている境目は、この毛細血管の回路の開発に匹敵する、グローミューの強化にあるのである。 呼吸法をやる最初の必須科目は、単に呼吸を自己流に深呼吸することではなく、血管を鍛え、それを強化することなのである。その意味で、「滝行」は極めて有効な行法と言えよう。 更に滝行の利点は、落下する滝の水の衝撃で、その周囲の空気中にはマイナス・イオンが発生していることである。滝の傍に行くと爽やかな気分になったり、気持ちが良くなるのは、マイナス・イオンが身体に作用して、身体機能を調整し、自律神経を安定化させ、この働きが心身を活性化させているからだ。 この「爽やかさ」が、身体を形成している細胞の細胞膜を強化し、その働きを良くしていることだ。細胞膜の働きが良くなれば、栄養の吸収が非常に良くなり、老廃物の排泄はスムーズに行われることになる。これにより、生理代謝が非常に良くなることだ。 更に、滝の水に打たれると、打たれた身体は烈しい水圧が懸かる。この水圧が、実は病魔を退散させる威力をもっているのである。 霊的に見れば、病魔を退散させるエネルギーは、「南無大聖不動明王」である。この明王をイメージして一心に滝に打たれれば、そのイメージはやがて自分の心に滝の水が溶け込み、滝を介して、天地大自然との一体感と交流が図れるのである。また、こうすることにより、体内の余分な、「力む」力や、ストレスが解消され、すっきりと爽快な本来の自己を発見でいるのである。ここに、人生の意気と、充実感を感じるのである。 また、滝行や水浴に似た修行法に「水垢離(みずごり)」という行法がある。これも、また禊(みそぎ)の一種だ。 この行法の目的は、仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすることを主眼とするが、同時にこれは、相撲の“てっぽう”に似ていて、足腰を鍛える行法ともなる。両手を伸ばして、相手の胸部を強く突っ張る姿勢をつくり、全身を冷水にぶつける行法である。 これを行う目的は、殆どが重大な神事などに従う前に行われるもので、この場合、身に罪または穢れのある時に行うものである。しかし、健康法としても大きな効果がある。 「水垢離」は、足を踏ん張り、一気に冷水桶を頭から被せる。この“てっぽう”姿勢は冷水によって急激に体温が下がるのを防ぐ為だ。この時、素早く水を身体に叩き付けていると、躰の芯(しん)の方から温かい温感が伝わって来る。更にこれを継続すると、血行が良くなり、毛細血管の眼詰まりで起っていた冷え性が治ってしまうのである。川での水浴や、滝行、更には水垢離などを外禊という。 一方、内禊は裡側(うちがわ)にあって、禊祓(みそぎ‐はらえ)に際して行うもので、大事は「大祓」の古来より、6月と12月の晦日(つごもり)に定められたものを指す。例えば、親王以下在京の百官を朱雀門前の広場に集めて、万民の罪や穢けがれを祓った神事のことであり、現在も宮中を初め全国各神社で行われているようだ。 そして、内禊の一つとして、正呼吸と称する正調法としての調息呼吸などの呼吸法がある。この呼吸は、簡単な動作を伴わせつつ行う独特のもので、呼吸運動の様式である。また、呼吸様式には胸式ならびに腹式および胸腹式があり、木の循環を良好に安定させる「呼吸の法」である。
「呼吸の法」とは、単に呼吸する為に吐納を繰り返すことだけを云うのではない。一般に無意識に行っている呼吸は、胸だけで行う、「凡息(ぼんそく)」というものである。凡息では、健康法としても呼吸法の真髄を極める探究としても、何の役にも立たない。 そこで、呼吸法に繋(つな)がる「調息法(ちょうそく‐ほう)」を行う。調息法は、一般には深呼吸を許にした腹式呼吸であり、この深い呼吸が心身に「気」の循環を齎(もたら)すのである。 つまり、呼吸法を実践するには、基礎体力ならぬ、「基礎体質」をその実践前に養っておかねばならないのである。体質が悪ければ、高度な呼吸法を行なう場合は、気温の変化などで、血管障害や心臓障害を起こすので、充分に呼吸法に絶えられる体質を養っておくべきであろう。 ●ストレス因子を弾き飛ばす周天法 仙人とか、修験道の行者達は、その行法を通じて、老化の原因になる「ストレス因子」を弾き飛ばす「術」を知って居たことが長寿の秘訣だった。 つまり、「疲れ知らず」とは、心身にストレスを残さないことを云うのである。 ところが、現代という時代は、その環境の多くにストレス因子が充満してい居る時代である。現代人を取り囲む生活空間と環境の周囲には、太陽光線から発する紫外線などの有害な「気」と、人工的に作り出された汚染を含む「気」が混ざり合って、現代人に様々なストレスを作り出している。それがまた現代人に心身の内部に侵入し、内部から崩壊させる元凶を作り出しているのである。 この内部に発生したストレス因子こそ、種々の行法の修行を妨害する有害な邪気や外邪などである。つまり、物質的な傾向に趨(はし)る、副守護神が優勢な社会環境下では、周囲に働く気の多くはマイナス因子ばかりであり、また、こうした環境下では、肝心な呼吸法を行っても、総てマイナスに働いてしまう懸念(けねん)がある。 しかし、捨てる神あれば拾う神有りで、また、病気になれば妙薬が特効性を発揮するように、自然界の陰域から発生する歪(ひず)みや陰圧も、意識的に避けることができる。大きな地球や巨大な宇宙の電気や磁器の乱れは、やがて時が経てば戻る。大気の電界は場所を変えれば済むことである。 また、こうした時間や場所の移動が面倒と云うのなら、自然界の電界理論を逆手にとって、人体電流にプラス要因として働く、電界や磁界を作る器械(【註】かつては「ピラミッドパワー」の言葉で持て囃され、中央が高くとがり、下部に行くほど広がった形の内部に媒体を入れると、物理的変化や異常に左右されないと騒がれた器械など)を用いればよい。静電気治療機などもそれであり、物質的なものに頼らないならば、瞑想の想念を遣(つか)い、騒音や他人の突き刺すような言葉から解脱すればよいのである。一種の自己暗示であり、想念によって自己を隔離することである。 電界の歪みは意識で跳ね返すことができる。これが瞑想法で行う「想念の術」である。 意識の力を用いて、自分の持っている電界を強めればよい。静かな深い呼吸をもって、横隔膜周辺に生物電流を起こすのである。これが静かに起れば、自然界からの電界は遮断することができるし、外側の騒音や喧噪も消滅するであろう。 そしてまず、「気」が全身に漲(みな)っていることを想念することだ。 これらは周天法(しゅうてんほう)が完成した人ならば、意図も簡単にやってのけられるのであり、気が全身に巡れば、その気を周囲に放射し、空間を浄めればよいのである。この方法はは、外からの邪気や外邪を跳ね返すばかりでなく、自分の裡側に溜まっているストレス因子も、外に弾(はじ)き出すことができるのである。 では、次に周天法に入って行く基本的な呼吸法を、順を追って進めていこう。 ●呼吸法とは何か 人間の体内には、陽気と、それを消去させ、陰鬱(いんうつ)な世界に誘う「陰気」なるものがある。しかし、現代人の多くはこの「陰気」に冒されている人が少なくない。その元凶を為すものが「ストレス因子」であり、これが種々の悪影響を齎(もたら)す。 呼吸法の究極の目的は、「気を集める」ことであるが、これが中々難しい。「気を集めた」と自負しても、それが陰気である場合が少なくない。呼吸法をマスターしたと自負する多くの者が集めた気は、殆どが、紛(まぎ)れもない陰気である。陰気では話にならない。蝕む気であり、この気によっても身も心も蝕まれる。 陰気を集めた人の多くに、自分は一端に武道家を気取ったり、気で敵を吹っ飛ばせると自称している人に多い。しかし、この「気」は紛(まぎ)れもない陰気である。やがて、こうした気で、自称「気」を披露している中で、術者は様々な心身に傷害を起こす人が少なくない。 「合気」などの自称者にも、こうした気を集め、金銭で講習会を開くなどして、「気功」の名目で、受講生を集める人の気は、多くが陰気であるようだ。 陰気の危険な部分は、その気が邪気ならびに、外邪で構成された「気」であるからだ。こうした気を遣(つか)う人の呼吸は、乱れており、その多くは、「吸気」である、納気から始まっていることだ。 「吸気」と「吐気」を間違える呼吸法の指導者は実に多い。その吸気と吐気の順に呼吸法を指導する指導者の多くは、吸うことから教え、次に、武息(ぶそく)で云う、「停気(ていき)」を教え、その後に「吐く」と教える。これは非常に危険なことである。あるいは、吸気と吐気の順を正しく指導せず、いい加減に、吸気から吐気が始まると言う指導する人もいる。 しかし、何はさておいても、最初は吐気であり、その吐き切って、充分に吐き終った後に、吸気が始まる。これを数回繰り替えし、調息法をした後に、武息などの儀法に移るのである。 「気」を感じる人が実に多い。しかし、陽気だけを感じ、陰気を削除している人が少ない。陰気を削除できないから、ストレス要因を溜め込む。人が病魔に冒されるのは、この陰気が陰圧を高めて高騰し、それが心身に悪い作用するからである。 そこで、気を集めるにしても、清浄無垢(せいじょう‐むく)な、「精気」を集めなければならない。 普通、気を感じるのは掌(てのひら)であるが、それ以外に場所に自由に気を感じると云うことは難しい。順に云えば、気を感じるところは、掌であり、次に足の裏である。それは気の循環する出入口を顕わすからだ。大地からの気は、足の裏から吸収し、掌か、顔で終り、そこが出口となっている。その出口から「天の気」に繋(つな)がっているのである。 人は、天地の間にあり、「天・人・地」を順を形成している。気を吸収し、あるいは気を発気する。この気の発気と、気の交換は現象人間界で行われ、人は各々に気の交換をしている。その気の交換の中で、気のやり取りをしているのであるが、吸収した気は、ある意味で倍加・持続する。これは、「精」を齎(もたら)す陽気や、陰圧を高める陰気などの隔たりもなく、交換が行われ、更には邪気までも交換される。 つまり、「気の交換」というのは、何も精を根源とする陽気ばかりではないのである。邪気や外邪も混じるのである。 これは例えば、通勤や通学時にエネルギーの交換が行われるが、この場合のエネルギーの交換は、消耗するどころか、逆に交換するには都合のいい状態が盛んに起っている。しかし、自分の精を養う都合のいいものばかりではない。多くは、邪に趨(はし)る邪気が混入する場合が多い。 普通、人は、この邪気に苦しめられるのである。外邪が体内に入り込むと、これを駆逐する為には、それ以上のエネルギーを必要とする。祓(はら)い浄(きよ)めの大変な作業が課せられる。こうした作業で、最も有効的な術が、「祓い浄め」である。そして、この有効な方法が、「真言九字(しんごん‐くじ)」である。