運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
戦場に散った乙女たち 1
戦場に散った乙女たち 2
戦場に散った乙女たち 3
home > 戦場に散った乙女たち > 戦場に散った乙女たち 1
戦場に散った乙女たち 1


戦場に散った乙女たち

激戦地に向かう日赤の従軍看護婦たち。



戦争目的のない戦争について


軍事・軍政評論家
(米国イオンド大学教授 哲学博士)


●戦争を知らない昭和陸海軍の軍人達

 戦争を知らないのは、何も戦後生まれの「団塊の世代」
(ベビー・ブーマー(baby boomer)ともいわれ、終戦直後から、昭和26、7年生まれをいう)ばかりではなかった。この世代は、別名「戦争を知らない子供たち」ともいわれた。しかし、また昭和の陸海軍の軍人達(陸海軍の大学校出身の軍隊官僚)も、「戦争を知らない軍人達」であった。
 彼等は敗戦責任をとることもなく、敗戦後もおめおめと生き残り、戦時には天皇の命令で若者を死地に追いやり、戦後は天皇の命令で生き残り、その生き残らなければならない理由を、戦後日本の復興支援にあたったと嘯
(うそぶ)いた。そしてその軍隊官僚の多くは、日本政府からの高額な軍人恩給で安穏たる余生を過ごした。

 太平洋戦争当時、軍人達がしでかした戦争に、果たして戦争目的はあったのか。否、彼等は戦時において、一貫して戦争目的を持たない軍人達でもあった。ここに軍隊官僚の無能と無策があった。そして負け戦は、昭和18年から克明になって行く。この年を境に、日本は敗戦の色を濃くする。

 昭和18年元旦の朝は、何処までも晴れ渡っていた。明治神宮や靖国神社には、朝から大勢の人が参拝に詰めかけ賑あっていた。参道の両脇には出店が並び、幼子は母親から手を引かれたり、祖父や父親の肩車で雑踏を進んでいた。雑踏の至る所から甲高
(かんだか)い笑いや喚声、あるいは怒声ともつかぬ声が、押し合いへし合いの雑多の中から湧き起こっていた。

執務中の東条首相

 皇居の二重橋前に広場には、年賀の式典のために大勢の市民が詰めかけ、あちらこちらから、「万歳、万歳」の声が上がっていた。
 この日の朝日新聞の朝刊には、『戦時宰相論』という他社とは異なる論評が掲載されていた。その論者は中野正剛
(なかの‐せいごう)であった。代議士だった彼は、福岡県出身で、また玄洋社社員で、鰌猷館(しゅうゆうかん)から早稲田大学に進み、卒業後朝日新聞に入社した。後にヨーロッパ特派員になり、その後代議士になって政界入りした。中野は名演説家としても知られ、自らが主催する「東方会(とうほうかい)」の総裁でもあった。

 『戦時宰相論』には、西郷南洲
(隆盛)の言葉や、レーニンの言葉が引き合いに出され、更には三国志でお馴染みの蜀の国の宰相・諸葛亮孔明(しょかつ‐りょう‐こうめい)の言葉、はたまた南宋の忠臣武将の岳飛(がくひ)らの例を持ち出し、日露戦争当時の総理大臣であった桂太郎(かつら‐たろう)を褒(ほ)め賛えた。

 この論評の結論として、「難局に接している日本の宰相は、絶対に強靭でなければならない。強靭こそ、名宰相の絶対条件である。強靭
(ぎょうじん)たる宰相の条件は、気宇壮大きう‐そうだい/政治的ビジョンや方針、大局観を超越した戦略の提示)でなけれなばらない」と締めくくったのである。つまり中野が声を大にして云いたかったことは、今日の難局を乗りきるためには、東条首相では務まらないと云うことだった。

 しかし、この『戦時宰相論』には、東条のことを露骨に表現していなかったし、東条の名前すら出てこなかった。見方によっては、激励文のようにもとれた。だが、日米開戦に踏み切り、開戦当初のような快進撃は望めなくなっていた昨今、誰の目から見ても、東条が、西郷南洲やレーニン、諸葛亮孔明や岳飛のような英雄と比肩し難いことは明らかだった。

 更に『戦時宰相論』の解釈を押し進めると、「総理大臣のしての役職に就く人は、日露戦争当時の総理大臣であった桂太郎のように平凡な人物で結構であるが、平凡であり、小心者であった桂太郎は、自分の身の程を知っており、平凡な小心者が少しも英雄ぶっていなかった」という解釈を付け加えたことであった。

 この頃になると、これまでの連勝連敗から一転しての負け戦の連続で、下り坂にさしかかった東条は、首相の座を降りて引退するべきだと云うことを主張したと思えるものだった。
 自分の周囲の評判を常に気にしていた東条は、これに敏感に反応した。

 東条は日米開戦に踏み切った当時の宰相であり、戦後は悪玉の首領のごとき評価をされたが、軍隊官僚の一員としては優れており、天皇に対する忠誠心は人一倍であった。几帳面な性格と事務的能力の優は天皇からも信頼があった。しかし大政治家ではなかった。中野はそれが云いたかったのである。

 統制派集団に属した東条は、相沢中佐事件当時、軍務局長であった永田鉄山
(ながた‐てつざん)少将の次官を勤めていた。永田少将が陸軍省で刺殺されると、それに変わって東条が軍務局長になった。その時、東条が頭角を現わした分野は、事務的能力の面だけであった。しかし雄弁と独自の立ち回りで、軍閥(ぐんばつ)の頂点に躍(おど)り出て、首相にまで登り詰めていったのである。また、東条のような小心者を宰相にまで登り詰めらせた、軍部や政界の責任は大きかった。

 東条の頭の中には、かってルーズベルトが日本を過小評価したように、東条もまたアメリカを過小評価して、和平締結に手をかそうとはしなかった。そのため日本は知らず知らずのうちに、虎口へと近寄って行ったのである。しかし陸軍の常識派は、これを黙認していなかった。

 一年前、東条の下で働いていた陸軍省軍務局長であった武藤章
(むとう‐あきら)少将は、東郷茂徳(とうごう‐しげのり)外務大臣に、日本の即時戦争終結の依頼をしていたし、岡田啓介(おかだ‐けいすけ)元首相にも同じように戦争終結の道を探らせていた。しかし武藤らの戦争終結の和平締結の努力も空しく、海軍はミッドウェーやソロモン群島で敗北し、反東条の世論ムードは高まってきていた。武藤がこのような行動に出たのも、反東条の中から思って世論感情からであった。

 それを知った東条は一層厳しい検閲に乗り出し、国内の一致団結を強化した。憲兵を徹底的に駆使し、憲兵政治を始めたのもこの頃からであった。そんな中に、中野が『戦時宰相論』の論評を掲載したのだった。
 東条は激怒した。早速憲兵隊に命令して、「中野を監視しろ!」と厳命したのである。これが東条の実行した憲兵政治であった。

 東条は戦時の宰相としては、大いに問題があった。更に、東条には戦争目的に関するビジョンがなく、首相として、あるいは陸軍参謀総長としての仕事ぶりは、単に事務屋のそれであった。
 そして、この時から日本は、益々負け戦の深みに嵌
(はま)って行くのである。

 昭和18年以降、日本は負け戦に転じて行く。その負け戦を上塗りするような風潮が、生活必需品や日々の食生活の中にも顕われた。

東海道本線の米原駅弁当(昭和16年12月)

拡大表示

東海道本線の品川駅弁当(昭和18年1月)

拡大表示



●戦場を駆けた女性戦士

 太平洋戦争下、日本軍は至る所で負け戦を重ねていた。しかしこうした中、連合軍を驚嘆させたのは、中国とビルマ・ルートが交叉(こうさ)する地点で敢闘(かんとう)した、拉孟(らもう)・騰越(とうえつ)の日本陸軍守備隊の活躍がある。
 蒋介石
(しょう‐かいせき)麾下(きか)の最精鋭機甲師団がビルマに向かって南下した時、その途中には日本軍守備隊が守る拉孟と騰越と言う陣地があった。

 当時、ここを守備していた拉孟守備隊長・金光直次郎
(かねみつ‐なおじろう)陸軍少佐の許(もと)にあった兵力は、歩兵・砲兵・工兵を併せて僅か約1400名足らずで、これに対して中国軍の兵力は、一個師団(組織編成は15000名からなる)ないし二個師団であり、2〜3週間ごとに兵を交代させて、一刻も兵力を弛(ゆる)めないと言うものであった。
 更に、二百門以上の重砲をもって砲撃し、数十機の戦闘機や爆撃機で空撃を繰り返した。もうこうなっては、日本軍の全滅される日は、そんなに遠くない事を窺
(うかが)わせた。

 守備隊長の金光少佐は、陸軍士官学校や予備士官学校出身の将校ではなく、二等兵からの叩き上げの、異例の軍人であった。それだけに、兵隊に対して深い理解と愛情があり、また現場で実戦経験を積んでいる為に、その戦闘技術も軍上層部高く評価されていた。その温厚かつ篤実な人柄は、部下達だけではなく、守備隊に付き従った従軍看護婦や朝鮮人従軍慰安婦からも深く愛され、信頼されていた。

 金光守備隊の火力と言えば、10センチ榴弾砲十門、山砲四門に過ぎず、金光少佐はこれを効果的に遣
(つか)って、中国軍包囲網に大きな打撃を与えた。夜になると少数の野戦斬り込み隊を組織し、敵陣に斬り込んで敵の武器弾薬を奪い、昼間はこれによって、敵の攻撃を撃退し続けた。しかし、敵の攻撃は激しく、ここで死闘を三ヵ月間も繰り返す事になった。それは壮絶なものであった。

 守備隊の多くの将兵は傷付き、本来ならば野戦病院にいる筈
(はず)の片手、片脚、片目の兵士も第一線の陣地に立て籠(こも)り、激しく戦った。また、従軍看護婦や従軍慰安婦達もここに立て籠り、最後まで抵抗を続けた。彼女達も小銃を手に戦ったのである。
 負傷した兵隊や、女性達の闘魂を支えたのは、金光少佐個人に対する、人間的な深い尊敬と信頼への傾倒であったからである。

 人間は、死するべき人間の為に命を捧げると言う。これは歴史を見ても明らかである。
 この典型的なものが、「アラモの砦」だっとのではなかろうか。
 アラモの砦は、アメリカのテキサス州サン・アントニオ市にある、もと僧院跡である。1836年、テキサス独立戦争中、クロケット
David Crockett/1786〜1836)ら、約200人は独立軍としてメキシコ軍と激しい戦いを演じ、最後は此処に立て籠って全滅する。

 アラモの砦で独立軍を指揮したのは、アメリカの西部開拓史上の英雄のデーヴィー・クロケットであった。クロケットはメキシコからの独立を図るテキサスを支援して、アラモの砦で壮絶な戦死するのである。

 拉孟
(らもう)・騰越(とうえつ)の日本陸軍守備隊でも、アラモの砦と同じような事が起り始めていた。人間がこうした行動に至るのは、人間自身が命以上に大切なものがあると知覚した時の信念であろう。信念は時として、人間を高潔にするものなのである。

 金光守備隊は、やがて弾薬が尽き、兵は殆どが負傷者ばかりとなる。金光少佐は最後の総攻撃を決行する。そして金光少佐は、日本人従軍看護婦や朝鮮人従軍慰安婦を集め、「中国軍は、君らを捕虜として扱うが、決して殺したりはしないだろう」と、最後の言葉を述べ、護衛兵をつけて、彼女らを陣地の外へ脱出させる。

 しかし日本人た朝鮮人女性達は戻って来て、「敵の捕虜となって辱
(はずかし)めを受けるくらいなら、隊長と一緒に死にます」と言っていかない。金光少佐は再度説得したが、彼女達は脱出を拒んだ。かくして拉孟守備隊は、ここで玉砕(ぎょくさい)する事になる。女性達も、戦士として金光少佐と運命を共にしたのである。

 戦争において、何処の国の軍隊でも同じであろうが、勝った側は、負けた側の国の婦女子を強姦すると言うのが通り相場的な行動となっている。戦場での兵士の心理は、極度に緊張する為に、その反動として性欲が高まり、勝てば、負けた側の婦女子の強姦すると言うのは通り相場だ。そして、残念ながら、戦争犯罪と無縁だったと言う軍隊は、歴史上、ただ一つの例外すらないのである。したがって婦女子は、男の暴力に屈する悲しい現実がある。
 こうした事から、守備隊所屬の彼女達は、最後まで抵抗し、共に死ぬ道を選んだのかも知れない。

 騰越守備隊は最後まで抵抗を続けた、陣地に立て籠
(こも)って壮絶な死闘を繰り広げる。不完全な陣地ながらも、二十倍以上の敵を相手にして戦い、抗戦60日余りを守備し、最後の指揮官・太田大尉を先頭に突撃を行ない全員玉砕した。
 果たしてこの戦場を戦った兵士や、それの随行した女性達は、その最期が清らかであったか否かは、偏
(ひとえ)に勇気と信念にかかる筈であろう。任務を遂行したのであれば、魂は穢(けが)れのないまま、その清らかさが保たれた事になる。

 この戦闘の後、蒋介石は、「最近の我が軍へ勇戦は、まことに喜ばしいものであるが、なお、足らざる兵がすくなくない。日本軍の拉孟と騰越の守備隊の守備隊ごときは、まことに敬意を表すべきものであり、斃(たお)れてもやまない勇戦敢闘は、我が軍も大いに模範とすべきである」という、日本軍玉砕に対する最高の追悼(ついとう)を下している。しかし失われた命は、再び蘇(よみがえ)ることはなかった。

 繰り返すまでもなく、戦争がどんなに愚かであるか論ずるまでもない。しかし戦争を避ける事が出来ないのも、また事実である。
 戦争そのものを正義であるか否かは別にして、戦争によって失われる命の犧牲は膨大なものであり、戦場における一兵卒や戦火を逃げ回る一般人の命など、虫螻
(むしけら)同然となる。そして一人の兵卒や一民間人の活躍など、歴史の記録に残らぬ程、哀れで、無慙(むざん)に消滅していく。

 しかし一方で、戦争に駆り出され、無慙に消えていく、人間の命とは一体何だろうと考えさせられる。心ある者なら、実に遣
(や)る瀬(せ)ない思いが湧き起って来る。そうした事実を背景に、戦争と云う現実から、人間は逃げ果(おお)せる事が出来ない。
 では、こうした現実に直面した場合、一体人はどうしたらよいのであろうか。

 人間を論ずるその価値観は、非常の事態に遭遇した時、それをどのように対処するかにかかる。平時の日常生活を営む上で、優位に物事をすすめる事の出来る人であっても、一度戦時の非日常に事態が変化した時、これに対応できず、無態
(ぶざま)を曝(さら)す人は少なくない。
 特に知識で人生を渡って来た人は、この傾向があるようだ。
 知識の施行は勇気と信念の実践ではないから、これが欠如していると、今までの知識から誘導する理屈が通らなくなって混乱に陥る。普段、偉そうな事を云っている知識階級でも、「非日常」の過酷な局面に接した場合は、実にだらしない醜態を曝す人間がいる。

 先の大戦において、こうした醜態を曝した、「頭でっかち」は少なくなかった。
 例えば、辻政信のような、陸軍士官学校、陸軍大学校などのトップに位置し、恩賜
(おんし)で卒業したエリート中のエリートでも、重大な局面に遭遇した場合、卑劣で卑怯な振る舞いをしたことは否めなかった。
 戦後の経済界の一部では、辻政信
(つじ‐まさのぶ)を絶賛し、当時の参謀として称賛する神話的な崇拝があるが、辻が単に知識だけで軍閥の頂点に立って居た事は疑いようもない。それも恩賜という理由だけである。

 辻政信の、神話を打ち消す話は五万とある。その中でも有名なのが、辻が右翼系の壮士だった笹川良一
(ささがわ‐りょういち)との自慢話で、辻がやり込められた話がある。
 陸士・陸大とエリートコースを歩いた陸軍高級官僚の中には、「愚図愚図いうと、ぶった斬るぞ!」という傲慢
(ごうまん)が罷(まか)り通っていた。これは当時の陸軍の体質を示すものであったが、この体質に陸軍エリート達も悪乗りしていた。こうした悪乗りエピソードは至る所で転がっている。

 当時、支那派遣軍参謀だった辻政信中佐は、傲慢に悪乗りした観があった。こうした悪乗りは文人からすれば鼻持ちならないものである。ついに辻の悪乗りに業
(ごう)を煮やした文人が、「陸軍の中佐だか、大佐だかは知らないが、何を無礼な事を言うか」と怒鳴り返した。この文人は、後の東条英機内閣の大東亜省(太平洋戦争下の1942年11月、東条内閣が設置した大東亜共栄圏地域の政務を扱う中央行政機関で、敗戦後45年8月廃止)の大東亜大臣になる青木一男であるが、辻は青木を捕まえて、「ぶった斬るぞ!」と、腰の軍刀に手をかけ、白刃の抜き身を見せると、青木は青くなって一目散に逃げたそうである。

 辻は、青木のこうした無態
(ぶさま)を見て、「青木と言う男は、何と弱い奴だ」と侮蔑し、それを各界人に触れて回ったが、それを訊(き)いた笹川良一は、「で、その時、青木はどんな武器を持っていたんや?」と訊き返した。辻が「何にも持っていなかったという」と、笹川は「何にも持たない丸腰の人間なら、軍刀で脅されたら、そらァ、青くなって逃げ出すのが当たり前や。そらァ、あんたの方がよっぽど弱虫やで」とやり返したそうである。

 大戦当時、陸軍省の軍隊官僚の高級軍人が、こうしたエリート意識を鼻にかけ、「四の五の言うと、ぶった斬るぞ!」と脅した話は有名である。これこそ、「虎の威を借る狐」の正体だったのである。ここに当時の陸海軍の、ゲシュタ
Gestapo/Geheime Staatspolizeiの略で、反ナチス運動の取締りを目的としたナチス・ドイツの秘密国家警察)並みの傲慢があった事は否めない。権力が、かくも、こう人を傲慢にさせることの魔性は、覚えておくべきである。これと同じ魔性に魅入られ、魔性に命ずる儘(まま)に傲慢に振る舞っているのが、昨今の政治家である。政治家の傲慢(ごうまん)な態度は、大戦当時の辻政信にも劣らぬところがある。こう言う意味から、時代は違うが、一蓮托生と言うべきであろう。



●如何に立派に戦ったか

 さて、人類にとって、戦争が正義か否か、それを論ずる事は不毛の議論である。明らかに戦争行為が、どんなに理不尽で、どんなに不条理であっても、勝者が正義になる事は歴史が明白に物語る事実であり、これに異論を挟み、覆(くつが)えす事が出来に。敗者は悪玉と論(あげつら)われ、悪の譏(そしり)を免れない。したがって欺瞞(ぎまん)に満ちた戦争の論理を論い、これを議論する必要性は全く無い事が分かる。

忌わしい太平洋戦争は国民皆兵の時代だった。

 最も大事なことは、戦争に直面し、それに対し、個人がどのように対処したかが、最も重要な問題になる訳である。極限状態に直面した時、個人として、勇気と信念をもって堂々と戦うのと、卑怯未練な行為に趨(はし)るか否かで、その天意の価値観が決定されてしまう。
 戦争そのものは、まさに欺瞞
(ぎまん)から成り立っている。この欺瞞の多くは権力者の野心であったり、戦争指導者の欲望が見隠れする。

 しかし、国民の上に君臨する指導者の野心ではじまった戦争であっても、自身が卑屈になったり、卑怯未練な行為を行えば、自らの想念を悪想念で汚してしまう。この悪想念は、一旦抱くと生涯消える事がない。また、運良く一時的にその場を逃げ果せても、後ろめたさが何処までも付き纏
(まと)う。

帝塚山女学院の集団勤行

 任務を果たさずに敵前逃亡を企てるのと、最後まで任務を果たすのとは雲泥の差が出る。戦争指導者が、邪悪な想念ではじめた戦争であっても、その邪悪な想念に煽(あお)られて、自らの想念まで汚す必要なないのである。
 この場合、自分の任務を果たす事だけに専念すれば、それでよい。この事によって喩
(たと)え命を失ったとしても、想念を汚す事がなければ、その意識体は精神世界で永久の生命を得る事になる。

 戦争に勝つか負けるかと云う事よりも、「如何に立派に戦ったか」と言う事が、実は問題なのである。卑怯未練な行為をして、喩
(たと)え生き延びたとしても、その人の死に態(ざま)は決して良くはないであろう。
 それは既に、卑怯未練を働いたという事で、自らの想念を汚しており、これが凶事に繋
(つな)がって、死にざまを悪くし、臨終(りんじゅう)に失敗する。潜在意識に残る卑怯な振る舞いは、何処までも付き纏い、臨終の時、清き最期を迎える事が出来ないからである。

 人間が絶体絶命の場面に遭遇した時、それを切り抜けられるか否かは、勇気と信念にかかる。勇気と信念をもって、自らの魂を悪想念で汚さぬまま、逃げずに立ち向かうと云う事である。
 逃げれば、悪想念で自らの魂と、魂に刻み込まれる想念を汚す事になり、清らかさは一気に穢
(けが)れで汚染されてしまう。穢(けが)れで汚染されると、不安や迷うが生じ、静粛(せいしゅく)さが失われて、優柔不断となり、行動に躊躇(ちゅうちょ)が起る。この躊躇は、巡り巡って悲惨な結末を迎える。

 勇気と信念が欠如すれば、個人的な人生における転機であっても、企業の経営方針の転換であっても、為政者の政治的決断であっても、そこには覚悟を持った、勇気と信念がなければならない。どういう覚悟で、それに臨
(のぞ)んだかが、その後の運命を大きく左右してしまうのである。

 実行力と決断力が問われる場合、そこに必要とするものは「覚悟の程」である。
 悪想念の中には、「弱さ」「卑怯」「未練」「卑屈」などが含まれるから、既にこうした事を表面化する事だけで、悪想念が湧き起る。これは神界の清く安らかな波動とは異なり、心を汚染するものとなり、騒音に満たされた魔界のそれである。
 勇気と信念が失われた場合、それは弱さとなり、卑怯未練が起り、心は卑屈になる。この卑屈こそ穢れで汚染された波動であり、この波動は永遠に神界の波動とは合い交
(まじ)える事はない。

 人の命は桜の花弁
(はなびら)のように儚(はかな)いものであるが、常に勇気と信念を持って難事を乗り越える事ができれば、それは歴史の中で永遠に輝きを放つ。そしてこの輝きの中に、神界の極めの細かい、清らかな永遠の命が宿っているのである。

 太平洋戦争の戦史の足跡を辿ると、当時の日本の軍人よりは、非戦闘員であった婦女子の方がよほど勇敢に戦った人が多かったと言える。それに比べて、この時代の軍隊官僚は、からっきしだらしが無かった。

刀を研ぐ関町の女子挺身隊
街灯募金をする高等女学生



●極限状態の中で、人は何を任務とするか

 陸海軍の軍属に属して、日本兵ともども、多くの女性達の命も失われた。
 戦場では兵を組織する上で、兵隊にはいろいろな役割がある。
 例えば、聯隊編成だと、約千六百名で組織される三個大隊が聯隊
(れんたい)指揮下に組み込まれ、これに砲兵中隊(山砲4門)、速射砲中隊(4門)、通信中隊、衛生隊、工兵隊の、約五千人規模で編成される。
 そして、こうした後方の兵站部
(へいたんぶ)には、野戦病院が附設され、軍医の指導の許(もと)、衛生兵や従軍看護婦が重軽傷者の看護をした。

 兵站部では、召集された日本赤十字救護看護婦が野戦病院に派遣され、ここで負傷兵の看護にあたった。最初、従軍看護婦の勤務した病院は、後方兵站部の安全地帯でしたが、大戦末期になると、連合軍が奪回に来た最前線にも勤務するようになり、日本軍のそうした野戦病院は忽
(たちま)ち戦場となり、従軍看護婦達は、病院を捨てて、軍と共に移動しつつ、傷病兵の看護にあたった。

 女性達の駆り出された戦場は、後方の大本営陸海軍部に比べれは、遥かに死ぬ確率が高く、一種の決死隊的要素を含んでいた。
 本来、何処の国でも、こうした最前線に兵士を送ったり、決死隊的な戦場や、決死隊を編成する場合は、職業軍人の中から募集するのが通例であった。何処の国でも、士官学校や兵学校を出た職業軍人から応募者を募り、それで部隊を編成するのが普通である。あるいは陸軍大学
(日本の場合は正しくは大学校)や海軍大学の出身者からも応募者を募る。これは第二次世界大戦の時も同じで、欧米各国は、それが近代的な軍隊としての常識であった。

 ところが日本の場合は、欧米とは全く逆であった。士官学校や兵学校の成績上位者は、総
(すべ)て陸軍大学か、海軍大学へ優先的に入学出来、ここで上位に入ると、陸軍省や海軍省の参謀本部に配属されます。そして終戦までエリート扱いで温存されて、安全圏で保身を図り、檄(げき)ばかりを飛ばし、机上の空論を練り上げる役職に終始する。

 決死隊の編成も、陸大・海大のひと握りのエリートが下令するし、特に、日本のように学徒動員の素人を特攻隊に仕立てて、敵艦に体当たりさせると言う、こうした狂気の沙汰は、世界のどの軍隊を見ても見当たらず、日本だけが例外であった。ここに大戦当時に昭和陸海軍は、歴史に大きな汚点を残した事になる。

 第一、敵に捕らえられて拷問
(ごうもん)されても、職業軍人ならば軍機を洩らさないのが当然と看做(みな)される。また、同じ敵前逃亡でも、職業軍人の場合と、徴兵のよる一時軍人とでは、軍法会議での刑が異なっていると言うのが国際的な通例である。
 ところが、日本の場合はこうした国際的通例が度外視されて、職業軍人の敵前逃亡は、軍上層部で握り潰されて、故意に見逃されるか、軽くなり、徴兵による即席の一時軍人の刑は、銃殺刑等を以て、実に厳しく処罰された。
 また、「生きて虜囚
(りょうしゅう)の辱(はずか)めを受けず」の東条英機の『戦陣訓』は非戦闘員の一般民間人までもをこの呪文で縛り付けた。

特攻隊長に清酒を注ぐ、フィリピン第四航空軍軍司令官・冨永恭次陸軍中将。東条英機の腰巾着として奔走し、フィリピンでは東条の真似をして憲兵政治を徹底させ、ミニ東条と言われた。アメリカ軍がマニラに上陸するや否や、台湾へ敵前逃亡。そこで、のんびりと温泉静養した。

 大戦末期、フィリピン第四航空軍の冨永恭次(とくなが‐きょうじ)陸軍中将は、アメリカ軍がマニラに上陸すると、護衛付の陸軍機を仕立てて台湾へと逃亡を企て、何の処罰もされないどころか、一度は予備役に廻されたものの、再び現役に復帰して、支那方面の軍団長として北支に向かい、一時はハバロフスク(ロシア、極東地方の中心都市で、アムール川とウスリー川との合流点に位置し、シベリア鉄道の要衝)に抑留されるが、戦後は厚生省から高額な軍人恩給を貰って、安穏とした優雅な生活を送った。
 これこそ私達が、太平洋戦争時に卑怯な将軍が居たことを末代までに語り継いで行く事柄ではないか。

 一方、戦場経験の長い、経験豊かな、ある下士官は、新米の士官学校出の間違いだらけの将校の無謀な命令に従わず、これを無視したところ、脱走や敵前逃亡の罪が課せられ、戦後は脱走兵として扱われて、軍人恩給の一切の支払いを厚生省から拒否されて、無念な晩年を送った人が居た。命令違反や敵前逃亡と看做
(みな)され、処罰された人達である。しかし、全くの濡れ衣だった。

 日本は、このように上には甘く、下には非常に厳しい官僚主義国家なのである。こうした官僚主義国家が、実は無名兵士として、女性達をも最前線へと送り出していたのである。この事は、今日の於ても変わりないだろう。特に、官僚が責任をとらないというのは、世界広しといえども、日本だけだろう。上に行くほど余り構造になっているのは、明治以来の日本の官僚の構造である。

 そして彼女達は一戦士として戦い、最後まで組織抵抗し、部隊が負け込んで来ると、最後は玉砕
(ぎょくさい)を強いられるか、あるいは捕虜となって、敵兵の慰めものにされ、敵兵から梅毒を移されたり、筆舌に尽くし難い屈辱(くつじょく)を受けて、最期は青酸カリ等で服毒自殺を図った。こうした惨劇は、満州や北支、南方方面の東南アジアで繰り返され、一時軍人や一時軍属の女性達が、若い乙女の命を散らせた。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法