●陸軍中将冨永軍司令官の敵前逃亡事件
先の大戦において、日本陸軍の中に卑怯きわまりない高級軍人が居たことを列記したい。
下級将校や下士官や兵に過酷な戦争体験を、強いて行った原因の一つに、「明治憲法」発布に至るまでの流れを見逃すことが出来ない。
明治憲法は大日本帝国の国体を成したものであるが、この憲法が明治22年に公布されるまでのプロセスは、伊藤博文がヨーロッパに赴き、国法学者L・シュタイン、R・グナイスト、A・モッセに教えを受けたことから始まるのである。また後に、A・モッセとH・ロエルストルは、日本に招かれて、伊藤博文の憲法草案に助言を与えている。
伊藤博文は、日本の育んだ天皇制の土壌を考えて、議会主義のイギリス憲法を退け、帝国主義のプロシアのドイツ憲法に依存しなければならないと判断したのであった。それは軍国主義や帝国主義が、容易に育ちやすい状態にもなっていったのである。
富国強兵政策を全面に押し出し、国民皆兵主義を打ち建てると、1894年には日清戦争で勝利し、1904年には日露戦争で勝利して、ヨーロッパ列強に追い付くと植民地獲得政策をアジア大陸や南太平洋で繰り広げ、帝国主義の仲間入りを果たしていったのである。
更に戦勝に酔い痴れた日本は、軍閥と高級官僚が結託して、軍国的な絶対主義をこの上に覆い被せた。
やがて人権を無視した軍国主義・全体主義が生まれ、これらは益々エスカレートしていった。また一方で人命を軽視した愛国主義は止まるところを知らなかった。
国家にひたすら奉仕すること、滅私奉公することが国民の義務のように信じられ、「七生報国」という言葉も生まれた。
これが滅びの美学「特攻隊」にまで発展していくのである。
しかし、これを裏で画策し、世論を操作してマスコミを誘導したのは、派閥抗争を繰り広げる軍閥であった。この軍閥を形成したのは、当時選良意識の頂点にいた陸軍大学校や海軍大学校の出身者たちであった。
陸軍大学校、海軍大学校を始めとした、陸海軍の士官学校や兵学校は、局部的には確かによい面も備えていた。
今日の企業の経営方針や企業戦士としての戦い方は、これらの軍官学校を模倣した組織方針を貫いて、社内の各自に反映させ、成功を収めているのも事実である。
経営とは、まさに組織を率いて合戦をすることに他ならない。そのためには「小をもって大に勝つ戦略」が必要である。しかしこれは大局から見て、ミクロ的である。
これらを一言で言うと、大局を高所から見通せるマクロの範囲は逸脱していたといえよう。全体像から見れば、部分的であり、全体を把握するような多次元に渡る高等教育は、戦前戦中の軍官学校では実施されていなかった。そのために選良意識のみが自尊心とともに目立っていて、個を犠牲にして選良の頭だけを生き延びさせて、尻尾は切り捨てるという非常な現実があった。
一口に軍司令部後退と言えば聞こえがいいが、緊急事態において、金糸のモールを胸に吊した参謀懸章をひけらかして、選良意識を露にした参謀たちまでが、多くの部下を見捨てて、逃げるという愚行は働かない筈である。
しかし軍律として禁止されていた敵前逃亡は戦場最前線の至るところで起こっていた。その前代未聞の敵前逃亡が、冨永軍司令官の逃亡事件であった。では何故、冨永軍司令官は敢えてこの事件を起こしたのか。
冨永恭次は陸軍次官であった時、陸軍刑法の抜け道を知っていた節があった。冨永恭次はかって陸軍省人事局長も経験している。また、その経験が陸軍刑法の抜け道も知ることになるのである。
日本の陸軍刑法に、司令官や参謀の作戦失敗における罰則規定が何一つ謳われていないのである。高級将校(将官や佐官級の高級参謀)や高級司令官が、軍法会議の対象外であることを熟知していたのである。
では、何故上級将校や司令官は、軍法会議の召喚を免れることが出来るのか。
この理由に一つに、神国日本の天皇の軍隊が負ける筈が無いという自負心が、大本営を怠慢にさせたのであった。またそれが万歳突撃のような人命軽視の人海戦術に発展させていったといっても過言ではなかろう。まさに愚行としか言いようが無かった。そして万歳突撃が全ての措置を行い、万策尽きた最後の、どうにもならぬ作戦であったかどうか疑問である。
これらの愚行を上級将校たちは次々と計画し、無残に下級将校や下士官兵までも死地に追いやって行ったのである。これらの作戦失敗においても、多くの将軍は軍法会議にもかけられず、また自らの責任をとって自決する将軍などは稀であった。
日本が連合軍に対して、無条件降伏した時ですら、これを恥じて自決した将軍や上級将校たちは数える程であった。軍属に属した高位高官の多くは、戦後生き存えて、厚生省の支給する高額な恩給や年金で安穏とした暮らしを続けたという。
その点、アメリカは違っていた。
真珠湾攻撃で打撃を受けたアメリカ太平洋艦隊司令長官ハズバンド・E・キンメル海軍大将は、真珠湾を奇襲攻撃されたことで罷免されているし、フィリピン・レイテ海戦の時、小沢治三郎海軍中将率いる小沢艦隊の囮に嵌ったアメリカ海軍の第三艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー海軍大将は、その主力であった栗田艦隊を逃したという責任を追及されて、軍法会議で召喚されている。
日本の軍首脳に位置していた将軍たちは、戦中においては祖国日本を護という人神主義と天皇制を巧みに利用し、国民に対しては自分自身を滅して国に捧げることを強要し、戦後においては国家復興は天皇の御意志に従うものとして、卑怯にも生き存えてきた。彼等の傲慢に戦後を生きた生活態度には、命令一つで部下を死地に追いやった責任と、度重なる種々の作戦の失敗対する反省の色は微塵もなかったのである。
陸軍刑法は、詰まるところ下の者には厳しく、上級将校に対しては責任追及の処罰が課せられない不文律の軍律であった。そしてこのことは冨永恭次が十分に知り抜いていたのであった。
冨永恭次は参謀長隈部少将に、台湾視察という名目の逃亡計画を準備させていた。これを実行するために隈部少将は、第四飛行師団長の三上中将に飛行機の準備を要請し、台湾後退が戦略上正当であるかのような理由を付けて急がせていた。これらは冨永自身が、命欲しさから計画した巧妙な敵前逃亡の画策であった。
昭和20年1月16日冨永恭次は直属部隊視察の名目で、エチャーゲ南飛行場から台湾に飛んだ。勿論正式許可の命令書はもっていなかった。
冨永自身は敵の空撃の合間を縫って、台湾に逃げ込むことだけをひたすら考えていたという延命の策であった。
また、この逃亡計画も巧妙であり、鈍重な爆撃機や輸送機はやめて、複座戦闘機を使用し、第三十二戦隊の九九襲撃機と、第三十戦隊の一式戦闘機に護衛を命じて台湾に飛び立ったのである。ここに冨永の臆病と卑怯さを知ることが出来る。
日本軍における燃料事情は日増しに悪くなり、既に底を突き始めていた。特攻隊を出撃させる時ですら、弾薬と燃料不足を理由に殆ど掩護(えんご)の戦闘機も従(つ)けずに出すような状態であった。それなのに冨永は自分の逃亡にあたっては燃料不足であっても、戦局を考えずに無駄な燃料を浪費させたのであるから、呆れるばかりである。国家非常時の、まさに裏切りであった。
冨永の卑怯と愚行の叱責は、末代まで語り継がれて行かなければならないが、特に憎むべきはエチャーゲ南飛行場を飛び立った時の掩護機は二機であつたのに、翌17日にはツゲガラオからは、掩護機を四機に増援させている点である。
昭和陸海軍の官僚主義の欠陥は、下級の将兵に死守を命じておきながら、その作戦を立案した作戦部員や参謀達は逃げると言う事であった。このように、自分では厳守不可能な過酷な命令を部下に与えておきながら、軍司令官自体が敵前逃亡するのであるから、勝てる戦いも、勝てる分けがないのである。
●置き去りにされた邦人たち
太平洋戦争は総力戦であり、日本人の伝統的な文化や行動原理、それに支える歴史観、戦争観、思考能力などが、敵国アメリカから試された戦争であった。アメリカの支配中枢の分析は、これら日本人の総力を知り抜いていて、明治以前に存在した武士階級の伝統的な文化や行動原理を実行する軍人は少ないと看做(みな)していた。
日本人の多くは町人や農民層がその総人口の90パーセント以上を占める事も分析済みであった。したがって武士階級層といわれるものは約7パーセントから8パーセント止まりと分析していた。
そして多くの高級軍人は軍隊官僚主義の申し子であることも見抜いていた。また、将官の50パーセントは愚将であることも知り抜いていた。それらが戦わずして、敵を助けた結果にも繋がったのである。
マニラには残された残留兵たちで溢れ返っていた。彼等は軍司令官から置き去りにされ、方向舵を失った船のように動きがとれなくなっていた。アメリカ軍のマニラ攻撃は時間の問題になっていた。
この時、憲兵司令部の対応は実に早かった。
彼等は多くのフィリピン人を拷問によって殺害していたからだ。彼等にとって最も恐怖であったことは、アメリカ軍の進撃で自らの身に報復が振り掛かるかもしれないという恐怖心があった。そのためマニラ周辺の飛行場は、何処も権力の威光を傘に来た憲兵や参謀たちで犇めきあい、内地に向かう飛行機に殺到し初めていた。一方で下士官や兵に死ねと強要しながらも、彼等とて自分の命は惜しかったのである。
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▲サイパン島に置きざりにされた現地邦人。(写真は『昭和史』毎日新聞社編、第11巻「破局の道」より)
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昭和陸海軍の官僚化した軍隊は、明治の軍隊と比べて夜郎自大化した事実が否めない。日本人の現地邦人達に対し、同胞を犧牲にしながら、自分達官僚は生き残ると言う人海戦術に出た観が否めない。フィリピンだけではなく、サイパンでも多くの現地邦人が取り残され、置き去りにされた。
昭和19年6月、サイパン島はまだ日本領土でありながら、現地の日本人達は戦火の犧牲になって、ばたばたと倒れて行った。サイパンの腫瘍軍事施設は、この年の6月15日に悉々く叩かれ、壊滅状態だった。
この時、日本陸海軍部隊は、これまで死守していたアスリート飛行場から第二飛行場へと移動を開始し、作戦指令部は早々と移動していた。そして現地邦人達は非想な死の世界と直面することになった。
●義勇兵役法の成立
大戦末期、労働力の不足は深刻であり、その人手不足は都市の軍需工場にも及んだ。39歳までの未婚の女子が勤労報国隊として動員され、更には女子挺身隊が組織されて、彼女達は都市圏の軍需工場で働くようになった。1945年3月当時、その数は約45万人にも達していた。
また一方に於いて、衣料不足と言う深刻な事態が起こり、生活必需品は総て配給であったが、家庭向けの衣類の供給量は1944年の場合、7.4%といわれ、1937年を遥かに下回る数字であった。
女性は、総ての古着を再生してモンペに変え、本土決戦に備えてその準備が始まった。
陸軍は本土決戦を呼号し、昭和20年6月の国会では「義勇兵役法」が成立した。これは、男子は15歳から60歳まで、女子は17歳から40歳までを義勇兵として兵役に義務に服すべき法律であり、敵が上陸して来た場合、陸海軍の指導の下、義勇戦闘隊として戦場で戦うと言うことを定めたものであった。その中でも、海軍の少年航空兵や、陸軍の少年戦車兵ならびに少年飛行兵は、義勇の責任を背負わされ、兵役の義務にも満たない少年を戦地に送りだしたことは寔(まこと)に痛ましい限りであった。
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▲海軍の少年航空兵の一式陸攻の搭乗訓練。(写真は『昭和史』毎日新聞社編、第11巻「破局の道」より)
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この法律が成立してから、鈴木貫太郎(すずき‐かんたろう/軍人・政治家。海軍大将。連合艦隊司令長官、軍令部長、侍従長、枢密顧問官などを歴任。二・二六事件で重傷。太平洋戦争末期首相となり、ポツダム宣言受諾。1867〜1948)首相は陸軍関係者から義勇隊に用意された武器を見せられた。
その時、鈴木が見たのは、小銃は十六世紀の戦国時代に遣われたと思われる火縄銃だったり、銃口から火薬を込める戊辰戦争当時のヤーゲル銃で、一発撃つ度に鉄を輪切りにした弾を銃口から押し込み、再び撃鉄を起こして発射すると言う時代遅れの単発銃であった。これは骨董品であり、近代戦を戦う「小銃」というものではなかった。
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▲軍需工場に動員された女子学生。
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▲竹槍訓練をする女子義勇軍。
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他の武器賭しては、竹の先端を斜に切り、焼き入れをした竹槍、江戸時代の捕り物で遣う刺股(さすまた/江戸時代、罪人を捕えるのに用いた木製の長柄の先端に鋭い月形の金具をつけた武器)、突棒、更には弓矢であった。この弓矢には説明書が付いていて、「射程距離、概ね3〜40メートル、通常射手にゆる命中率50%」と言うものだった。こうした陸軍が用意した武器の中で、唯一つ武器らしい武器といえば、焼き物の容器で造られた球形の手投げ弾で、これを敵に投げ付けると言うものであった。
しかしこうした、近代戦を戦う武器とは言えないような武器で、敵の戦車等の機甲で固めた、火炎放射器や自動小銃で武装した機械化部隊に、こうした物で、どう戦おうとしたのであろうか。
また、15歳から60歳までの老人(この時代の男子の平均寿命は、男子が44.8歳、女子が46.5歳)や、女性によって編成された義勇戦闘隊で、陸軍は本気で本土決戦が戦えると思っていたのであうか。
元海軍大将の鈴木貫太郎首相は、思わず「これは……ひどいなア」と声を漏らすくらいだった。しかし陸軍関係者は「精神で戦うのだ」と首相の言を一蹴(いっしゅう)したのである。この一蹴の責任は、決して少なからずのものがある。
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| ▲精神力で戦うことを強要した陸軍の本土決戦政策。国防婦人会の竹槍部隊。(写真は『昭和史』毎日新聞社編、第11巻「破局の道」より) |
また酷いのは武器だけではなかった。食糧の配給も底を尽き、昭和20年の7月12日から主食の配給は、今迄の一人当り330gから297gに減らされていた。これは一割強の減配であった。この主食というのは「米」のことではなく、トウモロコシ、大豆、イモ、イモの蔓(つる)等の雑穀を含めて主食というのであり、米はひと粒も混じっていなかった。
国民の大半は、既に栄養失調であり、配給は遅配続きで、「肚(はら)が減っては戦が出来ぬ」と昔からいうが、政府と陸海軍は国民に対して、どう戦えというのか。
当時の厚生省の担当官は、こう言い捨てえう。
「一割減ったからと言って慌てる必要はない。即ち、従来われわれが目につけていなかった未利用食糧源を活用すれば、相当程度、栄養補給をする事が出来る」
この未利用食糧源というのは、ドングリや野に咲く雑草(タンポポ、ハコベ、イタドリ、アカザ、アザミ)等を言い、あるいはアルコールを搾(しぼ)り取った後の薩摩薯(さつまいも)の蔓(つる)、その搾(しぼ)りカス、イモの蔓そのもの、家畜の餌(えさ)のトウモロコシ等であった。
来るべき本土決戦の構想は、進んで日本を滅ぼす側に廻る方と、敵の侵入を拒み、決戦に徹する方とに真っ二つに分かれ、御前会議では激しい議論がやり取りされた。
日本を滅ぼす側の代表格は、海軍大臣の米内光政(よない‐みつまさ/軍人・政治家。たびたび海相となる。1940年首相、半年で辞職。海軍高等官で組織した親睦・扶助団体の「水交社」のメンバー。1880〜1948)で、「日本は既に敗北しているも同然だ」と一蹴(いっしゅう)して徹底抗戦はを退ける。
逆に、陸軍を代表する陸軍大臣の阿南惟幾(あなみ‐これちか)は、これに対立して、「敗北とは実に怪しからん。われわれは、まだ敗北しているわけではない」と、こう切り返します。
米内は、もうこれ以上、戦争を継続させることは不可能だと言う自分の言を強調する為に、更に軍需相の豊田貞次郎(よとだ‐さだじろう)と農商相の石黒忠篤(いしぐろ‐ただあつ)、運輸通信相の小日山直登(こひやま‐なおと)に国内事情の証言を求めた。
豊田は米国機B29の来襲で打撃を受け、軍需物資の生産が著しく低下している事を述べ、石黒は東北地方の冷害で来年は、飢饉が避けられない事を説明し、小日山は朝鮮、満州、台湾はもとより、本州と北海道の交通さえ、困難である事を発言した。
しかし国論は二つに割れ、決着がつかないまま、国民は更に過酷な戦闘訓練へと駆り出されたのである。
●戦争は負けた時から本当の地獄が始まる
昭和20年8月15日、太平洋戦争は終わり、日本はこの戦争に、多くの犠牲者を出して敗れた。無能な戦争指導者によって、日本は見事に大敗した。日本が大負けして戦争が終結した。しかし女性達は、この日に戦争は終わらなかった。
この日の午後から翌日に亘(わた)り、内務省通達で、今まで木銃訓練や竹槍訓練をしていた女子学生達は、今度は進駐軍の上陸に備えて、この日より、進駐軍相手の即席従軍慰安婦に仕立て上げられ、進駐軍慰安女子挺身隊が組織された。
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| ▲戦時中は女子挺身隊の隊員として組織された女学生達は、敗戦後、進駐軍慰安女子挺身隊として組織され、戦争が終っても、女性達には戦争に終戦はなかった。彼女達は皇族や華族や高級軍人の令孃らの身替わりとして、内務省通達で慰安奉仕にかり出されていった。何と不条理な通達ではなかったか。(写真は『昭和史』毎日新聞社編、第11巻「破局の道」、軍需工場で働く「女子挺身隊」より。昭和19年4月頃) |
ではその理由は何か。
内務省通達によれば、進駐軍慰安女子挺身隊の組織理由は、「皇族や華族の子女並びに特権階級の子女である財閥令孃、及び軍首脳の令孃が、進駐軍兵士に強姦や乱暴等をされない為に、その身替わりとして、進駐軍慰安女子挺身隊がその任に就く」と言うものであった。今まで女子挺身隊として勤労奉仕をしていた女子学生達が、今度は慰安婦として、上流階級の子女に代わり、その身替わり強制されたのである。何と、狂った論理ではないか。
かつての、在日の外国東洋人や大陸や半島の女性達が従軍慰安婦として戦場に連れていかれて問題となっているが、進駐軍慰安女子挺身隊の女性達はその存在すら殆ど知られず、今は完全に歴史の中に葬り去られているが、これこそ日本人が、国民裁判をしてでも議論せねばならない問題ではないのだろうか。
そして「戦争に負ける」とは一体どう言うことなのか、その根本的なメカニズムを検証しなければならない。
戦争に負けるとは、単に一国の敗北を意味するだけではない。戦争は、している時よりも、終った時、敗けて終った時の方が地獄なのである。多くの日本国民は、戦争は負けた時から地獄が始まると言う事を知らない。戦争が終れば、敗けても勝っても、どうでもいいと思っている。しかし、勝って終るのと、敗けて終るのでは天地の差がある。敗けて終れば悲惨である。
特に戦争指導者が無能で、無能から作戦に不手際が生じ、こうした状態が度重なって大敗北した時は、その結末が悲惨である。太平洋戦争の敗北は、まさにこうした状況下に出現した。日本は、大東亜戦争の目的から言えば、その目的は殆ど成就した。日本軍の活躍によって、東南アジア諸国から欧米列強を駆逐し、植民地にされていた国々を大東亜戦争の目的であった民族の解放と言う面からすれば、これは目的をほぼ完璧に達成した事になる。
しかし日本は、無能な戦争指導者によって、戦闘では大敗北を喫したのである。この「大敗北」が問題だった。戦闘に負けた日本軍の軍隊官僚が問題なのである。そして、戦闘の敗北に対し、高級軍人達の多くは、戦後もおめおめと生き残り、殆どその責任をとっていない。
明治維新以来、日本人は太平洋戦争敗北まで、「敗戦」ということが一体どう言うことなのか全く理解していなかった。そして昭和20年8月15日を境に、敗戦と言う事が、実は地獄であったと言う事を、身を以て思い知らされる。
敗戦直後、横浜では悲惨な事件が起った。ある産婦人科の医院に、深夜米黒人兵がトラック三台に分乗して押し掛けた。白人将兵は日本の進駐軍慰安女子挺身隊が性の捌け口を満足させてくれるが、黒人兵にはそんな制度がないと言う理由からだった。
数十人の黒人兵に襲撃された産婦人科医院は、最初の一台目のトラックが玄関をぶち破り、続いて黒人兵達が医院内に雪崩れ込んだ。
院長夫人や娘や看護婦達は勿論の事、今朝、子供を出産したばかりの産婦までが黒人兵に犯され、院内はまさに地獄であった。こうした事件があった事は、アメリカ側の圧力で総て隠されてしまったが、「戦争に負ける」とは、実はこういう事なのである。
日本兵も日中戦争当時、中国では同じような事を遣(や)ったと言うが、日本人将兵が遣ったレイプ事件は、逸早くニューヨーク・タイムズ紙などが嗅ぎ付けて、日本人の愚行を世界に忽(たちま)ち公表したが、アメリカ側は自分らの愚行は完全に隠蔽(いんぺい)し、戦勝国の権力としてこうした事件は一切なかったと言う事になっている。
人間は、もともとそういう生き物であると承知しておかねばならない事であろうが、しかし、戦争指導者や、平時に政権を担当している政治家自身も、国家が戦争に負けると言う事が、どう言う事を意味するのか、普段から考えておく必要がある。
日本が太平洋戦争敗戦後、専守防衛という形でしか、自衛隊は存続できなかったが、外国から攻め込まれない国家体制を作り上げておく必要があろう。
つまり、攻め込まれ、敗北すれば、国民は柔躙(じゅうりん)され、多大な屈辱を受けると言う事である。更には、婦女子は占領軍の兵士から筆舌に尽くし難い凌辱(りょうじょく)を受ける。
何処の国でも、自国民の被害は過大に感じて、被害者数を水増しし、自国軍の行為は大目に見るのが万国共通の傾向である。そして、残念ながら、これまでの人類の歴史において、戦争犯罪と無縁であった軍隊は殆ど存在しないということである。
戦争は、遣(や)っている時よりも、終ってから地獄が始まるのである。敗戦国は筆舌に尽くし難い凌辱を受けるのである。
敗戦当時の多くの日本人には、この時の万感の思いを、杜甫(とほ)の『春望』(西暦755年、安禄山の乱の蜂起によって、杜甫は反乱軍に拘禁される。そしてこの時、『春望』を詠んだ)に託して、この悲壮な現状を、切ない思いで眺(なが)めていたのだったに違いない。
国破山河存
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪 |
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国破れて山河在(あ)り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
別れを恨(うら)みては鳥にも心を驚かす
烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連なり
家書(かしょ)万金に抵(あた)る
白頭(はくとう)を掻(か)けば更に短く
渾(すべ)て簪(しん)に勝(か)へざらんと欲す
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杜甫の詩は、廃虚に呆然(ぼうぜん)と立つ日本人の心に、これほど強く訴えたものはないであろう。
戦争とは、かくもこのようなものなのである。戦争を知らずして、平和の尊さは分からない。戦後、多くの日本人は、二言目には「平和、平和」を連発して来た。しかし、その言を吐いた人が、その言葉の意味を重く捉え、真摯(しんし)に、この意味を一度でも考えたことがあるだろうか。あまりにも、手軽に「平和」という言葉が、口から漏れては居ないだろうか。
平和を得る為には、相当な努力がいる。この努力なしに、本当の平和は遣(や)って来ないのである。
今日の日本人が口にする平和の多くは、「口先の感情論」である。マスコミもこれに追従していると言える。特に、進歩的文化人の宣伝をするマスコミに於ては、この感情論が激しいようだ。
また、戦争体験者で語られる「戦争は、もうこりごりだ」とする言も、多くは感情論である。この感情論には一種独特の使命感が漂っていて、「何が何でも、自分が経験した戦争の悲惨さを、また、貴重な体験を、次世代に伝えねば……」という激しい感情論は吹き荒れている。言葉の総てに、感情そのものが激しい憤りを見せ、「戦争は悪い。先の大戦は間違っていた。それ故に、軍国主義には何が何でも反対しなければならない」という、絶対的正義の感情論で、先の大戦を捉え、極めて傲慢(ごうまん)に、極めて次世代を愚弄(ぐろう)して、先の大戦を語り継いでいる。
しかし、この絶対的正義の感情論は、それ自体が次世代に歴史を認識させる上で、歴史そのものを検証する能力を奪うような結果を齎(もたら)している。これこそ悪しき体験主義の最たるものではないか。
戦争は、おぞましいと眉をしかめる前に、戦争の起こるメカニズムを考え直してみなければならない。そのメカニズムにこそ、誤りがあるのである。これを正確に検証しない限り、人類の頭上から戦争は消滅しないであろう。
理性や知性を欠く、感情から起こった戦争反対論では、戦争を抑止する説得力を持ちはしないであろう。
戦争は政治の延長だという言葉を持ち出すまでもなく、戦争の内実は、各々の国家や、その国の歴史ら伝統や文化などに反映される。その反映の結果を、その国の次世代は手本としながら、そこから民族の教訓を学び取って行く。しかし、その教訓から学び取る結果は、戦争を抑止する思考であって欲しいし、また、戦争のメカニズムを解明して、戦争を抑止する為には、どうあるべきかを模索してもらいたいものである。
そして、「口先だけの戦争反対論」では、その抑止力にならないということである。
もし、本当に戦争を抑止する力を持つことができるとするならば、その人は、戦争反対主義者でも、平和主義者でもないだろう。その意味において、口先だけの戦争反対論者よりも、あるいは便乗気味の反戦主義者よりも、数倍も重みのある抑止力を持つであろう。
これまで人類の開発した兵器は、紛(まぎ)れもなく「凶器」である。したがって、こうした凶器を所有する国家には、高度な政治的判断が要求されるであろうし、その国の宰相が欲望に駆られ、謀略好みのファシストであっては、戦争は益々拡大するばかりである。したがって、国家が保有する軍事力は「戈(ほこ)を止める」ことにのみ、用いるべきであろう。
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