運命転換術
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▲運命の「運」という字は、「軍」が「走る」と書く。「軍」が「走る」のであるから、それは実に凄まじいものだろう。ぼやぼやしていては、その勢いに巻き込まれて、敢え無く潰えるのである。それが厭(いや)なら、この凄まじさに抗って立命の法を見つけ出さなければならない。この激動の時代は、生半可な漠然とした心構えでは、生きていくことができない。
人は定められた運命の星の許(もと)に生まれて来る。「先天の気」に支配されて生まれて来る。そして「後天の気」の土台となるものは、「先天の気」の習気(じっけ)である。性格も、根性も、人間性も、総(すべ)てこの習気の中に含まれる。人は、過去世(かこぜ)からの因縁を引き摺って生まれて来るのだ。この因縁は、如何に藻掻いても、消しようがない。因縁は必然として現世に顕われるから、例えば、「性格」という習気の因縁を引き摺(ず)ったこれは、如何ともし難い。つまり「性格」というものは死ぬまで変らないのである。
「性格は変えられる」などと嘘(うそ)をいう運命屋がいるが、この運命屋の嘘に嵌(は)まって騙される馬鹿もいる。結局、馬鹿は馬鹿なりの、馬鹿な人生が用意されているのである。運命屋の嘘に嵌まるまい! |
●人が人生に求めるものは何か
現象人間界で、人生に対しての考え方は、大まかに分けると二つの考え方がある。
一つは「人生の目的は幸福を求めること」と、もう一つは「人生に於て、自分を何処まで偉大にしたか」という、二つの考え方である。
この二つを考えて行けば、後者の考え方は、「人生の幸福」によって、却(かえ)って腐蝕する恐れも出て来るのである。
人生とは、自己を偉大にする場合、困難に立ち向かい、日々の精進をもって、奮闘努力しなければならない。自己犠牲をものともせず、人生と現実を超越することにより、自己を偉大にすることができる。この場合「身を捧げる生き方」が基本となる。それだけに、人生の幸福を考えた場合、益々幸福からは遠ざかる。その上、「自己」や「私」というものを捨てねばならなくなる。公(おおやけ)に身を捧げることになる。理想の為に、自己を火の玉のように激しく燃やし、情熱を傾けて、それに突進しなければならなくなる。
こうした事を考えると、この二つには、理想の根底は二つとも違っていることが分かる。異なる人間観が横たわっていることが分かる。
さて、「生き甲斐」という観点から見れば、どちらの人生観が幸せであろうか。人生の幸福の追求は、多くの場合、それは個人に向けられるものである。一方、自分を偉大にすることに人生の目的を宛(あ)てがえば、公に身を捧げて、個人の幸福は顧みないことである。そして、どちらを選ぶかは、その人の生き方の選択なので、一概に決定する事は出来ない。
個人主義に徹するか、身を捧げて犧牲精神を発揮するかである。特に、後者を選んだ場合、「選ばれた人」あるいは「愛された人」という言い方をされる場合がある。こうした表現は、普段では、あまり聞き慣れない言葉である。しかし、《予定説》には、この言葉が度々出て来る。
日本では普通、「人権」とか、人権については「平等」などの言葉しか出て来ない。それは、人権は個人が国家に対して要求するものであるし、愛は自己規制により、自発的に自分以外の第三者に与えようとするものであるからだ。逆に、「欲しい」といって、これらは与えられるものではない。
運命転換術を試みるに当たり、読者諸氏は、現象人間界は逆因果律である《予定説》が働いていることを念頭に入れて頂きたい。
つまり、かの有名な内村鑑三(うちむら‐かんぞう/札幌農学校出身。教会的キリスト教に対して無教会主義を唱えた。1861〜1930)との質疑応答を、書籍に顕わした明治期の『キリスト教問答』の中の言葉を借りれば、「(キリスト教の)神は平等ではなく、不公平を強いているではないか」という質問に対し、内村は神は不公平であるが、自然も不公平ではないかと言い訳をした上で、「ある婦人は美人として生まれて、他の婦人は醜婦(しゅうふ)として生まれたか、生来(うまれつき)何の罪ありて、蛇は人に嫌われて鳩は人に愛せられるか、これを思えば天然の不公平もまたはなはだしいではないか」と回答し、「神も不公平だが、天然も不公平である。したがって、何で神を責められようか」と、神が不公平であり、不平等である事を述べているのである。
この「不公平」で、「不平等」こそ、誰もの運命に関与し、その人の陰陽を支配しているのである。
物の起こりは、唯物弁証法で考える、原因あって結果が生じるのではない。結果が最初にあり、結果に則した原因が派生するのであって、これこを「逆因果律」の典型的な論理である。つまり、これこそが《予定説》の要(かなめ)なのである。
この《予定説》については、折々説明をしていく次第である。
●「孝行」の意味を把握せよ
最近では「親孝行」という言葉を、日本では殆(ほとん)ど耳にしなくなった。
「孝行」とは、子が親を敬(うやま)い、親によく尽す行為をいう。親に対する「孝」である。
父母に仕(つか)え、また父母を大切にすることである。しかし今の日本では、「親孝行」は全くの死語になっている。
また、戦後民主主義は、「親の老後の為に、子供が犧牲になることは良くない」と教えた。こういう風潮まで、マスコミによって創り出された。しかし果たして、親は子の世話になることが、そんなに良くないことか。
一方、欧米では、親が子供を育てる為に苦労しながら養育した事に対し、それに見合う分だけ、子供が成人した暁(あかつき)には、「親に世話になった一切の費用」を、就業後の給与の中から少しずつ返済して行くという考え方を採とっている。この点が、日本とは大きく違っている。
日本の場合は、子供が成人し、就業しても、親が支払った学費を始めとする一切の金銭に対して、子供の多くは、それを親に返済すると言う考え方はない。親からも貰いっぱなしである。
酷い子供になると、就業年齢に達しても、決まった職業に就いたり、定期的な収入がなく、そればかりか、親の年金のお裾分けで生活をさせてもらっているフリーターまでがいる。定職に就かず、アルバイトを続けることで生計を立てる若者達である。しかしフリーター収入だけではやって行けないので、親の僅かな年金までもを無心する。そして、彼等の多くは、「政治の貧困」を論(あげつら)い、定職に就けないのは政治が悪いからだと嘯(うそぶ)く。
また、日本では、「親の老後の為に、子供が犧牲になることは良くない」という宣伝は、マスコミなどを通じて隅々まで行き渡っているので、親は親で、出来るだけ子供の世話にならないようにと、涙ぐましい努力が強いられる。介護保険などが出て来たのも、この為である。
つまり、「介護保険制度」によって、親は自分の老後に手間が懸(か)かる分だけ、保険が子供の代わりをすると言う訝(おか)しな考え方が蔓延(はびこ)り始めた。そして、これを誰もが訝しいと思わないのである。ごく当たり前の事として受け取っている。
一方、現代の親達、差し詰め「団塊の世代」と言われた戦後生まれの親達の多くは、自分の子供である「団塊の世代ジュニア」の手を、出来るだけ煩(わずら)わさないように、涙ぐましい努力を強いられている。子供に迷惑を懸けないで、老後の長寿を全うしようとしている。自分の長寿の解決の糸口を、子供の手を借りずに、生きる手段を探そうとしている。それは涙ぐましいほど、必死である。
こうした状況を、親の側から見れば、「子供への思いやり」である。逆に子供の側から見れば、実質的な負担の懸かる親孝行をしなくて気軽になる。また内心では、「親孝行」などさらさらなく、親は親で、子は子で、「円熟できない人間」の実態が此処に浮き彫りになる。未熟な社会である。
今日の日本のこうした実情は、欧米では余り見られない。特に、中産階級の大卒以上の子弟には、こうした現象は余り見られない。更に上の、上流階級層に至れば、殆ど皆無となる。
戦後民主主義は、「親に遵(したが)うことは悪である」ということを学校教育の中で教えて来た。それは、かつて太平洋戦争を引き起こした「忠孝」という言葉からの反省でろう。また、天皇制と結びつくことを嫌い、「忠孝一本」という言葉を否定して懸かる風潮が、日本には強い。
忠孝一本という言葉は、戦前・戦中では、日本民族は総(すべ)て天祖の末裔(まつえい)で、皇室はその直系ゆえ、天皇は日本民族の家長であり、従って「忠」と「孝」とは、本来“一本である”とする説に由来する。そして、これが進歩的文化人に言わせると、軍国主義に繋がったと言うのである。
また、その当時の日教組の指導をまともに受けた、「団塊の世代達」はこれを鵜呑みにし、「親孝行を否定する」ことは、正しいことだと考えて来た。自分の親達も、そうした考えで対処して来た。動けなくなると、特別養護老人ホームに送りつけ、親を姥捨山に捨てた。そしてその酬(むく)いが、今度は自らの頭上に降り懸かろうとしている。何と皮肉なことか。
「団塊の世代」の多くは、自らの口で、「親に遵(したが)え」とは言えない。自分のした行為にも問題があるからだ。後ろめたいからだ。一言も言えず、また自分も親を粗末に扱い、今度は愈々(いよいよ)自分の番になった。
そして、親孝行の一言も口に出来ず、失意のうちに、死生観も解決できず、孤独な老人の未来が待ち構えているのが、今日の高齢化社会の日本の実情であり、またこれが戦後民主主義の教育の実態だった。
しかし、これでは「円熟した人間味」がないのだから、精神的には豊かになれないのは当然である。精神的に豊かになれないのであるから、物質的にも豊かになれず、特に、心の異常であるストレスや生活習慣から起こる「ガン発症」などは、当然の酬(むく)いとして、我が身に降り懸かって来るのは必定であろう。ストレスの為にガンが発症する、これこそ「定められた運命」ではなかったか。
人生は、壁に向かってのボール投げであるから、自分が投げたボールは、必ず自分の向かって跳ね返ってくる。自分がやった分だけ、善いことも悪いことも跳ね返って来るのである。ここに因果応報の理(ことわり)がある。
因果応報とは、過去における善悪の業(ごう)に応じて、現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて、未来の果報を生ずることをいう。これでは自分の運命の陰陽を支配する「流れ」は、変える事はできまい。
何しろ、運命の「運」は、「軍隊」が「走る」と書くのである。軍隊が走るのであるから、それは凄まじいことである。ぼやぼやしていては、その走る勢いに巻き込まれて、敢え無く潰えてしまうのである。病気になったり、怪我をしたりのこうした不幸現象が、軍隊の走る勢いに巻き込まれるからであり、下手をすれば、過労死をしたり突然死をするのである。
●配偶者の持つ意味
一方、夫婦間において、「妻をこよなく愛しなさい」と、男女同権の民主教育の中で教えられて来た。これに対し、妻の側も、同じ言葉が夫へ反映するであろう。戦後の男女同権の教育の中では、アメリカ流の恋愛術が日本に輸入され、レディー・ファーストなどの女性を労(いたわ)ると言う考え方も、日本にほぼ定着した。戦前・戦中の男尊女卑は、近頃めっきり見なくなった。
愛には様々な形が込められていると思われる。しかし、愛の基本的な形は、「慈しみ」であり、「思い遣(や)り」であり、如何なる事態になっても、男女の場合は「捨てない」ということである。夫婦は助け合うと言うことである。その為の「良き伴侶」である。
また人間同士においても、人類愛やそれに附随する「誠実さ」が必要である。更には、相手を「裏切らない」という決意も必要であろう。そして最も大事なことは、感情を爆発させたり、暴力で解決しないと言うことである。しかし、現実はどうだろうか。愛の基本形は、果たして履行(りこう)されているであろうか。
至る所で、裏切りが横行し、浮気や本気が乱舞し、憎悪が荒れ狂い、良識のなさが、様々な泥仕合を演じているではないか。そこから起こる憎悪も、信じられないくらい激しいではないか。その最たるものが、「夫婦の不和」などの不幸現象であろう。あるいは夫が妻に振るう暴力であろう。
そして更に不自然なのは、日本では「一夫一婦制」と言う形の結婚(【註】婚姻を意味し、一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした社会的かつ経済的結合で、その間に生れた子供が嫡出子として認められる関係をいい、民法上では、戸籍法に従って届け出た場合に成立する)を、常識的な形として社会に定着させながらも、夫婦の何(いず)れかが、なお「自由恋愛」の名目で、配偶者以外に異性関係を持つと言う「不倫現象」である。人倫に外れ、人道に背くその行為を「不倫の愛」などと称して、現代社会では大いに持て囃(はや)されている。
また、こうした不倫の関係を、当然とする新しい思想が、進歩的文化人や性医学者によって流行の波に乗り、それに不自然性を抱かないまま常識化されつつあることだ。これでは、まさに不幸現象を奨励しているようにも思えるのである。この不幸現象に、未婚の女性も妻子ある男に平気で肉体関係を結び、また、夫や子供のいる妻も、未婚既婚に関わらず、何の後ろめたさも感じる事なく、肉体関係を結ぶ風潮が時代を反映して一般的にも広まっている。
しかし、不倫の実態をよく観察すると、目新しい異性への「性器への関心」があり、これこそ、ご都合主義の最たるもので、実は、自由恋愛とは名ばかりで、薄穢(うす‐きたな)い遣(や)り方であるというのは、誰にでも想像がつこう。更に不倫が不幸現象を招くのは、結婚と言う形式を採った者同士の男女が、誰とでも、自由な性関係を持つと言うことである。これこそ不幸現象の最たるものではないか。この、どこに幸福が存在していると言うのか。
もし、誰とでも自由に性関係を持つのであるのなら、最初から結婚などせずに、同棲すれば良いことである。それこそ、不幸現象を最小限にとどめる配慮と言えよう。ところが、これをせずに、結婚と言う契約に違反して、配偶者以外の異性と性関係を持つのである。フェアーとは言い難いだろう。
したがって、ここに不幸現象が蔓延(はびこ)り、以後、不幸の中に巻き込まれ、運命の陰陽に絡め捕られてしまうのである。
ところが、今日では、こうした結婚の契約に違反して、性関係を持っても、後ろめたさを感じない男女が殖(ふ)え始めている。性欲を充(み)たす当然の権利として、これを高らかに主張する考え方すら横行している。
今日の日本では「親孝行」という文字が消えてしまったように、誰とでも、自由に性関係を持つことを規制した「姦通(かんつう)」という文字も、完全に風化してしまっている。これでは、親を姥捨山(うばすてやま)に置き去りにしても、配偶者が有りながら配偶者以外と性関係を持っても、後ろめたさも、罪の意識の湧(わ)いて来ないのは当然のように思う。しかし、罪の意識は、人間が創るとは言わないが、一方で、間違いなく不幸現象は、運命の陰陽に支配されて、人間側がこれに嵌(はま)って行くのである。
親を姥捨山に捨てても、配偶者がいながら、配偶者以外と性的関係を持っても、これに罪の意識を感じないのは、「自分の欲望に従って生きる」ということを正当化する、ねじれた近代民主主義と言うものが、その根底に作用しているように思える。つまり、日本人の殆どの意識の中に、自由が存在し、平等に振る舞うことが、民主主義のルールに反しないと考えていることである。自由と平等の謳歌(おうか)である。
これを個人の自由表現から評すれば、自分は悪事などしたことがなく、他人だけが道徳的でなく、差別も他人の中にあり、自然破壊も他人の中に存在すると考えている為である。つまり、デモクラシー下では、基本的人権が個々人にあり、人は生れながらにして、自由かつ平等であるという主張に誰もが挑発・煽動(せんどう)されて、これを疑わず、これを縛る道徳は、逆に民主主義の理念に違反していると考えることだ。
こうして「告発する社会風潮」というのが生まれたのも、現代社会ならではのことである。
人間は誰も完全でない。善いこともすれば悪いこともする。それが人間と言うものである。したがって、誰もが癖(くせ)だらけである。男女に限らず、一癖も二癖もある。こうした、一癖も二癖も有りながら、刑法に触れなければ、「何をしてもよい」とか、「人が見ていなければ、少々の不正は許されるだろう」と安易に考えてしまうのが、今日の日本人である。
そして、済んだことは仕方ない、「水に流して」などと甘いことを言うのである。更には、「話し合って」とか、「示談の上で」となる。これでは、まるで不幸の中に、半分片足を突っ込んでいるような結着のつけ方である。
これは歳老いた親の場合も同じだろう。
親に対する子の考え方は、特別な親孝行者でない限り、歳老いた親の面倒見は、時には負担に感じても当然だろう。肢体不自由な親の面倒は厭なものである。
しかし、それでも親を、老人ホームと言う姥捨山に捨ててはならないのである。捨たら、その人の生涯は失敗に終ってしまうからである。親を捨てて、自分の存在理由は成り立たない。
人生の最期は、「有終の美」で飾らなければならないのであるが、歳老いた親を捨てることにより、これは一生一度の大きな汚点となる。そして、この汚点こそ、不幸の最大の逆襲であり、この逆襲により、運命の陰陽に操られ、支配されて、不幸の中にまっ逆さまに墜(お)ちて行く。この末路を辿る者が余りにも多い。高齢化社会こそ、姥捨山を象徴する社会になるであろう。
しかし、これまでの日本では、かつては誰でも理解できたことが、今では、いい年をした大人にも、この事が分からないようだ。また、こうしたことも殆ど語られなくなり、歳老いた親の面倒は「介護保険制度」に任すというのが、昨今の現代人の考えのようだ。
また、こうした現実を、進歩的文化人は、「親の老後を、その子供に背負わせるのは政治の貧困である」と言って一蹴(いっしゅう)する。しかし、これこそ人権を無視した最たる元凶ではないか。
何故ならば、子供もやがて大人になり、結婚して子供を設け、自分も確実に年を取るのである。その時、自分のしたことが、そのまま跳ね返って来ることを忘れてはならないだろう。その時の不幸は、想像に絶するものであることだけは忘れない方がいい。
現象界では、人間の行為と言うのは、善きにつけ悪きにるけ、必ず反映されるようになっているからである。運命転換を真摯(しんし)に考えるならば、この原点から再検討を始めなければならない。
●人の運命は転換出来るか
人間の命(めい)を造るものは天(てん)であるが、その造られた命を立てて実現していく実践者は、人間である。命は「自然の摂理」その「原則」、あるいは「宇宙の玄理(げんり)」から出来ている。これを人間はどうする事も出来ない。必然であるからだ。必然は「因縁(いんねん)」を指す。因縁だから必然であることは、如何ともし難い。
しかし人間は、天によってそれを開発する使命を負わされている。したがって、この開発への使命は、努めて実行し、少しでも善行を行い、広く徳(陰徳)を積んで、最初に願った初心を忘れず遂行し、自分を見失わず、謙虚に邁進(まいしん)すれば、吾(わ)が前に立ち塞(ふさ)がる鬼神(きじん)も道を譲り、如何なる「福」も得られない事はない。
広く世の中を見渡してみると、聡明(そうめい)かつ優秀なる人物は決して少なくない。しかし、その人が如何に優れた才能の持ち主であっても、その才の用い方を知らず、「徳」が修まらず、「人徳」がなければ、その人の仕事は広まるはずがなく、反映されることもなく、ただ虚しい日々を送るだけの人生となってしまう。
したがって虚(むな)しく送る人の生き方は、次第に消極的になり、享楽(きょうらく)に明け暮れるような、つまらない人生を選択してしまうのである。
自分の非を知らなければ、また自分を是(ぜ)として案じてしまい、それで終る。日々新たに生きる事までもを忘れてしまうからである。そしてやがて、自分の運命の陰陽に支配され、そこから抜け出せなくなって、運命に示されたその通りの、虚しい人生を履行(りこう)してしまうのである。人が空虚(くうきょ)を感じるのは、こうした場面に遭遇した時である。そして、指を銜(くわ)え、虚しく潰(つい)えて行くのである。
だが、「先天の気」を「後天の気」に置き換えて、これを転換させる方法はある。人間が先天の気である、「生まれ」や「家柄」に支配されるのは、おおよそ十代半ば頃までである。その頃を過ぎれば、今度は「後天の気」が優勢になる。悪い星の許(もと)に生まれても、歎くことはないのである。
問題は、「運命転換法」を知っているか否かである。
つまり、運命を転換させる法は、まず自分の「不徳」を帳消しにしなければならないことだ。
その為には、自分の生き方を、第一番目に転換させねば、理に合わないだろう。
次に、自分の運命を転換させようと、企(くわだ)てるのであるから、今までの物の見方や、考え方は刷新(さっしん)させる必要があろう。これが出来なければ、運命は変わりようがないのである。
ただ、予(あらかじ)め決定された命(めい/天の定め)に従って、陰徳を積まなければ、やがて運命の陰陽に支配され、それを正確に履行するだけの人生となる。
運命には、凡夫(ぼんぷ)・俗人に働く陰陽の支配がある。日々を虚しく、流されて生きているような人には、この陰陽が大いに働く。喜怒哀楽に流され易いという「日々の虚しさ」だ。この背後には厭世観が横たわっているからである。これに支配されれば、大いに流され易い「運命体質」が出来上がる。
陰陽の支配とは、プラスに動いたり、マイナスに動く「周期」の事である。運命には、波があり、必ず上下に振幅する周期がある。その周期は、運気を顕(あら)わすバロメータである、運命学には大雑把(おおざっぱ)に言って、平運期、順運期、盛運期、衰運期、凶運期の五種類に分けられ、これが各々に並び、生まれた星廻りの運行に従って、次々に繰り返される。そして、凶運期の最後に「運命転換期」が附随されているが、これに気付いて行動を起こす人は少なく。最後の衰運期を迎えたまま、そこで虚しくし潰えて行く人が多い。
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運命周期を顕わす五つの運期と一つの転換期
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平運期
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順運期
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盛運期
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衰運期
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凶運期
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転換期
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また、「転換期」が備わっていることを知らないので、この時期を見逃してしまう人が多いようだ。
何を遣ってもうまく行かず、遣ること為すこと、総て八方塞がりと言う事が、長期に亘っている場合は、既に凶運期から抜け出して「転換期」に入っているということを知るべきであろう。この時期を見逃しては、よき人生を全うする事は出来ない。虚しい人生の連続になってしまう。
したがって、まずこうした循環を知る事であり、各々が、何年周期か、何ヵ月周期かで循環することを知る必要があり、一般人が人生において事を為(な)す場合、最も理想的な形は、平運期に事業の計画を立案し、順運期にこの準備を始め、盛運期にある程度の基礎固をして一時的な成功を納めて、それで築いた財を貯え、衰運期に入ったら拡張や展開をやめ、凶運期に入ったら、足踏みするか、潔(いさぎよ)く事業から手を引く事である。無能な人間は、衰運期から凶運期に掛けて、「下手な賭け将棋を、もう一番もう一番」とすることである。そして、自分の人生を台無しにする。
この時期に、アクションを起こしてはならないのである。
こうした循環が誰しもあり、この陰陽の周期によって支配された人生を送っているのである。世の成功者と言うのは、こうした「運命の循環」と、その「周期の陰陽」の波を直感的に知り、それを繰り返し、実行して成功を納めているのである。
しかし、世の多くの人々は、これを無視したり、これ等の行動と正反対の行動に出て、みすみす失敗を繰り返しているのである。要するに、凡夫・俗人と言うのは、最悪の凶運期に、ばたついて、何かしようと焦るわけである。そこで辛抱する粘りがないわけだ。
また、こうした凶運期に、どうしても幻想の影に惹(ひ)かれてしまって、その方向に流されてしまう人も少なくない。何をしても失敗する人は、こうした星廻りの運命を背負って生まれて来ているのである。そして恐るべきは、この「衰運期」に、異性や同性と色事に耽り、人生を台無しにして無慙(むざん)な死を迎える人も少なくない。ホモからエイズに罹り、カリニ肺炎など諸種の感染症や、カポジ肉腫などの悪性腫瘍を発生させて死んで行く人は、衰運期にばたつき、そこで意気投合して「ホモだち」になった人である。
異性の場合では、良き伴侶(はんりょ)でないから、夫婦になったとしても、いつも喧華が絶えない。仲の悪い夫婦が出来上がるのである。これは見合いであっても、恋愛であっても同じであろう。この時期に惹(ひ)かれ合っては駄目なのである。
夫婦が犬猿の仲である場合、こうした衰運期に遭遇した習気から来る巡り合わせが、仲の悪い者同士を惹(ひ)き付けたのである。相手の肉の色香に騙される事なく、この時期は我慢する時なのである。
少し賢い人なら、この時期は災いを避ける為に、「今は力を貯える時」と、自分に言い聞かせ、この時に勉強したり、実力の蓄積を行うものであるが、この運命の周期を知らない俗人は、どうしても自分勝手に動いてしまい、行き当たりばったりの勝負に出て、事業に失敗して身を滅ぼしたり、交通事故や大怪我や、病気が許(もと)で、無慙(むざん)な最期(さいご)を遂げるものなのである。また、最悪の伴侶に巡り遭うものである。
例えば病気のうち、一種の憑衣現象であるガン疾患について考えてみよう。
これを《予定説》から観(み)ると、ガンになる人は、「ガンになる運命」をもって生まれて来た人である。その為に、ガンに罹(かか)り易い性格を持ち、ガン体質に変貌する食事を好む日常生活を営んでいる。過食したり、食肉や乳製品を多く摂る食生活は、元々その人がカンに斃(たお)れる因縁を背負っているのである。始めから予定されていたことになる。そしてその性格は、紛れもなく「習気」からくるものだ。
《予定説》からすれば、そうした人がガンで死亡する事は、予(あらかじ)め定められていて、その人は、定められた通りの運命を自分で履行している事になる。だから動蛋白を多く摂取し、美食や珍味を好むのである。また、「肉はスタミナのもと」という先入観を持ったまま、そこから解脱できないのである。
ガン疾患が明白になる前は、ガンに罹(かか)らぬように、予防医学である食養法を実践するチャンスもあったであろうが、これも行う事なく、したがって発覚した時は、既に末期で、手の施しようがなく、「余命数週間」で死んでいかなければならない運命を背負った人である。血液のガンなどで死んで行く人は、このタイプが多いようだ。則ち、ガン発症は「血液の汚れ」が元凶になっているからである。
こうして考えて来ると、人間は、人間である以前に、何か持って居たものを、今もなお、持っているという事になる。その持っているものを、自分で気付くか、気付かないかの、ただそれだけの違いである。そして、この「何か持っているもの」とは、直接人間の人生の喜怒哀楽に直結されているものなのである。
●人間の業
では、「何か持っているもの」とは何か。
それは人間の持つ「矛盾」である。人間が各々に、「何か」を持っていて、自分自身で割り切れないもの、解決できないものを持っているのである。これは自分の努力では、如何ともし難いものである。この「矛盾」こそが、「人間の業(ごう)」と言われるモノの正体である。
人間の運命の背後に存在する「人間の業」とは、能々(よくよく)考えてみると、これこそが私たち人間を動かしている正体なのである。これこそが人間の持つ、自分では解決できない「矛盾」だったのである。人間には相矛盾する「二つの鬩(せめ)ぎ合い」がある。互いに対立して争う矛盾が存在するのである。
そして、人間は人生を通して、この矛盾に振り廻され、苦悶(くもん)し、運命の陰陽に惹(ひ)き寄せられて操られ、最後は、運命が定める通りの結末を迎えるのである。
こうして考えてみると、動植物は、自然の摂理である因果律に従うだけだが、人間の場合は、業(ごう)が運命を造り、運命は因果の摂理ならびに因果律に従って展開されるものであるという事が分かる。これこそが《予定説》で、予(あらかじ)め定められた「人間の運命」の実体であると言えよう。なん人も、この決定を覆(くつがえ)したり、否定する事は出来ないのである。
そして「逆因果律」の形をとりながら、「縁」と「因」が結びつき、結果と原因が結びついて、私たちの人生を形作っているのである。人生とは、予(あらかじ)め定められたレールの上を、「縁」と「因」が結びつき、結果と原因が結びついて、それがあたかも輪廻(りんね)のリングとなって、結果が先で、原因が後の、逆因縁が描く、「必然的な運命」の軌跡を描くのである。人生の実体は、此処に存在するのである。
つまり、原因があって結果が起こるのではなく、最初に予め「結果」が定められていて、その結果に応じた原因が派生するのである。これこそ、まさに「逆因果律」である。
例えば、自家用車を転がして高速道路を走り、この順調な流れに乗り、あるトンネルに差し掛かったとしよう。トンネルに侵入しても流れは順調で、更に出口へと向かって進行しているとする。
ところが、一台の乗用車のドライバーに、不心得者がいて、傍視(わきみ)運転で、中央分離帯を超えて対向車と接触し、それを立て直そうとしてハンドルを切り損ね、横転したところに、次々と後続車が衝突する事故が発生したとする。それがもとで、何台かが炎上すれば、忽(たちま)ちトンネルの中は火焔地獄になってしまうだろう。多くの死傷者も続出するであろし、その中に自分も含まれるまも知れない。
結局「自分」と言うのは、自分だけではなく、他人が起因して起こす事故に巻き込まれ、横死(おうし)する場合もあり得るのである。恐らく、トンネルを通過した先に、誰もが輝かしい未来を心に描いていたに違いない。しかし、その未来は、事故発生と共に潰(つい)えてしまうのである。
この事故の喩(たと)えは、一度車に乗り、それが動き出せば、車に乗っている総ての人は、同じ運命共同体の土俵に挙げられて、運命を共にするということなのである。そしてこの中に一人でも、順風満帆に運ぶ運命を疎外する者が一人でもいれば、その共同体は一挙に崩壊するということだ。これは自分の努力や、注意力だけではどうしようもないのである。
どんなに輝かしい未来を描いていても、生きる縁は、此処で絶たれてしまうのである。また、「因」が「縁」を結んで派生する結びつきも、運命学から見れば、こうした横死は、最初から予定されていて、横死の「因」があり、こおん「因」が「縁」に結びついて保菌の「縁」を展開するのであり、「縁」の意味からすれば、自分自身で予め保菌者して生まれて来た事になる。
それが航空機事故だと、更に明確となる。
乗り物の中で、一番事故の確率の少ないのは航空機である。しかし、航空機事故は完全にゼロでないので、必ず世界の何処かで、何週間に一回か、何ヵ月に一回かの確率で大小の事故が起っている。そして飛行機が一度(ひとたび)墜落すれば、その機の搭乗者と乗務員は、殆どが全員死亡である。
しかし問題は、墜落する飛行機に乗り合わせた人達である。事故発生率の少ない、数ある航空機の中から、事故の確率が非常に低いと称される、墜落しなければならない飛行機に、なぜ乗ったかという事である。乗り物の中では、一番安全と称される航空機に、わざわざ搭乗して、何故この機に乗り合わせた者だけが、横死という結果を迎えるかと言う事が問題になる。
墜落事故の遭遇した彼等は、搭乗する以前から、墜落をする因子を持った飛行機を選び、それに搭乗し、その「縁」によって、飛行機事故で無慙(むざん)な最期を遂げたと言う事になる。因子は予(あらかじ)め仕込まれていたことになる。では、「いつ仕込まれた」のか。それは生まれてくる以前に仕込まれたと見るべきであろう。生まれてからではなく、生まれてくる以前の、遥か「昔」にである。これを「習気(じっけ)」というのである。予定されていたのである。
つまり、これが逆因果律と言われる《予定説》である。
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