死の訪れ
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| ▲ 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と詠んだ芭蕉の辞世の句は、その臨終においても、燃え尽きて完全燃焼した跡が窺(うかが)える。しかし、完全燃焼の死に態を迎える為には、人間の持つ貪(どん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒から解放されなければならない。この解放なくして、静寂な安住はあり得ない。死こそ、静寂の地に安住する静かな行為なのである。 |
●死に向かって老いるということ
生きている人間が死に向かって行進していることは、誰も異論を挟む余地がないであろう。
しかし、死についてこれを明確にできる人は随分と少なくなった。死を宗教の専売特許のように考え、現代は死を総べて、宗教の押し付けてしまっている観が強い。そして現代人は、死と言うものを何処かに置き忘れてしまったような観がある。
世の中は高齢化の時代であり、その大半を65歳以上の高齢者で覆い尽くそうとしている。しかし、高齢者達も、死を明確にさせないまま、生きている。死を自分とは無関係に考えている観が余りにも強い。
多くの日本人は先の大戦後、死について余り考えなくなってしまった。生きることだけを前提において、死は自分とは無関係であるというような考え方に大半の人が囚(とら)われている。
しかし、人は死んでいる。世界各地には紛争の火種があり、そこでは民族問題や宗教問題が尾を引いて多数の人が殺されると言う現実がある。そして、一見、戦争や内紛とは無関係に思える日本でも、「人が殺される」という実情があり、最早、戦争や内紛は遠い国の花火大会ではなくなろうとしている。これらの不幸現象は対岸の火事ではないのである。この火の粉が、いつ、日本に降り注がないとも限らない。現代人は一見平和に見える仮の安定の上で、生活することを余儀無くされているのである。
ところが、現代人の「死についての思考」の中には、自動車事故や航空機事故の遭わない限り、多くの人は同じ運命を辿ると信じているようだ。例えば、夫婦の場合、齢を取っても、特別な事故や事件に巻き込まれない場合、同じ運命を辿ると信じている。しかし、現実には齢を取って同じ運命を辿るどころか、三十代や四十代で、死別を余儀無くする夫婦もいる。
仮にそうした夫婦にあって、その夫婦に子供があったとしても、夫婦の死別後の夫を失ったり、妻を失ったりした後に訪れる喪失感は、決して子供では埋め合わせがきかないだろう。子供が小さな内はともかく、成人すれば、やがて親許(おやもと)から離れて別居し、親子関係は日常生活では存在しなくなって行く現実に直面しなければならなくなる。この意味に於て、親子関係と夫婦関係は全く違う次元のものであると言う事が分かるであろう。
それはある時期から、夫婦でしか共有できない時間と体験を共に過ごして来たからである。同じ時代を、同じ時間の長さを持って、共有して来た男女が人間として経験したここに、実は夫婦関係の重要なつながりがあるのである。
しかし、この関係に死と言うものが訪れる。人類の歴史の中には、死が暴力として割り込んで来る。一見平和のように見える現代においても、仮に戦争や犯罪の暴力がなくなったとしても、夫婦間における死別という問題だけは絶対に解決できない事柄である。
それは人間が、「死に行く運命にある」ということである。生きとし生きるものの「性(さが)」を誰もが背負っていると言う現実である。
死んだ者は、再び生き返ることはない。「元へ戻らないという現象」は、人間が生きている日常生活の中で最大の悲劇である。病気をや怪我で、命を失うということと、失わずにいるということとは、両者は根本的に違う。手足を骨折して怪我をした場合は、約数ヵ月ほどで完治するであろう。ところが怪我の程度が大怪我で、命に関わる重傷を負った場合、へたをすれば死ぬであろうし、運良く助かっても後遺症が残ったり、手足を切断するような大怪我の場合は、仮に命を取り留めたとしても、その人にとっては大きな損失となることは明らかである。
また、同じ巨大台風に遭遇して、ある家は屋根瓦が飛ばされると言う被害を受け、その家が修復工事をしなければならないとして、その工事に懸(か)かる費用は大きな痛手であるかも知れないが、それでも復元は可能である。しかし、もう一方のある家は、山の裾野(すその)に建っていたために大暴風雨と共に倒壊し、更に山崩れで土石流などの濁流で押しながされてしまえば、その一家の家族のアルバムは総て消えることになる。
この場合、一方は被害を受けても修復可能で、もう一方は修復不可能という状態に置かれるのであるが、これらの何れも、未来永劫の存在が約束されたと言う事にはならない。
人間が生きると言う、この人間現象において、未来永劫(みらいえいごう)ということはあり得ないのである。また、人間自身、未来永劫という体験は不可能である。更には、地球の終焉(しゅうえん)という最後の終末にも、現代人は立ち会えないのだから、「永遠」という状態を経験し、あるいは体験することはできないのである。そして、地上で起こる現象の中で、唯一絶対視できるのは、地球が存続し続ける限り、この地上では「人間の死」というのは絶対ということである。
生まれたものは、死んで行くという、これだけが絶対的な事実として存続を続けるのである。
●死生の解決
死は人間の存在して行く上で、覆されない事実である。死と言う現象は確率的にも100%起こりうる現象である。したがって、これを明確にし、また、死ぬと言う現象に耐え、その為には心の準備を整えておかなければならない。
「死ぬ」という事実に耐え忍ぶ為には、まず、心の準備が必要である。つまり「自分の死を思う」ということが大事であり、それを一日たりとも忘れてはならないということだ。つまり、年齢の老若を問わず、「死ぬ」という覚悟は誰にでも必要なのである。死を覚悟する為には、ただ漠然と生きていても解決には繋がらないだろう。
その為には、まず、我が身にもいつかは確実に死が訪れるということを、知覚し、あるいは感得することである。これを先延ばしにして、遠い未来のことと考えてはならない。一寸先は闇(やみ)であり、自分の人生の一秒先にどういうアクシデントが転がっているとも限らない。
それは命を失うようなアクシデントでなくとも、ある日突然に視力を失ったり聴力を失ったり、あるいは手足を失ったりのアクシデントに見舞われることがある。こうした場合、100%の修復は不可能であろうが、かなりのところまで修復は可能だろう。しかし、同時にこのアクシデントを機に、過酷(かこく)な運命を背負うわけで、五体満足な人に比べれば、ある程度の不自由を強いられることは事実である。
ただ、こうした現実に直面した場合、大事なことは、「過ぎたことを思い悩まない」ことであろう。
仏道には『碧巌録(へきがんろく)』(【註】有名な仏書であり、宋の圜悟克勤(えんご‐こくごん)が、雪竇重顕(せつちよう‐じゆうけん)の選んだ百則の頌古じゆこに垂示・評唱・著語(じやくご)を加えたもの)の中に、「日面仏月面仏(にちめんぶつ‐げつめんぶつ)」の話が出て来る。
「日面仏」とは一千八百歳の寿命を持つ仏であり、「月面仏」とは一日一夜限りの短命の仏である。この両者の仏を想えば、確かに寿命という点において相違があり、生きた時間の長さは雲泥の差があることは誰にでも察しがつこうが、しかし、迷いが解けて真理を会得することが出来れば、「生きた歳」には余り関係がないように思える。
それは、それぞれに寿命と言うものがあり、月面仏は一日一夜限りの寿命であり、この一日一夜限りの寿命を全うすれば、「よく生きた」ことになり、長寿を満願したことになるであろう。一方、日面仏は一千八百歳の寿命を持ちながら、千年で死んだら短命に終ったことになる。
しかし、仏というのは悟りを開いた、死生を超越した存在であるから、本来は生も死も執着しないものなのである。ただ、日々をたんたんと、爽やかに過ごしているのである。「悟りを開いた」といっても、悟り後に顕われる現象は、何もそれを機に特別な生き方があるわけでなく、生きる時には精一杯生き、死の時には死ぬことを全うすればよいのである。生死について、何も藻掻き苦しむことはないのである。
アクシデントに見舞われれば、そのアクシデントの中で藻掻き苦しめばよいことであり、大病を煩(わずら)えば、大病の中でめい一杯大病と戦い、苦しみにある時は苦しみの中でのたうち廻ればようのである。それらに囚われて思い悩む必要なないのである。自分の前に転がり出た現実を、現実のままに受け止め、あるがままに生きればよいのである。これこそが、生死を超越する唯一の解決法なのである。
●死という現象
生きているものは、死ななければならない。生あるものは、死ぬのが自然なのである。しかし、この明白な事実を、多くの人は忘れている。あるいは、忘れたような錯覚に陥っている。
では、なぜ忘れるのか。あるいは忘れたような錯覚を抱くのか。
人間の深層心理の中には、自分は他人と違って、「別格である」と言う自他離別の意識の働きがあるからである。自分だけは、いつまでも生き続けると言う錯覚がある。長い間、重病で苦しんでいたり、精神的に病んでいたりすれば別であろうが、普段からある程度、健康状態にあり、また病気もすることも殆どなく、強健な体力を持っている人は、自分自身の死について、それを深刻に考えることはない。したがって、死の問題について、触れようとしないし、触れまいとする。死の現実を、何処かに置き忘れているのである。その置き忘れが、「人間は死なない」「自分は死なない」という妄想を作り上げ、もの妄想を妄信して生きているのである。
ここに「自分だけは」という自他離別の想念が働くのである。
しかし、人間である以上、死なずに済むと言うことはない。生きているからこそ、死は絶対に訪れるのである。何人(なんびと)も、生きながらにして、死を約束されているのである。では、いつから約束されたのか。
それは、この世に生まれ墜(お)ちた日からである。こうして、生まれた以上、必ず死ぬのが人間である。死の現実は、生きているものに、生きている結果として、必然的にやって来るのが死であり、死は生の終局である。その終局は、或る日、偶然に遣(や)ってくるものではなく、生まれ墜ち、生きつつあることが、則(すなわ)ち、死なのである。生きる事は、死に向かっての行進なのである。
つまり、人間は永遠の存在的なものではなく、非実在界の非存在的な生き物と言えよう。それは同時に肉体の限界を顕わしている。
人間が死ぬ場合、病気や災害や事故で死ななくても、老衰で死ななければならない。どんなに長生きし、健康な老後を送っていても、やがては死が訪れ、老衰で死ぬ。肉体には限界があるからだ。
生きると言う生命活動は、肉体によって形作られ、食物を取り込んで、肉体を維持していくのであるが、長い間の生活習慣は、肉体を丈夫にも、あるいは病弱にもする。そして、長い間、使い古せば、やがては「生命の火」が衰え、衰弱に向かうのである。こうした衰弱により、命の火が衰えれば、肉体を維持する力が無くなり、死ぬのである。
人間には、三魂七魄(さんこん‐ななはく)が存在している。
「三魂」とは、西洋的な考え方ですれば、高度な魂が「全霊」を生み出し、実体を知る魂が“知性霊”を生み、その混合した魂が“宇宙霊”を生じさせた。また、霊魂の存在による宇宙観が組み立てられ、宇宙の魂から「力」なるものが生まれたとするのが西洋式思考で有り、知の魂が神を生んだと説かれている。
一方、東洋では、魂は陽の精気であり、この陽の精気が男性原理を派生させたと考えるのである。奇数の「男性数」に魂の拠(よ)り所を求め、三丹田(上丹田・中丹田・下丹田)を定めて、これを「三魂」としたのである。
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▲ 人間の本体とされる神体域。人間は気道を本体として、それを外皮的に覆っているのが霊体や幽体であり、その最外郭(さいがいかく)に極めて粗い、肉体の波動を以て、本体を加えた、四重構造で出来上がっているものが「人間」と言われるものである。
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「魂は天心にありて陽なり。軽清の気なり。これ太虚より得来。元始と形を同じくする。魂は生を好む」として、人間にあっても、変わらぬ宇宙的な光を放ち、生命の根本と観(かん)じたのである。そして男性原理と女性原理の結合により、「一(いつ)」なる真実の魂が、子宮に入り、胎児となる時に「魂(こん)」と「魄(はく)」に分れるとするのである。
「七魄」は陰であるにも関わらず、“七魄”と陽の数字を含み、七情の念を持つ。
この念が、喜・怒・憂・思・悲・恐・欲の七つの情念である。
魄とは、魂の基本的霊に比べて、意識霊的であり、人間の感情とされる。そしてこの根源霊は「静」であり、男性原理の「動」に対峙(たいじ)している。セックスなどの煩悩は、この「魄」の仕業であり、“七魄”が静より動ずる時、その衝動が起り、性交に及ぶ。
また、この魄は、人間が生まれ墜ちて以来、休む事なく動き詰めで、動くが故に肉体を疲れさせ、疲弊させるばかりでなく、肉体そのものを駄目にしていく。この、極度の駄目になった状態を「死」というのである。
もともと根源霊は、清くて、軽やかで、陰の形体であるが、肉体が駄目になると、その死骸から離れ、根源たる天へと飛び去ると謂(い)うのが陰陽道(おんみょうどう)の生死説である。つまり、人体には、生と死が同時に内包され、これが種々の感情に従い行動していると謂う事なのである。
こうした事実は、人間は生まれた時から、死と背中合せになって生きていると言ってもよい。ここに非実在の現実がある。
人間はこの世に生まれでて、幼年時代、少年少女時代、青年時代、壮年時代と成長し、盛んな生命力で働き、いかにも強健な肉体を思わせるが、やがては、その肉体も張りを失い、生命力は減退の方向へと向かう。そして老衰が訪れ、生きると言う抵抗力を失いつつ、死に向かって運命が廻りはじめるのである。
老衰が訪れ、生を担うだけの力が無くなるのであるから、死を厭(いや)がったり、逃げたりするのは自然でない。生と言う、生きることへの抵抗力を使い果たして、死ぬのは当然の事で、生きる力が失われているのに、まだ生きたいと願うことの方が、よほど悲惨である。裏を返せば、肉体が酷使されて駄目になっているにも関わらず、こうした疲弊(ひへい)した肉体を更に引き摺り、生きると謂う事の方が残酷なのである。
したがって、死とは、何十年かの人生を生き、その生きた証(あかし)としての報償(ほうしょう)なのである。生きるだけ生き、それ以上の生命活動が不可能であるとする時、今まで生き続けて来た肉体には、休息が必要である。生きる事に疲れ果てた肉体には、死があるが故に救われるのである。
苦難に満ちた人生、辻褄(つじつま)の合わぬ人生、平等でない人生、不公平な人生、こうした不満の多い、苦汁に満ちた生を戦い続け、生きていけるのも、生が死によって結末を告げる事が出来るから、生きていけるのである。死があるからこそ、こうした人生を生きていけるのである。
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| ▲方術師・徐福に不老長寿の妙薬を探索に奔らせた秦の始皇帝。 |
しかし一方で、使い古し、疲弊(ひへい)した肉体を何とか長もちさせ、「死にたくない」という思いを募らせ、不死の妙薬を求めて奔走(ほんそう)した人間の歴史がある。死に対し、昂然(こうぜん)と背を向け、まだ生きていたいと言う矛盾は、人間的であると言えばそれ迄だが、不死を求めても、やはり死ぬものは死ぬのである。
人間の心の中には、死に対する恐れ、一人で死んで行く不安、こうしたものが、死の事について触れさせまいとし、背を向ける態度を取らせ、他人の死は別にしても、自分の死はまだ遠い先の事だと高を括(くく)るのである。
しかし、臭いものに蓋(ふた)をするような態度をとっても、やはり死はやって来るのである。やって来る死に対して、避けられれば避けたいと願うが、避けられなければ、それだけに覚悟がいる。死をどのように受け止めるか、「死の現象」について知らねばならぬ探究が起るのである。
しかし、死について探究し、死の現象を知ったからと言って、人間が死なないで済むことにはならない。そして、死を現実として、自分で経験する時には、もう自分は死んでいるのである。それを死の間際(まぎわ)の自分に納得させようとしても、死に直面しては無理であり、死に行く自分に、死を理解ことは不可能なのである。だからこそ、まだ長らく、生き長らえるとしても、死がどう言うものか、知っておくことは無駄ではあるまい。
●死は、何処で決定されるのか
肉体の死を明らかにするには、「死の現象」と言うものを把握しておかなければならない。
死の訪れは、その第一の現象が、自意識の消滅である。肉体的に言えば、神経索(しんけいさく)が解け離れ、この状態は、例えば炭素と酸素の結合がなくなり、火の消えるような状態である。つまり、生へのエネルギの根源である「火」の消滅である。
火の消滅が起ると、次に心臓は睡眠時のようになり、脳髄に送る血液中に精錬した養分を送れなくなり、その後、2〜3分で神経索(しんけいさく)は窒息し、飢餓(きが)に陥る。更にその後、脳髄の分解が起る。この分解はバクテリアの活動によって始まり、固定した化合物へと変化し、やがては各々の元素に復帰するのである。
こうした状態が外側に顕(あら)われた時、人間の肉体は生活反応を停止するのである。人体の生活体を構成している要素は、体細胞であるから、これ等の細胞は、その後、細胞死へと向かう。これは細胞総(すべ)てが細胞機能を停止するのではなく、生命活動の中枢(ちゅうすう)を担っていた心臓が停止し、その結果として、組織細胞が機能を停止するのである。この細胞の機能停止をもって、医学的には「死」と断定するのである。
ところが、心臓の鼓動が止んだからといって、これが100%死亡したとは断定できないのである。心臓の鼓動が止んでも、蘇生(そせい)する例が少なくないからだ。こういう場合は仮死となり、仮死は蘇生する確率が高いからだ。
したがって、死の兆候を見つけ出さなければならなくなる。死の兆候は、知覚の喪失によって顕われる。知覚は、感覚細胞の興奮を感覚中枢に伝達する神経であるが、これが喪失する場合に顕われる。しかし、知覚の喪失は失神卒倒の場合にも起るので、知覚神経が失われても、これだけで死と断定する事は出来ない。
しかし、死とは無感覚状態である。
死は無感覚状態に至り、その無感覚は全体に及ぶ。したがって、死者は激しい刺戟(しげき)に対しても反応することがない。聴覚も嗅覚も肉体を通じて感じとることは出来ないし、眼球も張力が失われ、その瞳孔(どうこう)に映るものは何も感じ取ることができない。更には、虹彩(こうさい)が覆(おお)い隠される。
虹彩は、眼球の角膜と水晶体との間にあり、中央に瞳孔をもつ円盤状の薄膜である。ここは、瞳孔を囲む部分にある括約筋(かつやくきん)と放射状にならぶ筋肉とによって、瞳孔の開閉を行い、眼球内に入る光の量を調節する役目を持つが、こうした生前の動きは全く見られなくなり、やがて瞳孔は死の刹那(せつな)に正常な大きさに復帰し、また、眼球筋は張力を失う。
躰は微動だにせず、下顎(したあご)は落ちる。しかし、これでもまだ、死を決定する材料にならない。ただ、この時に死後硬直の前に起る状態に至り、躰にこわばりを見せることがある。
死ぬと躰全体の体温が下がり、冷たくなるが、これは自分で発熱できなくなった為であり、周囲の温度に等しくなるまで、体温の低下が行われる。こうした冷却された状態を「屍冷(しれい)」という。
屍冷には、外気の温度と等しくなる為に、約24時間掛かる。しかし、死体が冷却を阻害する暖かい寝床や、衣服などを着ている場合は、それ以上に時間が掛かる。また、老人と若者は、老人の方が冷却する時間は早く、若者の方が冷却される時間が長い。更に男性と女性では、女性の方が皮下脂肪が厚い為、冷却されるまでの時間が長く掛かる。
斬殺などにより、出血多量で死ぬ場合は、一見、冷却が早いように思われるが、むしろ一般の死に比べて、冷却までの時間が掛かる。血抜き状態となり、血液の腐敗が遅く、肉だけの状態になるからだ。
窒息死に於ては、屍冷は明らかに死の兆候であるが、稀(まれ)に生前の体温より高まることがある。
まず、屍冷が始まると、貌(かお)の筋肉が畸形に萎縮する。あるいは歪められ、苦痛に満ちた貌になる場合がある。臨終際の、死の苦痛により、こうした場合、貌に苦痛を漂わせる。この時に判断は、医学上では、何らかの苦痛に反応したわけではないと断定しているが、しかし貌の表情は、明らかに大病を抱えて死んだ場合や、事故死などで苦痛を抱えて死んだ場合に多く顕われ、死相が顕われていることは明白である。
つまり、現代医学では「死相は現われない」としているが、実際には臨終間際に、「死の恐怖」に直面するのであるから、その恐怖に対して心因性の心の動揺は、表皮の肉体に克明に伝わるはずである。心の動揺が、貌に顕われても不思議ではなく、末期ガンなどの抗癌剤投与で断末魔のしに直面した場合、やはりその苦痛は表皮の貌に顕われるものであるから、当然それは苦悩に満ちた断末魔を迎えることになり、その恐怖は死んで行く時の恐怖であり、「死」イコール「恐怖」であるから、死に戦(おのの)く死相は心因反応として、どうしても顕われて来るのである。
こうした場合に顕われる死相として、最も多いとされているのが、貌に顕われる死相であり、こうしたものが出て来た場合は、不成仏とされている。
その不成仏を顕わす「死相」に、貌の正中線にハッキリと顕われる「死相の黒い筋」というものがある。人間は、何事に関しても心理的には「心因反応(psychogene Reaktion)」を起こしているということである。
この心因反応は、欲求不満や葛藤(かっとう)などの心理的ならびに精神的原因によって起こる精神障害であり、この強弱は人によって各々の格差がある。そしてこうしたものが病的に嵩(こう)じれば、怨念(おんねん)を齎(もたら)すことになる。神経症および心因性精神病を含む精神障害は、欲望の裏側に隠れ潜む、妬みや恨みであり、それは「堆積する」という現象を起こして心の中に降り積もって来る。つまり、これが「怨恨(えんこん)」というものである。恨みが堆積すると、それが怨念となり、怨念の極みが精神異常である。
現代という時代は、この怨念による精神異常者が急速に増加しているのである。それが現代特有の、金銭欲、食欲、性欲、愛情欲、支配欲、名誉欲などに回帰されるだろう。何れも溺れる欲であり、また、それらが満足に享受できない場合、精神には何等かの心因反応が顕われる。
精神状態において、それが正常であるか、異常であるか、これは本人に自覚症状があるか否かということは余り問題ではない。また、知ってて遣(や)っているのか、知らずに遣っているのかも余り問題ではない。
問題なのは、精神異常者の反語として、精神健常者というものが存在し、異常か健常かのこの一点に尽きるのである。そして、精神を異常か健常に分けるとしたら、その根拠は、その人の行動であり、行為であり、かつ動機であろう。つまり、行動ならびに行為にその動機らしい動機が存在しない場合、動機なき犯行を犯した者は、精神異常者と言えるのである。現代社会はこの手の犯罪が多くなって来ており、ねじれた精神が種々の事件や事故を起こしている。
こうした「ねじれた精神状態」は、一種に現代ならではの「特異な死相」を作り出すことも少なくないようだ。
例えば、人間が生まれる出産というのは、臨終状態を同じであると考えることがdヶいる。死の刹那(せつな)が、また、生まれる刹那でもあるのだ。この世に生まれ墜ち、最初の「オギャー」と泣いて吐気(とき)を吐き、次に息を吹い込むこの一瞬の吸気(きゅうき)に、臨終と裏返しの現象を検(み)るのである。
繰り返すが、「出産は臨終と同じ」である。換言すればその反語は、「臨終は出産と同じ」ということにもなる。子供を生む妊婦の中には、子供を産み落として、安らかな貌をした人もいるし、また、生みの苦しみで苦痛に歪んだ貌をした人もいる。
これを逆から見れば、死んで行く時の臨終の貌にも、安らかな貌と苦しんだ貌がある。また、この刹那の教養の差も明確であろう。
不倫をして、不義の子を生んだり、不義の子を堕胎する場合の苦しみは、一見麻酔に弱められてその知覚が少なかったとしても、そこに起こりうる現象は、明らかに断末魔が起こっている。したがって、断末魔と死相は密接な関係があるといわねばならない。
何しろ、「人の相」というものは、「生」は貌から始まり、「死」は貌で終っているからである。これは動かすことの出来ない現象人間界の真理である。安らかであるか、苦痛に満ちているかは、まず、貌が決定する事柄である。
したがって、貌には「出産と臨終が同じ」であるから、現象界の現象として、「死相」が漂うことになる。つまり、「正中線上」の死相の現れは克明である。額(ひたい)、印堂(いんどう)、鼻筋、人中の溝の線上には死相が顕われ易い。例えば印堂上に、青黒い筋が顕われると、これは死霊の「唸(ねん)」に冒されていることを顕わす。また、呪われている場合は、印堂上に二本の筋が顕われる。
特に顕われ易いのは、額から印堂に掛けての部分であるが、死期が近まった人は鼻筋から人中に掛けて顕われる。
例えば、交通事故で死ぬ数時間前などには、こうした死相が顕われ易く、かつて著者は、この手の死相が顕われて居た人に、「祈り」をもって物事に対処し、悪想念の捨てて、物事に対しての執着心を無くすように奨めたところ、この人は笑いながら「馬鹿馬鹿しい」の一言を残して、その数時間後に死なれてしまった経験を持っている。
死相は確かに顕われ、三次元唯物論では片付けることの出来ない多くの問題を残している。特に、眉間に顕われる「懸針紋(けんしんもん)」という督脈(とくみゃく)上の正中線に顕われる死相は、霊学的に見て、死霊ならびに生霊の「恨み」であることが確認されている。恨まれたり、妬まれたりしている人は、年齢に関係なく、此処に懸針紋が顕われることが多いようだ。
そして懸針紋が、死と直結するような一大事に至った時、その猛威は「断末魔の状態」を巻き起こすのである。
呼吸は、死と共に停止する。だが、その停止は死を裏付ける根拠とならない。死後には、鉛色の小さな斑点(はんてん)が顕われる。これは血管から細胞組織に血液が流出することによって生ずるもので、殆どの死に見る事ができる。また、皮膚全体に変色が顕われ、こうしたものを「死相」と表現しているが、それだけでは100%の死を断定する材料とはならない。
ただ、死が訪れた兆候として、以上を挙げることが出来、やがて訪れる死後硬直への前兆となる。
忘れてはならないことは、臨終にも各々のランクがあり、安らかであったか、苦悩に満ちていたかで、成仏したか不成仏で終ったかの、差が生じるようだ。
●臨終を悪くする「こだわり」の思考
現代人の悪癖に一つに、「こだわる」ことが、何でもいいように考える思考がある。またこうした思考がマスコミなどを通じて、広く流行している現象がある。
例えば、「こだわりの○○」などと云うと、その主張が素晴らしいもののように受け止めてしまう愚かしい考え方がある。これは「固執」であり、自我(じが)を剥(む)き出しにした「愚かさ」を顕わしている。
例えば、「こだわりの料理人」などと表すると、その料理人は如何にも料理の達人のように見えて、素晴らしい料理を作る才能の持ち主と思い込んでしまうが、自称「こだわりの料理人」が作った料理など、食べられたものではない。
こだわる人間の正体は「自我の剥き出し」であり、こだわった人間が作った料理は、霊的に見て、傲慢であり、かつ驕慢である。したがって、見かけ倒しであり、内容は実にお粗末である。こうした料理を有り難がるのは、本当の季節の食材の味を知らない味音痴だけである。
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| ▲こだわりの料理人が作った、味音痴の人の為の特別料理。そこには季節ごとの食材の本当の味を殺し、見せ掛けと、傲慢と、驕慢が漂っている。飽食の時代、多くの日本人はこうした「偽料理」に騙されて本当の味覚を失っている。 |
まず、人間は「こだわる」ことから敗報されなければならないのである。こだわれば自我を頑迷にし、何事かに執着を植え付ける心が生まれる。こうなれば、例えば快晴の天気は清々しいが、曇りや雨になると、鬱陶(うっとう)しくてかなわないというような、自他を離別する想念が生まれる。
「こだわり」から離れれば、爽やかに晴れた日ばかりではなく、曇っていれば曇っている日の風情を楽しみ、雨が降れば雨が降ったで、雨音を聴く趣があり、更に晴れれば晴れたで、喜ぶと言う味わいを感じることで、自我を離れ、「こだわり」を離れてみれば、毎日毎日が、良くもなく、悪くもないと云った、安らぎの日暮しになるのである。つまり、「日々是(こ)れ好日」なのである。
本当の意味での「日々是(こ)れ好日」とは、「今日は天気がよくて結構だ」とか、「今日は事故や事件が何事もなく結構だ」という、俗世で云う「好日」ではないのである。毎日毎日が「恵まれている」ことを云うのではない。
これでは「よい日だけが好日」になり、雨が降ったり、病気をになったり、災害に見舞われたり、事故や事件に遭遇すると、厭(いや)になってしまうからである。また「こだわり」から弾き出した凶日に嵌まると、厭になるばかりでなく、実際に凶事が起こればそのショックから立ち直れなくなり、日の吉凶を選(よ)り好みする迷信に取り憑かれてしまう。
いい日と悪い日を分類し、また九星早見表に偏ったり、大安と仏滅を選(よ)り好みするようになると、永遠に幸せと云う日は遣(や)ってこない。人の一生は、「今日の連続」であることを忘れてはならない。今日と云う日は、一生に二日とない「幸福の日」なのである。
一方、何事かにこだわり、隙を作れば、どんな危険が襲うかも知れない最悪の厄日となるのである。
「やすらぎ」とは、「こだわり」から離れて、「日々是(こ)れ好日」を心から感得することなのである。本当の「日々是れ好日」が感得出来れば、死ぬその日も、まさに好日であるに違いない。
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