尚道館陵武学舎・内弟子問答集
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▲尚道館の道場正面神前の神棚ならびに神殿。
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人生を生きると言うことは、その人生の中に、今の「生」も死ぬという事である。そして今の「生」が死ねば、それでもう何もなくなって、その後、何も生まれて来ないと思っている人が、現代人には多いのではあるまいか。
しかし、「今」という現実を考えてみれば、今回なぜ、あなたは生まれて来たのだろうか。それは、初めて生まれて来たのだろうか。然(しか)も、なぜ他の人ではなく、あなたに生まれて来たのだろうか。
ここに「生まれること」の繰り返しがある。しかしそれでも、いつかは人類は絶滅することであろうし、親類全体がこの世界から消え失せれば、その後は生まれ変わることもあるまい。それは生まれ変わって来たら、未来に生まれて来るはずだと言う固定観念があるからだ。
だが、こうした思考が通じるのは、宇宙全体に同じ時間が流れていて、その流れの中で、他も一斉に動いているという観念が存在しているから、自分が死んだ後も動いているのだ、未来が存在しているのだと言う思考が存在しているからである。
これは明らかに、知性が生んだ顛倒(てんとう)的妄想(もうそう)であり、この妄想が存在するが故に、「生存」の世界が存在しているのである。
人間の観念の中で時間を形作るものは、過去の経験に基づく、未来像とを結ぶ「知性」という産物の中に存在している。したがって「生存」を離れれば、時間は空間は存在しなくなる。
現代人は誰彼もなく、「強欲」に染まった日常を繰り返している。色や欲にボケることが人生だと思い込んでいる。そして現在の自分の価値観からすれば、豊であること、金持ちであること、またその環境下の生活が、便利で快適であることを何処までも追求する物質文明至上主義の生き方を模索(もさく)している。
しかし、この模索の裏には、人類滅亡の暗示は封印されているのだ。恐らく、これに気付いている人は、ほんのひと握りの人であろう。
現代人は、どんなに藻掻(もが)いても、繰り返し生まれ変わる「輪廻(りんね)の輪」から逃れられない。つまり、分かり易く言えば、「夏になれば冬の寒さが恋しくなり、冬になれば夏の暑さが恋しくなる」そんな生活を日常の時空の中に取り入れて、その環境下から逃れることができないのである。そして、これに中々終止符が打てずに、あくなき格闘を繰り返している。
しかし、人生とは「繰り返しの日常の中で、愚かにもその繰り返しを更に次々に行う」ことではない。これに見切りを付け、「中庸(ちゅうよう)を実践する前向きの態度」こそ、人生にかせられた最大の課題なのである。そしてこのテーマに向かって邁進する姿を「修行」と称したのである。
また、それを人々に伝達することも、修行の一部であった。しかし、勿論これらを強制はしない。
この『内弟子問答集』は、もともと尚道館のHPに掲載されていたものである。これを新たに整理し、改正した形で問答集として掲載した次第である。 |
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▲現宗家・曽川和翁先生の御信刀・津田越前守助廣。
【註】草書銘を切るを「丸津田」という。
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第一章 人生教訓問答集
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問答 1
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内弟子になると、何を教えてもらえるのでしょうか。また、貴流派では修行年数が、たったの2年ですが、2年で一体どれだけのことが学べるのでしょうか。
本来、修行は10年、20年とかかるものですが、貴流派の修行年数は余りにも短過ぎ、殆ど教えてもらうものがないと思うのですが。 |
問題は、「何を教えて貰うか」ではなく、何を自分で「掴(つか)み取るか」である。「教えてもらえるのか」と謂った、他力本願の依頼型では、何一つ掴むものはないであろう。
修行と謂(い)うのは、自分が口を開けて居たら、そこに師匠がやって来て、自分の口に何かを詰め込んでくれると謂うものではない。自分で見つけ、探し出し、自分の力で掴むものである。他人を当てにし、依頼心ばかりが旺盛では、何一つ掴み取ることはできない。
そして、自力更生(じりき‐こうせい/他の力を頼まず、全く自分の力によって生活を改めて行くこと)で、自前主義(じまえ‐しゅぎ/他のスポンサーなどに頼まず、また他に魂も売らず、更には金銭の奴隸にも成り下がらず、費用を自分で負担すること)が大事である。他人を当てにし、そこからの利益を求めないことだ。
さて、修行の基本は「自らが掴み取る」ということだ。
現代は若者を含め、現代人の老若男女の多くは怠けたがっている者もいるが、その一方で厳しく訓練され、真剣に自分自身と向き合い、そこで真摯(しんし)な人生を模索している者もいる。
「内弟子」と言う、通いの弟子とは一味も二味も違う世界に飛び込み、厳しく訓練され、行儀作法も根本からやり直し、厳しさに耐えて「下積み生活」を重ね、徹底的に“しごかれる”のを好むのは、その証拠である。
この世に生を享(う)け、信念を持った人達は、厳しさを求めると同時に、古来より伝統として培われた内弟子制度の中で、人生の模索を渇望(かつぼう)しているのだ。特に今日の現代人を見るにつけ、躰(からだ)つきは大人になっていても、中身の思考能力が子供であり、あまりにも腰砕けの者が多過ぎるからだ。
そして真摯に人生を求道(ぐどう)している者は、自ら求めて「人間と言うものの誇り」が欲しいのである。
自分は娑婆(しゃば)での、全く違う厳しさに耐え、「下積み生活」を2年間積み、その中から一般の娑婆の人間とは異なる、深い何かを得手いると言う自信は、まさに求道者にとって、崇高(すうこう)な誇りを得ていると言う自負が生まれるのである。
古人が培い、一応の厳しい躾に耐えられないのは、知能も気力も劣った人間ばかりである。そうした者は、人生に挫折を感じて虚しく生きる以外ない。
人間の尊厳を遵守(じゅんしゅ)し、品位ある生き方を模索するには、古人の培った精神性の「気風」を自らに受け入れればいいのである。
それは「短い」とか、「長い」とかの問題ではなく、本当の将来性を感じる者だけが理解できる「教え」なのだ。信念をもって、自らの誇りを根底から恢復(かいふく)したい者には、技術的な上達の有無は抜きにして、「真人間になれるチャンス」が、わが流の内弟子制度にあると言ってもよい。
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▲剃髪。そして寒中の水行。内弟子の第一日目は、此処から始まる。
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問答 2
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人は、なぜ修行するのでしょうか。また、この時代に人は、どう生きればよいのでしょうか。 |
「風雪に堪(た)える」と言う、古くからの言葉がある。
風雪とは、きびしい苦難を現す。極限まで堪え、風と共にふる雪を凌(しの)ぐと言う意味を持つ。
内弟子の修行とは、まさにこうした事を言う。
人知れず黙々と修行に励み、目立たぬところで地味な稽古を行う。これこそが内弟子に与えられた研究課題であり、これをどのように克服して行くかは内弟子自身の、これまでの人間性と、物事に対する思考力に賭(か)かっている。
しかし、内弟子の修行は生易しいものではない。地道に、過酷(かこく)な稽古に耐え、精神的にも肉体的にも、「陰徳(いんとく)」を積む修行に似ている。黙々とした態度は、他の世界の派手さが伴わないので、愚かしい野望を抱いて居るものには過酷な精神的苦痛が伴うだろう。したがって、この種の人間は陰徳の何んたるかも知らず、人生を終(お)える人である。
では、陰徳とは何か。
陰徳とは、人に知れないように陰(かげ)で施す恩徳のことであり、恩徳とは人情に機微(きび)を知る、人への情けを体得する事である。その為には現代人は置かれている、昨今の実情を知ることが大事である。
昨今は、世の中が殺伐とし、人倫が乱れて妻子ある大人の不倫が大流行であり、情事を人生の享楽主義に摺(す)り替えての快楽遊戯が大流行である。またこうした背景に、不穏な事件や、通り魔殺人などの、血腥(ちなまぐ)い事件が目立つようになってきた。
これは現代人が、拝金主義や金銭至上主義に、色も絡んで、未(いま)だ、性(セックス)に踊らされていると言う事を明白に物語っているからである。
人間の価値観も、精神的支柱である心から離れ、金・物・色の物質的な欲望を募らせ、偏(ひとえ)に、こうした価値観は人の情(じょう/事象に感じて起る、主観的な知情意)から、金や物へと移行している現実があるからだ。
一説によれば、現代は心の時代で、拝金主義は終焉(しゅうえん)を迎えたと言われる。二十一世紀は、「心の時代」であるとも、豪語される。
しかし、実際に二十一世紀に突入すれば、何処を見渡してみても「心の時代」であるとは言い難く、現実問題として、人の命や、人権は、未(いま)だ金銭に換算され、損害賠償などを含む民事訴訟で、生命ならびに基本的人権は、金銭に換算され、この価値観によって、人間の評価はなされている。心の時代と豪語した、「心の時代」は遂に到来しなかった。
戦後の日本人の多くは、アメリカの持ち込んだ民主主義(【註】この主義はアメリカ国家が行う、国民への民族主義教育。その象徴が『星条旗よ永遠なれ』という、この国の国歌だ)の真の姿も知り得ず、異口同音にして入れ揚げ、手放しで喜んでいるが、ここに民主主義と資本主義の交錯する箇所に、大きな落とし穴がある事に気付いていない。
私たち日本人が戦後民主主義教育の中で、安易に信じ込まされたのは、アメリカと言う国家が平等社会を標榜(ひょうぼう)しているのにも関わらず、その裏側にある、アメリカのタブー(【註】実はアメリカは階級社会。しかしこれを公表することは禁忌)を排除した、「平等」という神話に魅せられ、これに入れ揚げた事でなかったか。
しかし、アメリカのもう一つに顔は、途方もなく複雑な現代社会に、歴然と階級制度が実在することを見せつける現実である。例えば、人が何かを考えたり、行動する時、この国では、「階級」(クラス)と「自分の出身母体」(【註】祖父母までに遡る家柄あるいは出身大学の倶楽部)が考慮されると言う現実だ。
アメリカと言う、国の本当の素性を知らない多くの日本人は、民主主義の本家であるこの国に、階級など存在しないと思い込んでいる。しかし、アメリカこそ階級社会であり、平等を標榜する民主主義は、実は平等など何処にも存在していない事が分かる。そしてアメリカ社会を広く見回してみると、階級問題は霧に包まれて、いつも複雑で、微妙な問題が横たわっている事が分かる。
ところが多くの日本人は、この現実を知る事はない。
アメリカを表して、「階級社会」等と言うと、不快な嫌疑が掛けられ、その分析に熱中したり、研究したりすると、忽(たちま)ちのうちに権威筋から精神異常者か、つむじ曲がりの異端視扱いされるようだ。
しかし、「平等」というアメリカの神話を安易に信じる日本人は少なくない。そして何処までも、神話を神話として存続させようとする、岩波書店を中心とする進歩的文化人の権威筋の企みがある。
平等でない現実を、平等の言葉に置き換えるところに、今日の民主主義の説く安易な平等観がある。だが、この平等観こそ、平等過敏症の自覚症状であり、世襲の肩書きや、地位、称号などと言った、便利な制度を持ち合わせないアメリカでは、各々の世代によって階級のヒエラルキーが規定され、これを主軸にして、「成功すること」に向けて、この国は動いている。「成功すること」が、この国では、決定的な重要性を持っているのである。
そして日本人の多くの若者も、こうしたアメリカ社会観に追随する思考が強いようだ。
アメリカ人の彼等が、社会生活を営む上での必要不可欠な事柄は、「人々の尊敬を勝ち取ること」である。
日本でもこの傾向が強くなり、タレントや芸能人までもが、尊敬に値する成功者として、脚光を浴びるようになった。スポーツ・タレントも同様だ。
しかし、アメリカの「成功すること」に、人生設計を置けば、尊敬されて、誰もが一廉(ひとかど)の人物の国と言うのは、日本も含めて、裏を返せば、誰一人、重要人物ではないという事でもある。
日本でもアメリカでも、努力すれば容易(たやす)く上の階級に伸(の)し上がる事が出来、金持ちになれると言う神話がある。この神話など、取るに足らないと軽く考えたところで、現実問題としては日本でもアメリカでも、歴然として階級制度があり、階級制度の現実の罠(わな)に嵌(はま)った時、下から上へ登る人生の登攀者(とうはんしゃ)は、苦々しさと、幻滅と言うものの洗礼を受けることは必定である。
資本主義と程よく合体し、国家規模の「ねずみ講」を奨励する民主主義は、グローバル的な平等の背後に宿し、相続財産、幼児期の生活環境、自身の出身大学の学閥、父母の出身母体や家柄・階級といったものが不条理に明らかにされ、これが社会的階級の階段を駆け登る条件となっているのは、明白な事実である。
「階級のない社会」という、タテマエ論としての神話は、幻滅のうちに最早(もはや)崩れ去っているのである。そして「階級のねたみ」は、時として、いざとなれば復讐(ふくしゅう)の為の平等主義に拍車を掛けるのである。
私たち日本人は、アメリカ社会同様、平等主義と民主主義を区別して考え、「市民は公平に競争をする」という競争原理の中に於てのみ、拝金主義に固まって生息している微生物なのであり、また、ひと握りのエリートも、庶民を顕微鏡下の微生物扱いして、何の憚(はばか)ることもない。
戦後の教育を受けた多くの日本人は、とにかく民主主義、さしずめ平等主義には、ひときわ入れ揚(あ)げるところが多かった。民主主義や平等主義の実態を解することもなく、一方に於いて、右翼だ、左翼だのと、権力中枢形態の本質も見抜くことが出来ず、唯物行為や経済万能主義に入れ揚げ、拝金主義の真っ只中にあって、金や物や色に踊らされてきた。
そしてこうした現実は、今も依然(いぜん)として続けられている。
こうした現実の中で、身を窶(やつ)し、年老いて、ボロ雑巾のように捨てられる人生観が果たして、掛け替えのある人生を全うできるか否か、甚(はなは)だ疑問である。
尚道館ではこうした現実の反省から、心ある老若男女に対し、あるいは日本の国民として、地球の住民として、意義ある、有意義な、悔(く)いのない人生を体得してもらいたいと言う祈念を捧げている。それは自我(じが)から抜け出した「中庸(ちゅうよう)」の存立である。
人間は中庸を維持できなくなれば、あとは左右のバランスを失って、滅ぶだけであろう。
中庸に至る道は、そんなに存在していない。真中を保って、不動を維持出来るものは少ない。その数少ない「中庸に至る道」を、わが流では説いているのだ。
それは独自な指導方法をもって、後進の指導者となる為の、西郷派大東流合気武術の指導を行っているのである。
これまで多くの若者(一部年配者も含む)が、尚道館の内弟子制度の門を叩き、途中で挫折し、無慙(むざん)に故郷へと引き下がって行った。そして未(いま)だ、誰一人として、わが西郷派大東流合気武術の、内弟子修行を遂行した者は居ない。それは、如何に「中庸」を維持することが難しいかということだ。
現代人は中庸のバランスを崩している。中庸を保つことは難しい。したがって、人間の修行とは、頭で考える程、生易しいものではない。俚諺(りげん)から求めるならば、“言うは易く行うは難(かた)し”だ。口で唱えるだけなら誰にでもできるが、それを実行するのは非常に難しいのである。
「修行」は脳内の思考で理解できるようなものではない。自分の霊肉共に極限まで追いやり、苦しんで苦しんで、その限界を見極めると言うのが「修行の真の姿」であり、その見極めが出来た者だけが、晴れて新たな人生の第一歩を踏み出す事が出来るのである。
これまでの挫折者の多くは、自分のことを棚に上げ、自らの極限追求に敗れた事を、他人の性に責任転換し、自分は正しかったと言い張るものが少なくない。世間の中で、自分だけが正しいと思い込んでいる。他は総て間違いで、自分だけが正しいと信じ込んでいる。
しかし彼等の共通した意識は、現代社会の甘やかされた現実に、便利さと快適さと、更には豊かさだけを享受(きょうじゅ)すると言う意識が身に付いて、自らを苦しめ、その極限に向かって、難解な西郷派大東流合気武術の真髄(しんずい)に触れる事の出来なかった者達である。
そして「難解」と思える、これは自己の「殻(から)」と解釈すればいいだろう。また、「我(が)」と思えばいいだろう。
人は皆自己に堅い殻を被せて、それで理論武装したり、自分の個性で堅い殻の上に更に、堅い殻を塗り重ねている。どうしようもないほど頑固で、頑迷で、「こだわる」ということに頑(かたく)なになっている。こうした「殻」は、自分一人の力では中々破ることが出来ない。
だから、自らで「わざわざ難しくしている」のである。まず、これを突破することだろう。「非」は、自分の方にあるのである。
他を中傷誹謗(ちゅうしょう‐ひぼう)し、自分を棚に揚げて、自らを顧(かえり)みないのは概(おおむ)ねの人間の常である。並み以下の人間はこれに含まれ、多くは凡夫(ぼんぷ)に等しい。しかし凡夫でありながら、凡夫の域から脱出しようと企てる人間の気持ちは、実に美しく、貴く、清々しいものがある。
凡夫(ぼんぷ)の域に甘んじる事なく、少しでも自分を向上させ、人格ならびに品格を高め、霊格までもを高めようと日々努力する人間の姿は、実に美しき限りである。日々精進の態度は、必ずや、将来に明るい希望の光を齎(もたら)す。そこには中庸を存立させようとする気持ちが働いているからだ。
中庸とは、夏の暑さの中に、冬の寒さを恋しがることではなく、また冬の寒さに、夏の暑さを恋しがることではない。暑さ寒さに振り回されない、しっかりとした自己を確立することである。これを「不動の自己」という。
そして内弟子の一日の始まりは、『陵武学舎・内弟子四カ条』の斉唱から始まる。 陵武学舎の精神は、「まこと」であり、陽明学の云う「まごころ」である。
「まごころ」とは、偽りのない心を顕わし、「誠の心」を意味する。「誠の心」は、「赤心(せきしん)」であり、「真実の心」を指す。
『後漢書光武紀』には、「赤心を推して、人の腹中に置く」とあり、「まごころを以て、人に接し、少しもへだてをおかないこと」と教示され、人を信じて疑わないことこそ、「赤心」という「まごころ」の第一義と説いている。
陵武学舎は「内弟子四カ条」をもって、人間教育の本義に帰るが、その奥に座するものは、心と心を師弟共にぶつけ合う信義であり、「信」の一字に賭(か)けて、「誠意」を主張するのである。
人は、他人の冷飯を食い、下積み生活をしてこそ、一人前になる。
「他人のメシを食う」という修行を通じて、配慮と気配りを学び、その中から人に接する「接し方」を学んで行く。したがって猛練習をしたり猛稽古をすると言った肉体酷使だけを目的にするのではなく、「人間としての行儀作法」の基礎から、徹底的に鍛え直して行くのである。
修行の根本は、此処にあると言えよう。
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