●人類が犯した罪悪
人間は、自らが生きていく為に、他の生命を犧牲にする。動植物の命を犧牲にする。
また、人間が哺乳動物と云う形態を借りている為に、「食べる事」を抜きにして、この世に存在することができない。この存在なしに、如何なる精神世界も存在し得ないのである。
現世に、ハンティングという世界がある。俗に言う「狩り」であり、「狩猟」である。
これは、「弱者を狩る」世界の事である。人間より弱い、智慧(ちえ)のない、無知な者を狩る世界の事である。この意味で、人間と同じ形態を為(な)す水冷式哺乳動物も同じだろう。
ハンティングといえば、即、狩猟などの結び付け、近代では、自然と密着した「遊び」と思われがちだ。しかし、この「遊び」は、実に残酷な遊びである。
一部の狩猟を愛好し、これを趣味としている上流階級は、ハンティングを通じて、大自然の素晴らしさや、野生の動物を紹介する意味で、「狩猟」というゲームを紹介する。
それは、人と自然が交わりあい、自然との関わり合いがこの世界にあると言う。したがって、一分の愛好者は、自然が凝縮された形で、人間に門扉を開き、ここに大自然との生存競争があると嘯(うそぶ)く。しかし、一貫している事は、ハンティングと云うスポーツが、大自然の動物の生命を弄(もてあそ)んでいる事だ。
かつては、人間が狩りをすると言う現実は、生活と密接な関係を持っていた。生活の一手段であり、人間が生きていく為の、生存本能の支柱となっていた。
ところが、動物を人工的に繁殖される技術を覚えた人間は、まるで天の太陽の火を盗み、これを文明と云う形で、人類に伝搬(でんぱん)させたギリシア神話のプロメテウス(Prometheus)のように、極めて簡単に、極めて普通に、日常生活の「糧(かて)」に、他の命を奪って生きている。
プロメテウスは御存じのように、ギリシア神話に出て来るチタン族の英雄であった。地球の西端に立って、天を支えている巨人アトラス(Atlas)の兄弟でもあった。
プロメテウスは、天上の火を人間に与えてゼウス(Zeus)の怒りを買った。そこでコーカサス山に鎖で繋(つな)がれ、大鷲にその肝臓を食われたが、後にヘラクレス(Herakles)に助けられる。
また、水と泥から人間を創り、他の獣のもつ全能力を付与したという英雄だった。
人間はいつの頃からか、こうした英雄によって、文明へと導かれた。
「文明の火」の名の下に、煩悩(ぼんのう)の火も燃やしつつ、自分が、より豊かに、より便利に、よし快適に、より早く、こうした環境下にわが身を置いて、安楽と享楽を貪(むさぼ)ろうとする。
ハンティングと云う競技を発達させたのも、人間の文明によって造り出された道具によるところが多い。狩りも、道具によって進歩した。しかし、現在では、もう一方の「監視の眼」があり、ハンティングは公(おおやけ)にやらなくなった。何故ならば、野生鳥獣の保護の見地から、これを行えば白眼視されるからだ。
有史以来の人類は、確かに動物を追い詰め、仕留(しと)めると言う残酷な行為を繰り返して来た。
一方現代においては、イルカや鯨が可愛いからと言って、あるいは可哀相と云う理由で、他国の漁業に干渉する集団が居て、未(いま)だに人類は残虐性から無縁の存在である生き物としての愚行を繰り返している。
アメリカの自然保護団体は、日本の調査捕鯨に厳しく抗議し、日本人に鯨を取らせまいとする。その一方で、アメリカの牛肉押し付けの輸入問題は、その最たる現れであろう。鯨を捕らせずに、牛肉を大量に輸入させようとする。どちらも同じ哺乳動物であり、一方の命を尊重し、一方の命を殺し、食べまくる。何たる矛盾であろうか。
その矛盾の上に、国際ユダヤ系金融財閥(【註】世界金融支配層のユダヤ財閥と、一般庶民のユダヤ人は異なる)の息の掛かった自然環境保護団体のグリーンピースや、その配下として、近年組織された兇暴かつ過激な海の暴力団シー・シェパードが、アメリカの何者かの指令によって、動き回り、妨害し、海の動物愛護を呼びかける。
いまや鯨は殖(ふ)え過ぎ、オキアミの数が減少している。これは海洋の生態系を狂わし、オキアミを食糧とする回遊魚が減少している。
また、アメリカの食肉用の牛のおかげで、アメリカの大地は痩せ始め、砂漠化し、これが地球環境に悪影響を齎(もたら)している。鯨肉は禁止だが、牛肉を食べることは許されるという勝手な論理で、白人達は傲慢(ごうまん)な態度をとる。
また、グリーンピースは捕鯨に反対していながら、日本大使館に、鯨の死骸を投げ込むという、凄いパフォーマンスをやってのけた。 捕鯨に反対する立場でありながら、鯨の死骸をさらし者にする感覚が信じられない。
その上、「牛や豚は知能が低いから食べてもよい」という、何とも訝(おか)しな論理は、一体何処から出ているのか。むしろ、牛や豚は、宗教などの聖典にも「神の使いの動物」と書かれ、人間が保護するべき動物ではないか。
キリスト教国家のアメリカならば、自国自らが、聖典の教えを厳守すべきであろう。
あるいは、アメリカは似非(えせ)キリスト教国家に成り下がってしまったのか。
さて、近代世界史から見ると、もともと鯨の数を減らしたのは、産業革命期の欧米諸国が、機械の潤滑油として鯨を乱獲し、脂身(あぶらみ)から油だけを取った後、大量の残骸を廃棄したからではなかったか。
一方、日本を含めた捕鯨諸国は、生活に必要な量しかとらず、殆ど無駄にすることなく、消費してきた歴史を持っている。
江戸時代のカラクリ人形のゼンマイ仕掛けにも、鯨の髭(ひげ)が使われた程だった。
ところがアメリカの傲慢(ごうまん)は違う。自分たちの文化が一番で、正義でと考え、他国の文化を真っ向から否定する。この差別主義者の最たるものが、環境保護を隠れ蓑(みの)にしたグリーンピースなのだ。この海の暴力団の横暴な正義論に騙(だま)されないことだ。
また、米環境保護団体で、グリーンピースの傘下の過激グループとして知られるシー・シェパードは、平成19年2月9日、南氷洋での日本の調査捕鯨船に体当たりで接近して、発炎筒をはじめ、火炎瓶(かえんびん)や空き瓶、その他の危険物をなどを投げつけて、日本側の乗組員に傷害を負わせた事件は、一体彼等が何の目的で、こうした運動を展開しているのか、その背景にあるものが、自(おの)ずから、うっすらと浮かび上がってくるではないか。
アメリカの食肉メジャーが、一枚も二枚も噛んでいる事は疑う余地がない。
そして、アメリカの思想的文化的傲慢は、今日の中近東に展開している軍事作戦にも窺(うかが)うことが出来る。その最たるものが、イラク戦争ではなかったか。また、その下では、悲しみと憎悪のイラク人をはじめとする、イスラム諸国の、アメリカへの傲慢の爆発が起っている。
そして朝鮮半島でも、イラク戦争同様の政治力学が使われている。
人間が、生物に対して抱く思念は「愛着」である。
人類が有史以来の歴史において、生物は一種の食糧であった。ところがこの意識は、時代が下がるにしたがって、考え方を変えていく。人類はこの意識によって、燕(つばめ)は捕らなくなったし、犬も食べなくなった。近年まで犬を食べ続ける国はあったが、それも今日では下火になっている。中国には、「羊頭狗肉(ようとうくにく)」(【註】世羊の頭を看板に出しながら実際には狗いぬの肉を売る。あるいは羊頭を懸かかげて狗肉を売る)という諺(ことわざ)があるように、犬肉は、ごくありふれた貴重な動物性蛋白質であった。
日清戦争当時、清朝政府の実力者・李鴻章(りこうしょう)は、イギリス人から純血種のペット犬を贈られ、その返礼として、「頂いた珍獣、まことに美味なり」と信じがたいような礼状を書き添えている。
第二次大戦が終了すると、中国でも犬は殆ど食べなくなった。これは犬資源の絶滅を懼(おそ)れたからではない。文明国に仲間入りする事と、犬に対する愛着の理論が広く流布されたからだ。
一方、アメリカ大陸では牛肉を食肉にする考え方は、一向に下火にならない。その一方で、鯨に関してはグリーンピースらの海の暴力団が、鯨を保護することに強い執念を燃やす。
生物問題や動物問題には、鯨などの、種の保全に関して、激しい感情が絡んでくる。感情論が吹き上げ、時には愛着の論理までが絡みつく。そして、各国は、それだけに生物に関しての考え方が異なる。お国柄も変われば、その矛盾も甚だしい。論理上の正当性は、一切見受けられない。
宗教上、食べることは禁止された動物であっても、他の国では、それが貴重な食糧となる。文化財産であっても、平気で食べる。ある国の人々には、その動物が狩猟の対象でしかないのに、他の国々の人では、ペットであり、癒(いや)しの対象となっている。それは国民の習慣や気候風土に左右され、美意識に基づく思考で決定されている。この相違は、科学的な論拠で決定されるものではない。あくまで愛着の理論であり、感情論が主体である。
したがって、日本人が鯨を食べる、あるいは欧米人が牛を屠殺(とさつ)して食べるなどの、食に対する考え方の違いには、文化の高低もなく、文明の早遅もない。一種の動物に対する美意識の違いである。美意識の違いが、感情論と複雑に絡みつき、自分の思考に合わなければ、激しい攻撃をする。そして、言えることは、野生動物に対して、愛着と、「可愛い」という感情論を露(あらわ)にする人が増えてきていることだ。
十七世紀後半の近代文明は、中世以前の感傷や情緒を排して、合理性を重視して、合理的な生き方を展開することのみに重点が置かれてきた。合理性の背後にあるものは、自然を克服し、自然を改造することこそ「正義」であった。
ところが、近代文明の合理性追求は、ここに来て否定がなされ始めている。その意味からすれば、ペット犬を飼いながら、一方で食肉を喰らうという生活も、甚だ矛盾しているといわねばならない。
果たして、人間が肉を食べなければならない理由が、いったい何処にあるのだろうか。
●美徳が悪徳に取って代わる「滅びの方程式」
この世のあらゆる出来事は、人間によって齎(もたら)され、人間によって「悪(あし)く」作り替えられて来た。それも地球自身の浄化作用が失われる程の「悪徳」によって、悪く作り替えられた。地球の自然環境破壊から、エネルギー枯渇に至る有限の資源の遣(つか)い果たすまで経緯は、総(すべ)て人間が企てたものだった。
人間の欲望は、人間像全体の観測から、まず最初に、野蛮人の心情を持った人間が地上に顕われ、次に文明人の心情を持った人間が地球に出現したとある。つまり、この事は前者が悪徳であり、後者が美徳のように判断される。
しかし、悪徳を選択するのか、美徳を選択するのかは、その真の優先性が、人間の利益中心に考えられ、この利益に反するものは悪徳であり、利益に準(じゅん)ずるものは美徳であると考えられて来た。
もし、人間の利益に準じ、全体の利益を選ぶとすれば、ここには二つの矛盾が出現する。
その一つは、普通、美徳と云う考え方は、必ずしも全体を代表していない。多くは一部の特権階級の為の美徳であり、ひと握りの頂点を指して、これを美徳として遣われる場合が多い。
一方、悪徳と称されるものでも、ひと握りの頂点には不都合であっても、底辺に位置するその他大勢からすれば、これは下層階級の利益として還元される事もあるからである。つまり、美徳と悪徳が逆転している矛盾である。
それは、これまで自然が人類に与え続けて来た、大気であり、大気中に比較的多く含んだオゾンであり、山河の美しい大自然であり、あるいは海や山から採れる潤沢な食糧源だった。
しかし、太古の原始共産的な、資産・生産手段などをその社会の構成員が共有する、この原則が崩れると、そこに指導者が登場してみれを率いるリーダーが出現した。
っそして、同格・同等の相互間の立場が崩れ始めると、ひと握りのリーダーが出現する事により、人間界にはエリートをトップとする、ヒエラルキーが構築されていく事になる。
目先の聡(さと)い人間は、無知で無能な人間を支配すると言う構図である。
また、ひと握りのエリートは、人心錯乱術が巧(たくみ)であった。それは無知で無能な、底辺の被支配階級を従順にさせ、忍従させると言う手法に於てである。
普通、リーダーと云われるものは、全体を代表するポーズを取る。しかし、これがポーズの領域を食(は)み出し、本当に全体に奉仕をするという、極めて「有徳の士」のようなことを目指せば、このリーダーは生涯を通じて、不幸のドン底に叩き付けられるだろう。これが二つ目の矛盾である。
全体の利益に準じ、粉骨砕身(ふんこつすいしん)して、個人の利益を放棄したならば、このリーダーは清貧なる高潔社としては感謝はされようが、自分や、自分の周囲は極めて悲劇的である、物質的には、常に不幸のドン底に止まらなければならない。
人間は、幸福に向かって努力しているのであるから、美徳を掲げて、不幸に向かうと云う事は、明らかに矛盾と云わねばならない。
ところが逆に、全体の利益を放棄して、個人的な利益獲得に奔(はし)れば、そのリーダーが、リーダーでありながら、その役得を利用し、あるいはその任(にん)を巧みに交(か)わし、職権を乱用して、法律に引っ掛かりさえしなければ、その人の生涯は、その人の家族やその人自身を含めて、物質的には極めて優雅に、贅沢に、取り巻までもを含めて、完全に近い形で幸福な人生を歩くことができよう。
これこそ、美徳と悪徳の逆転劇ではないか。
そもそも「法律」というものは、自然のものでない。人間の都合によって作り出されたものだ。
特に、「法律」は権力者のものであり、ひと握りのエリートの為に存在するものである。したがって、この「物指し」をもって、下層階級の底辺に当てはめようとしても、正しく測定できるとは限らない。また、そこで推し量ったその答が、必ずしも正解とは限らない。
普通は法律を「物指し」として計った場合、歪(いびつ)な形で、答が出される場合が多い。
屡々(しばしば)、裁判などにおいて不公平が生じ、一方に有利な偏りが生じ、他方に不服が生じるのはこの為である。これは何処まで突き詰めても、絶対に解決できない問題だろう。
人間の「支配階級」対「被支配階級」の分離比は、「28」:「72」である。あるいは「金持ち」対「貧乏人」の分離比と考えてもよいであろう。
この「28」:「72」の分離比は、宇宙の黄金率であるから、どの時代においても、殆ど狂いなくこのバランスを保って来た。
したがって、美徳と悪徳を全体の大半を占める「72」の被支配からみると、この基準の「物指し」を下層階級の底辺に当て、これで測定すると、本来は全体に奉仕をするのが美徳と考えられるのであるから、全体に奉仕をするより、個人の為に奔走する方が、より幸福に近付くことになり、悪徳を働く方が、則(すなわ)ち、人間は、より幸福になれると言う結論が出てくる。
この事は、地球環境一つ取り上げても、頂点に位置するエリートが、底辺の下層階級を喰(く)い物にして、自分の為に幸福を追い求め、ひと握りだけが幸福になれるという縮図が、地上で繰り返されている事になる。
地球環境の悪化、大気汚染、自然破壊など、これは人類全体が齎(もたら)した凶事とされているが、実は、この根元を丹念に手繰(たぐ)っていくと、この根底には悪徳を企てる、ひと握りのエリート層が隠れて居た事に気付く。元凶は、ひと握りの画策者だったのである。
人間は、優先性を第一に考える生き物であるから、強い方の衝動が、まず第一番に考えられる。これが物質的に幸福な衝動である場合、悪徳は美徳を排して、最優先課題となり、底辺下層階級が抱き続ける美徳は、儚(はかな)くも、恒常的な道徳として片隅に追いやられることになる。そして、それに代って、ひと握りのエリートが企んだ悪徳が浮上するのである。
資本主義のルールは、全体に奉仕をする形で作られていない為、その優先性は、常に資本家側にあり、底辺は資本家の意向に遵(したが)う限りにおいて、労働の対価として金銭を得る仕組になっている。
この構造を、地球環境の面からマクロの目で見れば、地球に巣喰っているものは、総て企業の利潤追求を企てる悪徳であり、その一部に、恒常的な道徳やモラルが存在したとしても、巨大な悪徳の前には、手も足もでない。
そして、幾ら美徳の大事を説いたとしても、ひと握りの最上流層に於ては、「馬耳東風」であり、美徳と悪徳のバランスは、他方の一方的な衝動でしかないことは、異論の余地がないであろう。
則(すなわ)ち、これこそが、人類が滅び行く「滅びの方程式」ではないか。
●悪徳を企てる者は誰か
「奉仕」という言葉には、二つの意味がある。
一つは、奉事(ほうじ)を含み、慎(つつし)んで仕える行動で、これは喩(たと)えば、献身的に国家や社会の為に尽くす事を云い、かつては勤労奉仕とか社会奉仕、あるいは無料奉仕の名で親しまれた。ここに挙げられる奉仕は、金銭が全く絡んでない。自分の働きに応じた、労働の対価は最初からゼロであるからだ。
一方、奉仕にはもう一つある。
それは商人が客の為に、特定の期間に限り、安価に売ることを指し、一般には「サービス」という言葉で知られている。
そして、常に問題になるのは、後者の場合の奉仕である。
一般に、商人が顧客の為に、物質的生産過程以外で販売したサービス品は、商人にとって、何の意味があるのだろうか。その裏には、利益の画策が隠れていないか。
商売は「損して得取れ」とか「ギブ・アンド・テイク」という言葉で知られている。しかし損益の蓄積では、絶対に商売にならない。また、「ギブ・アンド・ギブ」では、欠損が重なるばかりだ。
普通、「ギブ・アンド・テイク」は、理財の才がないと「ギブ・アンド・ギブ」に陥り易い。
下層階級の中小以下の商売は、往々にして「ギブ・アンド・ギブ」になり易い。「与えて、そして、取る」公平な商売は、大企業のものである。
一般に商売の基本は、自分から相手に利益を与え、その代りに、自分も相手から利益を得るとされ、これを「譲り合い」とか「歩み寄り」という。しかし、この手の商売を良好に保てるのは、主に貿易などであり、大商社の専売特許になっている。
したがって、零細では、必ず「ギブ・アンド・ギブ」になり立ち行かなくなる。大企業と大資本の有利に働く、このシステムこそが、近代資本主義の特長である。
ここに「28」:「72」の、被支配階級の利潤追求が容易でない社会構造がある。つまり、「美徳」という意識は、その根底に「悪徳」に取って代られる元凶が横たわっているのである。
優先順は強い方に流される。優先性は強い方から起る。強い方の衝動が優先され、この優先順は、ひと握りのエリートの為にある。換言すれば、被支配階級は支配階級に、常に奉仕をさせられる運命にあると云う事だ。体裁の良い、「奴隸」である。
だから、支配階級は被支配階級に対して、「平等……、平等……、人間はみな平等!」と叫んでいれば、彼等からの羨望は薄くなり、妬みや恨みが、幾らかでも和らぐのではないかと、自己の良心の呵責のクッションに「平等」という言葉を乱発している。政治家や高級官僚らも、この類(たぐい)の平等乱発主義者である。
こうした場合の、「平等」は、非常に便利な言葉である。
「28」の支配階級の幸福が、「72」の被支配階級の不幸によって成り立っているのである。一方が突出すれば、他方が没落すると言うのが経済力学である。貧富の差は、一方を犧牲にする事で、その格差が生まれる。ひと握りの巨大な幸福は、その他大勢の犧牲によって賄(まかな)われているのである。
したがって、悪徳こそ、この社会の実像であり、単に社会生活の義務が人間に尊重するべき事柄として強いた美徳は、不自然な犧牲的感情の上に成り立っている事は明かであろう。
では、美徳は何の為に存在するのか。
それは、美徳の遵奉(じゅんぼう)が、主義や教訓などに基づき、ある一定量の幸福を、本人に返還する事により、細やかならがらに、広く、薄く、還元されるようになっている為である。一時期、資本家の吐き出したサービス品が、底辺の下々に幽(かす)かならがらに行き渡り、一端は消失せしめた幸福が、サービス品を手に入れる事により、僅かながらに全体を薄く覆い尽くすのである。これは資本家の、これまでに儲けた利益の埋め合わせに過ぎないが、こうした些細な事で、庶民は満たされぬ一時の幸せを感得するのである。
こうした幸せを満喫させる手段として、量販店の「大売り出しセール」や「在庫一掃セール」、また外食産業の「お客さまセール」などの、購買意欲を煽る販売商戦が繰り広げられる。庶民はこうした販売戦略の言葉に乗せられ易い。
この場合のターゲットは、「72」の領域を占める被支配階級で、この中には「28」の支配階級は殆ど入っていない。それは彼等が、庶民に対して仕掛ける側だからだ。
これは「パチンコをする側」と「させる側」からも明かであろう。
「パチンコをする側」は、「させる側」のよきお顧客さんでもあり、また、よき「カモ」でもあるからだ。常に仕掛けられ、掠(かす)め取られ、搾取される、よきターゲットであるからだ。
しかし、資本家の目的は、自分の儲けた利益の埋め合わせではない。その真意は、悪徳の勧奨(かんしょう)であり、一心の利害を図って、庶民の上に君臨する事である。これは大資本家や時の権力者を見れば一目瞭然だろう。
ひと握りの彼等は、トップの座に就き、あるいは権力の座に就くと、まず暴君を決め込む。その地位を悪用する者も少なくない。人民の膏血(こうけつ)を搾(しぼ)り、巨万の富を築くシステムを真っ先に作り上げる。そして、庶民の運命など、何の関心も示さず、庶民の命はまるで微生物のように扱われる。ここに、ひと握りのエリートの傲慢(ごうまん)がある。
では、この傲慢の発信源は何処か。
近代史を研究すると、世界の歴史は、おおよそ十八世紀頃から、一つの流脈により、人工的にある方向に導かれて来た。つまり歴史は、ある特定の目的を持ち、また、ある意図をもって、動かされて来たと云う事だ。
そして、日本の明治維新を見ても分かるように、その意図する背後には、常に穏微な集団の暗躍(あんやく)があり、走狗達の計らいによって、歴史が作られて来たという事である。
これは十八世紀を振り返って、アメリカ建国、フランス革命、明治維新、日清・日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命、日中戦争、太平洋戦争など、その後に続く戦争や内紛を含む歴史を見ても、これは自然の摂理により、自然体で起っている結果とは云い難いであろう。
常に、人工的に画策されているのである。
では、この画策される究極の姿は何か。
それは「世界統一政府」の樹立にある。「ワン・ワールド」こそ、画策者の究極の目的であり、世界はこの画策者の思惑によって動かされている。そして、この画策の傘下に、日本をアメリカの「51番目の州」(【註】現在アメリカの洲数は、アメリカ本土に、アラスカとハワイの2州を加えた50の州と、一つの特別区とから成る)にする属国化の政策が含まれている。
あらゆる民族や人種、あらゆる国家や支配下の組織は、最終ゴールが「世界統一政府」であり「ワン・ワールド」なのである。この支配体制下に、微生物として蠢(うごめ)く庶民の命を思い遣(や)る気持ちは存在しない。庶民一人は、一匹の微生物と同じ命の比重である。画策者からすれば、微生物の一匹や二匹、体制には全く影響がないのである。
もし、この体制ができれば、国家は不要になる。民族は融合され、争いはなくなり、人類共通の価値観は統一されたものになる。宗教も統一されて、新キリスト教(中身はユダヤ教かも知れない)が誕生し、言語も統一されて英語が世界共通語となり、通貨も統一されて新アメリカドルとなり、世界は一つの覇権勢力の中で融合されていく事になる。
こうした国家建設の為に、いま地球上では、自然破壊による「人減らし」が目論まれているのである。
世界支配を窺(うかが)う画策者の意図は、まず、自然破壊と、現代の黒死病と云われるエイズによて、世界の人口を「30億代」に削減する事である。
そして頭脳優秀・容姿端麗で、価値ある優生遺伝だけを残し、劣性で繁殖力の強い貧困層は抹殺し、知能労働者は人間牧場によって隔離し、一旦高級奴隷にしておいて、ひと握りのエリートの為に奉仕する覇権勢力を、人造的に造ろうとしている。
過去に於いて、こうしら覇権的新興国家が擡頭(たいとう)した事があった。
その興亡は凄まじいばかりだった。
人類の歴史から考えれば、西欧が政治的主導権を取り、ヘゲモニー(Hegemonie)を確立したのは、僅かに500年に過ぎなかった。
過去を振り返れば、ギリシア、ローマと続いた西欧は、その後、サラセン、モンゴル、オスマン・トルコと、東方の民族に圧迫され、文明の僻地(へきち)に圧(お)し遣(や)られ、忍耐の時代を過ごした時期があった。
しかし、十五世紀から十七世紀前半にかけて、大航海時代が訪れると、ヨーロッパ人が新航路や新大陸を発見し、活発な植民地開拓が盛んになった。西欧はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスと、各々に競い合って、各諸国の利益に準じ、世に言う「発見時代」に突入していた。そして「発見時代」の、西欧の政治や経済が、この時代、重大な影響を齎(もたら)したのである。
かつてのイギリスの植民地であったアメリカは、1776年の独立宣言によって、東部13州が成立した。また1983年には各国が承認し、以後、領土を拡大すると共に、急速な経済発展を遂げる巨大国家が出来上がった。そして二十世紀に至ると、白人国家主導の許(もと)の「アメリカ合衆国」が、他を抑えて、世界をリードする政治体制を作り上げた。
その合衆国の背後に居て、傀儡(かいらい)国家としてこの国を操って来た者は、ひと握りのエリートかならる、一つの覇権勢力だった。これが今日の金融経済の中枢を担う、国際ユダヤ金融資本である。
ロスチャイルドを頂点とする国際ユダヤ金融資本は、一つの宗教、一つの思想、一つの政治、一つの金融をもって、「世界政府」を運営する仕組になっている。これこそが「地球国家連邦」であり、ワン・ワールド主義者たちの、十八世紀以来の彼岸である。
その背景に、人類は、同時に地球環境の悪化を体験しなければならない状況に置かれている。これこそ、一種の「世直し」であり、「地ならし」と言えるだろう。「造り変え」であり、「建て替え」である。
この「建て代わった地球」を、覇権勢力として支配するのが、ひと握りのエリートである。現代は、一切がこの中の縮図に包含されているといえよう。
そして、何らかの形で「世界政府」が一旦樹立されると、この縮図の中で、彼等から永久支配され、人権や自由は阻(はば)まれる。
日本はアメリカの「第51番目の州」になり、永久の統治される事になるだろう。
日本人を含む、普通のその他大勢の一般市民は、人権と自由を奪われて、奴隷化される道を辿ろう。また、一分の暗記力や記憶力に秀で、キャリア官僚クラスの小数や、数学や物理、経済数学に長けた者は、彼等の高級奴隷として寵愛される人生を辿ろう。
然(しか)も、この世界政府が樹立されると、日本は国家としての国権を剥奪され、一般の「72」の割合を占めるその他大勢の庶民層は、強大な軍隊と、内部警察機構の監視の眼で、もはや革命は絶望的になり、日本国民は、より厳密に階級化され、機能化され、この階層は、間違いなく屈辱(くつじょく)の自覚症状を感じないまま家畜化されるであろう。
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