如何に死ぬべきか
人間は生きている間、「生命の火」を焦(こ)がし続ける。誕生のプロセスは、生命の火を焦がし続けることから始まる。
オギャーと生まれ落ち、横隔膜の上の「上焦(じょうしょう)」で呼吸し、横隔膜から脾(神闕/しんけつ)までの「中焦(ちゅうしょう)」で生命力は独立し、その為に“臍の緒”を切り、「下焦(かしょう)」で大小便をするというのが人間の誕生のプロセスである。
そして「死」は、逆の順序を辿(たど)って死に就く。
自然死の場合は、まず下焦の会陰(えいん)が閉じられ、生命力が中焦の神闕を通って、上焦に至り、上焦頭部の泥丸(でいがん)箇所のブラフマも蓋が開き、そこから体外へと出る。
人間が誕生するとは、「生命の火」を焦がすことであり、人間が死ぬとは、その火が消えることを云う。
精液の水より生じた生命力は、“焦”の尽きる時、生命の火を消す為に「末期の水」を必要とするのである。 |
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▲ 能面を見ていると、思わずハッとすることがある。それは死んだ母の顔であったり、姉妹の顔であったりするからだ。能面の「痩女(やせおんな)」の顔が、よく見ると母の顔であったり、病気で死んだ姉や妹の顔であったりするからだ。
能面は、このように見る者の感じ方によって、自分の死んだ肉親の婦女子と錯覚するような、象徴を含んだ一面を持っているのである。
これを、よくよく考えてみると、人間の表情を「固定」させれば、その人の死に顔が、能面になるのかも知れない。(左:孫次郎。右:小面(こおもて)) |
●死の荘厳に向かって
人間は「非存在」なる生き物である。ために、いつかは必ず死ぬ。これに例外はない。則ち人間とは、死ぬ為に生きていると言える。死の知る為に生きるものが、「今」を生きるとは、一種の奇蹟の連続であり、この事からして、人は「何か」に活かされていると言える。では、その「何か」とは何か。
その「何か」を天命と呼ぼう。人は天命から活かされている生き物なのである。したがって、活かされる中に、生きると云う行為が生まれ、もともと非存在なる生き物が、「存在」を許されるのである。
しかし、この「存在」は安定的なものではない。いつ、「非存在」になるか分からない。人間の死は、何も年寄りだけが死ぬとは限らない。若者でも、幼児でも、何かの事故に巻き込まれたり、殺人事件などに遭遇して殺されて死ぬ場合がある。大型台風や地震などの自然災害や天変地異から殺される事もある。誰もが、寿命までを全うして死ぬとは限らないのである。
ゆえに死を他人の身の上に起っている現象と捉えずに、自分にも、いつかは死と言うものが自らの頭上に降り掛かると云う事を予期し、そしてその心構えだけは持つ必要があろう。
「一寸先は闇」と云う。いつ何が起こるか分からない。特に死は、人間に対して理不尽な形で、突然、襲って来る。こうした死は、藻掻いても、如何ともし難いのである。死の決定権は、人間側にはないからである。
しかし、死と言う現象に対し、人間は死に対する心構えを持つ事により、動物とは異なる死を迎える事が出来る。人間の死は、決して動物と同じものであってはならない。人間は死と言う行為を通じて、わが人生の終幕まで、立派に人間を演じきらなければならないのである。
何故ならば、死と言う行為と、死と言うドラマは、その臨終に際して、それを演じるのは、紛れもなく、死に行く人自身であるからだ。死に行く人が、あくまで死を演じる主役でなければならないのである。
ところが、現代社会を見回すと、死のドラマが、ややともすれば、いつの間にかその主役の座を医師に奪われ、石の言い成りになって死んで行く実態がある。
例えば、末期ガン患者などは、いまさら必要とは思われない、不必要な抗ガン剤を投与されて、これまで以上に苦しむ死を強要されたり、また、死ぬはずの人間に生命維持装置をつけて、植物状態にして生かすなどは、人間の死の尊厳を無視した、死とは無縁の医療体制である。
こうした事に、死に行く者が、自らの主役の座を奪われてはならない。しかし、世間ではこうした事が日常茶飯事のように行われ、多くは、死のドラマを演ずる自分が、いつの間にか医師や現代医療に奪われている事が少なくない。うかうかしていたら、自分は小道具係までに格下げされれしまうのである。
小道具係に格下げされた人に死が、果たして人間らしい死に方と言えるだろうか。これでは死の荘厳は保たれまい。
したがって、現代人は、少なくとも死の準備について心構えを持つべきであろう。自らの死の荘厳の為に。
●老人が遇される社会が消えていく
これから「四人に一人が老人になる」と言う社会が出現する。今日まで、老人であること、高齢者であることが一つの特権であるかのような、老人優遇の社会が存在した。しかし、この老人優遇社会も次第に崩壊しつつある。
老人が優遇された社会は、老人が少なく、また高齢まで生き延びる人が少なかった時代の余韻(よいん)であり、しかしこの余韻は、あまりにも増え続ける高齢者の増加に、次第にその残像を消そうとしている。これまで老人に対しては、手厚かった様々な特権的社会保障も、崩壊しつつあるのだ。増え続ける老人の残像は、影を薄くしているのである。
至る所で老人は溢れ、あっちにもこっちにもという老人氾濫(はんらん)の世界が出現すれば、社会的に言って、老人が優遇されることは、明らかに不可能になってくる。
現実に、これまでは優遇的に行われていた老人への保護も、次第に冷遇へと変り、再検討が加えられると言う現実が迫っている。そして、老人が増え続ける現実に比例して、再び「姥捨山(うばすてやま)」という社会は出現し始めていることだ。
かつて、捨て子をする親に、「動物ですら、我が子を可愛がり子を育てるのに、人間が捨て子をするとは何事だ」という厳しい意見があり、捨て子をする親は咎(とが)められたものである。ところがこれを裏返しに考えれば、親が子を捨ててならないのなら、子は親を捨ててはならないという考えは成立しなくなる。
何故ならば、「動物は、親は子を可愛がるが、子は親を保護しない」からである。これは大自然に置かれた自然の摂理と言うならば、子は親を保護する義務も、そうした法則も、大自然の中には見当たらないからである。人間も水冷式哺乳動物の端(はし)くれであり、人間が「動物」と言う論理が成り立てば、その法則下に人間も従わなければならなくなるだろう。
世の中は福祉面ばかりを取り上げて、それを肥大化させることもできないし、また一方で、現実に則した功利的なものばかりで解決できないのも現実であるが、老人対策を手厚くするか、冷遇するかは、「老いては子に従え」という俚諺(りげん)からすれば、次世代が潰れないだけのバトンタッチも高齢者の義務ではないか。これこそが「譲りの理論」である。
そこで、肉体偏重主義から脱皮して、老人が認識しなければならないことは、死に向かっての精神的な「死生観の解決」であろうと思う。この死生観は、誰もが平等に与えられた人生の課題であり、この課題に向かって、人は解決の道を図らなければならない。それも生きている間であり、死ぬ間際の「臨終時機(りんじゅう‐どき)」に解決することではない。それ以前に解決しておかなければならない。
昨今は、我が子の世話にならないとする老人達が増えている。それはスポーツジムやフィットネスクラブなどを見れば明白となる。老人の肉体強化の現実であり、この現実下には、年をとっても我が子の世話にならず、自分の面倒は自分でするという高齢者の健気(けなげ)な心である。
その背景には、今一生懸命に躰(からだ)を鍛えておけば、ちょっとやそっとで寝たっきり老人とかにはならず、自分のことは自分でできるという健気さの象(あらわ)れである。こうした願望は一面健気であるが、それでも人間の命は永遠のものでない。やがては滅ぶ時機(とき)がやってくる。
「人は滅ぶ」という原則を無視して、肉体に固執して鍛えても、それは死を逃れられると言うことではない。此処を間違うと、死は「逃げ回るばかりの対象」となってしまう。
こうなれば、死の臨終間際までに解決をしておかねばならない、「死生観」が蔑(ないがし)ろにされるのである。生死を全く解決できずに、死んでいかなければならなくなる。これは実に恐ろしいことなのである。しかし、現実を見れば、多くに人が死生観を解決できないままに人生を終っている。そして、此処にこそ、死して不成仏になる現実が横たわっているのである。
●能面が持つ生死の両面
女面は、人が死んだ時の女性の「死化粧」の顔だとも云われる。その死に顔から漂っているものは、死に際した時の顔であり、感情と云う、喜怒哀楽や好悪は、既に失われ、精神の働きとされる知・情・意に分けた時の情的過程は、最早(もはや)ここにはない。情動・気分・情操などは、一切含まれない。この、死に顔が、つまり「能面」だと云う。
では、その人が、これまで生きていた時の、「快い顔」「美しい顔」「微笑んだ顔」「得意絶頂の顔」は、一体どこに消えてしまったのか。あるいは、物事に感じて起る気持の、主体は何処に行ってしまったのか。
こうした、感情の失われた状態を「死」というのである。
感情の表現からすると、能の世界では、それぞれに異なるが、ある男に惚(ほ)れて、それでいながら、指一本も触れさせない、そうかといって、自らは焦(じ)れて憎むような「増女(ぞうのおんな)」があり、また各流儀でも『恋重荷(こいのおもに)』の「女御(にょご)」や、『羽衣(はごろも)』の為手(して/普通「シテ」と書き、能または狂言の主役をいう)のような位の高いものもあるが、それらは何(いず)れも、冷艶(れいえん)な顔であり、それでいて、大きく表情の伴わない顔である。
特に女面を見ると、冷艶な顔立ちでありながら、上眼瞼の切れ目が長く、上唇の紅の色は、人中(じんちゅう)から口尻にかけて、複雑に凹凸(おうとつ)のへ込があり、その唇を見ていると、微笑んでいるように見えて、何処か蔑(さげす)んだ微かな笑いを感じさせるものである。その笑いは、日本人における、遠い昔の、平安朝の貴族の気品の高い笑いになのか、あるいは貴族が、下位の者を見て、蔑み、酷薄(こくはく)さを感じさせる笑いなのか、その心に感じる受け方は人様々であろう。
しかし、女面を更によく見ると、微かな笑いの中に漂っているものが何かと追求した場合、そこには樹氷のような美しさに凝っている顔であるとも言える。つまり、死化粧を施した「死に顔」である。死人(しびと)の顔である。
肉親で、婦女子が死んだ時の死に顔をご覧になった経験のある方は、「死化粧」が、極めて能面の、あの樹氷のような美しさに覆われ、更によく見ると、小さく微笑んでいる、こうした「死に顔」に、何か不思議な感覚を抱いた方も居るであろう。
死化粧とは、能面に似せて化粧を施すものである。
そして、ある時、ふと別の場所で「女面」を見た時、それは無気味に恐ろしいものを感じさせるものである。その無気味さは、死んだ母親のものであったり、姉妹のものであったり、あるいは若くして死んだ妻のものであったりするかも知れない。
このようにして、自分の肉親の死に顔と錯覚するようなものが、実は能面なのである。
人間の固定の表情を、一気に凝縮し、死に顔と見間違うばかりの死人(しびと)の顔が、実は能面に凝縮されているのである。特に女面においては、死者の迫り来るような冷ややかな、樹氷のような、死に顔の美しさがある。
しかし、能楽師は、この女面を着けて、死者を見事に生き返らせる。そこには「霊女(りょうのおんな)」としての、死人(しびと)が復活する何かがある。
美術鑑賞としては、仮面劇を見るように能舞を見るのであるが、あれは確かに、過去の日本の女の持っていた顔だったと認識するのである。
能面は、ただの物体に過ぎない。しかし、能役者がこれを一度着けて舞うと、そこには命の躍動がある。躍動する精神が、一挙手一投足の中に蘇(よみがえ)り、全体部に畳み掛け、かつて生きていた女の姿を演じ、ここに憑霊現象が起っているのではないかと、錯覚させるのである。
色のない世界が、途端に色付き、兎(と)もすればそこから飛び立って、眩(まぶ)しい光彩が放たれ、生死(しょうじ)を超越して、虚空の翼を持った羽衣が、まるで「羽衣伝説」のように、あるいは鳥のように、駆け巡る幻想が起るのである。
御承知のように「羽衣伝説」の、天女が水浴中に羽衣を盗まれて、天に帰れず、人妻となって暮すうち、羽衣を探し出して昇天するという伝説に由来するもので、また、これに似たものとして、「白鳥処女説話」(【註】世界的に分布する説話の一。白鳥などの動物が若い女性の形であらわれ、人間の男性がその衣を奪って強制的に妻とするが、女性は衣をとり返し、動物に復帰して飛び去るもの)などがある。こうしたものは、日本中至る所にあるのである。そして、虚空を駆け巡る幻想に溺(おぼ)れると言うものである。
人の生死は、一種の幻想によって貫かれている。つまり、ここには「存在」というものがあり、その一方に「非存在」と言うものが隠されている。
「存在」とは、「在(あ)る」または「居る」ことを指す。「在る」または「居る」という事象は、実体が自然的かつ物的なものと、意識的なもの、更には超自然的で、非感覚的なものを「存在する」という。
しかし、「存在する」というものは、やがて時間を経て肉眼で見える実体を失い、「非存在」のものになってしまう。これまで「存在理由」になっていたものが、時間の経過を経て、本来あるべき事象の存在する原因や実在根拠が突然消滅する現象を「非存在」と云う。
能面に、人間の生死(しょうじ)の両方が包含されているように、実際の人間にも、存在と非存在の両方が包含されているのである。つまり、死ぬべきものが生き、一種の奇蹟を起して生きている。しかし、奇蹟が行われなくなると、死ぬべきものは、本来の「死ぬべきもの」への姿と帰って行くのである。
●死に向かっての存在
「人間は死に向かっての存在である」と云ったのは、ドイツの哲学者ハイデッガー(Martin Heidegger/キルケゴールの影響を受け、フッサールの現象学の方法にもとづき、人間存在の根本構造を時間性として実存論的に分析。1889〜1976)であった。また、ハイデッガーは、その著書『存在と時間』の中で、人間存在の根本構造を説く中で、人間の本質を追求し、その存在を、他の生物と違うことを論じている。
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| ▲ 冬は人の心に「死」をイメージさせる。冬の寒さが、一層死に近付ける。死が冬に直結される。しかし、冬は死と結びつくものではない。また死は、霊魂の最後ではない。冬は、次のステップの為の「殖(ふ)ゆ」であり、死は新たな出発の為の発進点である。 |
それは人間が、自ら、「必ず死を迎えることを知っている生き物である」としていることである。しかしこの為に、人間は、自己の実存の形体を破壊される力に、脅(おび)かされる不安に持っている。
つまり、「死」というものは、いつ襲って来るか分からず、へたをすれば、今、この瞬間にも襲って来るかも知れないという不安である。人間はこうした不安に、絶えず脅かされている。
則(すなわ)ち、人間の生命は、常に「死と混じり合い」かつ「死と表裏一体」の関係にある。ここに「死への不安」の実態がある。また、この実態こそ、「存在」と「非存在」とが分かち合いながら、然(しか)も固く結びついている。
自分が死に向かって突き進んでいる存在であると知っている人間は、また、自分が「自由である」ことを意識している生き物でもある。
この「自由」とは、単に束縛(そくばく)されたり、柔躙(じゅうりん)されることから逃れる、肉体的な自由を云うのではない。
人間が「自由」であると云う事は、自分自身の在(あ)り方に於いて、その本質が、自分自身の意思に委(ゆだ)ねられる自由を持っていることだ。
人間は、水冷式哺乳動物の形体を構成し、動物に酷似した造りで生活活動を営んでいる。また本能的衝動は、他の哺乳動物のそれに酷似する。しかし他の動物の衝動は、一義的であり、自(おの)ずから一本槍であるのに対し、人間は理性を以て、それを退(しりぞ)ける事が出来る。この退ける「意思」こそ、自由の正体であり、人間は自らの存在を、自分で形成していく、「自己実現」に向かって、責任を負わされている生き物である。
この事が分かって来れば、「人間は何の為に生きるか」と云う目的意識が明確になって来る。それは、人間が自由であるが故に、常に自らの存在を、自らで決定していかなければならないと云う課題の前に、「立命」の目的を見る事ができるからだ。
人間に向けられた「非存在」とは、則(すなわ)ち「死」である。「死」の脅威に直面しつつ、自らの存在を、自らで決定していく課題を課せられていることが、そもそも人間実存の本当の目的である。
この目的を「存在」の状況として洞察した時、そこには確かに、人間を不安に駆り立てる要素が横たわっていることに気付く。これに気付いた時、「人間は不安から決して逃れない生き物だ」とも理解するのである。
「不安から逃れられない」これは、人間に課せられた宿命である。どう藻掻(もが)いても、これから逃れる事は出来ない。 しかし、大事なのは、「不安から逃れられない」と嘆くことではない。この不安に直面しながらも、不安に対処する個人個人の態度が問題になぅてくる。
不安がのしかかるのは、同じ条件下に於ては、如何なる人も、みな同等の不安材料になるはずだ。問題はこうした不安に直面した時、それに対処する態度である。この態度が立派であるか、そうでないかで、人間の価値が決る。
「死」という、非存在の現実に直面し、これを正しく対処して、また、自分の課せられた責務をどうすべきか、自分が何を為(な)すべきか、これを知っている人は、やがて死生観を超越し、不安から解き放たれるであろう。
しかし、大多数の人は、「非存在」の恐怖に目を背け、故意に逃れようとして、遂(つい)には忘れ去ろうとする作業までをやってのける。然(しか)も、その為(な)さねばならないことを知りつつも、それを果たさずに逃げ回るのである。こうした人は、永遠に「死の恐怖」から解放されることはあるまい。不安と手を携(たずさ)えて、罪責感に何処までも追いかけられなければならないのである。
そして、死の不安から解放される、またとない絶好のチャンスを、自らの現実逃避によって取り逃がしてしまうのである。
そうした最悪の状態に陥らない為には、「死」を素直に認め、いつの日か自分の死ぬという事を自覚し、「死」を他人事のように考えないことである。真摯(しんし)に向かい合い、それを恐怖で捉えるのではなく、「死」こそ、本来の人間の姿と捉えるべきだ。したがって、逃げ回る必要はないのである。
生も死も、人間は表裏一体なのである。表裏一体なるものからは、常に「生の波動」と共に、「死の波動」が送り出されている。
地球上のものは、動物であろうが、植物であろうが、鉱物であろうが、常に波動と言うものが送り出され、それは互いに共振し合っている。波動は共鳴し合うものなのだ。したがって同類項は共鳴し、「類は友を呼ぶ」という俚諺(りげん)まで生まれた。
つまり、人間は生きながらにして、「死」と共鳴し、死の波動によって、生を全うしている事になる。人間には最初から、死が内臓されているのである。何処かで、絶えず、死と共鳴し合っているのである。これこそが、人間の実体である。
共鳴し合うものは、相似の波動を作り出し、裏表の表裏一体の関係を作り、隨(したが)って死を意識する者は「よく生き」、死から逃げ廻る者は、「生」によって殺されるのである。本来、死生が同一の波動であるならば、死を意識すれば「よく生きる」ことになり、死から逃げ廻り、死を忌(い)み嫌う存在として遠ざかれば、死は益々追いかけて来る事になる。
つまり、人間には現世に存在する「生の波動」があり、その裏返しとして「死の波動」が、非存在として内蔵されているのである。
「生の波動」あるいは「死の波動」というと、一見、非科学的な論理に映る。しかし、波動の研究は、決して非科学的なものでなく、未だに解明されない未科学分野のものである。
●生も死も捨てれば楽になる
二十世紀初頭にかけて大流行した唯物論は、肉の眼に見えないものをひたすら切り捨て、これを迷信と決め付け、非科学的と罵倒(ばとう)した。二十一世紀の今日になっても、眼に見えないものを否定し、これを非科学的とする考え方に、誰もが染まり、こうした考え方の後遺症をいつまでも引き摺(ず)っているのである。
「死」も、実際には眼に見ることができない。死ぬ一秒前に抱いて居た人の意識は、死後、一秒経った後の、その意識を感じ取る事は出来ない。
死んだ人間の肉体は見る事が出来るが、死後の人間の意識は確認できない。それ故、「霊魂」などと云うと、非科学的なものの、オカルトの最優先に挙げられてしまう。しかし、未科学分野は、相当数残されていて、多くの事象は殆ど解明されていない。
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| ▲ 能面の皺尉(しわしょう)の面は、一見、品のよい翁面である。しかし、よく見ると、一抹の憂いを含み、これから先の人生を案ずるようにも窺(うかが)える。生い先短い、「生」を憂いているのであろうか。 |
最近の物理学では、量子力学が「見えない心」を解明する糸口を掴み始めたが、医学の分野では「見えない心」に対して、科学する意識が希薄である。医学者の多くは、霊魂など存在しないと一蹴(いっしゅう)する。そして「霊魂の世界」や「霊的世界」が、今なお、未科学分野にもかかわらず、オカルトとして捨て置いて居るのである。
こうした思い上がりこそ、科学者の慎(つつ)む態度であろう。波動の世界、霊魂の世界、霊的世界と対面し、これに真摯(しんし)に、謙虚に向かい合う事こそ、科学者として、最も大切な心ではあるまいか。
人の「生」に意味があるとするならば、勿論「死」に対しても、大きな意味がなければならない。物事には総(すべ)てに大きな意味があるはずだ。
意味あるものは、総て縁(えん)によって導かれ、「因縁」によって、「縁起」が発生している。一切の事物は固定的な実体を持たず、さまざまな原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立しているということだ。
だから、「死」も、この中に包含されている。
こうした結論から考えると、「死」を強迫観念で捉えるのではなく、一歩進んで、死を意識し、謙虚に「死」を見詰め、「死」を自分の人生の「最終結果」として、受諾する態度を確立することが大事である。
しかし、これを拒否して逃げ回ると、本当に死の到来の、到達チャンスを失ってしまうのである。そして、絶望的で「孤独な死」を迎える結末を招くのである。それは「捨てる」ことを知らない為である。
私たちは、自分の人生を省みて、「捨てれば随分楽になるのに」と思う事は数多くある。肩書きや地位、名誉や財産、それに家族などと、いろいろな重荷を担ぎ廻っている。その為に、迷いや悩みが付き纏(まと)う。そして、最後は「生」に執着しようとする。
しかし、「生」に執心していては、本当の「死」すら得ることができない。生も死も執着しないところに、人の落ち着く安住の場所がある。
晩年を迎え、そこで体験しなければならない事は、「老い」と「病気」と、自分が死ぬという事である。しかし、こうした事も、逃げ回る必要はない。
老いれば老いたで、涸(か)れれば済む事であり、不老長寿を求めて若返りに執心する必要はない。病気になったら、病気の真っ只中にあって、病気と闘い、苦しみがあれば、苦しみにのたうち回ればそれでよい。しかし、それに囚(とら)われて思い悩む事はない。
生きる時は精一杯生きて、死ぬ時は死ねばよい。「死」に、思い悩む必要はないのである。
問題なのは、人間が死ぬ生き物である事を否定し、特に自分の死を否定する事である。物事には必ず始めがあり、そして終わりがある。これは如何なる現象も否定できない。こうした実際に対し、迷ったり、悩んだりする必要はないのである。
生まれる時に清浄無垢でこの世に「生」を得たならば、また、死んでいく時も清浄無垢に立ち返り、人間のしての「けじめ」をつける事が大事である。この「けじめ」をつけずに、迷いっぱなしでは、生死を解決する事も出来ず、人生を終わる事になる。こうした生涯を終った人は、再び六道(りくどう)を輪廻(りんね)して、「迷い」を繰り返す事になるのである。
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