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生死の循環・中有の思想
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死ぬるも、また一大事 1


死ぬるも、また一大事

死のトンネルを抜けて。洞窟の先に見える光は何か。


●老成のすすめ

 人間は四十歳になると「初老」と謂(い)われる。つまり、老境に入りかけた年頃なのだ。
 しかし、多くの現代人は平均寿命が伸びた為か、「四十歳」という年齢に、老いを感じる人は少ない。かつては四十歳を「初老の紳士」などと称したが、今では四十歳を「老」と形容して、この年齢を表現する人はあまり多くないようだ。
 むしろ初老という年齢を先送りして、五十歳を初老と呼んだり、六十歳を初老と呼んだりしている。こうした初老に対する年齢意識の間違いは、小説などにも多く登場し、作家自身が「初老」という年齢を間違っているのである。

 では、こうした間違いは何処から起るのか。
 それは現代人特有の、初老に入ったら、これまでの肉体的偏重世界からそろそろ抜け出して、精神世界へと移行しなければならないということを知らない為だろう。

 この「精神世界への移行」を知らないのは、何も初老に差し掛かった四十代ばかりではない。五十代でも六十代でも、「老」の意味を知らない人が多い。
 かつて律令制下では、61歳以上65歳
(のち各1歳引下げ)以下の者を「老丁(ろうてい)」と呼んだ。これは課税に関係している。正丁(せいてい)の2分の1の課税を負担するからである。律令制下では、課役すなわち調・庸・雑徭などの人頭税を負担する21歳から60歳までの健康な男子に課せられた課税制度があった。これは肉体的な分かれ目を示したものであろう。

 しかし、一方で「老」の形容は「老獪」や「老練」の言葉から、年功や経験を積むことで次第に物なれていることも併せ持つのである。

 人は、他人から「若いですね」などと謂われると、俄
(にわか)に嬉しそうな顔をする人が多いが、これは「あなたは年齢のわりには幼稚ですね」と謂われるのと同じで、この本当の解釈の意味が謂った方も、謂われた方も分かっていないのである。
 つまり、年齢より老成してなく、頭の中はからっぽいう意味でもある。

 最近はこうして手合いが殖えている。いい年をして若者ぶったり、通勤電車の中でアタッシュケースから少年漫画雑誌を取り出して辺
(あたり)(はばか)らずこれを読んだり、四十歳過ぎたいい大人が文章を書く時に自分の事を「ぼく」と云う自分自身を指す語を使ったり、自分はまだ肉体には自信があり若いと思い込んでいる初老年代は実に哀れなものがある。

 こうした多くの錯覚は、初老に達したら、一応「死の見通しを立てる」ということを知らない為である。「死の見通し」とは、「人生の見通し」と同義であり、死の見えないものに人生が見えるわけがない。したがって、死の見通しの立たない者には、また人生の見通しも立っていないのである。最近は、この手合いが実に多く、生きとし生けるものは、歳を取るということを完全に忘れているのである。生まれて来たものは、やがて死ぬという真理を完全に忘れ去っているのである。

 「死」というものは、老成しなければ、見えてくるものではない。常に死が見えない者には、人生など見える分けがないのである。人生の見えない者に死は見える分けがなく、死は、ただ逃げ回るばかりの対象となる。そこに死を逃げ回る現代人の愚かさがあると言えよう。
 死を思わない人間こそ、その人間が口にする人生論は嘘で塗固めた人生論であり、また死を逃げ回る人生論である。こうした人生論に、学ぶべき者は殆ど皆無だといっていいであろう。



●死を嗜む技術

 老成しなければ死は見えない。老熟や老練の境地に辿り着いてこそ、死は克明な形をして顕われてくる。

10代
20代
30代
40代
50代
60代
70代
80代
90代
少年期
青年期
青年晩期
初老期
五十腕期
(初中老)
六十
晩学期
(中老)
初大老期
大老期
白老期
自我意識が著しく発達する。10代後半は免疫力のピーク期。
性的特徴が顕著で異性を求める。免疫ピークを超え、下降線を辿る。
独身を通し難い年齢で、伴侶探しと子孫残しの奔走。 老境に入りかけた肉体の衰弱の始まり。肉体からの離脱の開始。 50歳位になって時々起る腕の痛みであるが、同時に種々の病の始まり。精神世界の始まり。 六十の手習いという言葉があるが、晩学の始めとして死を嗜む道を学ぶ。 死を嗜む道の実践の開始。学んだことから行動へ。 死を嗜む道の実践中。より善き死を求めて。 死を嗜む道の実践の総仕上げ。百に一つ足りない「白」の年齢期。

 人間にとって、常に心に繋ぎ止めておかなければならない事実は、この生き物は「非存在」ということである。一運命の転機が顕われて、「存在」から「非存在」に変化するかも知れないと云うことである。
 人間は生きられて、ぜいぜい頑張ってみても僅かに百年程度である。その百年も、ボケずに百歳以上と云うのは稀
(まれ)で、何とか百歳までの長寿を全うしたとしても、その多くはボケ老人か植物人間である。

 人間は長生きしても、せいぜい、百年ほどの人生である。
 多くの人間は百年も経たないうちに、その殆どが死に絶えてしまう。また、運良く百の長寿まで生きられたとしても、その多くは、寝たっきり老人であったり、植物人間であったりして、生命維持装置の厄介になり、薬漬けにされて、辛うじて生命だけを繋
(つな)いでいるだけの「生きる屍(しかばね)」である。

 その殆どは、生きる屍の域を出ない。自分で喋ることも、歩くことも、考えることも、働く出来ない。ただの、生物の形態を成している物体に過ぎない。人格を持たない物体である。行動を伴わない点では、動物以下の姿に成り下がっている。もはや寝たっきり老人に、人としての尊厳はない。

 そこで「人生とは何か」ということを、真剣の模索しなければならない。人間は、人生の折り返し点を過ぎたら、改めてこの事を考えなければならない。誇りある壮年期を迎え、名誉ある晩年期へと繋
(つな)げなければならない。
 しかし、現代という時代は、こうした生き方が困難な時代でもある。

 現世と言う「この世」は、あらゆるものが複雑に、複合的に組み合わされて、依存しながら存在している。何一つ、単独で動いているものはない。しかし、現世は現象界であり、私たちの棲
(すむ)む現象人間界は、変化し、流転(るてん)するという制約に縛られている。その為に、固定した実体というものが、何一つない。

 ところが人間は言葉を用いて、現象のそれぞれに名称や名前をつけた。自分の足許
(あしもと)を見て、踏みしめたものを「大地」といい、天を指して「空」と名づけた。そして自分にも、「わたし」もしくは「ぼく」という一人称での呼称をつけた。
 こうして、一旦名前が与えられると、大地も空も固定した、実体を持つ存在に思えてくる。かくして、私たち人間は、固定観念の世界に絡
(から)め捕られ、先入観に襲われるのである。

水平線の彼方から、何処が空でそこが海か、その境目が明確にできるだろうか。どんなに微小な部分をとっても全体に相似している(自己相似)ような図形がフラクタル(fractal)であり、例えば海岸線などが近似的なフラクタル曲線とされる。そうすれば、空と海も、一種の相似と考えられるだろう。

 人間の脳には二つの脳があり、普段は左脳が中心になって働いている。つまり、本来は左右の脳が分離し、かつ独立しているわけだ。するの左右の脳には各々に二つの宇宙が映っているということになる。そして二つの宇宙があるならば、二つの脳にも二つの宇宙が映るごとく、やはり二つの脳を持った自分が
映っているはずである。

 そうすると、映っている自分の脳には、常に「二つ」が無限に続くことになる。
 では、「無限」とはどういうことか。
 それは総て、点になってゼロ次元に集束するのかと云えば、そうではない。これはフラクタル次元といって、絶対にゼロにはならないのである。非常に複雑な集束の仕方をする。
 例えば、二つの脳の場合、別々に働き、然も互いに響き合い、何処までも二つの対応関係が連続するのである。この意味で、「天の気」と「地の気」は宇宙の気と合一し、互いに反応するのである。

 大空を見上げて、何処から何処までが空か、判然としない。また、大地を見て、山や丘の判別がつくだろうか。あるいは空と海の境目が、何処にあるのか判別がつくだろうか。
 こうして人間は、言葉や固定観念に囚
(とら)われ、この中に絡め捕られていく。その為に、人間は「こだわり」を、「わたし」や「ぼく」に向け、これに固執するようになる。そして遂には、あまりにも「わたし」や「ぼく」にこだわる為、自分が、年とともに老いて、死んでいく自分を案じ、この現象を「怖い」と思うようになる。これが「死への恐怖」である。

 人の悲しみや、苦しみの根源には、「死への恐怖」が横たわっている。
 しかし、無常は止
(や)むことがない。変化をし続ける。現象界では、一時たりとも止まる事がない。常に流転(るてん)するのだ。
 宇宙は絶えず、「生成」と「死」を繰り返している。その中に、現代を生きる私たちがいる。その中で形成されている以上、私たちの世界もいつかは破壊され、やがて「空
(くう)の世界」に回帰する。

 変化は生成し、その後、必ず死が齎
(もたら)される。この世に生まれ出た人間は、必ず死に向かって、一歩一歩、歩んで行かなければならない。
 「自分はまだ若い」などと、箍
(たが)を括(くく)ってはいられない。また、「死は、自分には、まだまだ先のことだ」と安心してもいられない。だから「死について考える」など、ナンセンスだと一蹴(いっしゅう)することも出来ないだろう。そうした隙(すき)にも、死は確実に忍び寄っている。

 一般的に言って、「老化」は老人の問題のように考えられている。しかし、誰でも、生れ落ちたその日から、確実に加齢が始まっている。若者と雖
(いえど)も、日々老化しているのである。若いといっても、病気に斃(たお)れれば、死の風に脅(おびや)かされる。

 また、老衰が近づけば、やがて死を覚悟しなければならない。この世での「生」は、常に死の風に吹かれ、脅かされているのである。儚
(はかな)いシャボン玉のような人の命は、いつ強風が吹いて、潰(つい)えるかも知れない。夜寝て、翌日の朝、元気に起床できるという保証はない。したがって、翌日の朝眼を覚ますことが出来るというのは、大変な奇跡でもある。
 いつ、死の風に吹かれるか、それは何びと雖
(いえど)も知ることができない。人間は奇跡の連続に頼っていかなければ、一秒たりとも生きることが出来ない。

 一度、死の風が吹き始めれば、あなたがどんなに大富豪であっても、これを躱
(かわ)す事は出来ない。家族や友人に恵まれたとしても、また、地位や権力を得ている人でも、一旦死の風が吹き始めれば、これらは何の力もない。金銭や財力で、どうこう出来ない。
 したがって、人生の折り返し点を経験した晩年期は、自分の生きた証
(あかし)を示す、ラスト・スパートであるともいえよう。それな、よく生きた人間だけに、「よりよき死」が与えられるのである。
 「よりよき死」を迎える為に、あなたは一体何を模索しているであろうか。

 年金生活を前にして、贅沢に送る老後を、後半人生のビジョンに描いているのであろうか。それとも、安穏とした後半の人生設計を、漠然と頭の中で描いているのだろうか。

 しかし、あなたが目指す豊かな老後は、単に物質的な豊かさを指しているのではあるまいか。
 多くの日本国民は、豊かな老後を送る為に、若い頃、懸命に働く。老後に備えて、働かないで喰っていく為に働く。つまり、最終目的は、働かない為に働く。これは、何と矛盾した考えであろうか。

 しかし、誰も働かない為に働くという現実を、矛盾とは思わない。その自覚症状すらない。
 そして、「働かない為に働く」という行為の中に熱中する。そして、これには老後の精神的な文化は、殆ど含まれていない。
 ただ、誰もが豊かな老後を夢見ている。その豊かさとは、精神的な豊かさではなく、物質的な豊かさを追い求めているに過ぎない。それは精神生活が抜け落ちた「延命の老後」である。
 あるいは、何処かの豪華マンションタイプの老人介護施設で、贅沢で、退屈な、気だるい日々に明け暮れる老後を夢見ているのであろうか。

 人間の生涯に、最終的な「有終の美」の時期があるとすれば、それは晩年期に差し掛かった時に思慮する「よりよき死の模索」ではないだろうか。
 自分の生きた証
(あかし)を誇り高く、名誉に導くものがあるとするならば、それは「老化する私」の現実を真摯(しんし)に受け止め、そのことを具体性をもって、これに関心を示すことではないだろうか。

 現代を高齢化社会と位置づければ、高齢化は、一見長寿村のような意味合いを連想させるのであるが、何故か、「高齢化」と「長寿村」のイメージはイコールにはならない。暗い、惨めな衰退する社会を連想してしまう。これは何故だろうか。
 それは日本人の平均寿命が延びた事にも起因していることであろう。しかし、平均寿命が延びたと豪語しても、それは薬漬けにされ、生命維持装置の手を借りてのことであり、健康的で、溌剌
(はつらつ)とした老年期を過ごす老人が大勢いるということではない。

 老年期にあっても、社会活動に参加し、意欲的に健康法を実践し、「日々新たに」の思想をもって、晩年期を元気に全うしている65歳の老人は、全体の一割にも満たないであろう。
 それどころか、いま自分が若いと盲信している若年層にも、老化の魔の手は忍び寄っている。小学生の健康診断にも、糖尿病、肥満症、動脈硬化、高血圧、高脂血症、心機能低下などの成人病の兆候が現れ始め、また、思春期の憂鬱
(ゆううつ)は、心を病み、鬱病や神経症を齎(もたら)し、精神を病んでいる現実は、何も老人だけとは限らなくなった。

 そして、最も恐ろしいことは、現代の環境の変化に、子供のうちから老化が見られる現実がある一方、薬物や医療機器などの生命維持装置を使って、高齢者の平均寿命を押し上げ、国民の医療費に負担をかける現実があることだ。
 薬物や医療機器などを使った高齢者の延命医療は、人体の自然の生理に反している。医療現場で実践されてるこうした医療措置は、単に高齢者をだらだらと生き延びさせておく、技術以上の何ものでもない。実に恐ろしい事といわねばならない。

 また然
(しか)も、生命維持装置によって、不健康に生き延びた老人達が、社会の尊敬を受け、生産現場に復帰して、精神的文化に大きな貢献をしているという話は、一度も聞いたことがない。現実の日本に、誇りある老年を送る為の社会条件や習慣といったものは、この国にはないのである。
 現実問題としてあるのは、老人は嫌がられ、最後は完全看護の、高級マンション風の老人養護施設で過ごすという、体裁の良い「姥捨て山」があるだけである。
 こうしたところに収容されて、果たして「よりよき死」が得られるだろうか。

 多くの人は、大方このように生まれ来て、また役割を終われば、もと来た場所へと帰って行く。人間は生を受け、生・老・病・死の四期を辿り、再び、もとの世界に帰って行くのである。
 こうして人の死を観
(み)ると、人の死には「様々な死に方」があるといえよう。



●死ねばそれでお仕舞いか

 したがって、「死ねば、これまでの意識もなくなり、総てはそれでお終い」と云うようにはいかないのである。現世の三次元現在界は物質界であり、生活の基本は、物質至上主義や科学一辺倒主義で、主に可視世界を指す。これが「この世」という「表」である。
 そして、人間の住む世界は現象界であるので、現象とは「変化」を指し、同時に変化をする為には「二大対極」の相反するものが存在しなければならない。眼に見える光以外に、もっと細やかな、素粒子より小さな心を司るモノがある。しかし、現段階では発見されていない。

 この二大対極の向こう側に、肉の眼では確認できない「不可視世界」がある。これが「あの世」であり、「裏」である。
 この事から人間の生命は、不可視世界と可視世界を循環していることになる。「生」あるものは、やがて寿命が尽きて「死」に至る。しかし、同じ死でも、様々な死に方があるのが周知の通りである。それならば、誰が考えても、事故死よりは自然死の方がいい筈
(はず)である。死に態(ざま)にもレベルがある。
 したがって、よりよき「死に態」を得る為には、生きているうちに「改心」しなければならない。

 「改心」とは、単に、これまでの「行い」や「心」を改めたり、悪い心を教化することばかりを指すのではない。一般には「改心して、出直す」などというが、最初から、もう一度やり直すことばかりでなく、これまで間違った固定観念や、先入観を消去させることも「改心」の一つである。

 間違った固定観念や、知らず知らずの間に蓄積した先入観は、固定的な観念や見解は、「自由な思考」を阻害する元凶となってる。真理が真理として捉
(とら)えられなくなり、意図的な洗脳によって、先入観は固定化されてしまう。そこに自由を失う元凶が横たわっている。

 例えば、先入観の一つとして、強い躰
(からだ)と言うのは、「強靱(きょうじん)な肉体と、体力だけを指す」と考えている人が少なくないようだ。
 また、「本当の健全」の意味も解しないまま、「健全な精神は、健全な肉体によって造られる」と思い込んで居る人が少なくないようだ。
 あるいは強い肉体は、強い精神力を持ち、そこから強い力、強いエネルギーが放射されると信じて疑わない人が少なくないようだ。これこそが、間違いを誘引する、先入観と固定観念の最たるものではあるまいか。



●寿命について

 人間の寿命は齢(とし)ではない。あるいは命の長さを指すのでもない。生命(いのち)を燃焼させ、燃える火を、生涯をかけて灯し尽きることである。懸命に燃やせば、その燃焼は完全になり、怠ければ不完全燃焼となる。そして人の寿命の成就とは、どれだけ全力投球をしたかに懸(かか)る。

 しかし、全力投球をする完全燃焼とは、老後の苦しみを引き換えにして、「今の快楽」を求める事ではない。
 若い時だけにしか出来ない「青春の謳歌
(おうか)」という行動がある。これは若い時だけに、ありったけの力をぶつけ、青春でなければ楽しめない人生指向である。この指向に目覚めた時、人はただ一度の快楽的な幸福を、あらん限り享楽して、老後の苦しみを引き換えにしてこの甘味に浸ろうとする。

 この指向の中には、歳をとってから、少しくらい憂
(う)いめや、辛いめをするのと、若い時にせっせと働いて、二度と帰らぬこの人生の青春を、虚(むな)しく働き、歳をとってから少し楽をする双方を天秤に掛け、人生はどちらが得をするかを計算する考え方である。

 つまり、青春を享楽に当てて過ごし、永い生涯が終わりを迎えて、墓場の入口に立って自分の人生を振り返る時、「若い頃は実に楽しかった」と思えるような生き方がよいか、ただ我慢を重ねて歯を喰い縛り、遊戯などには目もくれず、働き通して老後を迎え、自分の働き度を、たかがしれた貯金通帳の数字の数で比較した時、双方は果たしてどちらが得をしたかという、晩年の反芻に立ってその重さを計る事である。

 どちらが本当に幸福で、またどちらが人生を得したかを考える生き方である。
 若い時に享楽の限りを尽くし、そこで青春を謳歌し、人生を得をしたと言う考え方と、若い時に働き詰めで、歳をとってから余力のある事に幸せを感じる事と、果たしてどちらが得をしたかということである。

 若い時にしか出来ない事をして青春を謳歌するか、あるいは歳をとってから幾らかの財のある事が幸せなのか、両者を比較した時の損得勘定である。
 しかし、現代人は青春謳歌型の、太く短くと言う事より、歳をとってから細やかならがらも、幸せになるという方を選ぶようだ。

 つまり若い時に一生懸命に働き、蓄えをすれば、幸せになれるのではないかという考え方をするようだ。
 しかし、これをよく考えると、若い時に快楽を享受してそれだけで果てるのか、あるいは歳をとってから幸せになるのかは、その人の持つ天分であろう。あるいはその人に備わる徳分であろう。

 こうした事は、因縁によって決まる事であり、幾ら働いても、身に金が付く縁がなければ、若い時から一生懸命に働いても、やはり歳をとっても齷齪
(あくせく)としなければならない。働いても働いても貧乏をしている人はいる。
 一方、若い時にそう働いたわけではないが、金が身に付く徳分を持っていれば、金の方がやって来る。あるいは人の道を外さず、当たり前の事を当たり前に遣っていれば、幸せの方がやってくる。

 則
(すなわ)ち、貧富は総て天にあると言えよう。これはわが身に持つ因縁であり、徳分によっている。しかし、「天」だ、「徳分」だといっても、これは果たして充(あ)てになるのか。あるいは未来は確実なものなのか。確実と思われた未来予測すら、時として誤算が起るではないか。一体これはどうしたことか。
 充てにならぬ事を充てにして、二度と帰らぬ若さを虚しく費やし、某に振ってもよいのかという考え方が、再度浮上して来る。

 更には、「人は何故働かねばならないのか」という疑問が持ち上がって来る。働いて金を得たとしても、身に付く徳分、あるいは因縁がなければ、金は直ぐに逃げていく。ただ逃げていくばかりでなく、他のものまで率き連れて出て行く場合もある。

 歯を喰い縛り、臂で人を押し退け、我先に、人より一寸先に躍り出て、せっせと金を稼ぎ、蓄え、どうやらこれで一安心と思った時に、金が身に付く縁がなければ、家族に重病人が出たり、交通事故などで大被害を受けたり、不注意から大怪我を仕出かしたり、詐欺に遭遇したりと、一度は貯まった金も遂に出て行って了
(しま)う。

 それにもめげず、再び気を取り直して齷齪
(あくせく)と働き、今度はやっとどうやら金が貯まったかと思うと、天変地異などに襲われ、人間の力では如何ともし難い不幸に遭遇して、更に不幸のドン底に陥ると言った事もあるわけである。
 金銭は身に付く因縁がなければ、実は身に付かない。幾ら懸命に働いても、出ていくものは出て行く。

 こうして考えて来ると、金や幸せと言うものは、直接的に掴もうと思って追いかけても、「徳分」というものがなければ、実際には身に付かないと言う事が分かる。「徳分」を養わない以上、金も幸せもやってこないということになる。

 追い求めても逃げていくばかりで、直接に求めれば、それはただ我
(が)の炎上と言う事になる。この「我の炎上」に、寿命と言うものが絡んでいる現実が、人生の側面に転がっている。寿命を求めて求められるものでなく、それが天にある。

 貪欲に、我執によって寿命を引き寄せても、寿命は直接的に人間側に引き寄せる事が出来ず、長寿を願うのは我欲から起る「煩悩の焔
(ほのお)」ということが分かる。
 「求めて得たものは埃
(ほこり)」という言葉があるが、これは寔(まこと)に真理を顕わした言葉と言える。



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