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死に方が選べない時代 2


●死にざまに現れる凶相と死相

 死相は確実に顔に現れる。そして、死相の現れる特徴は、「正中線上」に現れることだ。
 正中線上に現れた人は、臨終に臨み断末魔を経験する。
 人間の正中線上には任脈
(にんみゃく)と督脈(とくみゃく)と言う二つの経絡が趨(はし)っており、両方とも「会陰(えいん)を起始とする。

 任脈は会陰から始まり「神闕
(しんけつ)を経由して、更に上に昇り、24番目の経穴「少漿(しょうしょう)で終わる。また督脈は会陰から始まり、「命門(めいもん)を経由し、更に昇って「唖門(あもん)」に至り、後頭部の正中線を通って「百会(ひゃくえ)、更には「印堂(いんどう)、そして「齦交(ぎんこう)で終る。

 顔面の正中線上には、任脈として「神庭
(しんてい)、「印堂」、「素(そりょう)、「水溝(すいこう)、「兌端(だたん)、「齦交」があり、督脈には、「少漿」がある。
 また観相学的に観
(み)れば、天中天庭宮/髪の生え際から上を見上げた時にできる皺まで)、官禄(職務宮、額のど真ん中で、吉凶が出る)、印堂太陽宮/眉間の事で、一身の運気が集まるところ。更にここからは気力と活力の精気が出る)、山根自身宮/目と目の窪んだところで品性と知性が出る)、年寿活力宮と寿命宮/鼻の尾根で、闘志と病状が現れる)、準頭物心宮/鼻の先で金に対する力と生命力が出る)、人中人中宮/口の鼻の間にある縦の溝。寿命や健康状態が現れ、女性の場合は女性器の状態や子供運が現れる)、口飲食宮/情欲と哺乳動物的愛情)、承漿地力宮/口の下で、病気や薬当たりが出る)、地閣地力宮/顎で、子孫や愛情や志が出る。また晩年運が克明に出る処)を現す。

顔に顕われる凶相と死相。死相は正中線上の任脈と督脈の周囲に顕(あら)われる。また、人間の貌(かお)には、疾病するべき箇所の小さな人形が張り付いている。
(曽川和翁哲学博士の『立体人相学』より)

 死相は観相学的に観(み)ても、この正中線上にはっきりと現れ、喩(たと)えば、額に現れ易いのは縦の黒筋であり、これは間もなく死ぬ死相である。次に、死霊(しりょう)に苦しめられている人に人相は、眉間(みけん)に縦皺(たけじわ)が一本入り、特に、憑衣・憑霊されている人は、ここに皺(しわ)が入り、胆石やリュウマチ、胃痙攣(いけいれん)や精神障害であり、何らかの身体的精神的苦痛を抱えている人である。こうした人は、皺または深い溝が出来る。
 また、呪われている人は、眉間に縦皺が2本入る。これもまた、死霊のせいであり、死霊は督脈上に対し、これが現れる。

 こうした死霊の憑衣に対し、生霊
(いきりょう)の場合は《足之太陽膀胱経(あしのたいようぼうこうけい)の左右の線上に現れる。特に「晴明(せいめい)と「攅竹(さんちく)には克明に現れる。こうした形で死相が現れる人は、この部分の両方が、既に黒ずんでおり、生霊(いきりょう)の呪いが効いている事を現す。またこうした人は、精神分裂病の人に多く見られ、癲癇(かんしゃく)並びにその他の発狂等は、この《足之太陽膀胱経》の病気だと言えよう。

 これは前生
(過去生)の色情の因縁に絡むと言われている。
 この印堂横の、左右の線上に現れる短い縦皺
(たてじわ)2本は、前生に色情の因縁で狂った人であり、現世に至ってもこうした因縁を持ち越し、これに狂う。十代半ばで、性交渉のあった女子は、色情因縁から起こるもので、更に、成人しても不倫を働く女性は、過去から持ち越された色情を、今もなお、続けていると言う事になる。

 こうした色情因縁を持っている未婚の女性は、男を誘ったり、男に付け入られる合図を自ら示しているが、こういう色情因縁を背負った女性が既婚の場合、夫を横死させる「凶相」を背負っている事になる。また、こうした女性は、未婚や既婚に関わらず、男側を横死に導く。

 一般に横死と言えば、事故死等を指すが、色情因縁に絡む女性と接触した場合、殺人
(複数殺人)等を働き、「刑罰によって横死する」と言う凶相を持つ。つまり処刑死である。これも憑衣としての霊障の顕われであり、此処に現代人の多くが「憑衣されている」と言う現実がある。恋愛などには霊的現象が絡む場合が少なくない。あるいは、だから恋愛に趨(はし)るとも言えよう。異性や同性を引き寄せる現象は、憑衣・憑霊から起こるものであるからだ。

 これを考えれば、犯罪は、偶発的に起こるものではない。前生からの因縁を持ち越して、現世に現れるものであり、この派生の過程には、何一つ偶然や、自然発生的なものは一切存在しない。予定は、既に過去から予定されているものであり、これを人間は現象人間として、現世に具現しているに過ぎない。此処に因縁の必然性がある。




●死にざまに現れる刑と罰の死相

 刑罰の裏側には、同じ人間でありながら、一方が一方を言語に絶する残忍な方法で断罪し、一方は、逆にその残忍な刑罰に対し、断末魔(だんまつま)の叫びを上げて、地獄を見ながら筆舌に尽くし難い苦しみを味合いながら死んでいく。この事実から、人が人を裁くと言う恐ろしさを、身を以て感じ、一体「刑罰」とは何だろうか、と言う疑惑が浮かび上がって来る。

 一般には、処罰させられるからには、何らかの罪科があると考える。では、その処罰の対象になる罪科とは何なのであろうか。それは果たして、罪を罰すると言う事なのであろうか。
 人間の死に態
(ざま)には、あらゆるものが絡んで来る。その絡んで来るものとは、一体何なのであろうか。
 生命は「尊い」と言う。その尊い生命までを犯し、残虐し、罪科に課せる言う思想は、一体、人類の何処から起こって来るのであろうか。
 源泉を辿れば、疑問は果てしなく浮き上がって来る。

 人類の死に対する「残酷」に焦点を当てる時、どうしても「死に態」に最も関わり合いのあるのは、罪科を定める、その根底に流れる思想である。
 そして、再び浮上して来るのが、刑罰とは、犯罪に対する報復手段であるのか、ということである。

 現在では、刑罰は犯罪者を日常生活の社会から隔離する事によって社会秩序を維持し、同時に犯罪者を再生させる事を理想に掲げ、社会に再復帰させる事を目的にしている。
 したがって、前近代的な虐待
(ぎゃくたい)や拷問(ごうもん)は姿を消し、懲役、禁固、罰金等が刑罰の中心となっている。しかし、犯罪者の生命を断つ刑罰は、未(いま)だに世界各国で存在している。

 それに懲役、禁固、罰金にしても、内容は苦痛そのものであり、刑罰の本質は、依然として罪に対する応報と言う、江戸時代に科
(か)せられた処罰の域から全く抜けだせていないのである。人間の倫理意識と、哲学や思想は相変わらず旧態依然のままである。



●臨終と死相

 人の死に態(ざま)の刹那(せつな)には、様々な形が顕(あら)われる。そして死に態は、その人の生き態に大きな影響を与える。それは即、死に態が、生きざまに連動された《予定説》であるからである。
 予定説は、原因があって結果が派生するものではない。結果があって、原因が生まれるのである。この考え方は、「因果応報の原因が結果を生む」と言う因果律的な思考とは逆で、大きく異なっているので注意して頂きたい。

 十七世紀後半、ヨーロッパにおいて金融経済が勃興
(ぼっこう)すると、その人々の欲求はこれまでとは異なり、外へ外へと拡散・膨張続けた。この拡散・膨張のエネルギーが資本主義を始動させ、消費を繰り返すシステムが生まれたのである。

右回りの西洋思想は、欲望の現れである拡散と膨張を繰り返す資本主義の、卍(まんじ)と同起源である右鉤十字のハーケン・クロイツ(Hakenkreuz)。右回りの思想は、かつては1919年以来のナチ党のシンボルに使われた神秘主義の右鉤十字だった。

 この拡散・膨張のエネルギーは、明らかに《右回りの法則》から構築されたものであり、またこれはマックス・ウェーバーMax Weber/イツの社会学者・経済学者)が唱えたように、このシステムの中には『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の、思想があり、これはキリスト教の予定説で貫かれたものであった。

 《予定説》では、悪人は、善人が汚れて悪人にはったのではないと説く。悪
(あ)しきを働くから、神は救済を予定しないのだと説く。したがって、神が予定しない人であるから、その人は悪しきを働くとするのである。善行あるいは悪行と、救済と不救済が逆の関係にっているので注意を要する。

 《予定説》とは、「逆因果律
(ぎゃくいんがりつ)」なのである。そして神の予定は、必ず予定されると言うのが、《予定説》の一番重要なところである。

 また《予定説》は「想念」が作り上げるものであるから、その予定は、必ず心像化現象として現世に具現されてしまうのである。これが、死に態が生き態にも影響している所以(ゆえん)である。
 《予定説》で行けば、死に態が予定されているから、生き態に反映され、生き態の反映はそのまま、善悪の行動として顕
(あら)われる、という「逆因果律」を導き出す。

 現世と言う非実在界には、現象人間と言う行為が起こるから、様々な災いがあり、盗賊難、疾病、下剋上や革命、殺人や傷害、不倫や家庭不和等の不幸現象が次々に起こり、こうした不幸現象が不調和を起こしながら国運に関わり、企業の盛衰に関わり、個人の運・不運に関わっている。

 さて、人の死に態における「臨終
(りんじゅう)」とは、人が、まさに死なんとする時機(とき)、その人の総決算とも言うべき形が、一挙に顕われ、これまでの生き態の善悪の清算が問われる。そしてこの総決算こそ、「ゼロ」の世界であり、「空」に回帰する来世の第一歩となる。
 臨終に際して顕われる「相」は、その人の生き態の正・邪を顕わす審判であり、それは臨終の「相」によって判断する事が出来る。唯物論者達は、死に際して「死相」など無いと断定しているが、死に態の大事を教える臨終は、各々の刹那の瞬間に宿ってしまう。

 「眼は口ほどにものを言う」という諺
(ことわざ)がある。
 これは情を込めた目付きは、口で話す以上に強く相手の心を捉え、抉
(えぐ)るからである。死の刹那(せつな)に、「眼に神(しん)が宿る」からである。
 死に態は、生き態に影響しているから、刹那の瞬間に眼に神が宿っていれば、それが即ち死に態であり、生き態もまた、そうした精気
(生命力や活力)によって表現される。

 精気が宿っていれば、眼にはやはり神が宿り、衰えると神
(しん)は居なくなる。神が居なくなれば、物事の善し悪しは判断出来ないから、こうした神の居なくなる人の臨終は、呼べど叫べど、眼が答えなくなってしまい、やはて三白眼さんぱくがん/黒目が上方にかたよって左右と下部の三方に白目のあるもの)の悪相へと移行する。こうした意味からも、やはり死相はあるのである。



●教条主義は死相を招く

 臨終に際して、心得るべき事は「教条主義は死相を招く」ということである。
 教条主義は特定の宗教や宗派に属し、自分達の宗教や宗派以外は頑迷に認めようとせず、他に属する人達を邪教扱いする考え方である。特に、こうした考えは折伏
(しゃくぶく)等で理論武装した新興宗教に多く見る事が出来る。

 こうした教条主義に陥っている人の多くは、死して後、それほど宗教に熱心でなかった人や、清貧を甘んじて受け、慎ましやかに静かな信仰生活を送って来た人より、本来の人間の姿に戻り、素直な魂に還元していく事が遅れる。歪
(ゆが)んだ宗教の理論武装の暗示に幾重にも掛けられている為、その固定観念を中々捨てる事が出来ないからである。此処に理論武装した宗教の固定観念の恐ろしさがある。「こうでなければならない」思考に凝り固まっているからである。

 また、新興宗教における「信仰熱心」と言われる人達は、人間界での修行より、教団に入り浸りの時間の方が長く、人生経験に欠け、常識に欠け、人間としてのトレーニングが不充分でしたから、前頭葉の発達が、他の人より未成熟で、死して後、最初の段階である霊幽界
【註】ここを「精霊界」と言う人もいるが)に至った時、霊界構造のシステムが中々理解する事が出来ない。

 本来ならば、新興宗教の教義によって霊界システムを学んだ筈なので、一番先に霊幽界から霊界へとスムーズに旅立てる筈なのであるが、これは出来ずに、顕界
(げんかい)等の悪想念に邪魔されて、地縛霊等になってこの場に留まり、不成仏霊になっている事も少なくないようだ。
 そして、むしろ宗教に入れ揚げた人ほど、逆の結果を招き、成仏できないでいるのである。

 つまり、特定の宗教に与
(くみ)すれば、その教団の教義に、自らの霊的神性が曇らされて固定観念と言う殻を作り、その為に波調の格を下げてしまうのである。そうなると低級な外圧等としか交流できなくなる為である。接するものは低級なものばかりで、その波調も粗(あら)いからである。低級で、波調が粗いとなれば、その結末は言わずと知れた事であろう。したがって、臨終を失敗してしまうのである。この失敗が、既に「死相として現れる」のである。

 所謂、唯物論者達が言うように、「死相はない」のでなく、「死相があるが三次元の肉の眼では感得できない」だけなのである。



●生命無限の仕組み

 臨終とは死に臨むことであり、「死にぎわ」「まつご」「いまわのきわ」等の言葉が用いられる。
 また臨終正念
(りんじゅうしょうねん)と云う言葉があり、死に臨んで、心が乱れず、往生を信じて疑わないこと、あるいは心の迷うが無いことを言う。邪念を起こさず、素直で、清い心を以て、かつての自分の家に帰る事を言うのである。

 おおよそ人生と言うのは、「死」ほどの重要なことはなく、「死」ほどの一大事はない。
 人類がその歴史の中で、識
(し)ると識らぬに関わらず、時代の古今に関わらず、洋の東西に関わらず、あるいは長幼を超えて、また性別を超えて、何人にも同等に課せられれているのが、「死」という命題である。
 そこからは何人たりとも逃れることが出来ず、何人たりとも命を延ばすことが許されず、何人たりとも果たさねばならぬ責任がある。そがれ「死」である。

 死に臨んで、まさに一度きりであり、我が人生において再び出会う事のない、然
(しか)も最も難しい、また最も容易(たやす)い一大事。それが「死」である。そして善(よ)きにせよ、悪しきにせよ、もう絶対にやり直しが効かない、更にはリハーサルすら出来ないのが「死」に臨んでの、生の終止符の行為である。

 この終止符の行為こそ、人間の大事な生きた証
(あかし)の要(かなめ)が存在し、これを無事に終えるか否かで、生命の総決算が最終的に決着をつけることができるのである。これこそ、まさに人の世の一大事なのである。

 人間最後の最高の欲望は、恐ろしいと想念する死から逃れて、生に縋
(すが)り付くことであろう。この最高の欲望こそ、生命欲の正体であり、その断絶が「死」であるから、死に対する悲痛な叫びや、その「死」と言う、忌々(いまいま)しい姿は、何とも人の眼に、恐ろし気(げ)に移るのであろう。
 こうした死を忌
(い)み嫌うことは、日本の神話時代にも屡々(しばしば)登場し、人間が死に対する最初の感情は「恐れ」であったのかも知れない。

 死が人生最後の悲痛な叫びであるとするならば、人はあらゆる努力をして死を超剋
(ちょうこく)し、死生観を乗り越えなければならい。そして死生観を超越したところに、死は、これが最後のものでないということが分かる。
 非実在界で起こる現象人間の火と水の試煉
(しれん)は、生まれ出て「火」を灯し、生・老・病・死の四期を経て、最終の末期(まつご)の「水」で、そのサイクルが終わる。「阿(あ)で生まれ、「吽(ん)で傷害を閉じるのである。まさに、人生の四期の、最期である。

 しかし、火と水の試煉
(しれん)を受けたその先に見えるものは、死は、実は生の終焉(しゅうえん)ではない。死した後も、意識は生き続け、生きていると言う形から、次は隠れた幽(ゆう)に向かって、不変な世界へと向かうのである。そして、そこで再び認識するのは、生命無限の仕組みを知って、再び生命の一滴(ひとしずく)に回帰すると言うことなのである。この循環を、何ゆえ科学的でないと言えるだろうか。この循環を否定する事こそ、非科学的な考え方ではないか。

 肉体は死して後、大自然に還元される。肉体は元の形を失い、土に帰り、水に戻り、いろいろな元素に還元されて宇宙に戻って行く。霊魂は肉の形が柵
(しがらみ)から解放されて、魂は元の場所へと戻り、霊は霊で「霊幽界」へと旅立つ。これは丁度、寄合で会合していた連中が、時間が来たので我が家へ戻って行く、この別れに似ている。
 しかし肉眼でしか見えない可視世界は、不可視世界の樣子まで見えないので、人の死は、無くなったかのように映るだけなのである。三次元科学では、知覚できないのである。

 生命と言う生きとし生けるものの、不思議なものほど他にはなかろう。それはどうすることも出来ない不思議な力で、考えれば考えるほど、偉大であり、玄妙
(げんみょう)であり、また荘厳(そうごん)ですらある。人間を含めて、生きとし生けるものの生命の不思議は、一体何処から来るのであろうか。

 植物の種一つ取っても、その小さな粒の中に、茎になる部分、葉になる部分、花になる部分は何処にも見当たならい。それなのに植物は季節を間違わずに芽を出し、茎を伸し、花を咲かせる。これは動物も、また人間も同じで、特に霊長類の長
(おさ)と言われる霊魂の不思議は、その生命、その心、その霊や魂が、一体何も無いところから出て来て、忽焉(こつえん)と生まれて来るのか、そこに生命の神秘を感得する事が出来る。

 人為ではどうすることも出来ない、この一つの不思議は、親の肉体を通じて、世の中に形をとって現れると言う、その生命の本体も、モトがなければならないと言うことである。だからこそ、そこに感じるのは、生命の不滅であり、私たちはこうした事実に、永遠の命を思うのである。

霊長類としての人間の持つ肉体・幽体・霊体・本体の四つが重なった人間の四重構造。

 生命は不滅であるから、必ず循環している。永遠と繰り返され、吐納(とのう)を繰り返し、波動を作り出しているのである。放射・吸引して、これは一時も止むことがないのである。
 しかし、人間が肉の形を解
(ほど)く時、本体に戻るから、ここで呼吸を止めるのである。こうした帰って行く現象を、「去(い)ぬる」と言う。
 また「去ぬる」は「往ぬる」とも書くので、「来る」を顕
(あら)わし、更に「帰る」を顕わす。
 そして「死ぬる」の「しぬる」は「し」であり、「し」は「ひ」であり、「ひ」は「霊」を顕わします。即ち、「しぬる」は、霊
(霊または魂)が元の場所に帰ることを顕わしているのである。



●死相は、「喜びか」「悲しみか」で決定される

 人が生まれる時は「喜び」である。であるなら、死ぬ時も「喜び」でなければならない。朝起きた時が「喜び」であるならば、また夜寝る時も「喜び」でなければならない。ここに「歓喜の循環」が働いている。
 金銭が入って来る時が「喜び」であったら、また金銭が出て行く時も「喜び」でなければならない。貯金が「喜び」ならば、また借金も「喜び」でなければならない。これによって相互が吊り合うからだ。
 入って来る時だけが「喜び」で、出て行く時が「悲しみ」と言うのは、自他離別の意識である。

 物事が循環する世界で、一方だけが「喜び」で、他方が「喜びでない」と言うのはあり得ない。総てが喜びであって、自他同一の意識は成立するのである。この意識は、「同一」と言う次元に置かれる事によって、再び循環する。

 流転
(るてん)し、循環する世界では、総(すべ)てが喜びであり、歓喜であると気付いたならば、総(すべ)ての悩みは解消され、苦しみは昇華しょうか/物事がさらに高次の状態へ一段と高められること)し、迷いは断たれる。生まれる時が喜びであれば、また死ぬ時も喜びなのである。
 しかし「歓喜の順環」を知らない人は、表皮の現象だけを捕らえて、これを現実に、狭義の論理の中に回帰させる。これをただ観念の世界で捕らえて、非実在界を思索の戲
(たわむ)れと見るのは余にも短見であると言えよう。

 「入って来た物は出す」というのが「歡喜の循環」である。入って来た物を出さずに溜め込んでしまえば、当然此処にはトラブルが発生する。病気をなども、このトラブルの元凶である。入った物を出さないで溜
(た)め込むから病気をになるのである。
 つまり、「捨てる」ということをしないから、身体に異常が生じるのである。この世の法則は、
「捨てる」という行為の中に、総ての幸せの秘訣が隠されている。「捨てる」ことこそ、まさに「歡喜の循環」を良好に保つ秘訣なのだ。

 人体を考えてみても、「捨てる」ということが如何に大事か容易に分かろう。
 何かが変化したり、何かが活動したりすると、
「エントロピーの法則」が働く。エントロピー(entropy)とは、熱平衡にある系のことで、準静的に加えられた熱量を、その系の絶対温度で割った値を「エントロピーの増加分」と定義されるものである。これは可逆変化ならエントロピーは一定であり、不可逆変化では必ず増大するという「熱力学第二法則」が適用されるのである。

 これを人体の構造で見るならば、不可僻的に汚染の量が増えると言う法則である。つまり現象界では、汚染を発生させないような活動はあり得ないと言う事である。そもそも「人間が生きている」という現象を検
(み)ただけでも、これは汚染の最たる物であると言う事が分かろう。

 この汚染の実体は、誰でも知っているように、工場で物を作ったり、車を走らせるという行為は、即、汚染に繋
(つな)がると言うことが分かろう。そればかりでなく、植物が生育するとか、動物が生まれて、それが育ち、死んで行くと言う行為の、生命活動においても、これは一種の汚染である事は明らかだ。
 生命活動には汚染がつきものなのである。その生命活動を通じて、これに比例するように無生物の活動が活発となり、喩えば、火山の噴火などによっても汚染は増大していく。
 つまり、生きとし生けるものが生きて活動をすると言う事は、「汚染の最たる物」という事ができるのである。

 この汚染の中には、「体内に老廃物が溜まる」という現象で明らかになる。これこそ大事な点であり、エントロピーは消滅しないという事実がある。つまり汚染は、以前にも況
(ま)して拡大されると言う事だ。これは増大する一方である。これが「エントロピーの法則」であり、無から有が生ずる現象である。
 しかし、「無から有が生じる」というこれは、一般の概念から離れているので分かり辛い面があり、これを簡単に要約すれば「何かが活動を生じさせれば、そこには汚染が生じる」ということなのである。そして否定できない事実は、一旦発生した汚染は消える事がないと言う事だ。

 では、消える事の無い汚染を一体どうすればよいのか。
 それは「捨てる」ことである。私たち人間が生きて活動すると言う事は、身体の中のエントロピーを増大させると言う事である。したがって、この汚染は捨てる以外にない。
 しかし、汚染をうまく捨てる事ができなければ、やがて身体中が汚染されて、死ぬ事になる。つまり、「生命体が生きていく」という行為の中には、「汚染を捨てる」という行為は含まれているのである。だから、現世とは「捨てる」という行為が、最大のキーワードなのである。
 捨てずに溜め込めば、そこに悲劇が生まれるのは当然であろう。金・物・色がこの中に含まれるのは、容易に察しがつこう。



●喜捨

 では、廃物をどういう方法で「捨てる」のか。
 その方法は二つある。一つは、物に付けて捨てる方法と、もう一つは熱に付けて捨てる方法である。
 喩
(たと)えば、老廃物は水に溶かして「尿」として捨てる。これは物に付けて捨てる方法である。あるいは汗をかいて、躰(からだ)を冷やす。つまり冷熱である。これは躰の中に溜まった老廃物を熱に付けて捨てる方法である。

 しかし、捨ててばかりではエネルギー不足が生じる。活動し、汚染を捨てるばかりでは、生命は生命活動を続けられないのである。したがって、外から食物をエネルギーとして補給し、エネルギーとなる資源を取り込まなければならないのである。このプロセスから、人体とは、その中を通り抜けるという、「資源から廃物への流れの構造」を見る事ができる。
 つまり、資源と言うのは、「取り入れる」と言うこと同時に、「捨てる」という行為をしなければ、人間は生きていくことができないようになっている。

 だから、喩えば、リサイクルと言う行為を見ても、再利用して廃物を出さないと言う物などあり得ないのである。喩えば生産工場一つを上げてみても、工場の中で、何かの活動をしたら、必ずエントロピーが発生する。もう、これ自体が汚染のである。このエントロピーは溜めておくことができないので、捨てるしか方法がない。
 喩えば、工場の場合、具体的には石油を燃やして、熱に付けて大気中に捨てるか、水に付けて海に捨てる以外方法がない。

 これは人体でも同じ事が言える。
 人体の中の老廃物は、喩えば老廃物を水に溶かして尿として捨てる時、それまでの老廃物を集めて来る働きをしている構造が、何かと言うと、それは血液の循環である。廃熱でも、血液の循環により集められ、皮膚や呼吸を通して捨てられている。つまり、捨てれば循環するのである。
 人体構造はその構造の中に、捨てる作用をする循環装置が至る所にあって、人体の中で発生した様々な汚染のエントロピーを集めて、「捨てている」という作業を絶えず繰り替えしているのである。したがって、「捨てる」という循環が止まった時、生命は死んでしまうのである。

 この循環を良好に保つ為には、「捨てる」という行為が欠かせないのである。物質界の実情は、「捨てる」という行為の中で、その循環が保たれるのである。

 人間の迷いは、物事の洞察力の短見さ、観察眼の近視眼的視野、思慮の浅はかさは、「捨てると言う行為を怠った時に起こる現象である。しかし、人間の持つ肉の眼は、形に捕われることが多いので、中々「捨てる」と言う行為が容易に行えないようだ。
 それはあたかも、波を打ち上げる岩壁を見ながら、そこに起こっている現象は、ただ波の作用だけと思ってしまいがちな思考とよく似ている。

 しかし、岩壁に波を打ち上げる作用には、決して眼に見る事が出来ない、風の力も加わっているのである。波が形を作るのではない。風が吹いて、波に変化を与えるのである。風がまた、波にうねりを与えるのである。眼に見える物だけに、誑
(たぶら)かされてはならない。その背後の見えない部分まで、鋭く観察しなければならないのである。一切は循環から起こる現象であるからだ。

 さて、人間が死ぬ時の臨終に際して、そのこにはいろいろな「形」が現れる。
 ガンや脳卒中
【註】脳の急激な血液循環障害による症状で、急に意識を失って倒れ、手足の随意運動が不能となる疾患。脳出血によることが最も多く、脳塞栓・脳膜出血等でも似た症状が起り総称して脳卒中という)で死ぬ場合は、その苦しみの余りに、両手を虚空に伸し、空中を掻(か)きむしるような仕種(しぐさ)をする。虚空(こくう)をかき、藻掻くのは、内臓の何処に閉塞不通の状態が現れているからであり、老廃物が捨てられないからだ。中枢神経系に異常が発生している場合に、こうした現象が起こる。こうした仕種(しぐさ)は、抗癌剤を投与された副作用で、後は死ぬだけと言う、末期ガンの患者に多く見られるようだ。

 脳卒中で昏睡状態
(こんすいじょうたい)で死んで行く人は、昏睡でありながら、突如眼を開くが、眼には力がなく、焦点が定まっていない仕種をする。眼を開けて、盛んに当たりを見る表情を作るが、こうした状態が激しくなると、臨終が近い事を顕わすことが多い。
 肉体的には、肉眼では何も見ていないのであるが、意識では善悪を判断する理性を持っており、これは眼を固く閉じて死んで行く「失神」
しっしん/理性と正気を失うことであり、「亡」を顯す)状態の人とは対照的である。

 また末期癌の人に多く見られるのは、声を出して泣いたり、涙をこぼしたりする。これは自身の臨終を悲しむ姿である。痛いから声を出して泣くのか、泣くからまた痛みが増すのか、とにかく臨終に際して「泣く」と言う行為は、断末魔の「横死を顕わす」もので、憑衣・憑霊が解かれぬままに死んで行く「死相」を顕わしている。

 憑衣・憑霊が解かれぬという事は、死して後もその想念意識が続くから、死後の憑衣・憑霊が解かれたと考えるのは短見であろう。
 こういした形で死んで行く人の多くは、紛
(まぎ)れもない「横死の相」であるから、この血縁家族である人は、死者と同じ病気を煩(わずら)って死んで行くことになる統計があるようだ。

 一般にガン家系は遺伝する等と言われるが、これは肉体的な遺伝子の中にある体質情報が遺伝するのではなく、同じ霊的波調を持つ、波調が非常に身内のガン死亡者の波動と似ている為に、親がガンで死ねば、また子も、孫も憑衣・憑霊されてガンで死ぬと言う事であり、憑衣・憑霊され易い波調が、ガン死亡者と非常に似ていると言う事に由来する。

 食べ物も、親が肉や乳製品が好きであれば、子も同じようなものが好きであり、孫もそれに準ずる食傾向を好む。ガンは食事の誤りから来るものであるし、腸によって造血された赤血球の異常が、憑衣・憑霊現象と重なってガンを作り出している。ガン細胞は、正常細胞の異常変質であるが、この変質こそ、憑衣・憑霊の最たるものである。

 また、脳卒中をはじめとして、腎不全
【註】腎臓の機能が低下した状態で、尿毒症を指し、腎臓の機能不全のため、尿として排出されるべき成分が血中に溜まることによって起る中毒症状)や心不全(心臓の機能が低下した状態で、心内膜炎・心筋炎・心臓弁膜症・心筋梗塞・心臓神経症・心嚢炎など)等で寝た切りになっている人は、大小便の垂れ流しで看護が大変だと言われる。臨終が始まる一週間前後から、その垂れ流し状態が酷くなり、これは急速に精気が外に漏れ出したことを意味する。

 こうした状態を「脱」
だつ/とりこぼす意)と言い、「外脱(がいだつ)とも言う。外脱は体内の精気が漏れる様であり、これは高齢者に限らず、若者でも、恐怖を味あうと、大小便を漏らす状態であり、これは横死のような状態を味合いながら死に直面すると、精液を漏らしてしまう。

 青酸カリで毒殺されたり、自殺した場合は殆どの男性が精液を漏らし、また首吊り自殺の場合は、馘
(くび)を吊った瞬間に男根の勃起が始まり、射精が起こる。こうした脱症状が「脱」というのである。
 また《脱》が「狂い死」の相でもあり、極度に狂えば「暴脱」といって、男性の場合は勃起不完全のまま、夥
(おびただ)しい精液を漏らす。

 また寝た切り患者の多くは、男性の場合、徐々に精液を漏らし始め、見る見る中
(うち)に痩せこけて、精気が失われ、眼すら見えない状態になる。

 糖尿病と血液のガンが重なった場合は、こうした状態が起こり、虚脱が繰り返されて、一週間前後の余命となる。この僅か一週間で、臨終を予期して覚悟をし、心静かに死んで行くことを悟らなければならないのであるが、多くの、こうした病態で死んで行く人の感情は、益々生にしがみつこうとして、「死の超剋」が出来ないまま、この世を去る人が少なくないようである。そして「死の超剋」が出来なかった人の多くは、悲しみのうちに死んで行く。

 また死に際して、眼を開かぬままに閉じた状態で死んで行く人がいる。つまり失神状態であり、こうした状態を「亡」ぼう/逃げることで亡者の意)と言う。
  肉眼でものを見ないばかりか、善悪も判断できずにいる状態で、「迷い、狂っている様」を顕わす。大小便を垂れ流し、両腕はだらしなく投げ出され、「神
(しん)が宿っていない態(まさ)が明白になる。こうした相を「脱神」と言う。

 悲しみの余りに「不貞
(ふて)腐れる相」であり、こうした人の意識には「絶望」が宿っていて、生前に霊界の仕組みを研究しなかった中途半端な無神論者は、殆どがこうした死に方をする。憑衣・憑霊のカモにされ、死した後も取り憑(つ)かれたままの不成仏霊となる。

 次に、悲しみの余りに顔を掌
(てのひら)で覆(おお)う人が居ますが、こうした人は、霊界の仕組を知らなかった為、死を直前にして、自分の周りに霊が見え始める作用が起こる。臨終真際の霊視状態が始まる。
 こうした霊視状態に陥って、何かが見え、何かが聞こえ、これを霊視や霊耳
(れいじ)なのか、また幻覚・幻聴なのか、これを判断できずの迷ってしまえば、恐ろしさの余りに、顔か頭を覆(おお)うとする。

 こうした人の多くは、精神分裂病とガン疾患をの両方を併病した人に多く、混乱して、狂い死する場合に見られる。手で顔や頭を覆
(おお)ったりする仕種(しぐさ)は、一種の拒否反応であり、見たくもないし、聴きたくもないと言う意思表示の現れである。意識の中は、悲しみで充満している。
 こうした表情をする人は、二重三重の憑衣・憑霊現象に悩まされ、死して後も、この想念現象から解き放たれる事はない。
 こうした家系は子供がいても、子供が成人した後、子供が婚期を逃し、家運を絶やす一族に多く見られるようだ。

 では、臨終に際し、なぜこうした仕種が顕われるのか。
 人生は人体構造を通して循環されるものであり、生命もその中の構造の一つであり、人体システムは社会システムと同じであるから、資源から廃物や廃熱の流れに淀みや停滞が起これば、そこには霊肉共に生涯が起こるのは当然の成り行きである。
 だから、金・物・色を「捨てる」という行為の中に、現世と言う仕組みがあり、その仕組みは、「捨てる事を喜びとする」システムなのである。




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