●死にざまが象徴するその人の生きざま
非実在界の現象人間のあらゆる行為は、「想念」によって事物や事象の現象が起こる。無から有が起こるのは、こうした想念が具現化しただけのことであり、想念が物質に働いて物質的なものを求めると、物質文明が発達するし、想念を精神的なものに傾けて行き、霊的世界の現象が発達を始める。
つまり「想念」を何処に設定するかで、物質的にも精神的にも異なった現象が起こり、この宇宙は、想念によって構成されていると言う事になる。
したがって「死の演出」も想念によって起こり、自分が、どの死を選択して、「死に態(ざま)」にするかは、想念によって決定されると言う事である。
つまり「死に態」が、前生の「生き態」と深く関わっていて、喩(たと)えば、死を恐ろしく思う人は、臨終に際して、手・足(特に脚や膝)がガタガタと震(ふる)える。
これは普段でもそうであるが、恐怖に直面した時、人は怕(こわ)さのあまり、震えるという一種の精神的な痙攣(けいれん)を起こす。この痙攣が肉体に伝わり、「震え」と言う形を顕(あら)わすのである。
死に際して、こうした震えの出る人は、末期ガン患者に多く、また、腎不全で尿毒症を起こしている場合は重症の中毒症状が現れているから、嘔吐・下血・意識障害・貧血・肺水腫(はいすいしょう/肺の間質および肺胞中に多量に漿液がたまって、ガス交換をさまたげる状態で、泡沫状の喀痰を出し、呼吸困難を来す)・漿膜炎(しょうまくえん/脊椎動物の体腔内面および内臓の体腔に面した表面をおおう薄膜。腹膜・胸膜などの炎症)等を生じつつ、臨終が近付くと痙攣が起こり、手や脚や膝を震わせ、ついには昏睡(こんすい)に陷る。
これと似た状態で死んで行くのが、交通事故による頭部破損の事故死である。
自転車やミニバイクに乗っていて、大形トレーラー等の後輪に巻き込まれて死亡する場合、頭部を車輪で轢(ひ)き潰されるということが少なくないようだ。
こうした場合、まず頭部は完全に轢き潰されていて、胴体に僅かながらの破損があり、手足は殆ど無傷であると言う場合が多いようである。こうした事故の直後、被害者は頭がないのにも関わらず、手足をばたつかせたり、何かを必死に掴(つか)もうと藻掻く仕種(しぐさ)を示す。
この仕種こそ、まさに典型的な横死のパターンであり、死亡した被害者も加害者も、悪想念で描いた地獄へと、真っ逆さまに墜(お)ちて行くことになる。それは「想念」が予定を具現させ、《予定》が確かな現実として結果を齎(もたら)し、結果に沿った原因が作り出されると言う事実に裏付けされている。
地獄は本来存在しないが、自分で作り出している想念で、地獄が出来上がっている場合、現象人間の行動は、その地獄へと直行してしまう。
頭部を轢(ひ)き潰されて死ぬ、死に態と非常に酷似した「死に態」が爆死自殺である。爆死の場合、手榴弾(しゅりゅうだん)等の爆発物を使って自殺するから、膝から上の肉体は粉々になってしまう。非常に無惨な最後と言えるが、また、こうした爆死自殺も、想念が描き出した地獄へと真っ逆さまに落ちていくようだ。
交通事故死も、爆死(自殺他殺を問わず)も、紛れもない「横死」であり、自分の想念の描いた地獄へと直行する。ここに前生から引き継いだ業(ごう)の世界があり、業が齎(もたら)す転生(てんしょう)は未来に亘って繰り返される。こうした業の発生は、下に向けられた「軽蔑(Scorn)」であり、あるいは上に向けられた憎しみで「恐怖(Fear)」が、横死を形作るものである。
これと同様に、対等な憎悪の想念は、怒り、闘争心、侮蔑、暴力、攻撃、嫉妬、傲慢、優越感等で示され、いずれも表面化し、こうした情動が、「人間」対「人間」の場合は敵対者となって、激しい憤怒(ふんぬ)と共に敵愾心(てきがいしん)が起こる。
最初から手を繋(つな)ぎ、お互いを認め合う気持ちがないから、心の深層部に対立構造を作り上げて「傷つけ合う(Mutual Injury)」という行動に出て、「傷つけ合う」想念が「恐怖」を呼び込むのである。
そして、「憎しみ」というのは、「苦しみ」と「不幸」によって相互に分離するのである。
●『戦陣訓』とサイパン島での出来事
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▲サイパン島での日本女性達の身投げ。島の崖淵から身を投げる日本女性。昭和19年7月7日、サイパン島はアメリカ軍の猛攻によって完全に攻略された。
その時、悲惨を極めたのは、アメリカ軍攻略後も居残っていた一般市民の非戦闘員達だった。男達の多くは陸海軍の兵士と共に戦って「万歳攻撃」で死んでいたが、女性や子供達はサイパン島東北部のマッピ岬に追い詰められた。
当時の日本人には、東条英機の『戦陣訓』が重くのしかかっていたので、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」の言葉通り、自らの命を、身を投げることによって断った。 |
私たち日本人は、昭和19年7月7日の悲惨な出来事を、もう既に、歴史の中から忘れ去ろうとしている。そして、この日の惨劇を知っている人は、非常に少なくなった。
しかしこの日、確かに、岬の崖淵(ぜっぺき)から、約四千人もの命が消えたのである。
サイパン島北東部のマッピ岬には、当時約四千名の邦人女性や子供らが、上陸して来たアメリカ軍から追い詰められ、この岬の崖淵に集結していた。
そしてここで多くの人は、東条英機が発した『戦陣訓』(【註】この『戦陣訓』は、東条英機が今村均中将に命令して作らせた捕虜になる事を戒めた訓書)の言葉通りに、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けることなかれ」を実行したのであった。
母親たちは、泣叫ぶ我が子を抱いて、崖淵から海へ飛び降り、娘たちは車座になり、お互に別れの言葉を告げた後、手榴弾(しゅりゅうだん)をそ、の輪の中で爆発させて死んでいった。
アメリカ軍はこうした日本女性の死に対して、マイクで投降(とうこう)を薦(すす)めたが、この投降に、誰一人聞く耳を持つ人はいなかった。片言(かたこと)の日本語で、投降を薦(すす)めるマイクの声は、風に吹き流されて消えていくばかりだった。
そして、アメリカ軍兵士がもっとも恐怖を感じたのは、次々に自決を決行する、日本人女性が、誰一人として悲鳴等の、声を出さず、笑顔で互に「お別れ」を言って、次から次へと我が身を崖淵の上から投げ、死んでいったのだった。何と哀れで、悲惨な死に方であろうか。
時の日本政府・東条内閣と、大本営陸海軍部は、サイパン島でのこうした悲惨な出来事を一切公表されなかったが、一部の人は、アメリカの放送でサイパンの悲劇を知っていた。やがて東条内閣は、この事件で失脚を余儀無くされる。
しかし、サイパンでの悲劇とは裏腹に、自らが発した『戦陣訓』を実行できずに、拳銃自殺を図った東条は、自分一人では自決すら出来ずに、自殺の真似事をして、おめおめと生き残った。
東条は、予々(かねがね)将兵達に対して『戦陣訓』の一節を持ち出し、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」を繰り返し豪語してきた人物である。
これは、絶対に捕虜になっては行けない。捕虜になりそうな時、あるいは敵に包囲された時は、絶対に投降などするなという厳命である。これこそ何とも貧しい発想である。これにより、日本の軍隊官僚は無責任で、お粗末な集団であった事が分かる。
この行為は、一部の東条英機を知る人の中で、東条の信奉者達は、「東条は非常に国民思いで、立派な人だった」と言うが、この「立派な人」が、戦争責任に対し、自分の生命に決着が付けられないのは、一体どうした事か。
また、『戦陣訓』を強要した、その行いに「恥じ」はないのか。これを答えられる人は、「東条の自殺未遂」を含めて、是非とも反論して頂きたいものである。
日本の軍隊官僚と言うのは、陸海軍の両軍とも同じなのであるが、下級将兵に対しては非常に厳しく、佐官クラスの上級将校に対しては寛大であり、将官に対しては、遣(や)り放題という上下の関係式が出来上がっていて、下へ行くほどこの関係式は厳しくなり、特攻隊員のような、学生上がりの素人を即席の軍人に仕立て、無駄死をさせても、心が殆ど痛まないと言う上級将校がウヨウヨいて、戦前は天皇の名を以て多くの若者を死地に向かわせ、戦後は天皇の名を以て、「日本の戦後復興?」と言う如何わしい名目で、むざむざと生き残っている。これは一体どうしたことか。自殺未遂の東条も、その一人だったのである。
多くの下級将兵や、一般市民の非戦闘員までが、東条の発した『戦陣訓』の為に降伏したり、投降する日本兵や民間人や軍属は、極めて少ないものだった。多くの下級将兵達は、捕虜になる前に、自分で自分の命を断ったのであった。何と無念な死に方ではないか。
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▲東条英機陸軍大将。
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▲拳銃自殺?に失敗した東条英機。
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しかし東条は、拳銃自殺?で自決のポーズを作っただけであった。
高級軍隊官僚が、戦後もおめおめと生き残ると言う事は、戦争犯罪人としてそれ迄の戦争指導の責任が問われるという事であり、要するに裏を返せば、「生きて虜囚の辱め」を享(う)けると言う事であった。
戦時中の捕虜は、脱走を企てたり、暴動を起こさなければ処刑される事はないが、敗戦によって、その戦争責任が問われれば、「戦犯」として銃殺されたり、絞首刑になったり、懲役刑が課せられる事は免れない。最早(もはや)こうなると「虜囚の辱め」どころではない。まさに「生き恥」だった。
したがって国民の関心は、日米開戦当時の総理大臣であった東条の行動であり、国民の多くは、東条は必ず自決するだろうと考えていた。しかし東条は、一瞬脳裡(のうり)に自決を考えたかも知れないが、その行動には迷いがあったことは否めない。迷いがあるから、一発の拳銃弾で自決をする事が出来なかったのである。
この東条の行動と、サイパン島の崖(がけ)の上から身を投げた多くの女性達の、迷いのない行動とは、天地の開きがあるようだ。東条にとっては、また「死」も「迷い」であった訳である。
更に、『戦陣訓』には第七の「死生観」という項目があり、これには「生死を超越し、一意任務の完遂に邁進(まいしん)すべし。心身一切の力を尽くし、従容として悠久(ゆうきゅう)の大義に生まれ来ることを悦びとすべし」と謳(うた)われている。つまり「七生報国(しつせいほうこく)」のような、「七度生まれ変わって、死んでは生まれて来て、また死ね」と言う、無間地獄(むげんじごく)を下級兵士に強要したのである。
しかし、これを発した側や、当時の陸海軍の戦争指導者を含む、東条を始めとする軍上層部は、敗戦に及んで、余りにもお粗末な身の処し方によって、『戦陣訓』が全くの虚構であったと言うことを証明するに至った。
そして、ここには徴兵で掻き集めた下級兵士の命を、弄(もてあそ)んでいると言う現実が否めない。
こうした、戦争指導者に弄ばれた戦死者の霊は、恨みを残して、軍首脳に「騙(だま)された」「利用された」「欺(あざむ)かれた」「裏切られた」と思うのは当然であり、特に、フィリピン第四航空軍の軍司令官・冨永恭次(とみなが‐きょうじ)の特攻隊員を送り出す時に言った、「諸君は既に神である」と述べた後、「君達だけを死なせはしない。最後の一機で私も敵艦に突入する」と激励したこの言こそ、死者を欺いた最たるもので、その後、冨永は、マニラにアメリカ軍が上陸して来ると、護衛付きの戦闘機を仕立てさせ、フィリピンから台湾の投北(トウペイ)温泉へ「敵前逃亡」を図ったのである。
そして戦後は、自決することもなく、政府から高額恩給を貰いながら、安穏とした生活をエンジョイしている。
果たして、冨永の言を信用して、特攻に向かった搭乗員達の霊は、欺(あざむ)かれたり、裏切られたりして成仏出来たのであろうか。
否、こうした死者の霊は、生き残った陸海軍の将軍や提督が、虚構理論を作り上げて、自分達を死地へ追いやった事ぐらい、既に承知しているであろう。だからこそ、欺かれた死者の霊は、今なお、鎮(しず)まる事がないのである。
不成仏霊の製造者は、実は、敗戦におめおめと生き残った陸海軍首脳の将軍や提督達だったのである。そして東条も、その一人であった。
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▲東京裁判でA級ならびにB級戦犯容疑として裁かれる東条英機。後にA級戦犯として絞首刑となる。
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死に迷った東条は、左胸を狙って拳銃の引き金を引いた後、その拳銃の銃口が僅かながらに反(そ)れていた為か、弾丸は心臓を外して、一発では死ねなかった。
東条は瀕死(ひんし)の重態のような語りで、「一発で死にたかった」とか「時間がかかって、直ぐに死ねなかった事が残念だ」と途切れ途切れに語ったと言う。
その後も、東条は「大東亜戦争は正しい戦いだった」と言い、「最初切腹を考えたが、ともすれば、やり損ないがあってはと思い、拳銃の自決を思い立った」と中々の雄弁振りであったと言う。そして銃弾を発射して、15分経っても色々と言い訳がましい事を喋り、ついにその後、連合軍の裁判による東京裁判の軍事法廷の被告席に立たされる事になる。
そして、東京裁判によるマッカーサーの意図は、東条を連合軍の裁判でA級戦犯(【註】侵略戦争を計画し、実行に移し、遂行した「平和を乱した罪」で、裁判後は巣鴨に収容された)にするだけではなく、捕虜虐待等の名目で、自国でもできるB級戦犯(【註】戦時国際法に規定された「通例の戦争犯罪者」を指し、捕虜の虐待等がこれであり、それを上官の命令で実行した兵士がC級戦犯とされ、いずれも多くの罪を被せられて有罪となり、処刑された)として裁判にかけようとしていたのである。
A級戦犯は、当時の戦争指導のような大物に課せる戦争犯罪容疑であったが、B級戦犯は戦争犯罪者として戦争現場で命令を下した者を処罰する犯罪者に科せられるもので、まず、最大の戦争犯罪者として、東条に辱(はずかし)めを与えることを目的にしたものであった。しかし、このマッカーサーの目論みは、アメリカ本国の反対で潰されてしまう。
戦争における横死は、戦争指導者も、戦争に応呼して武器を取った者も、非戦闘員のように逃げ惑った人も、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の中で、筆舌に尽くし難い地獄を彷徨(さまよう)う事になる。
日中戦争から太平洋戦争敗戦に至るまで、当時の陸海軍の将軍や提督達は、好戦的で血に飢え、勲章をもらう事ばかり考えていた。
「戦争を知らない子供たち」とは、等しく昭和20年8月15日以降の、戦後生まれの世代を言うそうであるが、戦争を知らなかったのは、何もこうした戦後生まれの世代だけではない。戦前にも戦中にも、昭和陸海軍の高級将校や高級士官の中には、「戦争を知らない軍人達」は沢山いたのである。
特に東条英機の『戦陣訓』を前面に出して、戦争を指揮した高級軍人の中には、下級の将兵達に死守させて、自分はささっさと飛行機で逃げ出すような卑怯な将軍や提督達がいたのである。これこそ、恨みを残す最大の元凶だった。
戦争を論ずる場合、戦争を「悪」、平和を「善」と捕らえる事は簡単である。しかし実際問題として、世界中の至る所には戦争の火種がいつも燻(くすぶ)り、いつ戦争に発展してもいいような不安材料はあらゆる場所に点在している。そして一度(ひとたび)内紛が勃発すれば、一気に戦争へと拡大され、多くの人民が戦火に巻き込まれ、夫を失い、妻を失い、子供を失い、また子供は親を失う。こうした側面が、現代社会の中にも横たわっているのである。
天変地異なみの災難が、我が身に降り懸かり、自分自身の生命すら危険に曝(さら)されようとする一触即発のアンバランスは、今なお不均衡な形で存在しているのである。
実は、こうした状態にこそ、非業の死を遂げる「横死の因縁」が転がっているのである。
●刑罰の中に横死を見る
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▲無政府主義者の大杉栄夫妻を拷問で殺害し、陸軍軍法会議にかけられる甘粕(あまかす)正彦憲兵大尉。(1923年10月8日)
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古来より神道で培った日本人は、その多(おお)らかな宗教観に、後に、聖徳太子によって仏教が奨励され、これが新たな宗教観として加わる。そして仏教が、日本人の精神面に大きく関与していく事になる。
万物への哀れみを説く仏教は、慈悲(【註】衆生に楽を与えることの「与楽」を《慈》、苦を除くことの「抜苦」を《悲》を説く)の心を教え、例えばこの哀れみは、仏門の修行者が錫杖(しゃくじょう)を鳴らしながら歩くのは、一匹の虫をも踏み殺すまいとする、万物への慈悲の心であった。
しかし、こうした仏教精神を培った日本人でも、一度狂えば、残虐(ざんぎゃく)で、冷酷な、うんざりとするような行動を易々(やすやす)とやって退けるのである。
日本の歴史を紐解(ひもど)くと、今日では想像できない残忍で、冷酷な日本人像が浮き彫りになって来るのである。
そして、こうした残虐で冷酷な想念こそ、次の因縁を引き摺(ず)って、「無限の残酷な魂」を連続させるのである。この連続の中にこそ、「横死の相」は横たわっているのである。
かつて、やられた者は、今度はやりかえす立場となり、次にその立場にあった者は、またやられる者になると言う、過去からの復讐劇を永遠に繰り返し続けているのである。人間が想念の中で、過去からの想念を引き摺(ず)ったまま輪廻転生する所以(ゆえん)である。
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▲拷問する憲兵と特高警察
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人類は先祖から受け継いだ「無限の残酷な魂」を抱(だ)きかかえている。その意味で、誰もが毎日爆弾を抱えて、いつ爆發させるかも知れない情況下で生きているようなものである。
何かの弾みで爆発させれば、平然と残虐行為に奔(はし)ると言うのが、人間と言う生き物の実体である。そして、未(いま)だに前頭葉未発達な亜人類こと、現代人の実体であり、地獄の呪縛からは、解き放たれてないことが分かる。
それは平時でも戦時でも、あまり関係がないようだ。そして世の中が泰平(たいへい)であり、人心が穩やかに見えれば見えるほど、この心中には「鬼神(きじん)」の爆発に対して、総(すべ)ての人が無防備になっているという実情が多く存在しているのである。この意味で、平和惚けと言えるのではあるまいか。
残虐行為が殺戮(さつりく)に変化した時、その無防備は突如として爆発し、人々を戦争への想念と駆り立てていくのである。国家の名を以て、平和主義の名において、隣国を強奪し、略奪し、犯して、殺して、火を放ち、合法的な人殺しへと、大義名分をつけるのである。
そして明治以降の主要な残虐行為が、主として「戦争」という異常事態の中で行なわれた来たと言う事実を、私たちは忘れてはならない。
そうした想念は、いつまでも残留するものであり、この残留が現代社会にもエコーとして反響している事を見逃してはならないのである。死者達の亡霊とかした、地獄のエコーは、未だに消えあらぬのである。
人が死んだ多くの場所には、様々な恨みの種類の怨念(おんねん)が漂っている。殺戮(さつりく)に明け暮れた場所には、亡霊集団が恨みが渦巻いていて、殺された人達の想念の塊が不成仏として漂っている。この想念は実体を持つ霊魂でない為、非常に始末が悪く、どれほど多くの慰霊祭を行なって、「南無阿弥陀仏」を読経して献(あ)げても、この想念は解き放たれない。それだけ深部に食い入っているのである。
浄霊として、幾多の霊能者が力を注いだが、消滅していない想念の塊が、現代人に取りつく現象が、日本各地で起こっているのである。今なお、浮ばれないのだ。
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▲切死丹の斬首刑。日本キリシタン迫害の図。(1623年ミュンヘン『P.Nicolao Trigautio殉教録』より)
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▲大蛇に殺させる動物刑。
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▲馬引きの刑。
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▲刑罰/磔刑(はりつけけい)
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▲刑罰/石抱き責め。
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▲刑罰/海老責。
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人間はどうして、こんな残酷な事ができるのだろうか。
一見、誰が見ても眼を背けたくなるような「残酷」でも、一度、その残酷が我が身や、我が親族に降り注げば、被害者は加害者と同じ分だけの残酷を加害者に要求するのである。それは殺された側の被害者が、何が何でも加害者に対し、死刑を要求するこの凄まじい執念を検(み)ただけでも容易に察しがつこう。
動物の中で、一番残酷を好む動物は人間であるからだ。
●戦争の中に横死を見る
戦場は、古戦場を問わず、多くの兵士や軍属が死した後、地縛霊(しばくれい)となって亡霊集団を作っている所が少なくない。
十六世紀の乱世の戦国時代であれば、一定の時刻になれば、何処からともなく法螺貝(ほらがい)が鳴り響いて、喚声と共に、両軍の兵士が相乱れて戦いを繰り広げられる。そしてまた、ある時間が来ると、軍勢は何処かへ蜘蛛の子を散らすように消え去ってしまう。こうした所では、まさに無限の、終わりなき地獄が繰り返されているのである。
日本全国には、こうした怪し気な地区が至る所にある。
では、何故こうした現象が起こるのだろうか。
日本人が、本来存在しなかった「地獄」という呪縛(じゅばく)にかかった時期は、平安時代の中期頃を推測される。
これは源信僧都(げんしんそうず/平安中期の天台宗の学僧で、二十五・三昧会(さんまいえ)を主導し、『往生要集』を著して浄土教の理論的基礎を築いた。942〜1017)の『往生要集』に、地獄の態(さま)を紹介した事から始まる。
この『往生要集』の目的とするところは、本書にある通り、「それ往生極楽の教行(きょうぎょう)は、濁世(じょくせ)末代の目足(もくそく)なり。道俗貴賤、誰(たれ)か帰(き)せざる者あらん。ただし顕密の教法(きょうぼう)は、その文(もん)、一(いつ)にあらず。事理の業因(ごういん)、その行(ぎょう)これ多し。利智精進(しょうじん)の人は、いまだ難(がた)しと為(な)さざらんも、予が如き頑魯(がんろ)の者、あに敢(あえ)てせんや」と冒頭を述べ、次に「念仏の一門に依りて、いささか経論の要文(ようもん)を集む。これを披(ひら)いてこれを修むるに、覚(さと)り易く行ひ易からん」とあり、要するに、浄土教・念仏宗の教主・阿弥陀仏以外は、人類の罪は救えないとしているところにある。
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▲アメリカの対戦車砲(バズーカ砲/対戦車用のロケット砲)で破壊された日本軍戦車。日本の戦車は装甲が薄く、軟弱だったので簡単に破壊された。撃破された戦車の傍には、黒焦げの日本軍将兵の死体が、まるでブロンズ像のように転がっている。
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浄土教・念仏宗は、鎌倉時代、一遍(いっぺん/鎌倉中期の僧で時宗の開祖)や法然(ほうねん/浄土宗の開祖)によって唱導され、「専修念仏」の教えが広まるようになると、真鸞(しんらん/鎌倉初期の僧で浄土真宗の開祖)はこれまでの一切の仏教的戒律を取り払い、「臨終の一声だけの念仏で、いかなる極悪深重の罪人でも、来いよ来いよのお招きで極楽浄土へ往生できる」と説いた。つまり、これで地獄への呪縛は、念仏宗を一心に信じる者だけが解放されるとしたのである。
念仏の「南無阿弥陀仏」はここから始まり、欣求浄土(ごんぐじょうど)こそ極楽の証拠であり、念仏宗は、あらゆる地獄から解放されているとしているのである。しかしこれは、一歩も俗諦(ぞくてい)の範囲を出る事なく、方便として無知な民衆を導いた事になり、この仏法を説いた僧自身が、実は地獄を想念して、地獄に行った事を証明したようなものである。
もともと無かった地獄と想念によって人々の心に作り上げ、あたかも地獄が存在するかのような幻想を抱かせたのは、念仏信仰からである。したがって、念仏を唱える者は、またその念仏によって、ありもしない地獄へと墜(お)ちて行くのである。
一度、戦時となれば、人は死を覚悟しなければならない。そして死した後は、せめて自分だけでも極楽へと、こうした考えに至るのは、ある意味で人情かも知れない。
ところが、こうした念仏信仰が、やがては、地獄と極楽を二元論で論破された為、これが分離し、この想念が日本中を支配したのである。以降日本中が戦時に際し、怪し気(げ)な穢土(えど)に変化してしまったのである。
穢土とは、穢(けが)れた国土のことであり、三界六道(さんかいりくどう)の苦しみのある世界をいう。また、凡夫の住む娑婆(しやば)のことであり、「この世」または「現世」ともいう。つまり、汚染されたところである。
この為、こうした土地を浄霊しようとしても、この呪縛(じゅばく)から解き放てないのである。穢土を浄化しようとリサイクルしても、この地は多くが穢れている為に、中々元通りにはならないのである。
これまで幾多の霊能者が力を注いで、浄霊に努めたが、未だに消滅し切れない地域は多く、こうした地域に住む人は、次の戦争へと次から次にかり出された。また、敏感な人は得体の知れない難病・奇病に罹(かか)り、冒され、断末魔の思いで死地に向かったのである。彼等もまた、穢土の住人であったからだ。
古来より、戦場と言われる場所は、多くの慰霊祭が行なわれ、どれほど多くの「南無阿弥陀仏」が上げられたか知れないのに、戦争で死んでいった兵士や軍属たちや、また戦争に巻き込まれた非戦闘員達の霊は、何故、未(いま)だに鎮(しず)まらないのか、あるいは成仏しないのか、という事が上げられる。
彼等はリサイクル不可能な穢土の住人となり、そこに止まっているからだ。
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▲射殺された日本軍の女子挺身隊員。彼女は野戦病院の、学徒動員で召集されたの臨事看護婦だった。
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誰もが死の真際、「南無阿弥陀仏」を唱え、死んで行った筈(はず)なのに、想念の地獄に陥った地縛霊達は、地獄では大力の仏菩薩でも、こうした亡者の霊は救えないのであろうか。
あるいは「仏」というのは架空の存在であって、唱名念仏は死に行く者の気休めだったのであろうか。
それとも、戦場の亡霊集団と言うのは、そうした戦争に参加し、巻き込まれた人達の想念の塊(かたまり)が、実体を持つ霊魂でなかったと言う事であろうか。
つまり想念は、一人の個人から独立して存在するとすれば、戦場の亡霊の想念は、想念群の塊(かたまり)であり、それは地獄を形成したと言う事になる。しかしこの地獄の形成は、未(いま)だに、その呪縛(じゅばく)から解かれる事なく、徳川幕府成立後、二百五十年間は平穏が保てたが、明治維新、日清戦争、日露戦争、日本の中国大陸進出、日中戦争、太平洋戦争、そして止めは広島・長崎の原爆投下という、多くの非戦闘員を巻き込んだ戦場が次から次へと現れ、この中に多くの霊魂は土地の地縛霊となって没していった。
まさに、この地縛霊の姿こそ、横死の相を強(し)いられた霊魂だったのではなかろうか。
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▲従軍看護婦を宣伝する陸軍恤兵部発行の『陣中倶楽部』(昭和14年)
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▲日赤の従軍看護婦、いよいよ戦場へ。そして彼女らの多くは、再び生きて日本の土を踏めなかった。
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| ▲死んだ弟を背負って、火葬場に火葬願いを出す少年。(敗戦直後) |
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▲規律厳守・敬礼励行を日本の軍需工場も「矢尽き、刀折れ」では、如何ともし難かった。(アメリカ軍上陸後) |
戦争に巻き込まれての死は、事故死であるのみならず、その形相は、紛(まぎ)れもなく「横死」である。
事故死は、霊魂波動と肉体波動が一致しなくなった時に起こるとされる。一致が観(み)られなくなった場合、霊魂波動は肉体波動から「離れる」現象を起こす。これが《予定説》に予め定められた「死の定義」であり、この二つの波動が遊離したとき、人は「死を迎える」のである。
そして、死した後、死者は「亡者」となりながらも、その霊魂は、新たな悩みを抱えるのである。
これは生前の、死ぬ間際までの意識が、「生」に対して執着し、然(しか)も、「死」に対して恐怖を抱いて死んだ時に、新たな苦しみや悩みが起こる。つまり生前、霊魂の存在を否定し続けたり、信じなかった人は、苦しみや悩みの中に再び連れ戻されてしまうのである。
それは肉体を持たない霊魂の悩みであり、苦しみであり、その意識から発せられるものなのである。残念や無念の唸(ねん)が残った時、死者はこうした苦悶(くもん)する悩みを自身で解決できず、その唸(ねん)は「迷い」となって空間を彷徨(さまよ)ったり、同じ場所に頑迷(がんめい)に居残って地縛の形をとり、自らの意識が描いた悪想念で、地獄の住人となるのである。
しかし本来、地獄と言うものは存在しないが、つくり出された悪想念は、忽(たちま)ちのうちに地獄をつくり出し、その中で、霊魂自体が悩み、そして苦しむのである。これこそが、まさに「穢土」なのである。そしてその苦悩の中に、また新たな「迷い」が生じるのである。悪循環の増幅である。
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