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金銭哲学と金運考 1
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金銭哲学と金運考 1


金銭哲学と金運考

和同開珎
慶長大判と小判
天保小判
明銭

五円紙幣
拾円紙幣
神宮皇后をイメージしてデザインした壱円紙幣(エドアルド・キョリーネ作)
百円紙幣

貨幣とは、いったい何だろうか。それは紛(まぎ)れもない「生き物」である。生き物なるが故に、その遣(つか)い方如何によって、人それぞれに幸・不幸を齎(もたら)すのである。


●金銭と人生

 金銭いついて、真摯(しんし)に考えてみよう。
 金銭こそが人生における、幸福と大きな関係を持っていると思う人が少なくない。また、この金銭によって、運・不運が存在すると考えている人が少なくない。
 「世の中は、金が総
(すべ)てではない」等と言い切ってしまう人までが居る。しかし、こうした事を断言すると、後で、とんでもない“しっぺ返し”を受けることになる。また、こうした考えは、早計であろう。

 確かに一面においては、金が総てではない。しかし多くは、金銭の欠乏によって、不幸が発生することは紛
(まぎ)れもない事実であるし、これを甘く考えたり、無視すると、飛んでもない結末が待っている。
 まず、人生を生きて行く上では、金銭で困らない「生活経済対策」や、その「環境造り」をすることが大切である。それが出来ないでいて、「金が総てではない」と考えるのは、一種の傲慢
(ごうまん)であると言わざるを得ない。あるいは貧者の、金持ちに対しての僻(ひが)み根性か。しかし、僻み根性だけで、金銭を一蹴(いっしゅう)するのは愚かであろう。

 金銭を貯えようとしても、これは直ぐに溜まらず、また、金銭で困った場合、それを直ぐに解決する手段はない。これを手当てしようと思えば、何処からか頭を下げて
“借金”する以外ない。また、借金をするにしても、直ちに借金をさせてくれる事は少ない。普段からこうしたことを予測して、常に金銭に困らない経済生活と環境造りをしておくことが大事である。
 則
(すなわ)ち、金銭とは、人間の方が頭を下げる物質なのである。

 さて、金で困らぬ環境造りとは、一体どういうことなのだろうか。
 これは金を普段から節約し、出来るだけ無駄な消費を繰り返さぬことである。しかし、これは分かり切ったことでありながら中々、実行することは難しい。無駄な消費は、やがて浪費癖を誘導する元凶だと分かっていながら、つい遣ってしまうのが人間の弱い心の一面である。

 資本主義市場経済は、消費の為の消費を繰り返す、一種の「ねずみ講構造」である。このことをよく理解する事だ。市場経済が「ねずみ講」である以上、次から次へと連鎖反応を起こさなければならない仕組みになっている。消費者はこの罠
(わな)に掛かるのである。
 資本主義経済は、消費による経済効果を上げるシステムになっている。それも「買い替え」という巧妙なシステムからである。したがって、これを充分に把握し、普段から金銭に困らぬ環境造りをする上で、これは重要な認識事項である。「無限連鎖の仕組み」こそ、資本主義市場経済の正体であり、また原動力なのである。

 つまり、「消費」とは、古いものを捨てて、新しいものを買い替える、欲望の直接的かつ間接的な充足の為の経済現象であるということである。この経済現象の中で、人間は踊っていると言えよう。あるいは金銭と言う物に踊らされる因縁を持ったものが、また人間の偽らざる姿である。

 消費者は、最初は消費の為の消費を繰り返すだけの存在に止まっている。しかし今日のように、日本国民が「一億総中流」の意識を持ち、契約社会において、ローンや信用取引ができる今日、やがて消費の為の消費が、借金の為の借金と姿を返ることは明白であり、この中流の意識が、今や「借金漬け」という現実を作り出している。これを見てみれば、資本主義市場経済が、国家間で行なわれる、完全な「ねずみ講」であるということが分かる。外国への輸出や、外国からの輸入の現象を見れ見れば、各々の国が国際間のサービス取引の収支による貿易外収支によって、「無限連鎖の仕組み」を派生させ、輸送、旅行、通信、金融などサービス取引を連鎖させていることである。

 「ねずみ講」は、会員を鼠算
(ねずみざん)式に拡大させることを条件として、加入者に対して、加入金額以上の金銭や、その他の経済上の利益を与える一種の金融組織である。国家においては、「ねずみ講会員」が国民ということになる。ただ、国民にこの意識がないだけである。無限連鎖の作用に気付かないだけである。

 かつては「天下一家の会」が社会問題になり、投機性が強いので法律では禁止されたが、これはあくまで個人間に限ってのことであり、国家間がこれをやっても、何の咎
(とが)める法律もない。国際法ですら、国家間の「ねずみ講」は野放しであり、どんなに大きな経済的損害を与えても、これを規制する国際法規はないのである。

 現に、国家間では「ねずみ講」を母体にした経済謀略が諜報機関組織で盛んに行われ、これが水面下で暗躍している。諜報機関では、何処の国でも経済破壊活動に関与する組織があり、これは背後から資本主義市場経済に関与して、敵対国の経済を揺すぶりを掛ける。
 また、日本では経済破壊活動を企てる背後には、極左
(過激派集団の反帝国主義武装革命集団各派)の共産革命集団が暗躍し、それに張り付く陸幕第二部別室(陸上自衛隊内の、この存在は組織上はないことになっている)や警察庁の公安総務ならびに外事警察などが絡み、その様相は複雑なものを呈している。

 また、この揺すぶりは、市場経済と言う「ねずみ講」が存在から可能になる。
 「ねずみ講」は、連鎖配当組織あるいは無限連鎖講と称され、「無限連鎖」の繰り返しがその組織のメカニズムであり、まさにこれは仏法の説く「輪廻
(りんね)の輪」と酷似している。
 資本主義市場経済は、この無限連鎖を常に発生させ、回転し続けることで、次々に新商品が開発され、それを消費者に、購入・消費させていくという構造をもっているのである。

 これは、今では生活必需品になってしまった自家用車を考えてもらえば、この事が一層よく理解できるであろう。
 新車は約三年周期で造られている。年式は、毎年新しいモデルで市場に送り出されるが、内部のメカ部分やボディーのチェンジは、三年周期で新しいものになっている。

 したがって、消費者に車を買い換えさせる周期は、三年周期で、車のセールスマンがやってくる。そして盛んに買い替えを勧める。
 しかし車は、三、四年で乗れなくなってしまうほど、チャチな構造になっていない。大事に使い手入れを怠らなければ、10年はおろか、20年でも30年でも充分に使えるのである。クラシックカーが健在で、今も現役で動いているのを見れば一目瞭然であろう。必要性のない連鎖の派生である。

 だが、国民の多くは市場経済全体が「ねずみ講」であると言う認識を持たない。車市場すら、ねずみ講のルートの上に載せられ、これが展開されている現実を知らない。したがって「買い替え」の罠
(わな)に嵌(はま)まる。そして、一度この罠に嵌れば、一生涯これから抜け出す事は出来ない。
 一度、車をローンで買った場合、そのローンは永遠について蹤
(つ)いて廻る。買い替えの度に、次の新しいローンに切り替えられ、この契約を履行しなければならない。これが底辺に位置する庶民の実体である。

 ここに、車を所有する見栄から派生した一億総中流の自覚症状のない現実がある。ローンが永遠について廻
(まわ)る現実が存在する。人間現象会は、また見栄に振り回されたり、世間体を気にしないではいられない世界でもあるのだ。見栄と虚栄心が強まれば、この市場原理は益々栄えることになる。人間は政治理念に関係なく、どの政策下に居ても、見栄と、一種の強がりは消えないのである。

 動物でも人間でも、生き物は総て大小はあるが、それなりの虚栄心と自負心を持っている。そして人間の場合は、これに「強がり」が加算される。
 これは、例えば恋愛においてもそうであろう。男が、自分で見初
(みそ)めた“いい女”を獲得しようと思えば、その背後には見栄や強がりは発生する。自分をよく思われたい為の過剰なサービス精神が働く。愛する女に対し、男は往々にして、この見栄と強がりを駆使する。これは愛する女が自分に抱いている影像をぶち壊したくない為に、あるいは幻滅させない為に必要以上に背伸びして、大判振る舞いの見栄を張り、強がりをして力んでみせると言う訝しな現象を平気でやるのである。これは人間に限らず、動物でも同じで、雄が雌よりも鮮やかな表形をしているのは、雌の関心を惹(ひ)く為で、人間もある意味で、これにひけを取らない。

 また、見栄張り男は、自分の恋人に会社での地位を殊更に高く表現したり、立派に言ったりするのも見栄と強がりであり、自分を頭のいい、有能な人間に見せるこの涙ぐましい駄法螺
(だぼら)は、よく考えれば見破れるのであるが、そこが見栄張り男の虚栄心と言うもので、つまらない誇張が渦巻く世界が、また現象人間界なのである。
 更に、月給の額を実際以上に誇示すると言うのも、見栄張り男の小児趣味であり、このての趣味は結婚相談所やブライダルビジネス産業の情報調書に山積みされている。

 しかし、小児的で非現実的な虚栄心は、人間の心理をくずぐる消費の弱点になっている。これこそが消費の為の消費であり、見栄張り人間どもはこの策に絡め捕られ、遊蕩児
(ゆうとうじ)の醜態を曝(さら)してしまうのである。
 こうした見栄は、消費の為の消費を生む。これこそが無限連鎖消費を起こさせる資本主義の「ねずみ講」たる所以
(ゆえん)なのである。

 また「ねずみ講」に酷似した社会システムに「マルチ商法」なるものがある。これこそ、市場経済では、資本主義にメカニズムに酷似した商法システムと言えよう。

 マルチ商法
(multilevel marketing plan)は 商品販売方法の一つであり、物品販売業者とその商品を再販売する者(会員)とが、次々に他の者を再販売組織に加盟させて、組織内での地位(階級)昇進から得られる利益を餌(えさ)に商品の購入や、取引料の支払いの負担を約束させる形で開始する商品の販売取引である。
 これは、別名「ねずみ講式販売法」とも呼ばれ、投機性が強く、弊害が大きいので法律では厳しく規制されているが、「ねずみ講」同様、再販売する会員が、国民と思ってもらえば納得できるはずである。

 この商法は、詰まるところ、連鎖販売取引であり、会員
(国民)はテレビや新聞広告、インターネットや雑誌広告の宣伝媒体を通して商品内容を知る事が出来、この内容に魅(み)せられて、消費の為の消費を繰り返すというのが消費者(国民)の心理である。国民あっての国が成り立つ要素も此処にある。踊らせる側の仕掛けばかりでは、国は成立しない。踊らされる国民があって、はじめて国家と言うものが成立するのである。

 したがって、改めて新車に買い替えるという場合、今、買い替えるにあたり、家計のことを考えないで買い替えるという愚行は避けたいものである。
 本来ならば、車を所有する状態にあるか否かを考え、車を所有する経済力があるのなら、「現金買い」をすることである。「現金買い」をして、長く乗る事である。これの方が値引きも大きいし、多くのサービスが付く。しかし、「ローン買い」となると、そうはいかない。そして、金利が付く事も忘れてはならない。

 前の分の完済が終わる前に、大ローンを組んで、再び払い続けるということは、多重債務の追加であり、こうした現実を把握すれば、「我が家は破産するのではないか?」と、直ぐに裏のことを考える癖をつけることが大切である。安易に「ローンを組む」という家庭の経済内容は、一つのローンだけではなしに、他にもクレジットやローンの履行
(りこう)が存在するからである。これを把握せずに、次のローンを組む事は、結局、多重債務を抱えている事なのである。

 しかし実のところ、消費癖旺盛な現代人は、この辺がルーズであり、自覚症状もなく、また見得や世間体もあって、セールスマンの口車にまんまと載せられ、新しいこと、快適なこと、便利なことに転んでしまうようだ。
 更に、隣近所に見得を張ることにも心を奪われて、家計圧迫を度外視して、後先無しに買ってしまうというところに、不幸の始まりがある。したがって、慎重を期すことが不可欠であり、事あるごとに、裏返しの思考で物事を考えることが大切である。

 また、車を買った時点で、不運・不幸の始まりであるということを胆に命じて欲しいと思う。更に、車を所有するということは、交通事故と因果関係を持つことになり、車に乗り、シートベルトを絞めた時点で、交通戦士であるということを覚悟しなければならない。

 この意識が希薄であると、ついには交通事故の被害者もしくは加害者となるのである。車を所持した時点で、この事は片時
(かたとき)も念頭から外してはならない。不幸は、ある日、突然に襲うものということを忘れてはならない。

 そして、現代人の生活の裏側には、見えざる「ねずみ講」が生活に深く関与していて、金銭と人生の中枢を司っている現実がある事を、私たちは忘れてはならないのである。



●不運を幸運に切り替えうる発想

 さて、アメリカでは、雪道を走っていて車がスリップし、何かに衝突して事故を起こした時、その友人達は「あなたは良い経験をして、ラッキーだったですね」と言うそうである。

 何故、良い経験なのだろうか。何故ラッキーなのだろうか。
 日本人には皮肉に聞こえるようであるが、欧米人は事故を経験した者に、そう言うらしい。
 そこには、事故を起こしたことの教訓が残るからだと言う。自らの失敗は、何よりも薬であり、教訓であるからである。そして、こうした経験はいつまでも残り、これは決して忘れるものではないという。

 しかし日本では、多くの人がこのような交通事故を起こした時、ラッキーだったと思う人は少ないようである。多くは、「ついてない」と思う。不運だったことを悔やむ。修理代が掛かる、痛い出費だと思う。そして、悔悟の念が湧く。

 交通違反を考えても、日本では、多くのドライバーが、何処かで必ず交通違反をしている癖に、自分だけスピード違反で捕まる、駐停車違反で捕まる、信号無視で捕まる、一時停止違反で捕まるなどの、こうした違反が、わが身に降り掛かった場合、多くは「不運だった」と思う。特にネズミ捕りに引っ掛かれば、この不運の様相は克明になる。違反した事よりも、不運であった事の方が、実に口惜しいのである。
 日本人は、不運をこうしたところに、他に責任転換する事が多い人種なのだ。

 しかし、ここが考えようである。
 発想を変えれば、「これだけの事故を起こして、よくぞこの程度の損傷・損害ですんだ。本当にラッキーだった」と思うことは出来ないだろうか。違反で検挙されれば、「転ばぬ先の杖」と思う事は出来ないだろうか。
 「天網恢々
(てんもう‐かいかい)(そ)にして漏らさず」という諌言を思い出すべきである。天の網は広大で目があらいようだが、悪事を繰り返せば、いつかは大きな不幸が訪れるのだ。悪事は、必ずバレる時がやって来る。

 「ついてない」と思うのと、「ラッキーだった」と思うのは、こうした考え方に、天地の開きがある。特に「転ばぬ先の杖」式で考えれば、結果は大きなものに還元されて、やがて自分に、巡り巡って来る。
 果たして読者諸氏は、どちらを支持するであろうか。


 あなたの幸・不幸は、どちらを支持するかで、既に幸・不幸の明暗を分けている事になる。発想の転換で、あなたの将来は、既に《予定説》によって「予定」されているのである。
 この世と言う現象人間界では、偶然と言うものは決して起らない。予定された事が、予定された通りに行われている。結果が原因を派生させる構造が、既に最初から出来上がっているのである。

 現象人間界は、原因が先にあって、結果が出るのではない。想い描いた事が、既に結果なのである。非実在界は、心像化現象の、現象化の影響を受けていることを忘れてはならない。そして原因を派生させる、そもそもの起りは、想念による思考である。想念が、その時点で結果に至る原因を派生させ、原因は結果に至る必然的なプロセスに過ぎない。

 換言すれば、心の切り替えで運気が開かれるという体験を通じて、良い想念を抱き続けることであろう。不運を解消する鍵は、こうした発想の転換にも見て取れる。原因が結果を生むのではなく、結果に見合う原因が、既に派生する予定を決定して居る事である。したがって、想念により、結果が起り、原因はそれに至るまでの、単なるプロセスなのだ。

 さて、もう一度、資本主義と言う「輪廻の輪」に迫ってみよう。
 資本主義市場経済に付き物なのが、「契約」である。
 契約に基づく「信用」の履行
(りこう)こそ、資本主義では、一つの重要な要素となる。これを履行する事で、金融経済が発達したのである。これを履行することこそ、資本主義のルールなのである。

 しかしこのルールから、個人においては、銀行系の“VISAカード”や、サラ金の“サラ金カード”が「信用貸し」という形で集金システムをなしている。
 消費者に「お手軽」を売り物にして、これ等のカードは免許証や健康保険証や給与支払明細等の提示で簡単に手に入れる事が出来る。その上弦は50万円まで借入することが可能になり、手軽で便利で迅速な一面が多いに受けている。

 しかし裏を返せば「借金漬け」への第一歩であり、やがては借金の為の借金を繰り返すジレンマに陥り、これが不幸の虎口であることを忘れてはならない。そしてカード一社での上弦は50万円と決められているが、金融会社を変えれば、多重債務が可能となる。多重債務の元凶は此処に起因する。

 しかし、こうしたものに頼る人は、カードを所有することが自体が、不幸への虎口と認識できず、テレビCMに乗せられて、安易に手を出す人も少なくない。

 最初は順調に返しているように見えても、やがては行き詰まるものである。カードを所有し、そこから20万円相当の借金や物品を買った時、既に不幸現象の第一期症状運命症候群に陥ったと考えるべきである。
 高利貸しを一軒といわず、数件借りて返済の為の返済に陥った場合は、既に不運と遭遇したことになり、ここからサラ金回りの地獄ツアーが始まる。これこそが不幸の原点なのである。

 結局、金銭を甘く見たものは「やはり金が人生の総てであった」と、悔恨の念を此処で抱き、この錯覚のうちに人生を終っていくのである。
 これは覚醒剤や大麻等の麻薬が止められず、ズルズルと虎口に引き寄せられて、最後は命を失う、あの構図に、どこか似ていないだろうか。




●一億総借金漬けの現実を知ろう

 近代資本主義を築いた社会構造の基盤になったものは、キリスト教をベースとした欧米の契約社会であった。
 キリスト教による社会契約論は、「信用」と「契約」という二つを、契約書の中心に据え、対立する複数の意思表示の合致によって成立する法律行為を決定した。贈与・売買・交換・貸借・請負・雇用・委任・寄託等がそのよき例で、これらは一方で、今日の「借金漬け」の現実を作り出した。

 また「信用」と「契約」が、大衆を借金地獄に陥れた。今日の一億総中流の大衆社会における社会構造は、この総中流である大衆の「一億総借金漬け」に回帰すると言っても過言ではない。

銀行カードであろうと、体裁の良い借金地獄カードである。そして国民の多くは、借金漬けの現実の中で、このカードを借金地獄への通行手形に遣っている。消費者が多重債務に陥って、カード地獄で苦しむ現実の裏には、安易なカード使用があり、これが生活経済に大きな圧迫を掛けている。

 入金の当てのないのに、借金して、これを生活費や贅沢品に廻す等は愚の骨頂であり、やがては返済不履行となって、サラ金地獄に追われる事になる。
 サラクレ
(サラ金とクレジットを併せてこう呼ぶ)は、双方ともに大きな落し穴があるのである。そしてクレジットカードなどの使用については、自覚症状のないまま、安易な使用に繋がるので、金銭感覚の薄い消費癖のある者は、益々、多重債務の様相が濃いくなる。

 私たちは豊かさと、快適さと、便利さを引き替えにして、多くの日本国民は、借金漬けになって、極めて不自由な、死ぬまで走らされる苛酷
(かこく)なラットレースを強いられていると言う現実が横たわっているのである。
 また「信用」と「契約」が、大衆を借金地獄に陥れた。今日の一億総中流の大衆社会における社会構造は、この総中流である大衆の「一億総借金漬け」に回帰すると言っても過言ではない。

 近代資本主義は、近年に至って高度大衆社会の現実を作り出した。
 高度大衆社会とは、一応は聞こえがいいが、要するにその他大勢である一般大衆を、「一億総借金漬け」にする要素を含んでいるのである。



●金銭と言う不思議な生き物

 金銭の性質は、追えば逃げ、追わねば蹤(つ)いてくると言う不思議な生き物である。また世間一般でも、そのように思われている。
 世の中で運・不運を決するのは、第一次的なものが金であり、この所有の大小で、幸・不幸が齎
(もたら)されるようである。

 しかし、金だけでも運・不運や、幸・不幸は解決しない。
 では、解決しない理由を説明しよう。
 人生の生き方のパターンを決めるもう一つの感情に「欲望」というものがある。人はこの感情に対し、「強欲
(ごうよく)」という言葉を用いて、欲のあることを見下した言い方をする。
 特に、これが金銭ともなると、「強突
(ごうつ)く張り」等と言って、酷(ひど)く欲張りで、金銭に固執して、頑固な人をこういう言葉で卑(いや)しめる。

 ところが一方、人は金銭の為に働く。多く得ようとして働く。つまり欲望の為に働くのである。
 この根底には、金銭で買えると思っている喜びを手に入れる為に、まず、働いて金が欲しいと思う。しかし、お金が齎
(もたら)してくれる喜びは、そんなに長続きはしない。

 高額な衣服を買ったとしても、あるいは豪華なレストランで高級フランス料理を食べたとしても、満足感を得るのは最初のうちだけで、気付くと、金銭を大量に消費したのに、精神的に残ったものは数える程しかない。そして毎日こうした浪費を繰り返えすと、金は幾らあっても足らなくなる。

 そこで、こうした生活をより良くする為に、更に大金が欲しいと思うようになる。大金があれば、もっともっと楽しい事が出来るのではないかと思うようになる。こうして、働き続けることに専念する。
 しかしこれは、恐怖と欲望に歪
(ゆが)められた魂が、金によって癒(いや)され、黄金の奴隸に成り下がることによって、豊かで、快適で、便利な、安定した生活が出来るのではないかと錯覚し始める事が要因である。そして、お金を多く得ることの妄想が膨らみ始める。

 もつと豊かに、もっと豪華に、もっと贅沢
(ぜいたく)にと。そしてここまでくると、完全に金の妄想に取り憑(つ)かれ、金があれば、何でも総(すべ)て、金で解決出来ると言う錯覚すら抱いてしまう。
 しかし、金にはそうした効果も、効力もない。

 金さえあれば、愛情すら手に入れる事が出来ると思っている人がいる。この世では、金で買えないものは、何一つないと思っている。側面においてはそうかも知れない。
 しかしここが、多くの人が誤解する、一番大きな間違いである。

 人は、金銭と言う妄想に取り憑かれて、人生の金儲けと考え、奔走する。誰もが苦労して働けば、やがては運気が廻って来て、大金運のツキが巡り、金持ちになれると安易に考え始める。しかし、金と言う生き物には、こういう働きはない。

 あくせく働いて、金を貯める。コツコツと貯蓄する。株や貴金属を買って、財産作りを始める。こうした考えは決して悪い事ではないが、これは欲望の為に働くと言うより、老後を心配しての労働、あるいは金銭に蓄財だと思われる。
 つまり根底には、「恐怖」というものが働いており、歳を取った将来、金銭を唯一の頼みの綱
(つな)として、不安材料を少しでも取り払おうとする、涙ぐましい努力が、将来、楽をする為に、今は一生懸命に働くと言う原動力にっているのである。
 この根底には、働かない為に働くと言う大きな矛盾が渦巻いている。しかしこの矛盾に気付く人は少ない。

 楽をしたいから働く。将来、働かないでいいように、今は一生懸命に働く。つまり、人は働かない為に、働いていると言う事になえう。これは良く考えると、大きな矛盾である。矛盾の最たるものだ。果たして、楽に老後を迎える為に、この矛盾した考えは通用するのか。

 またこれは、丁度、金持ちの恐怖心理に酷似している。金持ちが、金銭を持つのは、まさに恐怖の為であり、金銭や物財を持たないと、貧乏になるのではないかと言う恐怖は心の根底を巣喰っている。
 だから、あらゆる手段を使って、金を儲けようとする。できるだけ自分の手元に、金を引き寄せたいと奔走する。しかし、儲け、奔走する行動原理は、やはり「恐怖心」である。金銭を多く所有したいと考えるのは、恐怖心以外の何ものでもない。
 そしてその恐怖は、金持ちであるが故の恐怖であり、これは金銭の所有する量と比例して大きくなって行く。
 金銭に囚
(とら)われ、金を失う事に、この上もない恐怖と苦痛を感じるのである。
 
 しかし貧乏な人でも、これを同じ恐怖を持っている。金銭を所有すること、金儲けをすることを「穢
(きたな)い」を思っている人が少なくない。したがって、金持ちに対峙(たいじ)した、「金がなくてもいい」あるいは「金になんか興味がない」と安易に考えてしまうのである。これは金に囚(とら)われているのと同じくらいに、異常な考え方なのである。この点は金持ちと貧乏人の酷似するところである。その上、貧乏人は、自分が中流と思っているので、更に始末の悪い。

 金は無くてもいい。金なんかには興味がない。一端はこう断言しながら、この階層の人は、パチンコや競輪競馬などの小ギャンブルに手を出すのは何故だろうか。
 こうした博打場は、こういう考え方を持った人で、溢れ還っている。パチンコなどは、開店時間前から長蛇の列が出来、少しでも多く稼げるパチンコ台を狙って、小ギャンブラー同士はお互いに鎬
(しのぎ)を削り合っている。
 しかし、こうした小ギャンブルの博打場に、金持ちの姿は殆どない。これは何故だろうか。彼等は、パチンコをする側ではなく、庶民にパチンコをさせる側なのである。

 ここで一つの結論が出て来くる。パチンコにのぼせ挙げても、結局、儲ける事は出来ないと。
 パチンコ屋は慈善事業ではない。営利を追求する、立派な企業のそれなのである。
 これが分かっていて、なぜ人は小ギャンブルに手を出すのであろうか。この、「手を出す」という行動こそ、錯覚の最たるものなのである。


 結局、それと同じくらい、「金が無くてもいい」あるいは「金になんか興味がない」と言いながら、裏腹にパチンコで、五万儲けた、十万儲けたといいながら、更に錯覚の上塗りをしているのである。これは、働くことに置き換えても、同様である。

 では人は何故、働くのであろうか。
 これは非常に矛盾したことなのである。この矛盾は、金持ち以上に矛盾した考えであり、金持ちの蓄財努力より、悪質かつ偏見な行動原理と言える。
 そしてこうした面で、貧乏人は、金に対し、大きな偏見が浮き彫りになり、この矛盾が、実は金に対する考え方を誤らせているのである。

 金と言う、これは確かな生き物である。それも非情に不思議な生きものである。
 感情的に反応し、この感情の激しい人には、近寄らない特性を持っている。だから、困窮生活から、いつ迄も抜け出せないのである。
 感情に対して露骨に反応する人は、自分の生活を見失う。こうした見失っている、困窮する人を、じっくりと観察する必要がある。

 今、もし、金銭的に恵まれてないと思い当たる節があるのなら、この点を見逃してはならない。
 困窮する人と、そうでない人との格差は、実は、困窮する人の形相、態度、行動、思考、言動等の総て見て取る事が出来るのである。困窮の当事者として、自分がその中に嵌
(は)まっている時は、事象を客観的に検(み)る事が出来ないが、そこから一歩出て、困窮に苦しんでいる人を検ると、何故か自分と生き写しであることに気付かされる。

 困窮する人程、人間は行動や思考が感情で支配されると言う、人生の大きな落とし穴を見逃しているのである。そして見逃すばかりか、実はその落とし穴に自分が嵌
(はま)り込んで、身動きとれない状態にあるのである。

 金と言う生き物は、自分に正直な人に集まるようだ。自分の身の程を弁え、こうした素直な人に集まる要素を持っている。したがって、どうして、金を穢
(きたな)らしいと考えている人の処に集まって行くであろうか。

 それは人生には、《類は類を呼ぶ法則》と《異は異にする法則》があるからである。
 金を素直に欲しいと考え、それについて、労働の対価として金を得る場合、これは当然の権利である。この権利を自覚した上で、金は祖の素直な人間に集まって来る。そして自分の身に付く。
 「金がなくてもいい」あるいは「金になんか興味がない」と思えば、その深層部には、口で言うのとは逆の、やはり、強突
(ごう‐つくば)りの気持ちが作用するから、幾ら働いても、身に付く筈(はず)はなく、直ぐに浪費して、逃げて行ってしまうのである。

 金を得ようとすれば、まず心に正直で、金を素直に理解しなければならないのである。そして、金に対する理解度を深めることが、金銭哲学の根底には流れているのである。働いた対価として、金を得る事は決して穢い事ではないのである。




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