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▲ありし日の其中庵(昭和8年11月、故・横畑黙壷氏 撮影)
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●山頭火の人間構造
出家する事、僧や尼になったりする事を「得度(とくど)」という。
種田山頭火は大正14年(1925年)3月、苦悩を綴(つづ)った前半の人生に別れを告げるために、望月義庵(もちづき‐ぎあん)和尚の門に馳(は)せ参じる。時に四十四歳であった。
では何故、山頭火をして、禅門に潜(くぐ)らせたか、それまでの経緯(いきさつ)を追って行くことにしよう。
裕福な大富豪の家に育った山頭火は、十一歳の時、母ふさの自殺によって、是(これ)までの人生が一変し、最大の苦難を受ける事になる。
山頭火は1882年12月3日、山口県佐波郡防府の宮市(現在の山口県防府市西佐波令八王寺一三九〇)に、父竹治郎と母ふさの四人兄弟の長男として生まれた。
この当時の種田家は「大種田」の異名をとり、大富豪で、代々の地主であった。種田家の人々は1kmほど離れた三田尻(みたじり)駅まで行くのに、城のような屋敷から駅まで、他人の土地を踏まずに行けたというから、その敷地の広大さはこれからも窺(うかが)える程である。
少年山頭火は豊饒(ほうじょう)の日々を此処で送り、何不自由なく少年時代を過ごしている。そしてこれは、永遠に続くものと思われた。この時点で、大種田の異名を取った種田家が没落するなど、誰が想像しえただろうか。
しかし種田家の翳(かげ)りは、既にこの頃から現われていた。
この翳りは、父竹治郎の女狂いに端(たん)を発する。父竹治郎の容貌は、眉毛が太く、また目も大きく、大柄で西郷隆盛のような風体であったという。
また性格も磊落(らいらく)で、一見思考のスケールが大きいように見間違う程、豪傑肌(ごうけつはだ)であり、物財に固執する事が恬淡(かったん)だった。金銭面も、これをコツコツと蓄財するという気持ちがなく、無欲のような人柄で、極めて善良な大地主として、周囲の人々の尊敬を集めていた。
また、母ふさは少し痩せ過ぎの美人で、当時は修身の教科書に代表されるように、儒教主義のはなやかし頃の時代であるから、彼女は良人(おっと)に能(よ)く仕え、良妻賢母として周囲の尊敬を集めていた。まさに徳婦(とくふ)の鏡と称されていた。
しかし、両者の体格や性格は正反対で、竹治郎の豪傑肌に比べて、ふさは繊細な処があり、慇懃(いんぎん)で何事にも遜(へりくだ)り、内助の功で良人に仕え、妻として、また母として能くそれを補ったという。
当時、小学校低学年の「小学修身書」という教科書には、「をなごはいつもたをやかに、かぜにやなぎのごとくあれ」とあり、まさに母ふさはこの修身の教科書を地で行くような人であった。
この夫婦からして、種田家の名声は地元益々高まった。やがて父竹治郎は、政友会の顔役として、政治の世界に乗り出す事になる。母ふさも顔役の女房として、これに能(よ)く仕えた。
さて、ここまでであれば、申し分のない倖(しあわせ)一杯の「おしどり夫婦」であり、総(すべ)てがハッピー・エンドの幕が曵(ひ)かれるのであるが、人生はそう易々としたものではない。天は二物を与えなかった。この時、誰にも想像しえなかった事が起こり始めていたのである。
父竹治郎は酒を飲まない人であった。しかし女には目が無い人で、妾(めかけ)を三人も抱える、政治家にはお決まりのコースを歩いていた。女を求める色情は、政友会の顔役になってから益々激しくなり、女狂いに現(うつつ)を抜かすようになる。
そして政治にかこつけて、度々家を空けるようになり、大種田の異名をとる竹治郎の豪勢な身上(しんじょう)は、女に狂う事によって、次第に罅隙(かんげき)が入り始める。その上、磊落(らいらく)で恬淡(かったん)な性格は、妾達に湯水の如く金が流れた。それでも母ふさは慇懃(いんぎん)に傅(かしず)いて、「かぜにやなぎのごとく」で、良人(おっと)に従順でならねばなかった。
一方、政友会の顔役となった父竹治郎は、高い政治意識を持った訳でもなかった。寧(むし)ろ政治については暗愚で、全くの素人だった。地域の取り巻におだてられ、得意満面になって大政治家を気取り、一時の有頂天に舞い上がっただけであった。
しかし竹治郎に、この取り巻の狡猾(こうかつ)な意図は見抜けなかった。取り巻が云う儘(まま)に金銭をバラ蒔(ま)き、散財を行っていたのである。
そして竹治郎が女に狂えば狂う程、母ふさは愛児山頭火を真ん中において、姑(しゅうと)との板挟みになって感情対立が激しくなって行った。
こんな中、竹治郎の女狂いは益々激しさを極めた。そしてそれは、救い難いものになっていった。
母ふさは竹治郎に抗議をするが如く、母屋と土蔵の中程にあった古井戸に身を投げて投身自殺を図った。人生にあっさりとケリを付けるには、自殺は一番手っ取り早い手段である。この時、山頭火はまだ十一歳であった。
そして、母ふさが自殺したこの時、竹治郎は若い女と遊山旅行をしていて、妻が死んだ事を知らないでいた。ふさの死は、良人竹治郎に向けられた無言の抗議であった。そしてこれが少年山頭火に、一種の懐疑となって心の中に深く焼き付くのである。
周囲から大種田の異名で呼ばれ、何不自由なく育った少年山頭火は、これまで母ふさの慈悲の許(もと)で育まれて来たのであるが、その心の支えの拮抗(きっこう)は母の自殺によって一気に潰(つい)えたのである。
豊饒(ほうじょう)の中に、人生の倖(しあわせ)を感じ取っていた少年山頭火は、僅か十一歳にして人生の孤独を味わったのである。その孤独の裡側(うちがわ)には、父の女狂いと母の投身自殺に対する懐疑と絶望が蔓延(まんえん)していたのである。そしてこれは、少年山頭火の前途に重く伸(の)し掛かる昏(くら)い暗示となった。
後の山頭火が早稲田大学を中退(【註】神経衰弱に襲われていたらしい)し、造り酒屋の経営も失敗して、熊本に流れ、市内の公会堂前で電車を止め自殺願望?を露(あらわ)にして、やがて望月義庵和尚の許(もと)に参じて出家する経緯(いきさつ)に至る彼の人生行路は、この時、既に暗示されていたと見る事が出来る。
母ふさが死んでから、父竹治郎の女狂いは益々激しくなり、乱脈に乱脈を重ねた。これには全く手が着けられなかった。女をあてがわれ、政友会の政治ゴロに、完全に喰い物にされていた。しかし竹次郎に、この仕掛けを見破る見識眼がなかった。
五人の愛児を遺(のこ)して三十三歳の若さで死んだ母ふさは、竹治郎の手厚い回向(えこう)を受ける事もなく、その戒名(かいみょう)には「釈順廷貞信女」という、大種田の主婦としてはあまりにも粗末で、最下位の淋しい戒名が付けられた。そして大きな黒松の陰に在(あ)った古井戸は、不吉な存在として直ちに埋められてしまった。
以後、この井戸の在った場所に近寄る者は誰もいなかったという。
少年山頭火は、防府(ほうふ)の松崎尋常小学校を卒業した後、三年生中学の周陽学舎に入学する事になる。小学校の時は差程成績もよくなく、地味な存在であったが、此処に入学すると、めきめきとその頭角をあらわし始めた。ついに首席に登り詰め、鋭鋒(えいほう)を発揮した。この頃より、学友の阪田や猪俣らと文芸同人雑誌を発行している。
また明治32年(1899年)には、県立山口中学四学年に編入している。この頃から、山頭火は俳句に興味を持ち始め、三田尻の椋鳥(むくどり)句会に出入りするようになる。
1901年、山頭火は早稲田大学予科に入学した。文学を専攻したが、この頃から徐々に酒の味を覚え、やがて日々深酒するようになる。そして彼に深酒をさせるその原因は、父母に投げかけた懐疑と、そこから起こる人生への絶望であった。
彼の懐疑と絶望は、実に母が自殺した明治26年(1892年)3月6日の十一歳の時から、早稲田大学文学科に入学した明治37年(1904年)の二十三歳の、足掛け十二年間に及ぶ歳月であった。この間、彼は懐疑と絶望に揺さぶられ、深酒の習慣は益々激しくなって行った。それは丁度、父竹治郎が女に狂い、その止まるところを知らないのと対照的であった。そしてこの相似した父子は、想像を絶する奈落の底へと落ちていく。
早稲田大学在学中に山頭火が、大種田の身上も、だいぶん傾いたと人の噂を伝え聞く頃には、種田家の白壁で囲まれた城のような御殿は荒れるに荒れ、廃墟(はいきょ)と化そうとしていた。ここに至って山頭火は、初めて母ふさの気持ちを染み染みと思い、その苦悩を汲(く)み取ったのである。
また彼の祖母は、我が息子竹次郎の非を咎(とが)めなかった事を反省し、嫁の気持ちが如何に耐え難いものであったか理解できたのである。
父の女狂いに平行して、山頭火は酒に溺(おぼ)れ、極度の神経衰弱症に悩まされ、ついに早稲田大学を退学する。
明治40年(1907年)山頭火は二十六歳の時、父竹治郎は家政に失敗し、吉敷郡大道村(だいどう‐むら)に移転した。そして山野酒造場を買い受けて、東京より帰郷した山頭火の名義で造り酒屋を営む事になる。
父竹治郎は、女狂いのために方々に多額の借金を拵(こしらえ)ていた。それを精算するために、先祖伝来の屋敷や土地や物財を売り尽くした。そして手許(てもと)には、若干の金子(きんす)が残った。父はこの金子を許に、資本の立て直しを目論んだのである。
その立て直し策に、白羽の矢を立てたのが山野酒造場という造り酒屋であった。大種田の復興を目指して、種田家の残り財産は総てこの造り酒屋に注がれた。しかし父竹治郎や山頭火自身も、酒造に関する知識は一切持っていなかった。文字通り、困窮と欠乏生活から少しでも早く抜け出すための、藁(わら)をも掴む思いの、行き当たりばったりの結果しか生まれなかったのである。
最初は旨く軌道に乗るように思われた。
しかし世の中はそんなに甘いものではない。経験と知識がものをいう酒醸(しゅぞう)に、ド素人如きが参入してそう易々と成功する程、酒造りは簡単な事ではないのだ。
そして最も酒造経営を最悪にしたのは、父竹治郎も山頭火も、この虎の子を叩いた新事業に全く身が入らなかった事である。
父竹治郎は女に狂い、寝ても覚めても女、女、女であり、山頭火といえば、酒、酒、酒であった。二人は平行するように女と酒に溺れ、愚行に日夜を費やし、この止まるところを知らなかった。父親は女に狂い、息子は酒に狂った。そして二人は、自制というものを全く知らなかった。
こんな態(ざま)で、種田家の再興の目指し、その命運を賭けた新事業など成功する筈がない。また山頭火自身、お家再興などという堅苦しい世間への見栄に飽き飽きしていたと云うのが、正直な気持ちであろう。だから父子の共同事業はその運命共同体の中で、既に崩壊していると云ってもよかった。
山頭火の心の片隅に今も尚、わだかまるものは、悲劇から発する懐疑と絶望であった。
●酔いどれの人生の幕開け
山野酒造場を種田酒造場と改めて、一年が過ぎ二年が過ぎた。そしてその経営は杜撰(ずさん)を極めた。
父竹治郎は、神経衰弱で神経を病み、学業を放棄した山頭火に酒造経営という仕事を与え、父子共同経営という名目で、自分は一等下がり、総ての経営を山頭火に任せて、自分は女遊びに現(うつつ)を抜かす事であった。
そして父竹治郎は自分の足許(あしもと)に火が点(つ)き、やがてそれが全身火達磨になって、焼けただれる運命にある事に気付いていなかった。愚かといえば愚かである。
また、この悲劇に一段と輪を掛けたのが、山頭火の所業であった。彼は托された事をよそに、仕事をそっちのけで飲み歩いた。彼の念頭には酒以外なかった。
そして種田酒造に、大きな痛棒(つうぼう/坐禅で、師が心の定まらない者をうち懲こらすのに用いる棒)が加えられる出来事が起こった。
酒倉の酒が全部腐ってしまったのである。酒造家にとってこれほど大きな重傷はない。流石(さすが)に竹治郎も山頭火も、これには唖然(あぜん)とする以外なかった。
二人の心だけは焦る。何とかして立て直さなければと……。
しかし元来が経営者でない彼等二人は、その術(すべ)を全く知らなかった。全くの経営のド素人であった。そして運の悪い事は、既に少なからずの負債が、以前にも増して徐々に増えている事であった。それでも父竹治郎は女に溺れる色情から逃れられず、また山頭火は酒に溺れる酒乱から逃れなかった。
この時、山頭火は二十八歳になっていた。竹治郎は父親の妙案として、山頭火に嫁を持たす事を考えた。嫁を持たせば、山頭火は真面目に仕事に打ち込むであろうと考えたからである。そうすれば、山頭火は嫁のために仕方なく仕事をし、その彼の仕事で自分は悠々(ゆうゆう)と女遊びが出来るという、卑怯な一石二鳥の策を捻り出したのである。
竹治郎自身、自分が造り酒屋の経営をするなど真っ平(まっぴら)御免であった。出来る事なら息子の山頭火に経営を任せ、自分は会長職に収まって、現場での悪戦苦闘は、社長である実質上の経営者・山頭火に任せたいのが、実のところの本音であったろう。
しかし山頭火は、父の申し入れを即座に拒んだ。その理由は、「有」の不確実性であった。
人間の歴史を振り返れば、その栄枯盛衰(えいこ‐せいすい)は人間の欲望によって齎(もたら)され、有史以来の人間の原動力は、貪欲(どんよく)な欲望に回帰されるではないか。
欲望が人を動かし、人が欲望に翻弄(ほんろう)されるのである。
曾(かつ)て大種田と謂(い)われた、畏敬の念で見られていた種田家は、今は崩れ、財を失い、朽(く)ち果てて、その全ては他人に渡ってしまったではないか。
大種田と異名した諸々の物財は、父治郎にとっても、山頭火にとっても、あるいは母や祖母にとっても、永遠なる如何なる「有(う)」が存続し得なかった。
有とは何か。それは存在を指すものである。存在は実体と属性に分かれる。前者はそれ自体で独立するが、後者は前者に帰属して依存する事である。
しかし現世において、有はやがて無に回帰する。
この種田家再興を目指した種田酒造とて、やがては無に帰するのだ。そういう懐疑が彼自身にあった。
物という実体の無い存在、物という所有の限定を定義できない物体は、人間と人間の間を巧妙に潜り抜けて、最初の持ち主の手を離れ、全く関係のない、赤の他人に辿り着くではないか。祖母はこれを人間の業(ごう)だと云った。自分もそう思う。こんな気持ちで山頭火は父竹治郎の結婚話しを断わるのであった。
そして山頭火曰(いわ)く、「業(ごう)」とは、物に纏る「呪(じゅ)」の一種であるという結論に至った。
この時、山頭火は無常観に取り憑(つ)かれていた。したがって嫁など、要(い)らぬと決意していたようだ。
また生涯女に狂い、溺れ、その性欲の止まるところを知らなかった父竹治郎に、山頭火の本心や深刻な心境など分かろう筈がなかった。
つまり父竹治郎は我が子山頭火の、心痛など一切知る由(よし)もなく、ただ女と明け暮れる日々を送っていたのである。だから山頭火は、孤独の道連れとして、酒を選んだのかも知れない。
しかし竹治郎の女狂いと、山頭火の酒狂いとはその次元において、竹治郎のそれではない。父竹治郎のそれは一時の慰安であり、享楽であるが、山頭火のそれは深刻な苦悩から発する懐疑と絶望であった。
●懐疑と絶望
種田山頭火の苦悶(くもん)は「懐疑」から始まっている。
大学で学ぶ事に懐疑し、物財に取り込まれる事に懐疑した。そして父竹治郎が女に狂い、また山頭火自身が酒を飲み、溺酔する度に種田家の巨額な財産は、瞬(またた)く間に潰(つい)えて行った事を知る。種田家の巨大な財産は、自分にとってばかりでなく、自殺した母にとっても、女に狂った父にとっても、また祖母にとっても、結局、永遠なる「有」ではなかった事に気付く。
栄枯盛衰(えいこせいすい)が世の習いであるように、如何なる「有」は、結局「無」に回帰するという事で、今、物が有るという事は、孰れ物が無くなるという事に帰着する事を知ったのである。
物が無いという事は存在の欠如であり、有の否定であり、有を保存し、永遠に所有する事は人間の能力では皆無であると見抜いたのである。ここに山頭火の無常観がある。総(すべ)ては無に帰する事が「大宇宙の玄理(げんり)」であると気付くのである。物事は無から生まれ、有を生ずるが、その有すらも、やがては無に帰するという栄光盛衰の摂理である。
而(しか)して、大宇宙の玄理とは何か。
山頭火は、如何なる「有」に対峙(たいじ)して、相対的な「無」に帰着したのではなかった。有に対峙する無、無に対峙する有などの思考を、さらりと捨てて、有無を超越する次元こそ、大宇宙の玄理と考えたのである。この次元に至ってこそ、本当の豊かさがあるのではないかと考えたのである。
しかし、これを具体的に押し進める解決方法を、まだこの時見つけ出してはいなかった。
彼がこれを探し当て、この解決方法を実践し、格闘するのはまだ後の事である。
出家得度(しゅっけ‐とくど)し、曾(かつ)ての過去を振り返って大種田といわれた家の格式や城のような邸宅は、過ぎし日の豊饒(ほうじょう)に浮き上がった有の空しさ、有の無意味さでしかなかった。これは出家得度した後の、彼の感想である。
しかし無常観を逆撫(さかな)でし、この無意味さを更に印象付けるものが、山頭火の嫁取りであった。
佐波郡和田村に、佐藤光之輔(さとう‐みつのすけ)という人物がいた。光之輔の長女に咲野(戸籍は「サキノ」となっているが本書では咲野を使う)という、大変器量よしの美しい娘がいた。
彼女は和田村でも評判の美しい娘であった。
竹治郎は一目するやいなや、この娘の美しさに惚(ほ)れ込んでしまう。
その思いは、まさに息子の妃(きさき)であった楊貴妃(ようきひ)を奪って、息子から父へと遡(さかのぼ)った玄宗(げんそう)皇帝(唐帝国第六代皇帝。睿宗(えいそう)の第三子。諱は隆基。初めは開元の治と呼ばれたが、晩年楊貴妃を寵愛(ちょうあい)するに及び、安録山(あんろくざん)の乱(安史の乱とも)が起り、蜀(しょく)に逃れた。乱後、長安に帰って没する。諡(おくりな)は明皇。在位712〜756年で、存命685〜762年)の心境であったろう。
楊一族の絶世の美人・楊貴妃を、息子から奪い取り、得意絶頂にいた玄宗皇帝と竹治郎はどれ程の隔たりがあったと云おうか。
その隔たりにおいて、玄宗皇帝と竹治郎は、したたかさの面では酷似していたといえる。
山頭火は父の薦(すす)めを頑(かたく)なに拒(こば)んだ。しかし父は咲野を山頭火の嫁に向かえたかった。見合いだけでもと、父は薦める。しかし山頭火は嫁を貰う意志がないのに見合いしても無駄だ、と断わり続けた。
頑(かたく)なに断わり続ける山頭火を前にして、話しは遅々として進まず、父竹治郎は強引に咲野を嫁にしてしまった。一度も顔を見合わせる事なく、咲野は種田家に輿入(こしいれ)するという事態に至ったのである。これはまさに誣(し)いられた花嫁を向かえる事であった。
山頭火は後に、咲野ほどの器量を持ち、容姿端麗(ようし‐たんれい)の美人ならば、他に幾らでも嫁に貰ってくれる良縁は多々あったろうに……。何故私のような者の処に苦労をしに来たのだ……と婚姻後の不幸せな悲劇に至った事を吐露(とろ)している。
また咲野自身のとっても、現実は大きく違っていた。
嫁いだ後、山頭火の妻として、弧影悄然(こえい‐しょうぜん)とした暗示に運命を託さねばならなかった。山頭火と咲野の新婚生活は約10日ほど続いたが、山頭火はまたそれ以降飲みに出歩く日々を続けた。これは以降の咲野の悲運を象徴し、それを暗示するものであった。
竹治郎の、山頭火に嫁を娶(めと)らせて、男として身を固めれば、家業に励み、家に落ち着き、相思相愛の関係が保たれるのではという考えは見事に外れ、家に居着くどころか、咲野を向かえる以前よりも、山頭火の酒乱は益々激しくなった。
種田家は呪われていた。父竹治郎の女狂い、息子山頭火の酒狂い。この父子の親子は、車の両輪の如く、元凶の因果を巡らし、因縁を下降へ下降へと、その衰運を深めて行った。
そしてこの時、再びまたあの悪夢が訪れた。
酒倉の酒がまた全部腐ったのである。
昨年も酒倉一杯に酒を腐らせ、ためにその借財は多額なものに及んでいた。そして再び今年も腐らせたのである。これが因果の回り巡るそれでなくして、何であろう。
種田酒造場にとって致命的な重傷であった。この重傷から恢復(かいふく)を願うのは何人と雖(いえど)も不可能であった。これによって「背水の陣」と称した種田酒造場は、実質上倒産を余儀なくされ、経営は風前の灯火(ともしび)と化す。
父の女狂いに併せて、放蕩(ほうとう)息子の酒狂い。この因果は廻り廻って倒産寸前という悲劇に、まるでブーメランのように戻り帰って来たのである。父は、この期(ご)に及んでも女狂いは治らなかったという。また山頭火も、自己嫌悪と厭世観から、酒狂いは益々激しさを極めたという。
●漂泊願望への旅
山頭火が実質的に漂泊の旅を始めたのは1926年4月であったが、そでにそれ以前に、心の中では漂泊の旅は始まっていた。山頭火が自由律俳句に入ったのは、1911年頃であり、この時から漂泊の構想が漠然と広がっていたのではあるまいか。
そして、山頭火に時雨(しぐれ)の句の多いのは、単に新風俳句の自然味や清純さと言うことばかりでなく、心の中では格闘する悶絶(もんぜつ)に似た葛藤(かっとう)があり、それに身悶(みもだ)えながら肉弾人生の模索が始まっていたと思われる。
また、山頭火の時雨の句を挙げるならば、その代表作とも言うべき時雨の句は、
であり、これには何とも言えない味わいがある。しかし、リアリズムの面から見直せば、一種の非常であり、あまりにも非常すぎると言えよう。あまりにも尋常でない。完全に世の常から逸脱しているのである。
昭和6年12月27日、山頭火は太宰府天満宮に詣でている。その時に天満宮の樟の老木が雨に濡れて時雨れた様子を詠ったのが、次の二句である。
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右近の橘の実のしぐるるや
大樟も私も犬もしぐれつつ
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それは一種独特の魂を揺さぶる迫力を持っている。単に時雨を風流風に準えて、決して詠んでいないからである。非常さがあり、何とも言えない凄まじさがある。これままさに自然の凄まじさといってよかろう。山容か独自の一種の論考といってもよいであろう。
更に山頭火の句の特異性を考えてみれば、句全体を見渡してその一句一句には無限の寂寥感が漂っていることである。それが何ともいえない味わいを出しているのである。独り旅する当てもない旅は、まさに寂寥そのものであり、一種の寒々とした孤寒を感じさせるものであるが、山頭火は此処に甘んじる事なく更に無限なる寂寥感へと足を踏み入れている。
しみじみ食べる飯ばかりの飯である
生えて墓場の、咲いてうつくしや
山のしづけさは白い花
涸れて涸れきつて石ころごろごろ
咳がやまない背中をたたく手がない
朝焼夕焼食べるものがない
死をまへに涼しい風
何を求める風の中ゆく |
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この寂寥感こそ、芭蕉の域に到達し、かつリアリズムの面に於いては、芭蕉を凌いでいる。そして、山頭火の対面したテーマは、死と生の鬩(せめ)ぎ合いであり、生のギリギリまで自己を追い詰め、死を常に観ていることである。
これより先をご覧になりたい方は入会案内をご覧下さい。
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