●人生終盤に残された最大の課題
人間に死に方の相違が起るのは、その人の生き態(ざま)と因縁の関係であろう。
人は、過去世(かこぜ)からの習気(じっけ)を引き摺(ず)っている。過去が未来に向かい、また未来が過去に向かう。これが宇宙の呼吸であり、膨脹と収縮が、この中に包含されている。
文明は驚くばかりの技術的偉業を人類に齎(もたら)した。そしてその反面、それに劣らぬ社会運営の無能ぶりをも人類に齎した。この著しい落差こそ、現世を生きる「人類の特長」なのである。
この「人類の特長」は、また「人類病」をも、つくり出した。人類の病は、古人が病魔に襲われるだけでなく、公(おおやけ)を代表する権力者までが、戦争と云う争い事までに手を染め、この中に人民を引き摺(ず)り込んでしまうのである。則(すなわ)ち人類の歴史は、また「戦争の歴史」でもある。そしてこの歴史を手本にして、やはり現代人も、戦争に向かって、人類の滅亡に向かって、その道を歩いているのである。
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| ▲日本の空を警戒すると言うP-3C早期警戒機。この早期警戒機は、果たして日本の利益の為にあるのか、あるいはアメリカの利益の為にあるのか。 |
人類の歴史は、間断なく轟(とどろ)く、戦(いくさ)の太鼓の音に、大きく揺(ゆ)らいで来た足跡を遺している。
そして人間は、成仏と不成仏の明暗を分ける境目は、戦いを好む、好戦的であるか否かに懸っているように思う。
人間は自ら不成仏を引き寄せ、戦いの太古の響きを轟かせ、戦いの烽火(のろし)を上げて来た。部族間の争い、宗教戦争、市民戦争、王家や皇室同士の争い、国家の権益の懸った戦争、イデオロギーの為の革命戦争、植民地戦争、主義主張や文化を押し付ける為の戦争、自由を標榜しての戦争、そして戦争を終らせる為の戦争。
人類の過去の歴史を振り返れば、夥(おびただ)しい戦争が鎖の如く繋(つな)がっている。そしてこの「鎖」は、どう見ても、未来へと繋がっている。
未来へ繋がる、戦争への鎖(くさり)は、まさに核戦争であり、この幻影は人類の脳裡(のうり)から消えることはあるまい。
この幻影が、また現代への未来を暗示した大事故や大自然災害へと繋がり、事故死で死んで行く者を暗示しているのである。
世の中の出来事は、決して偶発的に起こるのではない。起るべきして起る、因縁がその背後に横たわっているのである。悲惨な事故に遭遇し、その犧牲となって死んで行く、こうした人の背後には、過去世(かこぜ)から引き摺(ず)った習気(じっけ)の実態があるのである。人間に齎(もたら)される災いと云うのは、それが必然なる因縁から来ているので、その連鎖反応の火が点(とも)る可能性は次第に増大して行くであろう。そして、人類滅亡に向かって、不可僻となるのだ。
では、世界滅亡へと向かう危機を招く起因は、何処の存在しているのか。
それは人間の持つ、脳の重大な欠陥からであろう。
人間の脳には、爬虫類脳の上に、様々な脳が覆(おお)い被(かぶ)さり、最終脳と云われる大脳皮質によって辛うじて、「知性」を満たしている。この知性の中に、慈悲も愛も含まれていると云う。
人類が爬虫類や加糖哺乳動物と共有して来た原始的な脳の構造は、人類に進化を齎(もたら)した人類特有の新皮質に、他の霊長類と一線を画する特長があると言う。
しかし、大脳生理学者は云うように、人類の進化によって、爬虫類脳や下等な哺乳類脳と、原始的な人類特有の脳が、両者間に於いて調整され、拮抗(きっこう)されたと言う証拠は何処にもない。
もともと、人類は進化した存在なのかも、疑わしい生き物なのである。したがって、「進化した」とか、「進化の過程にある」という実情すら疑わしいものになる。果たして、人類は進化しているのか。
むしろ、人類は「進化の手抜かり」によって、脳の構造に於ては、前者と後者は不安定な形で共存し、それが本能的もしくは情緒的な行動となって、この行動に関係のある先祖の脳が、共鳴し、その因果関係を引き出しているのではないか。
もし、そうだとすると、先祖伝来の脳の構造は、人間の言語、倫理、道徳、象徴的思考を齎した新皮質と屡々(しばしば)対立し、鬩(せめ)ぎ合いを起して、遂に爆発したのではなかったか。
したがって、「ここに人類は苦悩する」のではないか。
自然は人類に三つの脳を授(さず)けた。
三つの脳のうち、最古のものは、基本的には爬虫類脳であり、二番目が下等の哺乳類脳である。そして最後が、哺乳類脳から発達した脳で、この脳こそ、人類をして「人類的」にたらしめたのである。
つまり、人間は一個の脳の中に、三つの脳が共存する羽目となり、一般的には、辺縁系の脳の構造を保っているが、時として、爬虫類脳の「攻撃」と「縄張り」の主張が起り、あるいは原始人脳と云われる外表系の顕われから、「記憶」と「言語」が飛び出して、新皮質(原人脳)と云う人類特有の「思考」に対し、単純にR領域の哺乳類脳や辺縁系の哺乳類脳の「古い脳」(愛情や交流を司る辺縁系)の出現と、鬩(せめ)ぎあう事もあるのである。
また、人類が病気をするのは、人類脳と云われる美と創造を司る前頭葉の発達度が未成熟で、これにより怒りっぽい人は高血圧症や動脈硬化に罹(かか)り易く、これはR領域の爬虫類脳の活動によるものだと云われている。一方、胃潰瘍や膵臓炎などの消化器疾患は、辺縁系の哺乳類脳の仕業で、これが野放しになっているからだと云う。
更に、心身症や神経症、鬱病(うつびょう)や精神疾患などは、多くはストレスが原因していて、また、ストレスから発症するガン疾患もストレス病に含まれ、これは幼児期の学習期に正しい教育を親から受けておらず、甘やかされて育った人間に多いと云う。
例えば、双子の兄弟が居て、あるいは年子の兄弟が居て、その兄弟の中でストレス病に罹り易いのは長男ではなく二男である場合が多いと云う。長男は跡継ぎなので、「しったりしろ」と親から厳しい眼で見られ、それなりの教育を受けるが、二男は甘やかされて前頭葉の発達に阻害を受ける場合が多いと云う。
双子や、年子である場合、長男より二男の方が、甘やかされて育つ確率が多くなるので、どうしてもそれだけ前頭葉の発達が阻害され、隨って二男が精神障害やストレス病の影響を受け易いと云うのである。これは幼児期に辺縁系やR領域の制御を充分に行う教育を受けておらず、これが起因している場合が多いと云うのである。
かくして人間の脳は、これまで「記憶」と「言語」の爆発的な成長により、古い脳と新しい脳、また情緒と知性が、あるいは信念と理性が相剋する精神的アンバランスの中で、文明とうい種子を発芽させたとも言える。
この構造は、一方に合理的論理的思考を持ち、その一方に感情で縛られた不合理な信念の働きがあり、過去と今日の鬩ぎ合いによって、一種の狂気を作り上げたとも言える。その狂気こそ、遺恨や怨念を含む、争いや戦争ではなかったか。
この怨念や遺恨が、現代に飛び火したとしても不思議ではあるまい。そして、その飛び火の材料こそ、自然死と事故死、更には事故死にしても、一般事故死と横死とにわける明暗の材料になっているのではないか。
もし、人が惨たらしい死に直面しなければならないのは、その過去に刻まれた遠い日の因縁が、現世に再浮上しているとも言える。
では、こうした無惨な死に態を回避して、安らぎを得る、古人が眠るように、また、潮が曳いて行くような、静かな臨終を迎えることが出来ないものか。
この模索こそ、人生終盤に残された最大の課題であろう。そして、死は「荘厳(そうごん)」でなければならない。「厳(おごそ)か」でなければならない」
●死の荘厳と歓喜
次は歓喜(かんぎ)について述べてみよう。
人が生まれる時が喜びであったら、また死ぬ時も喜びでなければならない。これは朝起きる時が、今日一日の希望に満ちた喜びであるのなら、その終日の、寝る時も、また喜びでなければならないのと同じである。
これは金銭についても同じ事が言える。
金銭が入る時が愉快であるならば、また、金銭が出て行く時も爽快(そうかい)でなければならない。現象人間界は、常に循環する世界であるから、「巡る」というこの世の仕組みを忘れてはならない。したがって貯金が嬉しくて、借金が悲しいと言う道理はないはずだ。
物事をこのように考えていくと、生まれる時が喜びであれば、また、死ぬ時も喜びであるはずなのである。そして生死は一如(いちにょ/真理はただ一つという意)であり、この一如は生命が不滅であり、宇宙は永遠であると云う事が分かろう。
更に一歩一歩踏み締めて行くと、生に善悪の二色があり、禍福(かっぷく)の両面があり、明暗の二局面がある事が分かる。しかしこれを解さない人も少なくない。
死は荘厳(そうごん)なものである。
私たちは、この荘厳に向かって日夜努力しているのである。しかし努力を怠る人も少なくないようだ。
その一つの例として、世の中には、生きている時はどんなに苦しんでいても、一度死ねば、極楽浄土(ごくらくじょうど)に行けると、念仏宗(ねんぶつしゅう/一般に「南無阿弥陀仏」を唱える浄土真宗、浄土宗、融通念仏宗、時宗など浄土に往生することを願う仏教宗派を指す。彼等は僧侶も門徒も、法然や真鸞の言に惑わされて真物の「真諦(しんてい)」を知らず、方便の「俗諦(ぞくてい)」を有り難がる)の戯言(たわごと)を信じる人が少なくない。
しかし、生においてでさえ、「楽」を得ない人が、死して、どうして楽を得る事が出来ようか。これは自殺願望の心理を描いたもので、錯覚の描写と云わねばならない。
未(いま)だに生を得ずして、どうして死を得る事が出来るであろうか。
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| ▲死を得るとは、心に一切の翳(かげり)りを残さないことを言う。ちょうど大空の澄み渡った青空のように。 |
仏教について一言申し添えるが、現存する日本の仏教の多くは、仏教を真諦(しんてい)から説いているのではなく、法然(ほうねん)が知り得なかった俗諦(ぞくてい)を基本として、これに後世の仮託的な解釈を加えている。巨大な仏閣を立て、新興宗教の教祖に収まっている類は、俗諦でものを言い、日本仏教を邪教化の方向に導こうとしているのである。
念仏宗が当時の時代の人々に「潤いを与えて、救った」というのは、あくまで俗諦の範囲内の事である。法然や真鸞(しんらん)がこれをやったお陰で、真諦という本当の仏教を民衆に伝える事が出来なかったのである。
俗諦で説かれている事は、「六道輪廻」(りくどうりんね/衆生(しゆじよう)が善悪の業(ごう)によって、おもむき住む六つの迷界のことであり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天を指す)であるら、何処に行っても、六道の堂々巡りを繰り返し、ここから一歩も外に出られないのである。
仏教用語を使うと「解脱(げだつ)出来ない」ということになる。この六道(りくどう)から一歩も出れないと言う事は、まさに「無間(むげん)地獄」の名に値しよう。そういう意味では、念仏を説いた法然も真鸞も、無間地獄の墜(お)ちた事になる。
何故なら、ありもしない地獄を説き、想念からつくり出した地獄を描き、その地獄に行った事になるからだ。
生きている時は、何にも楽しい事がなかったが、せめて死ぬ時は大往生(だいおうじょう)をしてみたいというのが阿弥陀仏(あみだぶつ)の名号を称える念仏宗の「念仏往生」である。阿弥陀仏を頼みにし、その名号を称えて極楽往生(この世を去って極楽に生れること。浄土往生とも)を遂げる幻想を抱く人がいる。これは阿弥陀仏の本願であり、また、衆生がそれに頼って成仏を願うことを指す。これを「他力本願」と云う。
他力本願は、今日では、もっぱら他人の力をあてにすることを云う意味で遣われるが、仏や菩薩が過去世(かこぜ)において、立てた衆生救済の誓いのことであり、阿弥陀仏の四十八願などが、これにあたるものである。
しかし「他力一乗」とは異なる。
他力一乗は、最終的に運命に身を委(ゆだ)ねる事で、人事を尽くして天命に委ねると言う考え方である。つまり、とことん努力はするけれども、その結果は運が決定すると言う、ことに一切を任せると云う事を云う。
人は誰でも、苦しみから逃れて、幸せになろうと願うものである。
●臨終の不可思議
幸せの定義は人各々に異なるであろうが、多くの人はそれを少しでも成就したいと、日々頑張り、努力をしている。そして多くは、幸せの定義を金銭に求める事が多い。金さえあれば幸福だと考える人が居る。出来るだけ多くの金を得て、富者になる事が人生の目的のような考え方をする人が居る。
しかし、この考え方は、懸命に努力し、寝食忘れて一生懸命に働いて、もし、金持ちになれなかったら、この人の人生は、一生が無意味であったと言う事になる。それでも多くの人は、これを目指して一生齷齪(あくせく)と働き、それでいて圧倒的多数は貧乏で人生を終わっている。したがって金持ちを指して働き、最終的に金持ちの道が成就できなければ、それは人生を無駄にしたと云う事になる。しかし、こんな甚だしい考え方はあるまい。
したがって金さえ多く所有すれば、幸せという論理は成り立たなくなる。事実、もし金だけ多く貯蓄し、金さえあれば幸せと云う、金持ちの家庭は、常に幸福に満ちていて、勝て襲う義やお家騒動などは全く考えられないという事になるが、実際はそうではない。財産の配分を巡って、兄弟姉妹が骨肉を削って、壮絶な争いを繰り返している。
したがって、金さえあれば幸せと云う論理は成り立たなくなる。むしろ、金など無くてもいいから、楽しく、平和な家庭の方が、よほど幸せであろう。
だが、そう諭(さと)されても、今なお、金への不安や、物への不信は尽きる事がない。多くは金を頼りに生き、金の為に働いている。それは、やはり多く金銭を所有する事で、その向うに幸せがあると信じ込んでいるからである。
まさに念仏宗の思考であり、どんなに悪い事をしても、阿弥陀仏の本願の絶対的な力によって、許されるとする念仏宗の「本願誇り(ほんがんほごり)」にも通じてしまうのである。これは誤った幻想と言えよう。
何故ならば、一年中、年から年中、貧乏をしていて、せめて大晦日(おおみそか)と正月だけは金持ちでありたいと願うようなものであり、また年から年中、病気をしている人が、正月の元旦だけは、病気から解放されて、清々しくありたいと願望を抱くようなものである。「金で買えないものは、何一つない」という発想から来ているからである。これは愚かな幻想と云う外ない。
なぜならば、問題は一向に解決していないからである。
これは最期(さいご)の、人の死に例えるならば、「死の場面」のみが、荘厳(そうごん)でありたいと幻想を抱くようなものであり、どうして最期のみが荘厳で、かつ奇抜であり得るであろうか。
人生をよく生きた人は、その死によって、また、更に広く、より高い次元へと生き返る事が出来るのである。しかし本当の「生」に生きず、自分を誤魔化(ごまか)し、死後、楽になると願う、人生を生半可に生きた人は、また、死も本当に、死に至らしめないのである。死ぬ事すら、許されないのである。
こうした想念を纏(まと)っているものは、肉体を死んでも、その願望や唸(ねん/経験を明瞭に記憶して忘れない心の憶念)は、この世に残されて停滞し、永久に死が訪れないのである。
これは霊的には「地縛霊」(【註】自ら自分を縛り、頑迷にこの世に留まる浮遊の意識体)などと称されて、オカルト愛好者の興味をそそっているようである。しかし、これは「当たらずとも遠からじ」で、生前に思い描いた人の唸や意識は、死して残留するのは事実でる。何故なら、人間の本性は「意識体」であるからだ。
人間の最期に、このような悲惨が待ち受けているとしたら、これ程、大きな悲惨はないであろう。
私たちは、確実に死に向かって歩いている。何人(なんびと)もこれを否定する事は出来きない。だからこそ、よりよい「死の場面」を迎え、それが荘厳(そうごん)でありたいと願うのである。
したがって真の修行とは、単に喧嘩に強くなるとか、高級儀法が遣えるようになって、人を驚愕(きょうがく)させる事ではなく、こうした地道な求道(くどう)の中で、日々の修行を積み重ね、「死の荘厳」を求めて、日夜模索するものでなければならないのである。そしてその奥に、歓喜(本当の喜び)があり、人生の連絡回路は、此処に繋がって居たと言う事を知るのである。
往古の人は、人間の死を重んじた。立派な死に方をしたいと念じた。しかし、正しい生き方をした人でないと、美しい死を迎えることは出来ない。安らかな臨終(りんじゅう)は訪れないのである。
見事な死に方をした人は、見事な一生を貫いた人なのである。
だからこそ、「臨終の大事」が此処にあるのである。
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