哀悼の念を込めて
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▲太平洋戦争末期、多くの日本国民は悲惨な死に方を余儀なくされていた。それは東条英機が強要した『戦陣訓』が生きていたからである。東条英機が発した『戦陣訓』(【註】この『戦陣訓』は、東条英機が今村均中将に命令して作らせた捕虜になる事を戒めた訓書)には、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けることなかれ」とある。
大戦末期、女子にも戦闘員としての召集が掛かり、殆どの女子が「篤志」(【註】「篤志」とは、慈善心あふれる熱意をもって立ち向かう、特別志望者の意味であるが、これは半ば強制的に強要された)の名目で戦闘員を強要され、陸軍には陸軍女子通信隊が組織され、海軍には篤志女子学生特別陸戦隊などが組織された。また、愛国婦人会等があり、外地で勇戦を馳せたのは有名であり、これ等の女子部隊は小銃を持ち、機銃掃射を行い、最後の一兵まで組織抵抗を行った。
そして、激しい組織抵抗が強いられ、追い詰められた最後の最後には、自決を余儀無くされたのだった。銃剣を手にし、あるいは手榴弾を車座の輪の中に置き、彼女達は、お互いの名前を呼び合い「さようなら」の言葉を云い遺して、次々に死んで行った。(画/竜造寺丹羽) |
昭和二十年八月の、恐ろしいほど異常に暑かったあの夏の日、そこには確かに本土決戦を計画して、陸海軍の決戦主張派の高級軍人達が、何等かの動きを企てて策動していた。日本の一番長い日とも喩(たと)えられる。
「戦争遂行か」あるいは「ポツダム宣言受諾か」で、軍首脳部は真っ二つに割れ、大きく揺らいでいた。
しかし敗戦の色が濃いくなると、決戦決勝の意識が一層強くなり、陸海軍の戦争遂行の強硬派は、男達に代わって、あらゆる部門に女性を皆働する状況を作り、今まで非戦闘員だった女性達を即席兵士に仕立て上げ、本土決戦を想定して、炎天下の太陽の下、彼女らに過酷な訓練を課せていた。
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▲ひめゆり女子学徒隊は、沖縄決戦当時、洞窟の中の陸軍病院・篤志女子看護隊員として負傷兵の看護にあたっていた。しかし洞窟から脱出寸前に米軍の攻撃を受け、女子学徒隊200名は集団自決をする。(映画『ひめゆりの塔』より)
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長い間、軍事史家の認識不足によって、旧陸海軍の中には、女性兵士は存在しないと信じられていた。ところが、これまで非戦闘員だった17歳から25歳までの女性が兵士として、本土決戦要員として駆り出された、もう一つの戦争の裏側の歴史がある。
昭和二十年六月以降、女性達に密かに軍服を着せ、隠密裡(ひみつり)に武装させる手段が取られた。これは本土決戦を、ミニチュアモデルとして戦った沖縄戦の結果からであった。当時、アメリカ軍は、日本人の婦女子に対しても、非戦闘員と認めず、ゲリラとして判断し、無差別に虐殺したからである。
これに組織抵抗する為に「篤志・ひめゆり女子学徒隊」はあまりも有名である。
国際法によれば、軍服を着用しない兵士はゲリラと総て看做(みな)され、竹槍や弓矢等を持って捕らえられれば、ゲリラとして処刑されても文句が言えなかった。その為に、本土決戦に備え、女性達に軍服を配給したり、不足分は、所属した各女学校の制服で間に合わせ、武装訓練を行なったのである。
そして彼女達は「篤志」と呼ばれる、組織化された女性兵士達であった。
「篤志」とは、慈悲心から湧き起った情熱により、特別志願兵士の略であるが、特定の目的の為に、組織抵抗を遂行する女性戦士を意味した。つまり篤志は「特志」(【註】特別志願兵士)の意味が強く、これは半ば、強制された篤志であった。
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▲軍需工場の女子挺身隊。
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昭和の初期から太平洋戦争突入までの期間、日本は、重苦しく、暗い時代に入っていた。全てが空回りし、ひと握りの特権階級の思惑とは裏腹に、庶民は辛苦を強要された。
これは女性も同様であり、ひと握りの特権階級や、高級軍人や華族達の子女の生命を護る為に、庶民の命が犧牲にされた。戦中戦後を通じて、庶民層の娘たちは、篤志の「特別志願女子学徒兵」として臨時招集され、特権階級の犧牲になり、激戦地で空しく散って行った。
昭和二十年八月十五日、太平洋戦争は終わり、日本はこの戦争に、多くの犠牲者を出して敗れた。しかし戦争に駆り出された女性達は、この日が戦争の終わりではなかった。
この日の午後から翌日に亘り、内務省通達で、今まで木銃訓練や竹槍訓練をしていた女子学生達は、今度は進駐軍(国際連合軍)の上陸に備えて、この日より、進駐軍相手の即席従軍慰安婦に仕立て上げられ、進駐軍慰安女子挺身隊が組織された。
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▲靖国神社を参拝する陸軍女子通信隊。
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内務省通達によれば、進駐軍慰安女子挺身隊の組織理由は、「皇族や華族の子女並びに特権階級の子女である財閥令孃、及び軍首脳の令孃が、進駐軍兵士に強姦や乱暴等をされない為に、その身替わりとして、進駐軍慰安女子挺身隊がその任に就(つ)く」と言うものであった。
一方アメリカを迎え撃つ為に、今まで女子挺身隊として勤労奉仕をしていた女子学生達が、今度はアメリカ占領軍相手の慰安婦として、上流階級の子女に代わり、その身替わり強制されたのである。
また、旧式武器で武装し、組織された女子挺身部隊は、その組織抵抗を止め、半ば強制的に米兵相手の慰安婦として、我が身を犧牲にしていったのである。何と、狂った論理ではあるまいか。
しかし、当時のこうした悲劇の犧牲になり、大陸の戦場で、あるいは内地の慰安婦として、散って行った女子学徒兵の名簿を、厚生労働相は今でも一切公開していない。
戦争軍服画家・竜造寺丹羽は、若い身空で命を散らせた当時の特志女学生たちの鎮魂歌として、彼は絵を描き続ける。
竜造寺氏は謂(い)う。
「私の絵は鎮魂歌である。鎮魂歌であるからこそ、哀悼を忘れてはならず、その想いは今から約半世紀以上前に遡(さかのぼ)る娘たちの姿だ。当時の娘たちは現代女性には珍しい、純情な恥じらいがあり、そして含羞(はにか)むような初々しい乙女らしさがあった。あるいは、あの時代、ポッと頬を染めるよう
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| ▲本土決戦に備えての婦女子の竹槍訓練。 |
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なそんな女達が多くいた。現代では、殆どそう言う女性は少なくなったが……」と。
そうした表皮の裡側(うちがわ)にある深層部を、軍服とともに描き出して見たいと考えたのが、そもそもの発端であったともいう。
そして、「あれからもう数十年を経たが……」と、こう回想するのだった。そこには哀愁とともに、哀惜の念が漂っていた。
人の死は、いかなる人を問わず悲しいものである。
特に無慙(むざん)に戦争で死んでいった人の死は、悲しさと儚(はかな)さの余韻(よいん)を引き摺(ず)るのだ。
だからこそ、戦争で死んでいった人に、悲しみ、惜しむことは、こうして今、生かされた者にとって、当然の礼儀ではないのか。
今でこそ使われなくなったが、「大和撫子(やまと‐なでしこ)」というナデシコ科(同属のセキチクをカラナデシコと呼ぶのに対して言う)の異称を持つ秋の七草がある。また、この植物は、日本女性の美称を喩えたものでもあった。
『万葉集』第八巻には、「吾(わ)がやどに蒔(ま)きし撫子……」という和歌のくだりがある。愛撫する子に喩(たと)えられる。そして戦争は、最前線にまで大和撫子を駆り出したのである。
大和撫子を象徴する歌に『愛国の花』(福田正夫作詞/古関裕而作曲/佐伯亮編曲)という戦時歌謡がある。
真白き富士の 気高(けだか)さを
こころの強い 楯(たて)として
御国につくす 女等(おみなら)は
輝やく時代の 山ざくら
地に咲き匂う 国の花
老いたる若き 諸共(もろとも)に
国難しのぐ 冬の梅
かよわい力 よくあわせ
銃後に励む 凛々しさは
ゆかしく匂う 国の花
勇士のあとを 雄々しくも
家をば子をば 守りゆく
優しい母や 又妻は
真心(まごころ)燃ゆる 紅椿
うれしく匂う 国の花
御稜威(みいつ)のしるし 菊の花
ゆたかに香る 日の本の
女といえど 生命(いのち)がけ
こぞりて咲いて 美しく
光りて匂う 国の花
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「戦争とは欺瞞(ぎまん)である」
この言葉は、かの有名なアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の言葉である。
では、人間はかくも欺瞞といわれる戦争をなぜやるのか。
この根本に立ち返らねばならない。
欺瞞。
それは人目を欺(あざむ)き、騙(だま)すことだ。
人間は、なぜこうまでして、人目を欺き、また騙すのか。
このように人間の深層心理には、魔性が棲(す)んでいるのではないかとしか言い様がなくなる。
そして、その魔性に傷付くのは底辺の微生物視され、消耗品扱いされた、一般庶民だった。
戦時とは非常事態を指し、非日常的な現実が、突如、我が身を襲うことである。それなのに竜造寺氏は、半世紀前の娘たちにそれを回帰するようだ。それは明かに一種の哀愁であろう。
そしてこの哀愁が、いつまで見続けても飽きさせない絵にしているのではあるまいか。
それはまさに、女の中にしか見ることの出来ない、不思議な軍服の絵の世界である。
日本は太平洋戦争に敗れそれから、既に半世紀以上を迎えた。そして、世界平和は不動のものになったかのように、私たち現代人の目には映る。
しかし、世界の至る所では、戦争の火種が燻り、中東などの特定地域では、今なお膠着状態が続き、一触即発の状態になっている。イスラム諸国Vsイスラエルならびにアメリカの対戦構図はまさに一触即発であり、世界平和が危機に直面していることを、まざまざと見せ付けている。そしてこうした戦争の火種に、わざわざ油を注ぎ、大焔へと企てる画策集団がいる。こうした画策集団は、戦前・戦中・戦後を通じて存在した。
しかし彼等は、巧妙に穏微な集団を配し、これを使い分けて画策し、大衆を欺き、また搾取して来た。この集団の息の根は絶えることなく、今も健在であり、小数エリート集団による世界一極支配への謀略が今もなお、すすめられている。そして、こうした画策の背後で、微生物同様に扱われ、無慙に死んで行く底辺の大衆層の実体は殆ど語られる事がない。
だがしかし、平時・戦時を通じて、一般大衆の底辺は、ひと握りのエリートの為の微生物的役割を演じて来た。そして太平洋戦争も、実はこうしたエリートが画策した災いの渦に、日本国民の底辺層が巻き込まれた戦争であった。
日本人は、何事も水に流す事が好きな民族である。済んだ事は、今さら掘じくり返しても地方がないと、あっさりと諦める性格をしている民族である。この、諦める癖こそ、教訓を教訓としない、もう一つの感情論がある。今日マスコミなどを通じて語られる「戦争体験論」は総じて感情から起った感情論で綴られている。「もう、戦争など、こりごりだ」という論理が最優先され、それは誇大化され、戦争のメカニズムやそれに至るプロセスを明確にしていない。
過去の出来事を反芻し、じっくりと検討して、将来への教訓にする意味での再履修の学習が全くなされていないのである。こうした過去の教訓を再度点検すると言う気持ちに乏しい日本人は、果たして、イスラム諸国の国民のように、切実な憂国の念を、国民の心情として持っているのであろうか。
私たち日本人は、太平洋戦争を振り返る時、一部の戦争指導者の血気に逸った無謀な戦いであったと誰もが評している。また、これが定説となり、誰もがそう信じている。
太平洋戦争前夜から太平洋戦争突入に関して論ずれば、戦争を強行に主張し、戦争突入ならびに遂行に徹した日本陸軍部首脳に於てでさえ、日米の国力比は1対20、あるいは1対25であることくらい最初から見抜いていた。
これに当時の超大国のイギリスが加われば、国力比は1対30か、1対35以上であるかは知り尽くしていた。1対35という国力比を考えれば、誰の目から見ても無謀な戦いと映る。しかし、果たしてそうだったか。
歴史を見れば、最初から負けると分かり切った戦いでも、どんなに無謀な戦いでも、負けると決まってはいなかった。
明治37年から38年にかけて行われた日露戦争こそ、日本にとってはまさに無謀な戦争ではなかったか。その戦争に、日本は大勝したのであった。明治以降に於てですら、日本は無謀な戦いに二度までも勝っているのだ。これこそ、小国が大国に狩った歴史的事実であり、小国が大国に勝てないと言う公理はないのである。
第二次大戦に於てですら、日独のようなワールド・パワーを無条件降伏させてしまった世界最大のアメリカも、その後は勝ちが蹤(つ)いて廻る事は殆どなかったのである。
その証拠に、朝鮮半島の朝鮮戦争ですら、まだまだ前近代的であった中共軍と渡り合い、アメリカを中核とする国際連合軍は三年に渡って戦い続け、やっと引分に終った戦争であった。
これがベトナム戦争になると、アメリカは年間に250億ドルの巨費を投じ、核兵器を除くあらゆる新兵器を投じで、これもやはり前近代的な北ベトナム軍に大敗するのである。戦争観から、当時の勢力の大小や物量の大小を比較すれば、ベトナム戦争こそ、当時のベトコン側にとって、まさに無謀極まる戦争ではなかったか。
多くの日本人が誤解している戦争観は、圧倒的多数なるが故に、これを無謀と極め付けて居る事である。もし、これが無謀なら、日本史を振り返ってみて、義経の鵯越え、正成の千早城、信長の桶狭間は悉(ことごと)く無謀だった戦いと言う事になる。その上、大国清朝と戦った日清戦争も、大国ロシアと戦った日露戦争も、悉く無謀であり、総べて否定され続けなければならない。
無謀な戦いはそればかりではない。
太平洋戦争が無謀であるとするならば、朝鮮戦争も、ベトナム戦争も否定され続けるべきである。
大国アメリカの圧倒的な物量と、有力な国力に刃向かう事は、無意味であるから、朝鮮人民もベトナム人民も、戦わずして尻尾を巻き、大国アメリカの軍門に降るべきだったか。
もし太平洋戦争が「無謀」の一言で、歴史学者や進歩的文化人から否定されるならば、無謀な戦争の譏(そしり)は、朝鮮戦争も、ベトナム戦争も同じように無謀の譏を受けなければならない。
しかし、この事について、未(いま)だ論じられた事はない。
更に太平洋戦争を振り変えれば、日本の戦争指導者達に合目的な戦争計画並び員戦争指導がなかったと言う事だ。つまり、本当に戦争して徹底的に戦うのか、百年兵を練る事を目的にして、軍隊を抑止力に遣うのかの、戦争目的が存在しなかった事である。こうした戦争指導者の目的なき戦争は、日本国民を苦しめ、底辺の市民を人身御供に置き、矛盾と混乱の中で、軍首脳は、どっちつかずの戦争を遂行したという事である。
その結果、苦しむのは庶民であり、大戦末期ともなれば、幼少年ばかりでなく、婦女子までが戦場に駆り出される事になる。当時女性が男子の兵同様に、武装して戦場に出て行った事実はあまり知られていない。男同様に、機銃掃射の弾丸を雨と降らせ、そして無慙(むざん)に死んで行った乙女達の痛恨の思いを知る人が少ない。
あなたは『婦人従軍歌』(加藤義清作詞/奥好義作曲/佐伯亮編曲)という歌を知っているだろうか。
この歌こそ、女性が戦争に戦闘員として参加した、最たる証拠ではなかったか。
火筒(ほづつ)の響き 遠ざかる
跡には虫も 声たてず
吹きたつ風は なまぐさく
くれない染めし 草の色
わきて凄きは 敵味方
帽子飛び去り 袖ちぎれ
斃(たお)れし人の 顔色は
野辺の草葉に さもにたり
やがて十字の 旗を立て
天幕(てんと)をさして 荷(にな)い行く
天幕に待つは 日(ひ)の本(もと)の
仁(じん)と愛とに 富む婦人
真白に細き 手をのべて
流るる血しお 洗い去り
まくや繃帯(ほうたい) 白妙(しろたえ)の
衣の袖は あけにそみ
味方の兵の 上(うえ)のみか
言(こと)も通わぬ あだまでも
いとねんごろに 看護する
心のいろは 赤十字
あないさましや 文明の
母という名を 負い持ちて
いとねんごろに 看護する
心のいろは 赤十字
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この当時、作詞者は近衛師団の軍楽隊員であった。この軍楽隊員は、明治27年の夏、新橋駅に友人を見送りに言ったと言う。その時、同じ列車に乗り合わせた、日本赤十字社看護婦の若い乙女達が、父母や親族の見送りを受けながら、涙も見せず、凛々(りり)しくも、笑顔で戦場に発ったと言う。
そしてこの時、新橋で戦地へ赴任する看護婦達を見て、陸軍軍楽隊員であった加藤義清は彼女達の姿を強く心に打たれ、帰宅すると徹夜で詩を作り、作曲者の奥好義とオルガンに併せて「婦人従軍歌」を作ったと言う。
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