第二章 想い人
●傷痕の癒える頃
私が二十三歳の時、小学校五〜六年の頃のクラスメイトであった桜井由紀子という女性と夏の海でばったり遭(あ)った。七月下旬のことであったろうか。
彼女に遭ったのは高校の時以来であった。以前、福岡の美術館で偶然彼女に遭ったことがあった。その時の記憶に残る余韻(よいん)が、再び燻(くすぶ)り始めた。
人は、人と出会わなくては生きていけないものらしい。これがまた、人生の常であるようだ。
よく奇遇(きぐう)という言葉が使われるが、まさにこれであった。その奇遇(きぐう)は、性懲(しょうこ)りもなく、恋愛感情に舞い上がる、私の心に火を点(つ)けようとしていた。何処かで燻(くすぶ)っていた火種(ひだね)は、ちょっとした切っ掛けで、めらめらと燃え始め、その尾を引くような余韻(よいん)が、私の心の中で燃え上がったのだった。更に、人との出会いを、新鮮な感覚に仕立て上げるのだった。そして彼女は、青春の想い人として、私を新鮮さの真っ只中に引き立てたのだった。
私の青春の大半は、彼女との出逢いから別れ迄の間に、総(すべ)てが、この中に回帰する。その頃の話を進めよう。
─────彼女は大学の仲間たちと、ここ山口県綾羅木町(あやらぎまち)の海水浴場に来ていた。
綾羅木は山陰に日本海側にあり、海の奇麗な所で、当時は観光案内の情報雑誌には載ってない、今風で言うと秘境の穴場だった。
此処は日本海に面しながら遠浅の海であり、俗化されていない格好の海水浴場で、これを偏(ひとえ)に荒廃(こうはい)から守り、細々と維持しているのは、その交通の不便さからであった。
この浜辺には当時、夏場の海岸を醜くくする、葦簀(よしず)張りの掻(か)き氷や烏賊(いか)焼きの出店も殆どなく、白い豊かな浜辺が、緩やかな弧を描いて何処までも続いていた。
由紀子は、東京のT女子医科大の医学部の六年生で、学生最後の夏休みということで、此処に遊びに来ていた。彼女たちは、女同士の三人連れであった。
私は道場の子供たち十五人を連れて、此処で合宿をしていた。
彼女たちは、此処では一番高級な旅館に泊まっていたが、私たちは、松の木の下に蚊帳(かや)を張ったみすぼらしい野宿であった。
私は彼女の泊まった、この旅館に水を貰(もら)いに来ていた。その時、彼女の方から声をかけて来たのである。
喜んだような声と、懐(なつ)かしさが混じった声で、
「岩崎君。お久さしぶり。覚えていらっしゃる?桜井です」と、品のいい言葉使いに、不図(ふと)、振り向くと、由紀子ではないか。
まさに奇遇であった。彼女が少し首を横に傾けて曲げ、笑顔で投げかけた独特の、品の良い仕種(しぐさ)に、訳の分からぬドキッとする緊張を覚えた。その花のような彼女の輪郭(りんかく)を眩(まぶ)しく見定めたのだった。
整った顔だちは、私に嫣然(えんぜん)と笑い掛け、そして、しとやかに会釈をしたのだった。私も面映(おもは)ゆい思いをしながら、照れと決まり悪さで、慌てて会釈を返した。
思いも寄らぬ事態に襲われた私は、一瞬狼狽(ろうばい)し、緊張し、赤面するような思いで、惨(みじ)めなほど慌(あわ)てていた。またそれが、ぎこちない返事となってギクシャクさせていた。何か悪い事をして、突然その現場を彼女から見られてしまったような気持ちになった。
私は驚きを込めて彼女に注視し、また彼女の眼差しは、突然私に親しみを込めて降り注ぐのだった。私の胸には、何だか春のような歓喜の響が訪れていた。
真近(まぢ)かで見る彼女の美しい二重瞼の大きな眼。黒眼勝(くろめがち)に澄んだ双眸(そうぼう)の、その眼から見据えられた私は、棒立ちになった儘(まま)、衝撃波のようなものを躰中に感じて、後退(あとすざ)りをするような気持ちに陥った。
そして体内の何処かに火が点(つ)いたような感覚を覚えた。これには一瞬の混乱と、某(なにがし)かの躊躇(ためら)いを伴ったが、吾(われ)を取り戻した私は、直ちに彼女の観察に入った。
彼女には少女の頃の面影が微(かす)かに残っており、更に育ちの良い、名家の血統を訴える貴族の娘のような輝きに満ちていた。
彼女は高校の時は、少女としての美しさがあったが、二十(はたち)を過ぎた今は、また、大人としての整った美さがあった。元来良い顔だちをしているせいか、化粧も品の良い薄化粧であった。
どこかしこに、程良い上品な愛らしさがある。背も高い。一瞬ファッション雑誌に出ているモデルと見間違えるような彼女に、私は、無駄なく引き締まって均整のとれた容姿に、いきなり魅了されてしまったのである。ビーチガウンから、カッコいい足頸(あしくび)の締まった長い脚が伸びている。
私には女を最初に見る時、大胆不敵にも、どうも足頸(【註】正確には理趣経的房中術のいう足頸の締まり)の方から、先に見てしまう癖があるらしい。由紀子の瑞々(みずみず)しい躰(からだ)を見ていて、理趣経(りしゅきょう)的房中術(ぼうちゅうじゅつ)の適正にぴったりであると思った。何と不届きな観察であったろうか。
しかし、山村師範は私によく言ったものだ。
「女の善し悪しの見分け方の第一の秘訣は、“足頸(あしくび)”と“腰”と“声”できまるものじゃ」と。
よく抜かしおったと、今でも思う。
これは理趣経的房中術の、相手を選出するための秘伝である。
一番先の目付は、足頸と腰だと言う。次に声と口の形だと言う。顔はその次でよいと言う。顔形がよくても、声が低かったり、嗄(しわが)れていたり、口が左右対称でなかったり、足頸や腰に締まりがないと、これは女として駿馬(しゅんめ)でないと言うのだ。一つでも、この禁に極端に触れていると駄馬(だば)となる。
世俗では美女の判定を、顔から下に見ていくようだが、山村師範の駿馬の判定は、下から上に向かって女を見上げろと言うのだ。
それは女が、足の裏から地面の気を吸い上げ、それを顔や掌(てのひら)から発散させていると言うのである。したがって足の裏に近い、足頸(あしくび)は気を吸い上げる第一の関門となると言うのである。勿論(もちろん)、足の裏も綺麗でなければならない。魚の目などがあると、バツだ。踵に罅(ひび)割れがあっても、バツだ。こうした足の裏では駄目なのだ。
即ち、足頸が締まり、足の形が奇麗で、腰が締まって、声が玉鈴(ぎょくりん)を転がすように美しく、口が左右対称であれば、顔も自然と美人であると言う、世間一般の常識とは逆の図式が成り立つのである。そして何よりも、知的であることが絶対条件である。
一般の俗世間では、顔や化粧に誤魔化(ごまか)されて、駄馬がしたたかに、駿馬に化けていることがある。
その駄馬の女に乗ると、どうなるか。
それは人生の坂道を転がり落ちる羽目となるのだ。夫婦間の不和、夫婦間の倦怠や、夫が人生の現実逃避主義に陥ってしまうのは、駄馬に乗っているためである。駄馬の禁は侵すべきでない。理趣経的房中術は、この点を力説する。
私はこの禁を一度だけ侵して、顔だけで選んだ細面の女と接して大失敗したことがある。男が、どうしようもなく喰(く)われるのだ。まさに雄のカマキリである。
この女は声が悪かった。音色が濁って割れていた。濁りに問題があるのである。その時、確かに私の運勢が著(いちじる)しく衰退し、運が落ちていくような状態に陥ったことがある。これから抜け出すのに、相当な努力を払い、挽回するのに約二ヵ年の歳月がかかった。駄馬は陽気(ようき)の発し方に歪(ひずみ)がある。
それで、私は理趣経的房中術の基本を、最も大事にすることを学んだ。それは中心部から発する「陽気の見定め」である。人は誰でも気を発している。しかし、「陽気」を発する人は、非常に少ない。多くは、陰圧線の高い「陰気」を発しているのだ。
足頸(あしくび)と腰が締まり、玉鈴(ぎょくりん)の転がるような声をした女は、美貌(びぼう)の持ち主であり、駿馬の条件に入るが、これらの女性の多くは、最初の男に一途 で、浮気をすることが少ないため、このような女性と後に知り合っても、誰かの嫁になっているか、人の持ち物になっていたりして、後の祭りになっている場合が多い。
とにかく浮気や、転ぶ要素を持たないのである。そのために十代の頃からの早期発掘が大切である。駿馬は親からの遺伝ではなく、天が偶然に与えた天性のようなものである。
醜貌(しゅうぼう)の夫婦から、駿馬が生まれることもある。それも歳を取った夫婦からである。それらは古典等の物語に、よく書かれている。
さて、理趣経的房中術であるが、一般に中国経由で直送される中国式房中術と、どう違うか説明することにしよう。
一般に房中術といえば、女性の肉体を利用して回春を行う術であるが、男性のためだけに回春(かいしゅん)ホルモン剤として使うのは邪道(じゃどう)である。交会(こうえ)して、男女ともに陰陽の気を補い合うものでなければならない。
『理趣経(りしゅきょう)』には、「如来(にょらい)は一切男女平等を感んずるところに、真理の智賢(ちけん)を説き給(たま)う」とある。
これを金剛平等(こんごうびょうどう)と言い、万物は一個の輪として繋(つな)がっており、ここには上下の差がないことを説いている。したがって女体を利用して、男だけが回春(かいしゅん)に精を出すものは邪道なのだ。
駿馬を説いた話に『竹取物語』がある。
一般に知られる『竹取物語』は、月の世界の貴族であったかぐや姫が、罪あって外界(げかい)に下され竹取の翁(おきな)に約二十年養われる事から始まる。
美しく成長したかぐや姫は、多くの貴族から求婚され、時の帝(みかど)からも求婚を求められたがそれを断わって、月の世界に戻っていく物語である。これを深く悲しんだ帝(みかど)は不死(ふじ)の薬を持っていたが、かぐや姫の居ないのに、この薬を持っていても仕方ないといって、これを富士山の頂上で焼かせたのである。
その時、この不死の薬の煙は、いつまでも絶えることがなくこの山を「不尽の嶺(ふじのみね)」と、称したことが富士山の由来となっている。そして、帝が悲しみに任せて煙を上げる「不尽の嶺」と称した程の、かぐや姫は、まさに駿馬に相応しい条件を備えていたのである。
『竹取物語』は、SF小説紛(まが)いの、駿馬の典型的な物語である。
この駿馬は中国でも、日本でも、貴族等の上流階級に多いとされている。しかし、兄弟の多い家庭に、一人だけその駿馬の天性を受け継いだ者が居るようだ。しかし目立たないので、注意して観察しなければならない。
更に、座っている時は、横顔と襟足(えりあし)からである。横顔は女の心を透明にする。心が濁っていれば、その横顔は歪んで膨らんだように見える。
襟足は、頭を支える首に依存したもので、ここに魅力が感じれない女は、知的レベルが低いと言うことになる。
魅力を感じない原因は、医学的に言うと、第七番頸椎(けいつい)の脊柱(せきちゅう)の歪(ゆが)みにあり、健康でないためである。
特に、鞭打ち症を煩(わずら)った女性は左右が対称でない。頸の骨が弱いからだ。そのため襟足に魅力がない。その意味で私は、今でもこれを忠実に守っている。これは一種の私の性癖(せいへき)とでも言おうか。
この再会に、私はそのような感想をもって、彼女と一番最初に言葉を交わした、あの時のことを思い出していた。
─────あれは今から十年程前の小学校五年生の二学期の後半であった。
再び、小学校を転校した。嬉野から八幡(北九州市八幡東区)に戻って来たのである。
八幡に戻った転校先の学校のでは、暗愚な頭脳であったためか、毎日が屈辱(くつじょく)の連続で、クラス担任からも除(の)け者扱いにされいた。
特に体育は、人一倍に駄目で、転校して以来、その学校を卒業するまで、体育の評価はずっと「1」がつけられた。
運動神経も、人の三倍は鈍かった。これは私がそう思ったのではなく、小学五年六年を担当した担任の評価である。にもかかわらず、決まって夏場の水泳大会になると、いつも選手で出場し、あらゆる種目で一位になった。わがクラスに何度も優勝を齎(もたら)したのである。
私の習った水練泳法は、「遊泳の術」と称され、山村師範と叔父(私のとっては父の兄にあたる)の合作で、厳しい特訓仕込みによるものである。
体育の種目での取り得といえば、泳ぐことと、相撲しか、能がなかったのである。しかしそれ以外は、何をするにも除(の)け者扱いで、級友からだけではなく、担任からもよく差別されて、毎日一回はビンタを張られる学校生活を余儀なくされていた。細面の私の顔は、お多福風邪を煩った時のように、丸く腫れ上がるのだった。
また、担任の手作りの竹の鞭(むち)で、尻を叩かれたりもした。
夏になると、幾筋もの鞭の跡が、ミミズ腫(ば)れになり、その部分の皮膚の皮が破れて化膿し、パンツにその部分がくっついて剥(はが)れ、よく出血していた。担任からは、たいした理由もないのに、面白半分に叩かれていたことを記憶している。今でいう教師の横暴な苛(いじ)めのようなものである。
私は何一つ抵抗できない、暗愚な仔羊(こひつじ)に映っていたようだ。子供心に不愉快な気持ちを味わっていたことを憶えている。
女子の前でよく恥もかかされた。
体育の授業で、体操服を忘れた時でも、私一人がいつもパンツ一枚にされて、校庭の真ん中に座らされたこともある。そして授業を遠ざけられて、二時間以上も座らされていた。
休み時間になると、もの珍しさが手伝ったのか、上級生から下級生までが集まってきて、面白半分に、私の泣きっ面(つら)を覗き込みに来たこともあった。
この担任は、決まって女子には優しかった。彼も若かったせいであろう。
体育の時間ともなると、よく女子の前で、逆立ちをやってみせ、拍手喝采(はくしゅかっさい)を受けて喜び、得意がる軽薄な一面を持ったいた。
それを見る度に、(この童貞野郎!何を生きまいとるんじゃ)と心の中で思っていた。
私がこの担任から苛められる原因をつくったのは、体育の時間の水泳の授業で、200mの競争をして勝ったことに由来するらしい。それ以降、何かと目の敵(かたき)にされ、水泳で負けたお返しは、教科の授業で償(つぐな)いをさせられていたのである。この担任からは、泳ぐこと以外に能がないと思われていた。
─────小学六年の春、まだ進級したばかりの頃、体育の授業で鉄棒があった。
私の番が来て、鉄棒にぶら下がった途端(とたん)、
「お前はやらなくっていい」という冷たい言葉を担任が投げた。そして、ガックリと気が抜けて、地面に着地しようと、鉄棒を握った手を離した瞬間、着地の憶測を誤って足首を捻挫(ねんざ)してしまった。
幾日か立つと、そこが段々悪化してきて、足首が大きく腫(は)れて歩き辛らくなった。
病院に行くと医者は、「足の血管が切れているので」という理由で、盛んに手術を進められた。
この要請通り、結局、八幡製鉄病院(現在の八幡製鉄記念病院)で手術を受けることになった。おまけに全く関係のない扁桃腺(へんとうせん)まで手術された。
小学校高学年での時で、これまでに楽しい思い出といえば、千代との秘め事と、この入院期間位なもので、嫌な担任や、私を苛める級友とは会わなくて済んだ。私のとっては、何よりも解放された毎日だった。そして、無性に千代に会いたかった。千代に見舞って欲しかったのだ。だがそんなことは叶う筈がなかった。
私の楽しみといえば、母が二日に一度作って来てくれる弁当箱一杯の大好物の卵焼きと、父の買ってきてくれる木製の船の模型セット。隣のベットに大きな態度で陣取る中年男性の、年頃の娘の世話を焼いた様な、私への身の周りの世話。そして、まだ二十歳に満たない看護婦A子との子供じみた幼稚な会話と、仔犬(こいぬ)のような他愛のないじゃれあい。隣の病棟の手品使いの老人の手品ショーの助手等であった。
そして子供の私が寝静まった頃に、同室の大人たちが始める、一見卑猥(ひわい)な、過去の忌まわしい戦時中の軍隊生活での出来事の、何やら秘密めいた秘々話(ひそひそばなし)を耳にすることであった。
その話題に出てきたものが共通して、中国大陸での参戦した当時の、日本兵が中国女性を辱(はずかし)めたり、淫(みだ)らな悪戯(いたずら)の挙げ句、殺傷を繰り返していた痴態(ちたい)であった。それを何の責任も、良心の呵責(かしゃく)もなく、自慢げに語り合っていた。私はそれが何であるか、分からぬ儘、興味に満ちた、この眠られぬ夜の時聞を過ごしていた。
─────そんな最中にやって来たのが、由紀子であった。
私の入院中にクラスの学級委員をしていた彼女は、時々クラスを代表し、花束を持って見舞いに来てくれた。持ち込まれた花束に格別の意味はない。恐らくそれは席が隣同士の、同じ机に学ぶ同席の誼(よしみ)からであろう。
私の性格は、どちらかといえば内に籠(こも)る引っ込み思案で、然(しか)も女性にちやほやされる容貌を有していなかった。更に頭も良い方でもない。したがって女性を引き付けるような磁力は、全く持ち合わせていなかった。
既に、この時から美人の噂が高かった彼女は、少女にしては目鼻立ちがよく、長い髪を大人のように結い上げて、ほっそりとした容姿で、何処か大人を思わせる整った美しさがあり、畏(おそ)れ多くて、実に近寄りがたい存在であった。
同じ病室に居たオヤジどもも、「あの娘(こ)は、大人になったら、きっと美人になるぞ」などと、来る度に、このようなことを噂して、由起子に些(いささ)かの興味を抱いていたようだ。
私のような暗愚な人間など、相手にされる筈がないと思っていた。それがどうしたことか、予期しないことが起こった。彼女自らが見舞いに来てくれたのである。これには些かの緊張と戸惑いを覚えた。これは彼女のお節介か、あるいは気紛(きまぐ)れかは知らないが、不思議にも来てくれた。
そして、いつの間にか、彼女と親しくなり、いっしか毎日来るようになった。
彼女は頭が良く、何処か大人びて、人に世話焼くおしゃまなタイプの女性であった。
この時、私は幸運にも、彼女の世話焼きのターゲットにされてしまったのである。しかしこういう生温かい私への温情は、決して愛などと名付けるようなものではなかった。
熱心に通って来ては、学校であったことや学校での勉強を彼女が指導するのだが、全く理解できなかった。私はそれ程暗愚であった。そんなことより、彼女が毎日来てくれることの方が嬉しかった。
そして私に、あれこれと世話を焼いて、熱心に教えてくれる彼女の愛らしい澄んだ横顔ばかりを、勉強そっちのけで盗み見ていた。
私は千代という女性がいながらも、千代とは別に、密かに彼女への思いを募らせる心が芽生えていたのである。要するに私は、女に惚(ほ)れやすい、暗愚で単純な人間なのである。
彼女には、私のような暗愚の者に思いを寄せるような気持ちは、全くなかったかも知れないが、私は彼女の気紛れを、私への情愛の意思と勝手に思い込むことで、細やかな自己満足を満たし、いつまでもそれに酔い痴(し)れていた。天にも昇る思いで、私は毎日幸せに充ちていた。やがてそれが一杯になる実感を、この時始めて味わった。これを心ゆくまで満喫したのである。有頂天の極致だったのかも知れない。
私の性格は元来引っ込み思案のわりには、女性の母性本能を擽(くすぐ)る、何かがあると思わずに入られなくような天賦(てんぷ)に恵まれていた。不思議にも、早くから女性には、縁があったのである。
─────また、社会科の授業では、こういう事もあった。
それは歴史の授業だった。
その範囲は江戸時代で、この日は江戸時代の身分制度と宗教の関係についてだった。この時代、武士階級に持て囃(はや)されたのは禅宗であり、特にその中でも、曹洞宗(そうとうしゅう)や黄檗宗(おうばくしゅう)に比べて、臨済宗(りんざいしゅう)は特に武士階級の宗教として知れ渡っていた。
「先生、今は江戸時代ではないから、士・農・工・商の身分がありませんが、自分達の先祖がこの時代、どういう身分だったか、調べる方法はありますか?」と、誰かが質問した。
「えー、そうだね。ある程度は、みんなの自分の家の宗教で、身分を調べる事が出来るんだよ」
「へー、どうして自分の家の宗教で、江戸時代の身分が分かるんですか?」
「それはだね。当時の士・農・工・商の身分と、宗教がとても深い関係をにあるからなんだ。特に江戸時代は、日本人と仏教がとても密接なあったんだよ。では、今から、みんなの家の宗教を訊くから、自分の家の宗教と思ったら、手を挙げてもたいたい。いいかな、順に仏教の宗派名を訊くから、手を挙げるんだよ」
担任はこういって、順に宗派名を挙げていった。
「真宗の人、手を挙げて」から始まり、浄土真宗、浄土宗、真言宗、天台宗と準に並べ、
「今から、武士かそうでないか、はっきりさせる実験をやるよ」といって、
「禅宗は、とても武家社会と関係が深かったんだよ。その中でも特に臨済宗はね」そういって、「まず、禅宗の人、手を挙げて」と促した。
私は父母から、うちの家は禅宗で、臨済宗であるという事を訊いていたから、禅宗といわれて手を挙げたのだった。
クラス全体の七人程が手を挙げた。当時のクラスは、戦後のベビーブーマーとして生まれたので、四十八人クラスと、生徒の数は多かった。四十八人中七人という数は、もともと江戸時代の武士人口が、全人口の約7%と考えられれいるから、この手の挙げた人数の数字は、ほぼ一致するであろう。その中から、禅宗でも曹洞宗と黄檗宗(おうばくしゅう)は抜け落ちるから、残るのは臨済宗だけとなる。
「禅宗の人は、まだその儘、手を挙げておくんだよ。そして次の宗派名を言うから、同じ宗派と思ったら、その人は準に手を下ろしていくんだよ。まず曹洞宗の人、手を下ろして。次に黄檗宗の人もだ」
そういって、準に手を下ろさせ、私と他の二人が手を挙げたままだった。
その時である。担任の罵声(ばせい)が飛んだのである。
「岩崎!お前は何も分からずに、手を挙げているんだろうが、お前は手を挙げる必要はないんだ!お前は早く手を下ろせ!」
それでも、私は手を下ろさずにいた。
そして、ついに激怒(げきど)したのか、「岩崎!前へ出ろ!社会科の大切な授業を邪魔するんじゃない!」を烈火(れっか)の如く怒った。
そして、お決まりのコースを歩くのだった。
前に引き立てられ、往復ビンタで数回殴られ、鼻血を出して席の戻ると言う、訳の分からぬ虐待(ぎゃくたい)をされたのである。社会科の授業に参加し、問われる通りに手を挙げ、その指示に従ったまでであった。
しかし何故、こうまでに引き立てる理由があったのだろうか。
今、思うにつけ、担任は私の家系が、絶対に武士などであろう筈がないと踏んで、これに憎々しく思い、私に虐待(ぎゃくたい)を加えたのだろうか。
現代の日本の社会では、身分制度がないと言う。また、誰もがそう信じている。ところが、こうした身分制度は今日にも、先祖という形で残り、その先祖を鼻にかける連中によって、未(いま)だに息づいているのである。
家柄なども、そのよい例であるし、元々平等であるべき社会主義体制下でも、北朝鮮のように、「出生成分」なるものがあり、生まれによって人間を差別する、封建制度より更に悪辣(あくらつ)で残酷な制度が残っている。
─────三ヵ月程の入院期間が過ぎて退院したものの、足は元のように良くならず、びっこのような足になった。引き摺(ず)って学校に行と、それだけで苛(いじ)められた。
よく「チンバ」と罵声(ばせい)を浴びた。それが嫌で、よく学校を休んだ。
学校を休んだ日は、必ずといっていい程、由紀子が来てくれた。今日、習ったことや宿題の範囲を、一々世話を焼いて私に指導してくれるのである。それはまるで姉が弟に面倒を見る、それによく似ていた。
彼女が来る度に、母は、彼女の家柄も考えず「由紀子さんはいい娘(こ)ね。本当にしっかりした娘さんだこと。あんな人が、ケンちゃんのお嫁さんになるといいわね」が、母の分相応もわきまえぬ、その時の口癖であった。
─────六年生の卒業間もない頃、小学五年程度の分数の計算ができなくて、担任から罵倒(ばとう)されたことがあった。
ある日、意地悪な指名を受けて、黒板に引き立てられたことがあった。
席から黒板までの距離は短かったが、重い足取りから随分長いように感じられた。そこには、屠殺場(とさつば)に向かう仔羊(こひつじ)のような、悲しくて辛い、私の姿があった。
嫌々チョークを持たされて、分数の計算をするように命ぜられた。苦し紛(まぎ)れに数字を書くのだが、どれも間違っていると見えて、中々席に戻してくれない。この儘、一授業時間分の45分が過ぎてしまった。
暗愚な私は、担任の罵声以外に、同級生から嘲(あざけ)りの忍び笑いを背中で感じていた。由紀子もこれらの忍び笑いと一緒に、私を笑っていたのであろうか。
そんな日は、一授業時間分を遅らせた廉(かど)で、算数の授業が放課後に延長され、実施されるのであった。その度にクラスの誰からともなく、侮蔑(ぶべつ)の声が上がった。一授業時間分の、私が授業を遅らせたことに誰もが怒りの声を上げ、秘々声(ひそひそごえ)で陰口を叩いた。そんな日は、学校帰りの帰り道で、先回りした連中からよく苛められた。
私を苛める仲間には、中学生が混じっていた。
「こいつ、馬鹿のくせに、女がいるんだぞ」
無知の詰りの限りを一身に浴びた。
それというのも由紀子という、美人の噂の高い女友達がいて、級友から恨みを買われていたのかも知れない。学校で由紀子と口をきけば聞く程、彼女のいないところで、よく苛められた。
学校帰り、五、六人から待ち伏せされ、アパートの地下室の隅みに連れ込まれて、年長の中学生から頭を竹刀でよく叩かれた。
直立不動の姿勢で、「気を付け!休め!」と何十回も、面白半分に、辺りが暗くなる迄やらされたものである。惨めだった。悔しくて涙が流れた。それでいて気の弱い私は、何一つ抵抗できなかった。ただ、この場所に由紀子が通らないでくれることを只管(ひたすら)祈ったのを憶えている。
小学校高学年での時代、楽しい思い出は、この苛めによって、いつも御破算(ごはさん)になるのだ。いつのも教室の隅みに押しやられて、悔し涙に明け暮れ、歯を食いしばったものである。
─────ある日の学校帰り、石を投げられて、その石が頭に当たって大怪我をしたことがあった。
投げた者は分かっていたが、何の咎(とが)めもなかった。頭に包帯を巻けば、伊達(だて)包帯だ、ウソ怪我だと罵られた。憎まれ役を私一人が引き受け、誰からも差別され、苛めの標的にされていた。そんな時、私の味方は由紀子一人だけであったのである。唯一の楽しかった思い出は、由紀子との淡い、仄(ほのか)な子供の恋愛ごっこだったのかも知れない。
由紀子には少年時代の、こんな思い出があった。
─────したがって、綾羅木(あやらぎ)でのこの再会は、突然のことで慌てたが、それと同時に少し引け目を感じたていた。
由紀子から、ここで何をしているのかと訊(き)かれて、返事に困っている時に、道場の子供がやって来た。
「先生、ご飯がゴッチンでした。どうしましょうか。もったいないからお粥(かゆ)にしましょうか?」と、道場の子供二人がやって来たのだった。
(何て時に来たんだ)と思った。どうせ会うのなら、もう少し恰好の良い遭い方をしたかったからだ。
心の中で、(この馬鹿ガキめ。こんなところで、何て言うことを訊きやがる。このお方を誰だと思う。お嬢様なのだぞ!頭が高い)と言いたかった。
彼女の世界は、此処に来ている私たちの、庶民の世界とは程遠いお方なのだ。この事を彼らに強調したかった。
背後に展開する山陰(やまかげ)も、人込みで汚れていない海水浴場の砂浜の磯を洗う波も、映っているものは同質のものであっても、私と彼女の目に映るものは違って見えている筈だ。不図(ふと)、そんな感想が過(よぎ)った。
彼女は、私たちが野宿同様の、蚊帳(かや)でのキャンプ生活の実態を知る由(よし)もないのだ。彼女が宿泊する小綺麗で清潔な旅館とは、所詮(しょせん)天地の隔たりがあった。
「岩崎君。今、何していらっじゃるの?小学校の先生……?」と訊かれた。
「まあ、そんなものですよ」
「これからお食事?」
「まあ、そんなところです」
「もし、よければ、あたしたちと一緒にやりませんこと?」
「大変有り難いのですが、子供たちがおりますので……」
「何処にお泊まりなの?」
「いや、この近くですよ」
「後で遊びに行ってもいいかしら?」
「はあ……」と、気の抜けた返事をして、一瞬冷や汗が出るような感じだった。
そして、いつの間にか彼女との会話が、よそよそしい返事に変わっていた。
私はとんだ所で、とんだ人間に出会ったものだと思った。世間はつくづく狭いと思った。
子供の一人に買いに行かせた缶ジュースを手にしながら、私は彼らのゴッチン飯を、お粥(かゆ)にする作業を暫(しばらく)く眺(なが)めていた。御数(おかず)は毎度の、ふやけて伸びきったインスタント・ラーメンである。
私は、此処で五日程の合宿をする予定であった。各自から一万五千円の金を集め、この中から交通費と食事代を捻出して、残金を浮かそうと考えていた。この一万五千円の内訳は、単純にこの金額を五で割り、一日の指導料、食事代、宿泊施設、その他を含めて、一日三千円という数字を弾き出し、決定されたものであった。子供の父母達が即座にこの合宿に応じたのは、この破格の一日間の値段にあったといってもよい。実にセコイ考えであった。この辺が小心者の細かさであろう。
しかし指導料は兎(と)も角(かく)として、先ず宿泊施設は海の家のような気の利いたものではなく、松の枝に蚊帳をぶら下げたものであり、食事は凡(おおよ)そ日に三度がインスタント・ラーメンであった。
だが私個人の資源としては時間であった。時間が定職を持った就業者に比べて、たっぷり有る事であった。時間がなければ、こうして子供たちを引き連れ綾羅木くんだりまで来られる筈がない。これといった仕事に就かず、時間だけを持て余している人間にとって、人生そのものが時間潰しの連続であり、この合宿は言わば、私の小銭儲けと閑(ひま)潰しの一つであった。
閑を持て余した者が、近所を歩いたり、雑誌や新聞や、テレビのチャンネルばかりをいじって退屈凌ぎに行なう、あの閑潰しの愚行であり、私の閑潰しはこの愚行と類似していた。私の退屈な日々が、この合宿を計画したと言っても過言ではない。
年長の子供が、年下の子に色々と指図をしている。私は座って缶ジュースを飲みながら、彼らの子供同士の吹き出したくなるような会話を黙って聞いていた。
「ラーメンはふやかして、たっぷり汁の吸った伸びきったものが、旨いんだぞ」等と言って、火の点(つ)け方、米の研ぎ方、飯盒(はんごう)の扱い方、炊き上がった時の見分け方などを偉そうに説明しているのだが、炊き上がってみると、いつもゴッチン飯で、それがついにお粥(かゆ)に化けてしてしまう。
もう、そんな状態が二日も続いていた。ポリバケツに水を汲んで帰ってくる子供や、燃料の松の枯れ枝を拾って帰ってくる子供を見ると、何となく惨めさを感じる。そんな中で、更に惨めな食事が始まるのである。子供たちは、それを楽しくやっていて、私の意見とは違っていた筈であるが……。
その食事の最中に、こともあろうに由紀子のグループがやって来た。
子供の一人が、
「先生を訪ねて、女の人が来ています」と指さした。一瞬の混乱が起こり、ギクリとした。
(まずい!)とも思った。来る筈がないと油断していたのだ。
彼女たちは、近くの交番で私たちの場所を訊いたらしい。そういえば、ここに着いた初日、海岸を警邏(けいら)中の警察官から、名前や住所等を訊かれ、早く届けを出すようにと言われていたのである。多分そのことから此処が分かったらしい。私は慌てるしかなかった。食べているものを必死で隠したかった。しかし、今となっては、既に手遅れだった。
「よく此処が分かりましたね」私は空惚(そらとぼ)けて平然を装って言った。
「あそこの交番で訊きましたのよ」と由紀子が、少し反り返った嫋(たお)やかな指をその方向にさした。
彼女の何処となく上品さを感じさせる会話を聞いた子供たちは、口にラーメンやお粥を放り込んだ儘、キョトンとした顔で、この会話を聞いていた。私は貧困に喘(あえ)ぐ、荒れ果てた、極貧のボロ家を覗かれてしまったような気がした。
由紀子が、「君たち、何処の学校?」と訊くと、
「俺、枝光小」「俺、枝光北小」「八幡小」「尾倉小」「天神小」と、あちらこちらから元気のいい声えが上がる。
「へーッ、君たち。みんな学校が違うの?」と由紀子が驚きの声を上げた。
そして、彼女が、
「岩崎君て、変わった学校の先生してるのね。どんなこと教えていらっしゃるの?岩崎君。ねぇー?」と訊かれて、私が返事に困っていると、子供の一人が、これを真似して、
「岩崎君。ねぇー、教えてよ」と言ったので、ドッと笑い声が上がった。
「話が複雑ですから、後でゆっくり説明しますよ」
「そう」と彼女から気のない返事が返ってきた。
「君たち、差し入れを持ってきてあげたわよ。皆で食べなさい」と言うと、
子供たち全員が、「ごっつぁんです!」と息の揃った大合唱した。嫌な言葉だ。何故なら、これは私の情事時の淫語であるからだ。
何か分からないが、変な空気に振り舞わされているのを感じていた。しかし子供たちは、その予想外の差し入れに大喜びし、これを機に、いきなり食事が豪勢なものになる。これに女気が加わって、更に華やかになった。
隣に居た私たちと同じ、蚊帳(かや)を吊って野宿していた同宿連中が、羨(うらや)んで、時々「それに比べて俺たちは……」と嘆きの溜め息が聞こえてくる。私はそんな彼らにも、細やかなお裾分けしてやった。
次の日、買い出しから戻ってみると子供たちが居ないのである。米も研いでないし、食事の準備もしてない。
(あそこだな)と検討つけて行ってみると矢張りそこに居た。由紀子たちから大判振舞を受けているのである。
私に気づいた由紀子が、
「岩崎君。こちらであたしたちとお食事しましょうよ」と誘うのである。
私が呆気(あっけ)にとられていると、再度これを勧める。私は由紀子の勝手なお節介に少しばかり腹が立って来た。
今度は子供の一人が、「岩崎君。そんなに遠慮しないで、こちらにいらっしゃいよ」と嘗(な)めた口のきき方をするのである。これですっかり頭に来てしまった。
心で、(あの糞ガキども、帰ったらどうしてやるか見とれ!)と思いながら、この場を黙って立ち去り、私一人が蚊帳吊り宿舎所に帰って行った。
この年の合宿は誤算に継(つ)ぐ誤算であった。私は、天女のように現れた由紀子の機知(きち)に、終始翻弄(ほんろう)され通しだったのである。
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