第三章 教職時代の回想
●当時の時代背景
私は最初から食えない武術家を志したわけではない。つい昨年まで歴(れっき)とした高校の教師をしていたのである。正直言って、道場経営だけでは食って行けないのである。日本では、道場経営はあくまでも副業に属するべきものであった。
道場を運営して行く為には、それ以外の別の職業を持っていて、その運営は余暇を利用して行うと言うのが、日本では通り相場だし、また、代々が流派の後継者でない家では、「仕事の合間に道場を」というのが、道場運営の要締(ようてい)であるようだ。
しかし、何故かこれは、日本人の多くが、日本古来の武術を、それほど評価しておらず、スポーツに比べて、武術は一等も二等に低い存在だった。
スポーツは既に明治以降、知育に対等な立場を確立して、体育としてその位置を不同の物にしていたし、競技武道もそれに準(じゅん)ずる地位を確保して、柔剣道が戦前・戦中・戦後と愛好者の裾野を広げながら盛会を見て来た。
しかし、武術と言うものは、それほど文化価値も評価されず、一等も二等も低い位置に甘んじなければならなかった。
また、「武術」や「古武術」などと称すると、単に泥臭いだけでなく、軍国主義に繋がる悪しき文化遺産と1970年代は思われていた。右翼思想の最たるものと思われていたのである。
そして、この時代、日本全土は革命一色に包まれた時代であった。
私が大学に在学した間、その当時の世の中は、共産主義革命を夢見た若者で溢れていた。
大学入学から卒業に至るまで、革命の嵐に吹き晒(さら)された時代である。大学の至る所で、不正・不法に占拠された構内の学舎では解放区が造られていた。
当時、世の中は学生運動たけなわのころで、「共産主義者で非(あ)ずんば、人に非ず」の時代であった。全学連のデモと、官憲の間に、果てしない暴力が繰り返され、世は革命一色で、日本全体を覆(おお)わんばかりの勢いであった。また、大学紛争に際し、諸大学に結成された新左翼系ないし、無党派の学生組織の全共闘が猛威を振った時代でもあった。破壊できるものは徹底的に破壊し、革命の為の暴力が肯定された時代であった。
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▲日本中は革命一色の嵐の渦にあり、ベ平連などが大暴れしていた。そして不穏な動きに一つとして、過激派分子による「国際反戦デー」が企てられていた。
デモに参加した多くの学生や労働者は、共産党特権階級から酷使された底辺の微生物分子だった。
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アメリカがベトナム戦争の泥沼で苦悩していた時代であり、日増しに全学連と警察が、その実力闘争を激化していた時代である。これを機に、アメリカのヒッピー思想に共鳴して、全国に反戦団体が次々に作られ、その闘争の中心課題である「国際反戦デー」に向けて、着々と用意周到な準備が進められていた。「べ平連」などもその一つである。
またアメリカが、ベトナムの足枷(あしかせ)に苦しんでいる時、これを好機として、日本国内では、反政府運動の声が高まり、モスクワ放送や中国人民日報等を通じて、日本は共産国陣営の間接的侵略の異常事態を招こうとしていた。
もしこの時、ソ連と中国が協力し一体化して、間接的な思想侵略をしていたら、日本は恐らく今日の面影は全くなかったと言っていいだろう。
幸か不幸か、この時、中国に文化大革命が起こり、更に、中ソ対立の緊張事態が発生して、中ソ一体化は奇(く)しくもなされなかった。
しかし、全学連や共産党員の中に、中ソ一体化を目指して、彼等の赤化工作に協力し、手を貸し心身を捧げて、愛国者面(つら)し、その工作活動のために奔走(ほんそう)した連中がいたことを忘れてはならない。彼等が果たして、本当の愛国者であったか疑問である。本当の愛国者は、誰であったか、やがて歴史が決めてくれるであろう。
当時の学生の多くは、共産主義の思想にとことん入れ揚げていた。只管(ひたすら)革命を信じていた彼等は、一部の共産党特権階級の手先となって、走狗の徒に成り下がり、地味な反戦広報やポスター貼りなどに日夜駆り出され、心身ともに酷使された。
そしてまた、今日、皮肉なことに、彼等は企業の中間管理職として、資本家の手先となって、企業から不規則な就業時間を強いられて、心身ともに酷使されている。当時の学生達が、昔も今も、二重の使役で酷使されるのは、何とも皮肉な事である。
彼等の身の上に、突然降り注ぐ、過労死や突然死は、何も企業へ入社した時から始まったことではなく、その下地は、既に階級闘争の走狗(そうく)として奔走した、あの学生の頃から始まっているのである。何と言う皮肉な事であろうか。
更に、笑い話のような話であるが、当時、警察を国家権力の最たるものとして決めつけ、機動隊に投石した彼等は、いま皮肉にも、今度は自分が病院で透析を受ける羽目になっているのである。「投石」と「透析」は字が違っても、何故か遣ったら遣られるという因縁めいた一種の「めぐり」のようなものを感じるのである。
酷使すると言う点で、共産党特権階級と、自由競争・市場原理を掲げる資本家階層は、同じ共通項を持つ。この両者は、底辺の力無き者や、底辺にいる者を陰から巧妙に操り、いつの時代も大衆を酷使して、何の憚(はばか)る事も知らなかった。そして酷使の背後には、こうした仕掛け人がいることを忘れてはならない。
昭和四十年代という時代は、共産主義のイデオロギーで、世が一色に染まった時代であった。
私はそういう時代背景の下(もと)で、一介の教師の道を歩んでいた。
●教職課程事始め
私は教職課程を履修(りしゅう)していたので、四年生(一般には「四回生」というそうだが、私は、この呼び方が好きではない。いつからこんな学年表示が出来たのだろうか)の九月、任意で各学校に教職課程の実習に行かなければならなくなった。
高校の数学と理科を選択していたので行き先は、福岡県下の公立もしくは私立の高校を選ばなければならなかった。
先発(せんぱつ)組が、公立トップ校や有名私立の進学校に行って、質問攻めに遭い、コテンパンに叩かれたという噂を聞いていたので、私はそれを避けて私立にした。それも有名私立とはほど遠い、大学進学とは全く縁のない三流四流の私立の高校に決めたのである。
この学校は、博多区にあるM女子高校で、噂にたがわぬ大学進学とは無縁の、博多の不良少女ばかりを一手に集めたような強持(こわも)て学校であった。
教育実習生の私は、いきなり三年生のクラスを担当にさせられた。
教室に入ると、ザワついていて授業にならなかった。鏡を見ながら化粧をし、口紅を引いている子、髪をヘアーブラシでセットしている娘(こ)、『明星』や『平凡』といった当時の芸能週刊誌を読み耽って、嬌声(きょうせい)をあげ、馬鹿笑いしている娘、隣の席の娘と、男との恋愛話をしている娘、スカートを太股まで捲り上げ、派手なガーターベルトのストッキングを直している娘と、様々であった。
教務主任の話では、私は担当したこのクラスが一番まともという。酷い学校に教育実習に来てしまったものだと思った。映画で見るスケ番女子高生(女子高生のヤクザもの映画)を、直(じか)に見ている感じであった。そこで見たものは、映画の世界での迫力というものではなく、堕落した希望のない絶望という少女の生き態(ざま)であった。
一番まともという噂通り、さすがに授業中に煙草までを吸っている娘はいなかったが、授業をしてもザワついていて、全く私の話しを聞いてくれない。それでも私は、関係なく、一人勝手に黒板に向かって授業を始めた。そして何とか苦痛の一時間目の授業が終わった。休み時間は、一斉に彼女たちの喫煙時間になるのである。とんでもない学校に来たものだと思った。
こんな学校には、二度と来ることはあるまいと思っていたが、翌年の五月、大学卒業時の一ヵ月遅れで、此処に赴任してくるのである。
●教員免許授与式
この授与式は福岡県教育庁で行われた。
教育庁は当時、博多の中心に流れる那珂川(なかがわ)近くの古めかしい明治調の名残を留めた明治生命ビルの隣にあった。私は此処で、一ヵ月遅れの教員免許授与式に参加した。
それも不届き千万と思える下駄履きという姿であった。
本当は大学の卒業式で貰う予定であったが、私だけがどういう訳か、教育庁側の手違いで、その授与が今日の日になってしまった。教員免許など別に欲しくもなかったし、貰いに行く気もかったが、これと言った仕事のない私は、暇(ひま)潰しのつもりで行ってみた。
そこには、私以外に現役の中学校の教師と思われる中年の人が三人来ていたが、長年の通信教育を何処かの大学で受講したらしく、中学一級の教員免許が今日授与されるらしいかった。彼等は身奇麗(みぎれい)に正装し、スーツを着込んでいた。
ここの教育次長から、一人づつに教員免許状が授与された。授与される順番は彼等からであった。彼等の表情と態度は一風変わっていた。まるで卒業式の全体を代表し、生徒総代として、卒業証書を貰いに進み出る優等生のような、華々しい歓喜に満ちた表情であった。
その表情をよく見ると、進み出た彼等は直立不動の儘(まま)、感無量のような顔つきで、感激の目に涙さえ浮かべて、手渡された免状を手にして、何か尊いものを貰うかのように高々と掲げ、そして深々と頭を垂れていた。
私の番になった。同じように免状が手渡された。私はそれを手にした時、先に貰った現役の中学教師たち程のような感動も感激も何も起こらなかった。それは実に無感動といってよかった。
その仰仰(ぎょうぎょう)しい紙切れには、高校数学理科二級、中学一級と、安っぽくゴム印で押されていた。それを貰った後、その免状を八つに畳んでズボンの後ポケットに仕舞った。
すると、教育次長が、
「君、君。それは、そういうものじゃないんだが……」と、呆気にとられたような顔をして、首を捻りながら言った。
私は、「ああ、そうですか」と言って、この場を立ち去った。
桜の花もすっかり葉桜に変わった、昭和四十六年四月末のことである。
●嗚呼、花の女子高校教諭
二度と此処に来る筈がないと思っていたのに、とうとうこの学校にやって来てしまった。
─────二週間程前のことである。
四月半ばのある日、博多中洲(なかす)の那珂川(なかがわ)の橋の上で、バッタリ高校三年の時の担任であった大川先生に会ってしまった。
それは私を呼ぶ声から始まった。
「岩崎!岩崎君じぁないか」
私は思わず振り返り、「ああ、先生……。御無沙汰しております」と返事を返し、一礼をした。
「久しぶりじゃないか。ところで君、今何してるんだい?」
「何って、何ですか……?」
「君の職業だよ」
「……無職です」
「いけないなア。君のような秀才が仕事も就かずにぶらぶらしてては……」
この「秀才が」、という言葉の意味は、この担任が当時数学担当の教師であり、曾(かつ)て私は、福岡県高等学校対象のO社主催の高校数学コンクールで、二年と三年生の時に、連続五番以内の上位を占めて表彰されたことがあったからだ。
私が数学への頭角を現し始めたのは、中学三年の卒業間近の頃であった。
元来暗愚であった私は、この時期を境として突然変異?し、今までの暗かった頭は嘘のように鮮明となり澄みわたった。そして高校の時には、それが頂点に達していた。
私は何(いず)れは、医学者が、もしそれが叶わなければ数学者にでもなろうと思って、高校時代を送った事がある。しかし、ある医大の推薦入学には合格したものの、貧困の為に、医学者への道は絶たれていた。
また大学では、いつ行ってもデモと休講ばかりで、一年、二年、三年と、殆ど試験以外には学校に顔を出さなかったが、大学四年の後期から、大学院受験を考えていた。だが、大学院受験に失敗して、その夢は果敢なくも破れ、数学者への道は目前で挫折した。
しかし、この担任は、私の数学の成績が良いことだけが記憶にあったらしい。秀才と言ったのは多分そのせいであろう。
「どうだね。私の知人に鹿児島のK大学の学長をしている人がいるんだがね。その大学で工学部の微分方程式の講師を探しているというんだ。君、そこに行って働いてみてはどうかね。君には打って付けの仕事だと思うが……」
「鹿児島ですか?鹿児島とは随分と遠いですね……」
「では、福岡だったらいいのか?」
「はあ、近ければ……。何処でもいいと思いますが……」
「いやに、他人事のように云うじゃないか。君のことだよ、君の……」
「はァ……」
少し搾(しぼ)られた挙げ句、ごり押しで、些(いささ)か説教調の意見を述べ、お節介なこの担任は、私の気のない返事に不満であったらしく、嫌みに取れるような言葉を、更に続けた。
「君はきちんと学問さえしていれば、一流の数学者までとは行かないが、二流か二流半位の数学者になれる実力は持っていた。私は君の担任をしていた頃から、君の数学への才能を見抜き、君の希望通り数学者として、立派に身を立てられる筈だと思っていた。君もそう思っていたに違いない。
それをつまらない古武術とやらに手を染めて、その稽古に明け暮れるあまり、自ら希望を打ち砕いて挫折してしまった。
原水爆や近代科学兵器が発達した今日、野蛮な古武術は、時代錯誤も甚だしい無用の長物だ。
もしあの時、君が将来のことを考えて、もう少し本気で、自分自身の行く末に目覚めていたら、目指す大学院にも合格していたであろうし、その後も、前途洋々とした数学者への道が開けて、学問で立派に世に立てた筈だ。私はそれが今でも残念でならないんだよ」と説教じみたことを散々言われた。
「ところで、お母さんは元気か……」
往来の立ち話で、このような会話を交わしていた。
この後、近くの喫茶店に入り、話を煮詰めて、この担任の進める高校に赴任することにした。後で、その学校の名前を聞いて吃驚(びっくり)したが、行くと言ってしまった以上、今更「辞めます」とは言えなかった。早速、私はこの担任に後日、履歴書を送ることにして、この喫茶店で別れた。
当時の就職状況は、今のような不況化であっても、売り手市場優位の開放的な状態ではなく、戦後の第一次ベビーブームに生まれた私たちベビー・ブーマー(一般には「団塊の世代」という)は、その狭き門を巡って犇(ひし)めき合い、買い手市場一色の社会に放たれようとしていた。
そのために、四年生になると就職課の前には長い行列が出来て、何時間も並び、また、自ら、普段は着慣れない詰め襟の学生服に身を固め、会社訪問を小まめに行って、自分の売り込みに奔走(ほんそう)したものだった。
この時、特に文科系の学生は実に悲惨であった。理工系以外の職種は少ないために、多くの企業は、文系の学生を敬遠していた。私は工学部であったので、二、三の弱電メーカーから当りをつけられていたが、端(はな)から入社する気など毛頭なかった。
それというのも、私は既に会津自現流の道場を持っていたので、そこから離れ難かった。その離れ難さが、就職など、結局どうでもいいという気持ちにさせていたのかも知れない。
そして、五月一日付けを以て、M女子高校に赴任した。
─────この学校では、教育実習の時と同じの予想通りであった三年生の担任にさせられた。一度、経験済みなので、敢(あ)えて驚きはしなかったが、しかし「寝耳に水」という観があった。換言すれば、青天の霹靂(へきれき)とでも言おうか。
そしてこの学校で一番問題のある超札付きのクラスが、私の仕事場として与えられた。
これは安全な、後方勤務を選ぶために、輜重兵(しちょうへい/軍需品の輸送・補給にあたる兵)を志願したのであったが、それが認められず、無理やり爆弾を抱えた旧式戦闘機に乗せられ、特攻隊の体当り攻撃に送り出されたという感じであった。
男手の少ない女学校であったのだから、学校の教育方針と経営状態から考えて、当然のことと言えば当然である。
このクラスは、全員で三十一名の女生徒がいた。よく、これだけ博多中の不良少女ばかり集めたものだと感心すらした。強持(こわも)てで、どの生徒も、ある種の凄味(すごみ)と鑑別所(べっそう)帰りを思わせる筋金入りの、変な気迫を身に付けていて、姉御(あねご)と呼ばれても不思議ではない、怕(こわ)い、お姉(あねえ)さん連中が犇(ひし)めき合っていた。
彼女たちは、故意的あるいは必然的にそうなったのかも知れないが、やたらと目付きが悪い。鋭い視線を向けて、いわゆる「ガンをつける」というやつである。
そして私が彼女らを見ると、「やい、せんこう!一体どこ、見とるんじゃ」と、実(げ)に恐ろしき難癖(なんくせ)をつけられ、鋭い一瞥(いちべつ)を喰(く)らうである。どうやらこの一瞥をくれた生徒が、このクラスの番長であるらしい。
私の心中は、《うあっちゃー、えずかー(博多弁で「怖い」の意)》の連発を繰り返していた。
私のような小心者の目には、彼女たちが睨(にら)みの利(き)いた、東映のスケ番映画さながらの怕(こわ)い、お姉さん連中に映ったのである。
私が赴任した、第一日目は、こうした怕いお姉さん方の、ガン付けの洗礼で、仕事が始まったのだった。
高校生としては似つかわしくない派手な化粧が、どの生徒の顔にも、これ以上の化粧品の乳液が乗せられない位に厚手に塗りつけられ、それはまさに一種の仮面であった。髪の毛は、日本人とも外人とも付かないような茶金髪であった。特に、彼女たちの、口紅のドぎつい真っ赤な原色は、私の目を抉(えぐ)った。
彼女たちは、いわゆる少女極道(昨今の「小ギャル」とでもいおうか)のようなもので、凄(すご)みがあり、見るからに恐ろしい。教室の外側に面した窓枠のアルミサッシは、全て彼女たちの煙草(たばこ)の灰皿と化していた。
ホームルームの時間は、専(もっぱ)ら彼女たちの社交場兼化粧時間となる。
GOGO(当時最も流行っていたダンスであり、グループ・サウンズが大流行)の練習をしている生徒や、煙草をふかしてガムを噛みながら、柄(がら)悪くダベる生徒など様々であった。そして、全員が喫煙者であるためか、教室中が煙りだらけになって、喫煙の習慣のない私は、煙草の煙で気管支を苦しめられた。
校長や教務主任から度々、生徒たちに、「学校では禁煙をするように注意しなさい」と、私一人がお目玉を食らうのである。
教育の現場には、相応しくない光景が多く目に付き、この学校の、このクラスでは、その改善策が全くお手上げのような状態にあった。丁度そんな時、新入りの私にお鉢が回って来て、学校一鼻つまみの超極道クラスが押し付けられたという訳であった。
─────この修正し難い鼻つまみの連中を前に、私はある時、声を発した。
「皆、訊(き)いて貰えないだろうか」
ザワついた教室は、一向に私に対して注目してくれない。
「どうか、皆。訊いて欲しいのだ!」と、そこにあった出席簿を教卓(きょうたく)に叩きつけた。一瞬、大きな音にザワメキがさっと引き、室内が静まり返った。一瞬の静寂が訪れたのだった。
「皆。今から先生の言うことをよく訊いて、これを是非守って欲しい。……一つ、教室内では絶対に煙草を吸わないこと……」と言葉を続けようとしたら、「え……ッー」と、語尾を引っ張る野次るような声が上がった。誰もが一斉に、はしたないブーサインの声と口笛を飛ばす。だが、私はそのまま続けた。
「二つ、高校生らしい服装をすること。三つ、化粧をしたり髪を染めないこと。四つ、学校にハイヒールを履いてこないこと。この四つのことを守ってもらいたいのだが、どうだろうか……?」と遠慮気味に言った。
私は、彼女たちが最初から、こんな事を訊く筈はないと思っていたし、また、彼女たちが実行することもないと思っていた。
そして、私は言った。
「先生は、君たちが、今言ったことを訊いてくれるとは思っていない。だが、敢えてお願いしたい。皆の女としての健康の為と、将来の母親としての健康の為に!」教室全体が、一瞬シンーとなった。
更に続けた。
「君たちは来年の春卒業である。やがて、此処から巣立っていって、ある者は就職、ある者は上級学校へと進学するだろう。そしてある者は結婚をするかも知れない。やがて、子供が生まれ母親となっていく。その時に、今の君たちの状態と同じことを、自分の子供にさせたいと思うだろうか!」室内は静粛(せいしゅく)であった。水を打ったように静まり返った。彼女たちに、私の言葉を訊く常識がまだ残っていたのである。
「先生は敢えて、君たちの良心に問いたい。訊(き)いてくれなくてもいい。だが、君たちの良心と、このような良くない状態からの再起を信じて、今日から先生は食事を断つ。君たちが先生のお願を訊いてくれるまで、一切食事は取らない!」再び、教室全体が騒がしくなり、そんなことしてどうなるのだという意見が上がった。
母が今朝、作ってくれた弁当をカバンから出して、彼女たちの目の前で、
「見よ!先生はこれをゴミ箱に捨てる!」といって、惜し気もなくゴミ箱の中に捨てた。
教室はザワついた儘、私の言ってたことは無視されていたにも等しかった。この私の強がりは功を奏しなかった。そして、この教室を後にし、一時間目の教室に向かった。
昼食時間になって、朝、弁当を捨てた事が大変悔(く)やまれた。
自分で、何て馬鹿な事をしたのだろうかという反省にも似た後悔があった。しかし、一旦言い出したことは実行しなければならない。それは彼女たちに言った手前からではなく、自分自身との挑戦からであった。仮に餓死(がし)してもそれで良いではないか、という気持ちがあった。
一人の人間が、何事かの悲願を立てて、真剣にそれを訴え、その誠意が通じないような世の中であれば、これ以上生きていても仕方がないではないか、という居直った気持ちがあった。
また自ら決意した事が簡単に破られては、決意の度(たび)に、何度も破らねばならなくなる。こうなれば自らに負けた、負け犬に成り下がるほかない。これでは自分の、今後の人生に誇りなど持てようがないではないか。私のその後の生き方は、戦いに敗れた惨めな男の「余生」でしかなくなるのである。
午後5時になって、そろそろ帰宅の時間が来た。
空きっ腹を抱え博多駅から満員電車に乗って、八幡まで帰えらなければならなかった。博多駅の地下食堂街を通った時、何処の飲食店でもいいから、中に飛び込みたい衝動に駆られたが、「負け犬になるな!」と自らを叱咤激励(しったげきれい)して自信を取り戻し、これを一つの修行を考え、いつまで続くか挑戦してみようと思ったのである。
次の日も、空きっ腹を抱えた儘、朝の超満員電車に一時間程揺られて博多駅に着き、更に博多駅からバスに揺られて、この学校に辿り着いた。想像した以上に、長い道中に思えた。それは食を絶っているからである。
昨日、言ったことは再び、生徒たちには言うまいと思っていた。
教室内はいっもの調子の彼女たちの社交場であり、化粧時間であった。相変わらず教室内は無言の儘の私とは正反対に、いつもと変わらないザワついた騒がしさがあった。このようなホームルームが幾日か続き、四日を過ぎた頃、立っていられないくらいの眩暈(めまい)に襲われた。過度な貧血が起こり始めたらしい。以前から腸壁内に取り残された宿便の移動が始まったのだろうか。
時々腹がズキズキと痛む。水だけは飲んでいたが、突然に始めた断食というものが、これ程きついとは思わなかった。
以前、断食をしたことがあるが、断食を行うには必ず『副食(補食とも言う)』という準備期間がいる。突然それを初めて、急に元のような食事をとると、命を落とすことさえあるのだ。どうもこの断食前半が、その状態になっていたようだ。
─────学校が退(ひ)けてから、夕方近く、那珂川(なかがわ)沿いを独り、ふらりと歩いていた。空きっ腹を抱えているので、川沿いに出た屋台の行列がやけに眼に滲(し)みた。どの屋台も、もう開店の準備を始め、赤提灯(あかちょうちん)を掲げ、食事処の仕込みにかかっていた。こうした屋台はその殆どが、夫婦や家族ぐるみでやっているものである。
その時、一台の屋台で、見覚えのあるような少女を見た。その少女は、私が受け持つクラスの生徒の一人だった。
学校でのようなドぎつい化粧はしていなかったが、その素顔を曝(さら)した娘は、確かに私の生徒に間違いなかった。その娘は、私が女子高に赴任して来た当日、鋭い視線を投げ、怕(こわ)いガンをつけて、「やい、せんこう!」と一瞥(いちべつ)をくれた生徒だった。
学校での怕(こわ)い姿とは、がらりと打って変わって、開店の準備の手伝い、まめまめしく働いていた。その上、こうした合間に、小さな妹と思える五、六歳の幼女の遊び相手をしていた。
私はその光景が、ふと眼に止まった。手伝いの合間を見て、紙風船か何かを作ってやっていて、楽しそうに二人で遊んでいた。そして私の感想は《へーッ、あの女番長の“佐藤みどり”って、よく見ると、随分と美形で、なかなか可愛い貌(かお)をしているじゃないか。それに、“見て呉れ”もいいし、中々の容姿端麗では……ないか》というのが、この時の率直な印象であった。
一瞬、頬笑(ほほ)えましくなり、あの娘(こ)は学校では女番長を気取って強持(こわも)てしているが、実はこれが本当の生地(きじ)の等身大の実像なんだと思った。私の知らないところで、まだあんなに純真な、少女らしい一面が残っているのだと、私は一瞬の安堵(あんど)ともに、ほっと吐息をついたのだった。
そして私は、彼女の知られざる一面を見たのだった。
「やあ、佐藤。君は此処で家の仕事を手伝っているのかい?」
私は彼女に、気さくに声を懸(か)けた。
彼女は一瞬驚いたように、私をまじまじと見て、急に顔色を変えて、無愛想に、「何ですか……」とふて腐れ、浮かない顔付きで返事をした。ついさっきまで、幼子と遊んでいた笑顔を崩し、何か、急に豹変(ひょうへん)した感じだった。
その横には、小さな女の子がしっかりと彼女の袖に縋(すが)り付き、私の眼を瞶(みつ)めながら、「この人、いったい誰なんだろう?」というような顔で見据えていた。
その時、屋台の中から「おい、みどり、早う七厘(しちりん)ば、中にもって来てくれ」と年輩の男の声がした。恐らく父親かなんかであろう。
みどりと呼ばれた、その生徒は、小さな女の子だけをそこに残して、火の点(つ)いた七厘を屋台の中に持って入ろうとしていた。
私は一人残った女の子の前に屈(かが)み出て、「今の人、誰だい?おねえちゃんかい?」と訊き出していた。
「うん、おねえちゃん」その子は答えた。
この小さな女の子は、佐藤みどりの、歳の離れた妹であるらしい。
そんな会話をしている時、屋台の中から、先程声を懸(か)けた四十年輩の男と思える、人が一緒に出て来て、私に挨拶した。
「これはこれは、先生(しぇんしぇい)。私はこのみどりの父親ですたい。お世話になっとります」
「いえ、こちらこそ。担任の岩崎です、どうぞよろしく。偶然この近くを通りかかったものですから……」
「ああ、そうでしたか。では、中でちょっと一杯いかがですか」
「いや、その……。(本当は直ぐにでも中に入って、およばれしたいのは山々であったが……それを無理に押し殺して)偶然通りかかったまでのことですから……、そんなにお気遣いされないで下さい。では急ぎますので」
この父親は、私が担任であるという事で、一杯持て成そうとしたが、私は断食中でもあり、これは実に惜しいが、辞退するしかなかった。
「そうですか、……今後とも、うちの娘ば、よろしゅうおたの申します」と言って、深々とお辞儀をした。
「では、私はこれで失礼します」と、私も会釈をして、此処から足早に立ち去った。
学校で、知られざる生徒の等身大の実像を見た事が、細(ささ)やかな私の救ったのだった。私は博多駅行きの西鉄電車に乗ろうとしていた。電停までゆっくりと歩いて行くところだった。
その時、後ろから息を弾ませて走ってくる人の気配を感じた。
「おい、せんこう!」
私はその声に振り返った。
「どうした、佐藤」
彼女は息を切らせて、まだ苦しそうにしならがら、
「どうして、うちに寄っていかないんだい?うちの屋台じゃ、口に合わねぇと云うんかい!」と喘(あえ)ぎながら、乱暴な言葉を、吐き捨てるように言った。
「いや、そうじゃない。先生は君達と約束した通り、まだ断食中なんだ。寄って酒食に預かりたいのは、山々なんだが、こういう事情で、今日は失敬させてもらった。いずれ断食が明ければ、今度は、ちゃんとした客として来店するつもりだ。その時は宜(よろ)しく頼むよ」
私はこれだけ告げて、踵(きびす)を返した。
「先生……」
そんな声が後ろで小さく響いたが、私は振り向かなかった。
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