●依願退職
M女子高校を半年で退職した。
別にこれといった、特別な理由があった訳ではなかった。敢えて言うならば、私の持って生まれた、熱し易く冷め易い、飽き易い性格からである。無気力感に陥って、情熱が次第に冷める質(たち)が由来しているからである。それに女子高校特有の居辛(いずら)さというものが加わっていた。その意味で、私は此処に居続けることが、自身の性格からして、不適当であるということに気付き始めていた。
特に女子高校での休み時間度のトイレには、気を遣わなければならない不便さがあった。恐らくこれは古い時代の女子高校で、教職員を経験した者でなければ分からないことであろう。
この学校は女子高校であるため、専用の職員トイレは、全て女子便所であり、男子便所は生徒のトイレと一緒になっていた。これには極めて神経を使い、私のような小心者には、背中に人の気配を感じただけで緊張が伴い、縮こまり、出るものも出ないのである。
生真面目な生徒からは、覗きに近いような変な目で見られ、擦(す)れた三年生からは、冗談半分に時々からかわれる始末であった。これで段々自分の身の置き場がなくなっていくのは当然である。
これを更に決定的にする愚行な事をしてしまったことがあった。
ある時、休み時間トイレに行った。別のクラスの三年の女子がトイレの洗面の前で駄弁(だべ)っていた。そして、密々話(ひそひそばなし)しているのである。何か私の事を云っているようだった。違うかも知れないが、そのように囁(ささや)かれているように思えた。
「岩崎先生のアレでかいんじゃない?」などと、小さな声で冷やかすのだった。勿論、これは冗談であろうが、私も冗談半分に、つい調子に乗って、「ほらー」と見せるふりをしてしまった。
生徒たちは、「きゃー」と悲鳴を上げて逃げていった。ここからがいけなかった。軽い冗談のつもりだったが、馬鹿な事をしたと猛反省した。さあ、大変な事になったと思った。
これが一時間後には、教務主任や校長の耳に入っているのではないかと勝手な想像をした。ああした事は、《いわゆる公然猥褻(わいせつ)罪になるのかなァ》などと思いながら、辞めさせられる前に、こちらから辞めてやろうと思い、「一身上の都合により」と書いて、早速その日のうちに辞表を校長に提出した。
校長からは随分(いくぶん)留められたが、兎(と)に角(かく)辞めることにした。辞表を提出したことが受け持ちの生徒に知れ渡ると、クラスは騒然(そうぜん)となり、数人の生徒が私にすがり付き、辞めないように説得された。生徒に辞めないように泣きつかれた時は、一瞬の困惑が趨(はし)ったが、敢えてそれを振り切ったのである。恥をかく前に辞めてしまうことを決心していたからだ。
女子高校での居辛さと要所要所の至る所で、気を遣う作業に追いまくられる仕事は、居心地の良いものではなかったのである。いつしか新鮮さを失い、私の熱血心は失(う)せていた。
それに今回のような馬鹿なことをしてしまったという両者の刹那的感情が一致して、それに拍車が掛かり、即時退職を決意させたのであった。
退職理由を挙げるならば差し当たり、この位なことであろう。
辞表を校長に提出した時、自由になった解放感を味わったが、職を失い、明日からの生活の糧(かて)を考えると、正直言って不安を隠せなかったことは事実であった。
不安と居たたまれない気持ちを交差させながら、学校の校門を出た時には、実に晴れ晴れとした解放感を味わうという二つの矛盾する感情が同居していた。だが、元来の暗愚さが、その矛盾の解明に迫らなかった。
晴れ晴れとした気持ちで校門を出た時、佐藤みどりが息を切らせて走り寄って来た。薄らと眼に涙すら浮かべている。
「先生。本当に辞めてしまうのですか?」
「辞めてしまうのではなく、もう辞めたのだ」
「どうして辞めたのですか、わたしたちを残して。先生辞めないで下さい。もう一度考え直して頂けないでしょうか」
彼女の言葉は真剣で、哀願が含まれていた。
「君達に、もう私のような者は必要無い」
「いいえ、わたしたちには先生が絶対に必要なんです」
「いや、それは違う。君達はもうちゃんと一人立ちする基礎が出来ている。後はそれを、迷う事なく、忠実に実行して行けばいいことだ。もう私でなくてもいい筈だ。私は自分の役目が終わったから、此処を去るのだ」
「わたしたち、先生だから蹤(つ)いて来れたのです。先生でなくては駄目なんです」
「駄目なことあるものか。私が指導した君達だからこそ、迷わずに、その後は誰にでも任せられる。私はそう思って君達を指導したつもりだ。君達はまだ若い。若者に、駄目だなどと言うことがある筈がない。そう思わないか、佐藤」
「先生……、もう一度考え直して、わたしたちの教壇に立ってくれませんか。わたし、先生が居たから頑張れたんです。でも……先生が居なくなると、わたし……」と云いかけて、下を向いて項垂(うなだ)れ、そこで言葉が途切れてしまったようだった。
私は、彼女の先の言葉を聞かずに踵(きびす)を返し、この場を足早に立ち去った。そして辞めたと決まった途端(とたん)に、何とも云われぬ解放感に包まれたのだった。
解放感は、学校の校門を出た時に、背広を脱ぎ、ワイシャツのネクタイを外すことによって更に高まった。
嫌な先生の、嫌な授業が終わった時の、中学生のような気分になった。その解放感と同時に、本来のグウタラな私が戻って来た。
午前中の早い帰宅に母を驚かせ、「今日学校を辞めて来た」と話すと、更に母を呆(あき)れさせた。
─────数日経って、辞めた事が気になりだした。私のことが学校中の噂になっているだろうと、ある筋から探りを入れてようとしたのだった。
こうした内情を調べる為に、まだ残っている通勤定期を使って、夕方近く、例の佐藤みどりの屋台に出かけてみる事にした。
私は女子高に勤めている時、天気の日は時々博多駅から自転車で学校に向かったことが何度かあった。博多駅傍(そば)の駐輪場に、盗まれてもいいようなボロ自転車を置いていたのである。これは大学時代、部室に誰かが拾って来た、その当時からの自転車で、その後も気が向いた時には、学校と博多駅間を、通勤の足に使っていたのである。
この時も、駐輪場いていた自転車の事を思い出したのである。鍵は壊れて、用をなさなかったが、オンボロのため、盗まれもせず、ちゃんと放置された儘であった。そして気紛れにも、この日、不図(ふと)これに乗ってみようかと思ったのである。
《どうれ、今日は一つ、自転車でゆったりと那珂川(なかがわ)の辺(ほとり)でもサイクリングするか。そして帰りに、ちょっと佐藤みどりの屋台でも覗いて、一杯ひっかけて来るか。彼女は今どうしているだろうか》そんな軽い気持ちが、私を自転車に乗せたのだった。
自転車に乗って、ゆったりと那珂川の辺に向かう途中、どこかの中学生の野球部の集団に出くわした。
放課後の時間を利用して、全員が集団となってランニングの最中であった。その中に二、三人の不真面目な悪ガキがいて、彼等だけ懸命に走っていなかった。そして彼等たちが、この集団の全体の速度を遅らせる原因を作っているようだ。
歩道一杯に横広がり、通行人の歩行を妨げる原因も作っているのだった。私は、とんでもない集団に遭遇したという一瞬の運の悪さを感じた。自転車が思うように前へ進めないのだ。
気合いの抜けた一部の彼等を、観察すればする程、腹が立って無性に苛立(いらだ)ちを覚えるのだった。横に広がっているため前に出ようと思っても、中々この集団から抜け出ることができないのだ。
私の乗る自転車は、彼らのダラダラとした速度に合わせなければならなくなった。この集団は私に道を譲ろうともしない。右によれば右に、左によれば左に、進もうとする通路を意図的に塞いでいるようにも思える。この苛立ちの中で、ついに堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒が切れて、彼らに怒鳴り声を上げ、叱り付けてしまった。
「おい、そこの中坊!なんば、ダラダラ走っとか!もうちょっと気合い入れて走らんか!通行の邪魔になるやろが!お前ら、ちゃんと一列に並べ、この馬鹿たれどもめが!こら!中坊!道を空けんか、道を!」
この私の大声は、野球部の彼らを振り返らせただけではなく、近くの商店の人や通行人までも振り向かせる威力があった。
彼らは私の威圧的な怒鳴り声にサッと道を開いた。触らぬ神に崇(たた)りなしと思ったのだろうか。これで漸(ようや)く、彼等の前に抜け出すことができた。
途中、丸善(まるぜん)の洋書コーナーに立ち寄り、英語で書かれた武道書の本を立ち読みした。こうして此処で三十分程、時間を潰したのである。もう、此処にもめったに来る事はあるまい、そんな気持ちが、博多から遠く離れて行くように思われた。
そして那珂川沿いの佐藤みどりの屋台へ、ふらりと向かった。
彼女はセーラー服の上からエプロンをして、開店前の屋台の準備の手伝いをしていた。それはたった今、学校から帰ったばかりという姿だった。
彼女は、自転車を傍に停める私を見つけるなり、
「先生、見てましたよ」と、意味あり気な事を話しかけて来た。
「えッ?何をだい?」
まさか、トイレでの例の出来事を一部始終?……
もう、あの事が学校中にバレてしまったのだろうか。もし、そうだとすると、此処に姿を現わしたことは、まさに“やぶ蛇”としか言い様がなかった。
「まあ、とぼけんさって」
「何を?」
「先生って、意外とガラが悪いんですね」
「えッ、ガラ?」
「三十分程前、野球部の中学生を、大声で怒鳴り付けたことですよ。往来で大声で怒鳴っている短気な人がいると思ったら、その人、何と先生だったじゃありませんか。同じ学校の生徒として、恥ずかしいたらありゃしない。先生もいい年しているんだから、馬鹿は、あれぐらいで止めとかないとね。相手は中学生の子供でしょ」と、彼女から小生意気な説教を喰らったのだった。
私が野球部の中学生を怒鳴り付けた、あの現場を彼女に見られていたようだ。中学生に怒鳴って叱り付けた私は、お鉢が回ってきて、今度は彼女から叱り付けられるという羽目になったのである。
「今日は随分と学校遅かったんだね」
「ええ、今日は部活だったの。今、演劇部の部長しているんですよ」
「ほーッ、君も随分と変わったもんだなァ」
「先生、今日うちへいらしたの?」
「ああ、以前から一度寄ってみようと思ってね」
「じゃあ、丁度いいところに来たわ。わたし、色々と先生にお話があったっんです。少し、お時間宜しいですか」
彼女は私に、何か相談でもあるのだろうか。
エプロンを外し、店の中で仕事をしている父親に、少し外に出るからと断って店を離れた。そして二人で川の辺りに沿って、夕暮れ時の静かな散歩と洒落込んだのである。
「ねえ、先生?」
「うん?……」
「わたし来年の春卒業でしょ。それでね、進路のことについて色々と迷っているんです」
「どう迷っているんだい?」
「就職にしょうか、それとも進学にしょうかと。今度代わった担任の先生は、成績がいいのだから進学にしなさいと勧めてくれるんだけど、家のことを考えるとね。つい就職にしようかと考えてしまうことがあるんです」
「随分深刻な話だね」
「そう、随分深刻なんです。だけどね、あと一つ、道があるんですよ」神妙な顔をした。
「ほうーッ、どんな道だい?」
「それはね……。……先生が、……わたしをお嫁さんに貰ってくれれば、就職とか進学とかで悩まずにすむです」
私は驚いて、
「馬鹿なことを言っちゃいけないよ!」と思わず怒鳴り返していた。
「どこが馬鹿なの?」
「だって、私のような職を失ったグウタラ男が、君と結婚できるわけないじゃないか」
「先生って、意外と古くさいんですね」
「これは古いとか、新しいの問題じゃないんだ!」
私は真っ赤な顔をし、蟀谷(こめかみ)に静脈の青筋を浮き上がらせて、彼女に噛み付いている様子が自分でも分かった。
「きっと、先生、そう言うと思ったわ」
「これは私だけじゃない。世間はそのように考えるのだよ」
「世間がどう思おうと、わたしには関係ないわ!」
「いや、それが関係ある!」
何でこんな話になってしまったのかと、私自身、狐に摘まれたようなことだった。相談って、こんな事だったのか、と軽い苛立ちを覚えた。
「先生は、わたしが嫌いなのですか?」
「いや、別にそうではない。強(し)いて云えば、君は私の好みいい女だ。君はあと二、三年も経てば、今よりもっと美人になる。そしたら引く手数多(あまた)だ」
「じゃあ、引く手数多のわたしを、先生が貰って下さい」
「いや、そう言うつもりで云ったんじゃない」
「そう云うつもりじゃなかったら、どういうつもりで云ったんですか?」
「それは、その……」
「わたしには関係ないもの。世間の人目と言うものと、先生を愛していると言うことが……、どこで一体関係していると云うんですか?」
ああ言えば、こう言うだった。
「あのね、君。愛だの恋だの、そんなに簡単に、その言葉を使わな言わないで欲しいなァ」
「でも、愛してるもん」
「あのね……」私の訓諭は効きめがないようだ。
この分からず屋の小娘に、手を焼き、思わず頭を掻(か)き毟(むし)って、冗談なのか本気なのか見当がつきかねた。その返事に真剣に答えることが、馬鹿馬鹿しくなってきた。彼女は無邪気なんだろうか、それとも人を食っているんだろうか。はたまた、本気で恋慕の気持ちを打ち明けているのだろうか。それにしては言葉の至る所が、実に軽々しいではないか。
「ねえ、先生?今さっき言ったこと本当?」
「何が?」
「あと二、三年も経てば、今より、もっと美人になると云ったことですよ。そして引く手数多だと云ったこと」
「ああ」
「じゃァ、先生は引く手数多のわたしを奥さんに貰いなさい!」
「何てことを言うんだ。馬鹿言っちゃいかん!そんな事いうと、いくら鈍感な私でも、つい、本気にしてしまうじゃないか」
「じゃあ、本気にして下さい」
《何て往生際の悪い娘だ》
本気だか、冗談だかわからないが、ドサクサに紛れて、、直に話を蒸し返してくる。そんなことを考えながら真っ赤な顔をして怒ってしまったようだ。
「わたしはねェ……先生。本気なんです……」と感情を込めて云う。
「あのね、いいかい。私は我が儘な人間だ。亭主関白だ。自己中心の独裁者だ。専制政治時代の暴君といってもいい。
それに女に惚(ほれ)れ易く、手が早く、浮気症で、超ドスケベーで、女癖も悪い。淫らなことや、卑猥なことが大好きで、大酒呑みでもある。短気で直カッとなる性格で、些細(ささい)なことでも腹を立てる。
散々石橋を叩くだけ叩いて、そこを渡らない臆病者でもある。小心者で経済力もないくせに大きな事を言う。小さな自分を大きく魅せようとして思いきり背伸びする瞞(まやか)し者だ。その上、横着で卑怯者で傲慢(ごうまん)で謙虚を知らない、タダのろくでなしだ。……冷静になって考えてみたまえ。君、そんな私の、慎(つつま)しい妻になる自信が本当にあるかねェ?」興奮に任せて、機関銃の引き金を引くように激しい口調で喋っていた。
《これだけ言えば直に諦めるだろう》という安易な考えがあり、口にもない強がりを言って彼女の失望を買おうとした。
「あるわ!」
「ありゃ……」《全く分かっていないではないか》暖簾(のれん)に腕押しであった。
「わたしねェ、こう見えても随分と辛抱強いんですよ。それに働き者だから、グウタラの先生一人くらい養うことぐらい平気だわ」と、しゃーしゃーとぬかした。
「あのねェ。それでは私が、腑甲斐(ふがいない)ない髪結いの亭主になるじゃないか」
「なりなさいよ、髪結いの亭主に!」
何処までも強気で押しまくって来る。
「私は気の強い女は余り好きではないなァー。前の女で随分と懲(こ)りているんだ」
「じゃァ先生は、わたしが嫌いだったの?」
「えッ……?別にそんなわけではないが……」
「わたしにも懲りているの?」
「いや、別に……」と返事を濁した。
「そうだったら、此処で本当に死んでやる!」と奇矯(ききょう)な声を上げて泣き出した。
「死ぬって、そんな……」
「わたし、いまポケットの中に、出刃包丁もっているんだから」
「えッ?出刃包丁を……」
「これで心臓一突きにして死んでやるから」
「早まった事、しちゃあいかん!」
佐藤みどりが啜(すす)り泣き始めた。
《あちゃー》大変なことになった。彼女を泣かしてしまったのだ。この川の辺りの通り掛かりの人に、聞かれでもしたら、本当にまずいことになる。うろたえる自分がよく分かる。
こんな場合、彼女をなだめる役に逸(いち)早く回らなければいけないのであろうが、私自身気が動転して、これに手がつけられないでいた。これをどうして処理したらよいか、その術(すべ)を知らないのである。おろおろと慌(あわ)てるしかなかった。それにしては、これは、彼女の単なる私を困らせるための、虚仮威(こけおど)しの芝居なのか、それとも本当なのか、全く見当がつかないのである。
今ここで起こっていることが、現実なのか夢なのか、それすら分からずに困惑していた。この訳の分からない陳腐(ちんぷ)な混乱は、私を居たたまれない焦燥(しょうそう) に導いた。もしこれが芝居であったら、彼女の演技は妙に迫力があるではないか、という恐ろしいまでの恐怖心のようなものを感じた。
その時、突然彼女の泣き声がやんだ。だが、手は顔を覆いつくした儘である。こんな時の連想として、子供の時に見た、のっぺらぼうか、口が耳まで避けた妖怪が、突然、怖い顔を現すあの場面に似ていた。
私は思わず息を飲んで後退(あとすざ)りした。この場に血相を変えた私は臆病者と化していた。
「おい、君。それ冗談だろう?」と怕々(こわごわ)と声を上げた。
心の片隅には、少年の頃の恐がり屋の神経が、その儘(まま)今でも同居しているのである。
彼女はこの驚きを察したらしく、臆病な私を玩(もてあそ)んでいるかのようであった。穿鑿(せんさく)への駆逐(くちく)は尽きないが、どうもそのようではなかろうか。いや、そのようである。私は勘の鈍い人間であるらしい。これに気付いたのは、かなりの時間が経ってからであった。ポケットの中の出刃包丁も、ウソだったのだろう。
「よーし、分かったぞ。芝居はそれまでだ」
「何よ……、もう。分かっちゃったの。……わたしの演技どうでした?」
「実に迫力がある堂に入ったものだった。さすが演劇部の部長だ」
「わたし、顔を覆っていたけど、先生が青くなって困った顔しているの分かったわよ」彼女は大人びた笑顔を取り戻した。
「そこまで分かってて、どうして困らせるのだ?!」私は彼女を睨んでやった。
「ごめんなさい……」舌をペロリとだして肩をすぼめた。
それは少女特有の仕種(しぐさ)であった。何処まで私をからかうつもりでいるのだろうか。そして蓋(ふた)を開ければ、これが単なる芝居と分かって、何だか残念であった。
やがて二人は那珂川沿いから中洲の商店街に入った。
彼女は各々の店の表に並べられている商品を買う気はないんだろうが、私より早足で駆けつけて行って、それらを物色していた。
洋服屋の軒先前に掛けられていた特売品と思われる夏秋物のワンピースを自分の躰(からだ)に一々当ててみて、それが似合うかどうか私に訊くのである。またメガネ屋に立ち寄っては、表にあったサングラスを掛けてみて、私の方を見て「これ似合う?」と一々私に訊くのである。
私はこの行動に些(いささ)か閉口を示したことを正直に告白する。だが、どの仕種(しぐさ)も、大人と子供の中間あって、実に可愛いかった。茶目っけたっぷりの可愛い仕種が、私を惹(ひ)き付けて離さなかった。女に惚れやすい私の性格は、いつの間にか、彼女に魅了されてしまった観があった。
彼女と一緒に歩く間、彼女は私の回りを、花と戯(たわむ)れる妖精のように纏(まつ)わり着いて飛び回る。そしてついに、私の腕を掴んで、腕組してきた。
「おい。ちょっと、君」
「なあに?」
「それ、ちょっと止(や)めてくれないかれないかなァ」
「あら、どうして?」
「だって人が見ているじゃないか」
「まあ、ヤーァだ。先生、恥ずかしいの?」
「当たり前だよ。歳の違う私と、制服姿の女子高生が腕を組んで、公衆の面前を歩くなんて異常としか言いようがない。それに不謹慎だ。あまり馬鹿なことやらんでくれたまえ」
「馬鹿なことですって?」
「そうだ」
「あら、そうかしら?」
「そうだよ!」
「でも、この腕、絶対に離さないッと……」
彼女は更に強く縋(すが)ってきた。わざと私を困らせているようにも見える。これの芝居の延長か。いや、わざとではなく本当のようでもある。
ただの可愛い妖精であればいいのだが、時としてこの妖精は、妖怪にも変化(へんげ)するようだ。これは嫌がらせなのだろうか。それとも私の心を試しているのであろうか。私は彼女のつむじ曲がりで、予想外の行動に狼狽(ろうばい)した。からかわれているのか?
「冗談だろ、君!」
その言葉を聞いた彼女は握った腕を振り払って、私の前に回ってきて口を尖(とが)らせた。
「あのね、先生!言っときますけどね、わたしにはちゃんと《みどり》という名前があんです。卵の黄身(きみ)じゃないんだから、そうキミキミ言わないで頂だい。キミキミって、本当に失礼しちゃうわ」
「じゃあ、何と呼べばいいんだい?」
「わたしのこと《みどり》……と呼んで」
「……《みどり》、……かい?」
私が怕々(こわごわ)と言うと、
「そう、それでよろしい!」と、威厳を持った態度をして、再び腕にすがり付いてきた。これには雑駁(ざくばく)な疲労を感じた。
近頃は酒の呷(あお)り過ぎで、多少高血圧気味の私は、恥ずかしさと、彼女のつむじ曲がりの意味不明の行動に、今一層脈拍が早くなり絶倒の極みにいた。
「……あのーッ、私はちょっと血圧が高いのだが……」
「それで……?」
「医者から血圧の上がることは、よくないと、厳しく止められているのだが……」
「もう、その歳でアル中なの?」
「アル中じゃない!少し血圧が高いだけなんだ」
「血圧の高いことと、腕組とどう関係があるの?」
「……それは」
「それは?」
「……つまり、余り過激なことをやっちゃァいけないということだよ」
「それ、苦し紛(まぎ)れの言い訳のつもりですか?……でも、先生の腕、大好きよ。優しかった、わたしの死んだ兄みたいで」
《何と勝手なものだ。いい気なもんだぜ。俺はお前の死んだ兄貴の代用品かよ》感想は、これ以上に何も出てこなかった。
私は罠(わな)に掛かって、逃れられない小動物であった。愚かで修行半端な私は、ここから逃れる術(すべ)を知らなかった。何と易々と彼女の罠に嵌(はま)ってしまったのだろうか。そんな悔悟が脳裏を翳(かす)めた。
しかし、彼女のこういう意味不明の行動に、素直に従っているのは、その魅力に惹(ひ)かれ始めたからであり、この儘(まま)自らの本心に逆らって、拒否続ければ、彼女を逃がしてしまうかも知れないという一分(いちぶ)の危惧(きぐ)があったからである。
それは何処まで突き詰めても平行線の儘、純化されない汚らしい欲望であったかも知れないが、一匹の大きな魚を釣り上げながら、手の届く目前で逃がしてしまうという不安に似た危惧(きぐ)があったからだ。ともすれば直に消え去ってしまうような、不確かな靄(もや)のような存在であったからだ。しかしそれにしても、彼女の行動は、一体何を意味しているのであろうか。勘の鈍い私は、しばし苦悶(くもん)を重ねていた。
その間も私の苦痛は続いた。片時も腕を離さない。
「あのね、君。ちょっと腕がだるくて痛いんだが……」
「ほら、また、君と言う。《みどり》と云ってと言ったでしょ?」
これで私は何も言えなくなった。感情のほてりと艱難(かんなん)の双方は、攪拌(かくはん)されて、今尚、消えることなく、胸中は早鐘(はやがね)の応酬(おうしゅう)であった。
辺りが暮れきってしまうと大通りでは、あちらこちらでネオンの瞬(まばた)き、車のライトの洪水と、クラクションで溢れかえっていた。出発点の那珂川沿いから随分と離れてしまい、博多駅近くまで歩いていた。
「こんな時間まで出歩いて、家の仕事大丈夫かい」
「ええ、大丈夫よ。父がちゃんとやっていてくれるから」
《何だか、屋台で一杯を食いそびれてしまったなァ》と思っていたら、
「先生、ここでお食事していかない?」と彼女が切り出した。
「うん、そうだね。君とこの屋台で食い損なってしまったからなァ」
「先生、幾らお金もってます?」
「多少なら……」
「その言い方は、余り持ってないということですね」
「君は人の心を読むことが上手だね」
「これでもわたし、読心術の免許皆伝なのよ」
「ほうーッ、免許皆伝か……」
「それ、馬鹿にしているの?」
「ちがうよ、感心してるんだ」
「駄目よ、嘘いったって。先生はねェ、人の言葉を聞く時、その反応が眼に出てくるの。だから、どんなに言い訳をしたって、わたしは誤魔化せないわよ」
愛嬌のある顔で、ほっぺたを膨らまして、再び私の顔を睨んだ。それがまた実に愛くるしい。
「これからは何事も、正直に、わたしに言ってちょうだい。隠し事は駄目よ。勿論、浮気もね。結婚したら、しっかりお尻に敷いてあげますからね」
「おい、おい。そんなこと、いつ決めたんだ?」
「先生は、わたしの旦那様になる運命にあるのです。今更もがいても手遅れよ。覚悟はちゃんと出来ていますか?返事はどうしたの?」
「は、はい」
「それでよろしい」と吹き出し笑いをした。
これは彼女の演技であろうが、その巧みな誘導尋問に引っかかっていた。
「参ったなーッ、勝手に決められては……」
《結婚したら、本当に尻に敷かれるのだろうか?》などと考え、苦笑せずに入られなかった。
彼女の誘われる儘、近くの高層ビルのレストランのような所に入った。客は疎(まば)らで、随分と空いており、二人は大きな窓際に席をとった。
「先生、何にしますか?」
「それは私が訊ねる方だ」
「先生は、ただいま失業中で、お金を持ってないのだから、わたしに全て任せなさい。先生の分まで、わたしが払ってあげますから」
彼女は咳払いをして厳(いかめ)しく語りかけるのである。それがまた滑稽で、どことなく憎めない。
「ねえ先生、夜景を見ながら、最初はビールで乾杯といきませんか?」彼女は悪戯(いたずら)ぽく、私の顔を窺(うかが)うように云った。
「ほうーッ、それはいいね」と、つい乗せられてしまい、その後に「いや、いや、待った。未成年はオレンジ・ジュースにしておくことだ。是非ともアルコールというのなら、せいぜいジンフィーズで我慢しときなさい。……成長期には、あまりアルコールは飲まないことだ」私はこんな堅苦しい事を云っていた。
「どうして?」
「どうしてって、成長期に君はあるからだ」
「あのねェ、云っときますけどねェ。わたしは、わたしのお金でビールを飲むのよ。それに成長期って云ってもねェ、人各々に個人差があるんですよ。先生、知らないんですか?」
「まあ、それはそうだけど……」
「あたしはねェ、成長期はとっくに終わって、今では法律的にも、結婚も出来る身なのよ。おまけに身長は168cmもあるし、これがどうして成長期なの?これ以上、わたしを成長させてどうしようというのですか?」
云われてみれば尤(もっと)もであった。そして彼女の言葉に強引に押し切られて、まずはビールで乾杯となった。以前の不良少女に舞い戻ったのだろうか。
ここで彼女と一時間ほど食事と会話をしたであろうか。
私は、学校での内部情報を聞きながら、彼女の屋台で一杯遣(や)る予定であっが、彼女に見送られたような形で博多駅まで来てしまった。それにしても、私が乗って来たボロ自転車は、彼女の屋台の店先に置いた儘であった。別に改めて取りに行く程の代物ではなかったが……。
私が帰って行く際、彼女は駅のホームまで見送ると云う。これは断(た)って願いのようだった。無下(むげ)に断る理由もなかった。
発車間際になって、彼女がぽっりと云った。
「先生、わたし明日から頑張る。猛勉強する。先生が居なくても、もう大丈夫。わたし……、自分のこれから先の進路、やっと今決まったの」
「どう決まったんだい?」
やがて列車が入って来て、彼女は無言の儘、乗り込んだ私のドアの前に立ち、私をじっと見ていた。ホームに佇(たたず) んだ彼女が、突然泣き出すのではないかと心配したが、意地っ張りの性格が、それを抑えているようであった。
列車のドアが閉まる時、彼女は涙混じりに何か言ったようである。
発車のベルで途切れがちになり聞き辛かったが、私には、「さよなら、わたしの初恋」と、彼女が言ったように聞こえた。おそらくそう言ったに違いない。そう信じたい。
彼女は一褸(いちる)の望みをかけて、私への恋慕の思いを打ち明け、そしてそれが適(かな)わない今、自らの愛を渾身(こんしん)の力を振り絞って、身を切るような思いで、それを葬り去ったのである。あれは確かに演技などではなかった。そこには彼女の本心があり、最後に及んで、その確信が私には確認できたような気がした。同時に激しい哀惜の念が襲っていた。私は「もてた」のだろうか。いや、そんは筈はない。そう思いながら、心の中で苦笑が趨(はし)った。
列車は軽い身じろぎをして、次第に加速度を加えながらホームを離れた。そのホームに呆然(ぼうぜん)と立ち竦(すく)み、小さく手を振る彼女がいた。
私は彼女の今までの余韻(よいん)の中から、彼女の行動の一つ一つを分析してみた。あの底抜けに明るく振る舞っていた、そして私を閉口させ、困らせた異常なまでの彼女の行動の一つ一つは、この時のことを意識して、至福と、悲しみを予想した振る舞いであったのかも知れないと……。
その意地らしいまでの彼女の気持ちが、私には手に取るように分かった。もう私の眼には、彼女のあの愛くるしいまでの笑顔は、再び見ることができないだろう。あの黒い澄んだ純真な瞳と、あの鼻筋の通った美形の顔立ちは、もう二度と見ることができないのである。
私はあらためて心の中で、「さようなら」と彼女に別れを告げていた。佐藤みどりの、これから先の人生に祝福あれ!
私は哀願するような目で、彼女に別れを告げていた。
この日、一つの辛い別れがあった。しかし水は流れなければならない。流れることを忘れた水は、やがて濁って腐敗してしまう。改めて私が、現世の旅人であることを思い知らされた。
その後、彼女は猛烈に勉強をしたようだった。翌年の春、福岡県立のF女子大学に見事合格したと言う吉報が届いた。
─────私は女子高校を辞めたことに些(いささ)かの未練があった。もう少し続けて、少なくとも彼女らが卒業するまで、学校に止(とど)まりたかったと言う気持ちもあった。
その後、内情を調べたが、私のやらかした事は、校内では何の話題にもならず、校長や他かの先生にも知られていなかったのである。疑心暗鬼に陥って、無理に辞めなくてもよかってのである。これで貴重な生活源を棒に振ってしまったのである。
私の教職時代は、こういう変わった経験の、哀切(あいせつ)と苦悶(くもん)で彩られていた。
少年の頃、心の片隅で描いた、なりたい職業には就く事ができなかった。勿論、就くだけの能力がなかったのかも知れないが……。
だから教師も、なりたくてなったのではない。教師になったのも成り行きからなったまでで、辞めたのも成り行きから辞めてしまったようなものである。目的意識がはっきりしない私の心は、漠然(ばくぜん)とした空洞(くうどう)のようなもので、具体的な未来像を描くことが、極めて劣っていたのである。私の社会不適合は、この辺に由来するようだ。
|