運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
旅の衣・前編 1
旅の衣・前編 2
旅の衣・前編 3
旅の衣・前編 4
旅の衣・前編 5
旅の衣・前編 6
旅の衣・前編 7
旅の衣・前編 8
旅の衣・前編 9
旅の衣・前編 10
旅の衣・前編 11
旅の衣・前編 12
旅の衣・前編 13
旅の衣・前編 14
旅の衣・前編 15
旅の衣・前編 16
旅の衣・前編 17
旅の衣・前編 18
旅の衣・前編 19
旅の衣・前編 20
旅の衣・前編 21
旅の衣・前編 22
旅の衣・前編 23
旅の衣・前編 24
旅の衣・前編 25
旅の衣・前編 26
旅の衣・前編 27
旅の衣・前編 28
旅の衣・前編 29
旅の衣・前編 30
旅の衣・前編 31
旅の衣・前編 32
旅の衣・前編 33
旅の衣・前編 34
旅の衣・前編 35
旅の衣・前編 36
旅の衣・前編 37
旅の衣・前編 38
旅の衣・前編 39
旅の衣・前編 40
旅の衣・前編 41
旅の衣・前編 42
旅の衣・前編 43
旅の衣・前編 44
旅の衣・前編 45
旅の衣・前編 46
旅の衣・前編 47
旅の衣・前編 48
home > 小説・旅の衣/前編 > 旅の衣・前編 12
旅の衣・前編 12





第四章 困窮の季節

●競艇通い

 日が経つにつれ、由紀子のことを忘れかけていた。彼女とは遠い、ひと夏の思い出として心の隅に片付けていた。
 幾ら手紙を出しても返事が来ないことから、既に何もかも決着がついたと思っていた。そんな忘れていた時に、突然、由紀子から電話が掛かって来た。
 二度も手紙を出しながら、その返事すらくれない者が、
(一体今日は、どういう風の吹き回しだ?)という軽い疑念が脳裡(のうり)を翳(かす)めた。

 そしてその返事をくれなかった気紛
(きまぐ)れ女の、気紛れを、今更(いまさら)何事か?と恨みに似た疑心で思い返していた。この電話が、軽々しく信じ難いような気がしてならなかった。

 彼女は、私のような既成枠
(きせいわく)から食(は)み出した、社会不適合で、常識破りの無力な貧者に、自己犠牲を厭(いと)わない、一種の奇特(きとく)な人に変貌しただろうか。それとも、もともと螺子(ねじ)の外れた世間知らずの一面が、そうさせただろうか。疑いは、払っても払いきれない、不信が募った。
 そして暫
(しばら)くの間、夏に見た彼女の姿と、今電話を掛けてきた彼女の声が、しっかりと結び付くまでに、幾らかの時間が懸(か)かった。電話を掛けてきた彼女は、果たして本物の由起子なのだろうか。あるいは私自身が、何者かに誑(たぶら)かされているのだろうか。そんな不信が、暫く余韻(よいん)を曳(ひ)いたのである。

 何故、此処の電話番号が分かったのだろう。そう考えた時、綾羅木
(あやらぎ)海水浴場で由紀子と別れる際、彼女に名刺を渡しておいたことを思い出した。そのことをすっかり忘れて、五カ月程が過ぎていた。もう既に、彼女のことは遠い過去の幽(かすか)かな幻影として、眼中から消えていたのである。
 そんな時の電話であるから、驚かない方が不思議である。私など相手にされる筈
(はず)がないと思っていたから、思いも寄らぬ吉報?だった。果たして、これに有頂天に舞い上がっていいものか、どうか。そんな思案が趨(はし)ったのである。十二月の初旬であったろうか。

 街の商店街のあちらこちらにはクリスマス・ツリーが飾られ、世間は、そろそろ師走
(しあす)の風に煽(あお)られ始めた頃で、街行く人は、誰もがジングルベルの軽快な音楽に急(せ)き立てられるように、その歩く歩調も、何となく足早であった。そんな時のことである。
 道場の練習も一応終え、事務処理も一段落して、帰宅の途にある時であった。

 電話の内容は、ごく有り触れたことであったが、私にとっては突然のことで、思いも寄らぬ吉報?であった。それも疑わしき吉報である。安易には信じ難かった。
 その受話器から聞こえてくる彼女の声は、莫迦
(ばか)に甘ったるいような印象を受けた。元々、彼女はおっとりとした喋り方をする女性であったが、それが何処か粘り着くような声質にも窺(うかが)われ、今日は一段と甘ったるさが漂っているように思えた。何か、魂胆があるのだろうか。そう、疑いたくなるような、狐に摘(と)まれた気がしていた。

 「桜井です。今まで、お元気でした?」
 「……………」私はこれに何と返事をしていいものか、一瞬戸惑った。

 「ところで今晩、今からお逢いできないかしら」の切り出しから始まった、その電話は、一瞬私をどぎまぎさせた。不意をつかれて威圧された観
(かん)があった。咄嗟(とっさ)に適切な対応に困惑した。
 「えッ……、今晩ですか……」
 「そう、今から宜
(よろ)しいかしら?」
 肯定とも否定ともつかぬ戸惑いで、返事に窮
(きゅう)していたら、私に選択の余地を与えないような、ある意味で、私の心を端(はな)から見透かしたような、半ば押しつけのような強引さが伝わって来た。

 「はあ……」
 ややともすれば、あやふやな返事しか出来ない。返事を事前の返す、このての予行演習がなかった事は、何とも私を狼狽させるに十分だった。あるいは、そう、彼女は踏んで、この突然の電話を掛けて来たのではあるまいかと言う穿鑿
(せんさく)が趨(はし)った。
 私は夏でもないのに、額
(ひたい)から流れ出るような汗の感覚に見舞われ、それを思わず片方の掌(てのひら)で拭い取っていた。

 東京から北九州に一時帰省していた彼女は、私の事をその印象薄い記憶の何処かで思い出したに違いない。昨今の流行で言うならば、若い男女の合コン
(合同コンパ)程度の、軽い気紛(きまぐ)れな気持ちを起こしたのかも知れない。
 久しぶりに今晩、昔話に花を咲かせたいということで、特別な意味があった訳ではないようだ。この誘いには、一瞬の驚きと躊躇
(ちゅうちょ)が伴った。

 第一私には、花を咲かせるような昔話など持ち合わせないのである。一時期、彼女と接した小学校時代は、楽しい思い出よりは、辛い思い出の方が多かったからだ。
 特に、彼女と知り合うことになった六年生の時は、その殆どが辛いものであった。それを一々掘り下げて、辛い過去を回想し、更に惨めになることはあるまいと考えていた。しかしこの誘いは食事も兼ねていた。彼女がご馳走
(ちそう)してくれるというのである。その意図は、何だろうかと想う。

 いつも、生活に困窮しているハングリーな私は、こういう誘いを無礙
(むげ)に断る勇気はなかった。それで安易に同意した。
 今から私の所へ車で迎えに行くというのだ。突然のことで、どうしようかと思った。鏡に自分の姿を写しながら、服装はこれでいいのかとか、髪形はなどと、自問自答を投げかけていた。何処かのパーティに出かけるような気持ちになり、玄関を出たり入ったりして、彼女の来るのを待ちながら、訳の分からぬ活気に満ち溢れていた。そういうのを、世間では、「有頂天に舞い上がった」と云うらしい。安易な得意の絶頂という。一種の「馬鹿」の代名詞である。

 暫
(しばら)くして道場の玄関を閉める頃、道場の前に派手な車が止まった。
 3ナンバーで、ツードアの真っ赤なニッサン・フェアレディZであった。新車だ。多分、親に強請
(ねだ)って買って貰ったのであろう。ここに金持と貧乏人の、恐ろしいほどの格差を見た。

 彼女は車から出てきて、
 「突然、お呼び立てしてごめんなさい」と、例の小首を傾
(かし)げた仕種(しぐさ)をした。
 綾羅木
(あやらぎ)海水浴場で見た、あの少し首を曲げて、微笑んだ彼女独特の仕種を再び見てしまった。一種の癖だろうが、何とも可愛い仕種なのだ。そんな感動が再発した。
 仕種に合わせて微笑も中々のものである。そしてその微笑は、私をすごく幸福な気持ちにした。

 私は誘われる儘
(まま)、彼女の車に乗った。車内は清潔で小綺麗さがあり、女の子特有の可愛い飾りつけがあって、仄(ほのか)に若い女性の甘い香りがする。こういう女々(おんな‐おんな)した車に乗ったのは、生まれて初めてであった。可愛らしい人形や、動物のマスコットで車内は飾られていた。思わず堅苦しい、奇妙な緊張が趨(はし)った。果たして、云われるままに乗っていいものか。そんな緊張だった。しかし、躊躇(ちゅうちょ)を覚えるまま、乗る以外なかった。

 「お返事出せずにごめんなさいね。二度もお手紙頂きながら、その儘にしておいて……」
 「……………」
 突然切り出した彼女の言葉に狼狽
(ろうばい)した。今更(いまさら)蒸し返されることではなかったからだ。
 今ではどのようなことを書いたか、はっきりと覚えていないくらい、忘れてしまった内容だった。しかし恋文に似た、独りよがりの内容であったことは間違いない。そう気付いた時、気恥ずかしくなり、思わず顔が赧
(あか)くなった。いらぬ徒労をしてしまったと後悔した。

 「お手紙頂いた時は丁度、前期の試験中で……。大変失礼なことしたと思っていますわ……」その先、何か云おうとしていたようだが、そこで途切れた。
 そのことの詫の気持ちが、今晩の彼女の誘いであったのだろうか。

 車は小倉に向かっていた。クラッチの繋
(つな)ぎがスムーズに行われていたので、運転は初心者でないらしい。かなり乗り回しているものと思われた。運動神経がいいらしい。また、その運動神経のよさが、頭脳明晰であったのかも知れない。機敏で起点が利いていた。そんな観察眼を彼女に向けていたのである。

 向かった店の名前は、はっきりと憶
(おぼ)えていないが、小倉でも一流と噂されていた魚町の中華レストランに入った。そしてエレベーターで、一気に七階まで上がった。
 ゴンドラ・リフトの中は二人だけの、精々
(せいぜい)30秒程度の、この閉ざされた箱空間は、目を何処に置いていいか分からない、何とも表現のできない息詰まるような堅苦しさがあった。これがあと10秒も続けば、窒息するのではないかと思われた。

 エレベーターのドアが開いた時、そこは既に、店内に接したフロントであった。品のいいウエイトレスが、「いらっしゃいませ」の挨拶の言葉と同時に、来店の人数を確かめ、私たちは窓側のテーブルに案内された。
 ここも恐らく北九州に帰った時、両親らと時々足を運ぶ食事処
(しょくじ‐どころ)なのだろう。そのためか、店内の勝手をよく知っていた。

 案内された窓側のテーブルに座り、此処で二人だけになった。
 憧
(あこが)れの女性を前にして、上辺だけは平静を保っていたが、内心は混乱の極致であった。何故ならば、私のような者が、何故、彼女と同伴できるのだろうかという、その不思議な巡り合わせに翻弄(ほんろう)されていたからだ。

 外は既に夜の帳
(とばり)が緞帳(どんちょう)のように降りていた。大きな窓から見渡せる眼下には、小倉の街の夜景が一望でき、その遥(はる)か頭上には澄みきった冬の夜空が広がり、星が、まるで、ダイヤモンドか何かを鏤(ちりば)めたように瞬(またた)いていた。
 そして、その夢見心地の微睡
(まどろ)み透き間から、幸せを垣間(かいま)見たような、恍惚(こうこつ)としたムードに酔い痴(し)れ始めた。別世界に誘い込まれた観があった。

 やがてダークスーツに身を固めたウエーターが注文を取りに来たが、テーブル・オーダーは彼女に任せた。下手に口出して、わざわざ恥をかくこともあるまいと思ったからだ。
 暫
(しばら)くして、老酒らお‐ちゅう/紹興酒(シヤオシンチユウ)とも)が運ばれてきた。先ずは、これで乾杯というわけであろうか。

 私は最初の一杯を威勢よく一気に呷
(あお)り、彼女は優雅な手つきでそれを持ち上げ、軽く口を付けただけであった。この辺が私と彼女の、育ちの違いの差なのであろう。貧者と金持の差は、克明だった。
 時々、横目で盗み見た由紀子の横顔は、小学校の頃の、あの幼き面影を幽
(かす)かに漂わせていた。彼女の顔を見ながら、無言の数分間が過ぎた。

 夜空を照らす近くのビルのサーチライトの光が、由紀子の横顔を鈍く反射させた時、私は彼女の横顔を見ながら、彼女と一緒になれたら、どんなにか幸せであろうと、ありもしない妄想に取り憑
(つ)かれたが、直にそれは苦笑いに変わった。
 そして誰か分からないが、何
(いず)れ彼女と結婚するであろう未来の良人(おっと)に、一種の妬(ねた)ましさを感じた。私はそんなことを考えながら、どうしようもない自分に、苦笑いを引き摺(ず)らせていた。

 「岩崎君、何か嬉しいことでもあったの?」と訊
(き)かれた時は、苦笑を見咎(みとが)められた気持ちがした。戸惑いと共に、一瞬彼女と目が合い、その目のやり場に困った。少年の頃から仄(ほのか)に抱いた想い人を前にして、訳の分からぬ奇跡のようなことが起こっていたのだ。

 どうして此処にいるのだろうか、という運命の悪戯
(いたずら)と、変化の烈しい数直線上に置かれた今晩の誘いは、私に、ありもしない幻覚でも見させているような気がした。今から、何処に運ばれて行くのだろうと、そんな気がしたのである。
 今私の前に居る彼女は、もしかすると巧妙に造られた、彼女の贋物
(にせもの)ではあるまいか等と、目を疑わずにいられなかった。そしてそのことが不思議でならなかった。

 この流れ行く時間の中で、ターン・テーブル脇のグラス・ファイヤーの蝋燭
(ろうそく)の灯(あかり)が、無数の彩りを見せながら、昔の淡い記憶を呼び起こすのであった。

 昔、母が、「由紀子さんみたいな人が、ケンちゃんのお嫁さんになるといいわね」と言った、その彼女が今ここに居る。倖
(しあわせ)というものは何の前触れもなく、このように突然何処からともなく湧き起こるようなものであろうか。あるいは、これが不遇の始まりなのだろうか。一歩下がって、不遇の始まりなら不遇でも構わないが、しかし、何とか彼女の愛を交わしたいものだと夢想した。

 しかし、今の私には、彼女を嫁にするような資格はない。道場の僅かな月謝の上りだけでは、到底
(とうてい)養って行けない。貧乏な道場の師範兼経営者なのである。
 こんな私が彼女を嫁にくれ等と、のこのこと、彼女の威厳のある父親
(小学生の時、PTAの会長をしている父親を見てそう思った)の前に出ようものなら、即座に一蹴(いっしゅう)され、追い返されるに違いない。

 所詮
(しょせん)、私には彼女を幸せにする資格がないのである。彼女は高嶺(たかね)の花だった。養うための経済力はおろか、住まいや、これといった財産も、何一つないのである。貧者の嘆きであった。
 第一彼女が、私のことを、どう想っているかが問題である。住む世界の違う彼女が、私のような貧者
(ひんじゃ)風情を相手にする筈(はず)がないのだ。そう卑屈(ひくつ)になりながら、心の片隅の何処かで、口には言えない挫折感を抱き始めていた。

 勝手な空想は、空回りに空回りを続けた。それは丁度、小学校高学年の時に抱いた劣等感と同じようなものであった。そのためか、いつもならこのチャンスを『もの』にし、露骨な言葉を吐いて、女の隙
(すき)に付け入ることを平気でやっている私だが、今夜は、天罰の雷(かみなり)に打たれた時のように、しおらしくその調子を外され、謙虚にならざるを得なかった。その意味で、やはり彼女は私の天敵なのである。

 此処では、彼女が一方的に喋り続けたが、世間一般のブリッ子と違って、その知的な会話と、そこから窺
(うかが)える仕種(しぐさ)や彼女特有の感性は、私に不愉快さを感じさせなかった。

 会話の内容は、上流階層特有の機知
(きち)に包まれた洗練さがあり、上品で何処か、その世界のお行儀の良さをだけが、私に不思議な違和感を感じさせた。聴けば聴くほど、私には馴染めないものであった。
 このお行儀の良さを端的
(たんてき)に表現するならば、私のような俗物(ぞくぶつ)の横柄(おうへい)や好色と違って、純潔と羞(はじ)らいのある気(け)高い香りを放っていた。料理が運ばれて来た後も、彼女はこのお行儀の良さを崩さなかった。

 謙虚過ぎる人間
(利他主義者)と傲慢(ごうまん)な自慢話をする人間(利己主義者)には、何の魅力も感じないが、由紀子の流暢(りゅうちょう)な途(と)切れのない語りと、程の良い医学生としての専門用語を挟んだ自慢話?は、また一方で無邪気な女らしさを感じさせた。
 それは極めて倫理的であり、更に道徳的であり、それでいて彼女の言葉の何処かに賛嘆
(さんたん)たる輝きがあった。これは恐らく彼女が中学・高校と、フランス系イエズス会のミッションスクールで教育を受けたものと思われる。その影響のためであろう。これを私は、甚(はなは)だ神妙な面持ちで受け承り、彼女の聞き役に回った。

 時々、彼女の話を聞きながら、合槌
(あいつち)を合わせる作り笑いの作業に追われた。こんな時に、話の中に割り込んで、いつもの三流処(さんりゅう‐どころ)で話す、下品で、露骨な猥褻話(わいせつ‐ばなし)を切り出すのは意外と難しいものだ。付け入る隙(すき)が全くない。
 そんな肉欲の、はしたない露骨な空想が、頭の中を次々に空回りしていた。しかし現実に彼女と一緒にいることを考えれば、此処には今までに味合うことができなかった贅沢
(ぜいたく)な重みがあった。

 彼女は上品にフカヒレのスープを飲みながら、私の意図とは関係なしに、話は先に進められていった。彼女と言葉の往来
(おうらい)を交わしながら、詮索(せんさく)と疑惑が脳裏を交叉(こうさ)して、私の心は多忙であった。

 由起子は2時間程一人で喋り続けた。主役は何処までも彼女であった。そして、流石
(さすが)に疲れたと言う処で、ぽつりと笑顔を作って言った。
 「岩崎君と、お話していると本当に楽しいわ」
 由起子はそう言った。
 
(岩崎君と、お話していると)と言うけれど、私は殆ど口をきいていなかった。彼女が一方的に喋り続けただけだった。

 私には何処を探してみても、楽しい事なんか何もなかった。しかし、煩
(わずら)わしいところもなかった。由起子の一方的に喋る、放談を聞き流していると、分けの分からない医学用語の応酬(おうしゅう)に些(いささ)か手を焼き、ある意味で馬鹿馬鹿しさを通り越して、やはり彼女は何らかの暇潰しの為に、私がダシに使われたのだという反芻(はんすう)が脳裡(のうり)を過(よぎ)っていた。私は、単に主役を引き立てる為の出し汁だった。一時の、退屈紛(まぎ)れの、お行儀の良いお友達だったのだ。そんな自嘲(じちょう)が脳裡を翳(かす)めた。

 由起子は一人で、殆ど喋り続けていたにもかかわらず、まだ喋り足りないというふうであった。よくもまあ、次から次へと話が続くものだと思った。

 曾
(かつ)て私は、冬山登山をしてある避難小屋に二日間ほど吹雪で閉じ込められたことがあった。私と同じ境遇に見舞われ、三人ほどが二日間を伴(とも)にした。
 同じ人間と、こうした処で幾日か過ごすと、最初は自己紹介から始まり、やがて子供の時から大人になるまでの身の上話しから始まり、自分の身辺や環境、親兄弟や親戚や友人の話が出て、とにかく知っていることを洗いざらいぶちまけるものである。悉
(ことごと)くぶちまけ、知っている総(すべ)てを話し、閉じ込められた生活の中で、何とか時間の空白になるのを防ごうとするものである。時間が空白になり、間が空くのが嫌だからである。しかし、そうした努力をしながらも、閉じ込められた生活空間では、まだ時間を持て余すものだ。

 こうした時の事を思うと、由起子の話は未
(ま)だ増しだった。そう悪くなかった。私には分からない医学用語が飛び出しても、である。彼女から、有り難い?医学の講義を受ける事が、ただただ貴重だったのである。それは内容の、理解できる出来ないにかかわらず、である。
 また、彼女の口から飛び出して来る医学用語に絡んで、出て来る登場人物に、女性が多いのは、何かしら興味をそそるものがあった。

 今夜の誘いの目的は「何だったのだろうか」と穿鑿
(せんさく)して、その謎解きに苦しんだ。そんなことを考えながら、いつしか二人は老酒(らお‐ちゅう)を重ね合っていた。
 酒が入るに従い、やがて話が弾み、酔いに任せて、目と目で話す、彼女の素振りにも平気になり、図々しくも、元来から所有する私特有の、傲慢
(ごうまん)で横柄(おうへい)な態度になりかけていた。これを、酒に勢いを任(まか)せる小心者の、後味の悪い酩酊(めいてい)とでも表現しようか。
 しかし、彼女の今夜の誘いの真相に迫れない儘
(まま)、何事もなく、この日が終わった。

 ─────この日の反省は、自らを恥じない醜態
(しゅうたい)であった。
 憚
(はばか)ることを知らず、些(いささ)か、酒に酔った事をいいことにして、この席での食事代を、彼女に払ってもらったということである。後で思い起こしたら、心の何処かで、何かプライドが酷く傷つけられたような気がした。無理をしても、私が払うべきだったのだ。

 その醜態を振り返れば、嫌な余韻
(よいん)を引き摺(ず)っていた。そして後味の悪さと、物財の足りなさを感じた終日であった。経済力の格差を感じた終日であった。

 その後味の悪さから、やがて気怠
(けだる)い溜(た)め息が洩(も)れた。それとともに脱力感に陥って、切ない甘味(かんみ)を伴いながら、忘れられない悲しい味に変わった。それは彼女への過去の追憶が、後味の悪さを、更に深く掘り下げたからである。これは恐らく、私の後遺症になっていくことは容易に想像出来た。

 しかし不思議だった。彼女との奇妙な今晩の出来事は、思い返すと、全て嘘のように思えてきたからだ。その何処にも、現実感を感じなかったのである。
 しかしこうした幻
(まぼろし)にも似た境目で、夢と現実が曖昧(あいまい)になり、私の心の底に、訳のわからぬエネルギーが働き始めているのが、微(かす)かに確認できた。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法