運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
旅の衣・前編 1
旅の衣・前編 2
旅の衣・前編 3
旅の衣・前編 4
旅の衣・前編 5
旅の衣・前編 6
旅の衣・前編 7
旅の衣・前編 8
旅の衣・前編 9
旅の衣・前編 10
旅の衣・前編 11
旅の衣・前編 12
旅の衣・前編 13
旅の衣・前編 14
旅の衣・前編 15
旅の衣・前編 16
旅の衣・前編 17
旅の衣・前編 18
旅の衣・前編 19
旅の衣・前編 20
旅の衣・前編 21
旅の衣・前編 22
旅の衣・前編 23
旅の衣・前編 24
旅の衣・前編 25
旅の衣・前編 26
旅の衣・前編 27
旅の衣・前編 28
旅の衣・前編 29
旅の衣・前編 30
旅の衣・前編 31
旅の衣・前編 32
旅の衣・前編 33
旅の衣・前編 34
旅の衣・前編 35
旅の衣・前編 36
旅の衣・前編 37
旅の衣・前編 38
旅の衣・前編 39
旅の衣・前編 40
旅の衣・前編 41
旅の衣・前編 42
旅の衣・前編 43
旅の衣・前編 44
旅の衣・前編 45
旅の衣・前編 46
旅の衣・前編 47
旅の衣・前編 48
home > 小説・旅の衣/前編 > 旅の衣・前編 13
旅の衣・前編 13


 ─────幾日か、困窮(こんきゅう)の日々が続いた。私は甘い夢を見たのだ。そう思い込むことによって現実逃避を企てていた。

 しかし、どうしても由紀子の事が頭から離れなかった。由起子の美しい笑顔が、私に付き纏
(まと)う。脳裡(のうり)の片隅から、由起子が何かを囁(ささや)きかける。それは、耳を塞いでも聞こえて来るのだった。とんでもないものに魅入られてしまったようだ。

 由紀子に逢ってからというものは、美しい妖怪に取り憑
(つ)かれたように、気も漫(そぞ)ろになり、はっきりとした理由も分からぬ儘(まま)、心の何処かで、空洞化が起こり、穴が空いているようであった。言葉で言い表せない、精神的ショックのようなものを感じながら毎日を暮らしていた。何を考えても、全て振出しの戻るのであった。道中双六の起点に引き戻されるのであった。

 またそれが、夢の一種に組み込まれた、ありもしない蜃気楼
(しんきろう)でもあった。
 私の薄っぺらな自尊心は、ヒリヒリと痛み感じ始め、血を流しているかのように思われた。

 何故こんなに切ないのだろう。苦しいのだろう。
 こう思う時、一人の男が、一人の女に夢中になってしまう原因は、やはり女の方が何かの切っ掛けを作ってしまうからではないか。自分だけが、特別な人間であるかのような錯覚をもたせてしまうからではないか。
 それが例え、一期一会
(いちごういえいえ)のような、たった一回限りのものであったにせよ、この責任は彼女にあるのでは……。それが無意識であっても……、などと一人勝手な御託(ごたく)を並べ始めていた。

 そして張り裂けんばかりの彼女への想いと、困窮の迷妄
(めいもう)の極みは、その臨界点に至ろうとしていた。そこには塞(ふさ)ぎ切れない大きな穴が開いていた。私は、そこを塞ぐ術(すべ)を知らなかった。

 何処からともなく、言葉にならない空虚
(くうきょ)のような惨(みじ)めさが押し寄せてくる。それは悲壮感に満ちた遣(や)る瀬(せ)なさのようなものであった。些(いささ) か、金のない惨めさが、それに一層拍車をかけた。

 しかし柄
(がら)にもなく、彼女に、更に近付くには、どんな手段があるのだろうかと下心にも似た思いを巡らし、その模索(もさく)と空想に耽り始めた。
 部屋の片隅に身を寄せて、薄くつぶれてしまった座布団の上に何時間も座った儘
(まま)だった。時々溜息を漏らす自分に気付き、その滑稽さに苦笑せずにはいられなかった。
 そしてこの模索と空想に思いを馳
(は)せることは、やがてこれが大きな幸福、あるいは大きな悲しみの第一歩になるとも知らないで、その予想と成り行きが見通せずにいた。これが、恋としての情熱への始まりであった。『恋愛論』の著者・スタンダールの言うところの、「結晶作用」の始まりである。想い焦がれ、恋焦がれ、鉄板の上で身を焼かれるような、由紀子を美化して考える結晶作用が私の心に始まっていたのである。哀れと言うべきか。

 私に必要なものは、今、一時
(ひととき)を感じる現実感であった。あの晩のことが嘘でない証拠に、由紀子のところに電話を掛けようとした。愚鈍で、単純な頭では、これくらいのことしか思いつかなかった。

 道場で、誰も来ない時間を見計らって、早めに出勤し、電話のダイヤルに指をかけた。これで彼女が電話口に出れば、何もかもが現実味を帯びてくるからである。
 しかし電話口に出た相手が由紀子でなかったら、どういう結果となるか。そんな計算までしていた。一度はダイヤルを回したものの、直に愚行をやらかしている自分に気付いた。そして受話器を置いた。
 下手を打って、惨めさを更に味合うこともあるまいと思ったからだ。


 ─────昔の人はよく言ったものだ、「金の無いのは、馘
(くび)の無いのと同じ」と。

 貧しさが与える屈辱
(くつじょく)や怒りが、私の全エネルギーであった。そうした一種の悔(くや)しさが、私の原動力であった。
 私は子供の時から、一種の暗い固定観念があった。これは言葉を換えれば「惨めさ」である。

 当時の私は、この「惨めさ」の中で、不思議なくらい、何かに追い詰めれれていた。その何かは、金のない惨めさであった。経済力も乏しかった。そして、大それた相手に魅入られ、惚
(ほれ)れてしまったという貧者の嘆きがあった。
 日本語的解釈をすると、「惚
(ほ)れる」と「惚ける」は同じ漢字を書く。送り仮名も、「惚」の漢字に書き添える語尾の助詞の、「れ」と「け」が違うだけである。

 私の場合、「惚れる」を通り越して、「惚ける」に近かったのかも知れない。まさにボケ老人のそれであり、ついにボケてしまったのか。それがボケならボケで仕方の無い事だった。このまま、彼女にボケ通してやろうではないか。ボケ通して、今度は私が、彼女をボケさせてやる。そんな埒
(らち)も無い事を考え続けた。遂に頭に昇ってしまったと観念する以外なかった。
 しかしここで一気奮戦して、男の意地と甲斐性
(かいしょう)を見せ付けることが、私の出来る唯一つの行動でもあった。(俺をボケさせたのだから、今度は由紀子をボケさせてやる)これが私の脳裏に過(よぎ)った、彼女への反撃であった。

 金に追い詰められた人間は、どうも博打
(ばくち)に手を出すらしい。私も例外ではなかった。
 不図
(ふと)、学生時代に、時たまやっていた競艇のことを思い出した。
 大学時代の悪友の野仲という男と二人で、F競艇場によく足を運んだものだ。
 選挙運動のアルバイトで稼
(かせ)いだ金を、いつも擦(す)ってばかりいたが、競艇通いの同級生に、大穴で二百四十万円当てた奴がいた。帰りは、私たち二人をボディー・ガードに雇い、家まで護衛させた奴を思い出した。それで、夢をもい一度という、寝ている子を起こすようなことを考え付いたのである。

 それは世にも危険な堕落への道標
(みちしるべ)であった。その道標の示す、地獄への掲示板は、その儘に歩き続ければ、逆戻りのできない一方通行の道標でしかない。行き着く先は破滅である。

 その人生は、賭け事の毒の副作用で、次第に自分の正常な金銭感覚を狂わせ、墜落の道を辿
(たど)ることは必定である。人の感覚を麻痺(まひ)させる不思議な毒素は、一体何処から沸き上がってくるのだろうか。

 考えれば考える程、中枢を麻痺
(まひ)させる一時の夢が、美しくも、醜くも、嬉戯的(きぎてき)な隠亡(おんぼう)となって、感覚と精神の放蕩(ほうとう)が始まるのであった。賭けて儲け、儲けては、また賭ける。そして賭けては負け、負けては、また賭ける。これは尽きる事のない、無間(むげん)地獄であった。賭け事は、まさに「毒」の一語に尽きるのだ。

 しかし私は、この危険な毒を、思う存分
(ぞんぶん)に食らってみようを思った。永い間、蟄居(ちっきょ)を食らった放蕩息子(ほうとうむすこ)が、今までの憂(う)さを晴らすように、その気晴らしの限りを尽くすのである。
 そして私の心の奥底には、いっそのこと、由紀子を攫
(さら)ってしまいそうな恐ろしいことまで考え付いていた。

 単純ではあるが、好きな女を純粋に心底
(しんそこ)好きであったならば、世の男どもは、無分別を剥(む)き出しにして、何故女を攫(さら)わないのか。力ずくで自分の《もの》にしないのか、という悪魔的で、不埒(ふらち)な考えに冒されていくのだった。
 それと同時に、自分自身の財力の乏しさを顧みた時、幾日か前、間近
(まぢか)で見た由紀子が、遠い存在のように思い返された。


 ─────A競艇場行きの無料バスに乗り、この日から一獲千金の夢を追った競艇場通いが始まったのだ。

 毎日、顔を合わせる連中は、もう、既に人生を諦めた人間が多かった。身も心もドロドロに汚れていた。それは賭け事という毒の食らい過ぎのためであろうか。
 その副作用の毒素は、その中枢神経にまで達し腐蝕させ、正常な感覚を蝕 んでいるようであった。

 「兄さん、だいぶん熱心に通っているね」等と声をかけられる程、その連中と仲良くなった。私も徐々
(じょじょ)に汚れ始めていた。
 お互いに予想屋の情報を流したり、穴を張って合従策
(がっしょうさく)に出て、当たれば山分けという手も使ったが、幸運の女神は一向に微笑んでくれなかった。

 最終レースである。これでやられれば足代がない。そんな時のことである。
 最後の手段として、有り金を叩
(はた)き、ここ一発の大穴狙の勝負に出た。その時、凄みのあるやくざ者のような男が私に声をかけた。

 「兄さん、眼が血走ってるぜ」
 金に取り憑
(つ)かれ、金に追い込まれている人間の心を見透かしたようなドスの利いた低い濁声(だみごえ)が、真横から響いたのだった。私はその声に首を捻った。

 その男は、一重瞼で目が細く、大きな顔の左頬に、ドス傷が7cmばかりある大柄な男であった。鋭い陰険な眼をしていた。その眼に負けるのが癪
(しゃく)だったので、私も、この男をギョロッと睨(にら)んだ。眼と眼が合って、一瞬火花が散ったような睨(にら)み合いになった。
 丁度、大相撲で見るような、力士と力士の睨み合いのような眼になった。その眼は挑戦的であり、その挑戦的な眼差
(まなざ)しから、自分の眼を反(そ)らすと、何もかもが負けてしまいそうな気持ちになった。だからこの男の眼から反らしてしまうことは、今日の勝負に、全て負けてしまうのではないかという、考えを抱いた。

 相互の視線は、大相撲の四つのような組み合いとなり、絡
(から)みつくだけ絡みついて、解(ほど)けなくなるのではないかと思われた。激しい睨み合いが続く限り、この戦いは終わりを見ないのだ。

 しかしこの戦いは、この男が折れることで、睨み合いのバランスが崩れた。一瞬、ホッとした気持ちになった。
 この時間は、僅か数秒であったろうと思われたが、私には1分とも2分ともつかぬ長い時間に思われた。そして、根性の据
(すわ)り方だけは、この男の方が一枚も二枚上であろうと思った。それはこの男が、過去に犯罪歴を物語る頬(ほほ)のドス傷からであった。

 レース会場では、投票の締切時間が終わり、いよいよスタートである。ボートはスタートを切って一周した瞬間、勝負が決まる。下手打って誰かが転覆しない限り、これは最後まで変わらないのだ。
 そして各艇がゴールラインに飛び込んだ時、
(やられた!)と思った瞬間、私の大穴は見事に外れていた。艇券(ふなけん)を二つに破って空に放り上げた。

 「兄さん、今日はツイてないようじゃのう」
 この瞬間、私は足代がなくなり、時計を近くの質屋に入れて、足代を捻り出さなければならなくなった。
 「兄さん、足代がないんと違うか?」この男が、やけに付き纏
(まと)う。
 「……………」図星であるだけに、この言葉に絶句した。

 私が答えられずにいると、
 「送るよ、わしの車に乗りな」
 私はその男の言われる儘に、後を蹤
(つ)いて行き、車に案内された。
 車は、趣味の悪い、幅広のアメ車の、黄色と茶のツートンカラーのモナークであった。
 この図体のデカい、趣味の悪い車は、いかにもやくざ者の車という感じがする。その男に黒崎
(北九州市八幡西区)まで乗せて貰った。

 車を降りる時に、「兄さん、明日も来るかい?」と声をかけたので、「勿論です」と返事した。この男は黒崎に組事務所を置く、九州極洋連合傘下・江川組の若頭の石田という男であった。


 ─────次の日の午後も、競艇新聞片手にA競艇場行きの無料バスを黒崎バスセンターで待っていた。この場所はさして広くもない、A競艇場行きの無料バスの発着所だった。バスセンター広場には競艇場通い特有の猥雑
(わいざつ)な雰囲気が漂っていて、それがそっくり競艇場の騒(ざわ)めきを此処へ出張した感じがあった。此処に集まった人の渦はさまざまだが、多くは予想紙を開いたり、赤鉛筆を握っていると云った、よく競艇場で見かけるあの風景であり、ただ彼等に共通しているのは、今日のレースで、何とか儲けてやろうという脳裡(のうり)を灼(や)き尽くすような烈(はげ)しい煩悩(ぼんのう)が誰の眼にも漂っていた。もちろん私も、焦げるような煩悩を持った一人であった。

 この日は、日曜日だったと記憶している。そこへ、見たことがあるような、派手な赤い車が道路の向こう側に止まった。

 (まさか!、由紀子では?)と内心思ったが、その「まさか!」であった。
 どう考えてみても、私の知っている曾
(かつ)ての由紀子の行動から考えて、由紀子らしからぬ行動である。一瞬、怪しみ、そして一応は否定してみた。由紀子ではないと思い直す。

 しかし直ぐに、やはり由紀子である、と気になるのである。もっとも由紀子だとしたら、やはり私の知らない処に、奇異
(きい)な一面もあるに違いない。そうした女の一面を私が知らなくても、不思議ではあるまい。男と女は、そもそも生理機能が異なるばかりでなく、思考も行動も異なるからだ。

 由紀子が車の窓を開けて、私を「岩崎君!」と大きな声で呼ぶのである。何処となく世間知らずで、お節介な彼女に、人前での気後
(きおく)れというものは全くないらしい。
 (みっともないなぁ、こんな処で……。岩崎君!と呼ぶことだけは止めて貰いたいものだ)と、ほとほと気後(きおく)れのしない彼女に呆(あき)れた。空惚(そらとぼ)けて気付かない振りをして、反対側を向いて知らん顔をしていた。すると、再び大声で、「此処よ。何処見てるの、岩崎君!此処……」と叫び、今度は私に手を振っている。

 (アチャー……、恥ずかしカー)無言の博多弁が飛び出していた。手に持っていた競艇新聞で思わず顔を隠した。しかし、こんなことで諦めるような彼女ではない。
 彼女の辺りを憚
(はば)らない呼び声は一層大きくなり、バス停で乗車待ちをしている人を振り向かせる程のものであった。
 こうなれば知らん顔は出来ない。


 (呼ばれているのは俺なんだ)と、人差し指を自分の顔に指してみた。競艇仲間のオヤジどもが、横目で私をジロジロ見る。偶然とはいえ、寄りによって、何とまずい処に現れたものだ、と思った。

 彼女のつむじ曲がりの呼び声には、些
(いささ)か閉口させられた。この儘(まま)では、周囲の人から一斉に注目を浴び、わが身一身に受けている恥かしさだけが先走って、私の立場としては非常にカッコ悪いのである。
 公衆の面前で、先ず、彼女を黙らせることが先決問題なのだ。
 そう思うと一先ず、駆け寄って、由紀子の車に近づき、世間話しの一つもしなければならないのだ。

 「やあ、奇遇
(きぐう)ですね」
 「お乗りになりませんこと」
 「はあ……」一瞬の躊躇
(ちゅうちょ)が伴った。
 「さあ、どうぞ」
 彼女の車に乗るのは初めてではないが、薦
(すす)められている以上、こうなったら乗るしかなかった。
 車の助手席に乗った途端、運転している彼女の脚に、先ず目が行った。

 当時、大流行のミニスカートから伸びた二本の形の良い脚が、実に艶
(なま)めかしい。一瞬、ゴクリと唾(つば)を呑みそうになり、もう少しで、「ごっつあんです」と声を出しそうになった。
 彼女の張りの良い、潤いを持った脚は、ドッキと震
(ふる)えるような艶(なま)めかしさと、妙な迫力があった。
 そして、こんな処が、色情家の私の助平根性の一面と思うのだが、横に美人の女がいて、それもミニスカートから艶
(なま)めかしい脚が、目を抉(えぐ)らんばかりに伸びていて、こんな時、眼の遣(や)るところが他にあるだろうか?

 まさに吉野川上空を飛行中の久米仙人
(くめ‐の‐せんにん)の心境だった。
 『今昔物語集』や『徒然草』などによると、久米仙人というのは、俗に久米寺
くめでら/奈良県橿原市にある真言宗の寺で、久米仙人の創建と伝えられ、白鳳時代後期に成るという)の開祖と伝える人である。大和国吉野郡の竜門寺に籠(こも)り、行(ぎょう)を積んで仙人となったが、飛行中、不覚にも吉野川に衣を洗う若い女の脛(はぎ)を見て通力を失い、墜落したのである。

『久米仙人墜落之図』

 そればかりか、神通力を取り戻すために、かなりの苦労をし、都造りの材木運びの際に漸(ようや)く通力を取り戻し、その御褒美(ごほうび)によって免田(めんでん)三十町(さんじっちょう)を得て、久米寺を建てたというのである。
 漁色家で、色情家である私も、久米仙人さながら、ミニスカートから伸びた由紀子の脚を見た途端、色情地獄に墜落しそうであった。しかし、私と久米仙人の違いは、辛うじて墜落を食い止め、私を制御したのは、子供の時から染み付いた貧乏人の意地であり、「武士は喰
(く)わねど高楊枝」の、愚直なる“痩せ我慢”であった。

 「何処に、お行きになるの?」
 「今から、出勤です」
 「そのファッションからお察しすると随分と変わった処に、お勤めされているのですね」
 恐らくこの言葉は、私の風体から判断したものなのであろう。あるいは侮蔑
(ぶべつ)を含んだ皮肉なのだろうか。
 この会話の最中、無料バスは発車してしまった。

 (しまった!ああ……あ、バスが……)と思ったが、既に遅かった。

 頭にタオルで捩
(ねじ)り鉢巻(はちまき)をし、耳に赤鉛筆を挟み、競艇新聞を手に持って、革ジャンを肩に羽織り、腹巻きの中に数枚の千円札をねじ込んで、作業ズボンに雪駄(せった)履きという奇妙な出勤姿は、世界の違う雲の上のお嬢様には無縁なものなのである。そして、自分の出勤姿を見ながら、(俺も落ちたな)と思った。

 「お勤めされている処まで、お送りしますわ」
 また、由紀子の例のお節介が始まった、と思った。どうやら世界の違う、高次元の領域に住む高等生物の彼女は、低次元の下等動物の領域を好奇の目で捉
(とら)えたらしい。

 内心、
(この女に来るなと言っても無駄であろう。バスが発車してしまった今、途中で降りると言ったら、第七レースからの投票は間に合わない。もしかしたら、残りの全レースに間に合わないかも知れない)という不安があったので、この儘(まま)乗せて貰うことにした。由紀子も競艇場の中まで付いてくるだろうなと思ったら、そのようになった。
 駐車場は、ほぼ満車で、スペースが少なかったが何とか奥に止められた。

 「うあー、変わった処。大きなプールがあって。いったい此処、何処ですの?」
 由紀子が競艇場の巨大プールに感嘆し、無邪気
(むじゃき)な叫び声を上げた。彼女にとっては、余りにも自分の世界と掛け離れた風景が、その眼に映ったのであろう。

 内心、私は、
(馬鹿か。ここはボートレース場じゃ、こんな処も知らんのか)と言いたかったが、彼女の異次元世界での育ちは、こんな処を無縁にしているのだ。

 A競艇場は、川を塞
(せ)き止めた大きなプール型の溜め池で、他の競艇場のように海等の海浜を利用して出来たものとは違っていた。
 この日の勝負は、連続二レース擦ってしまった。裏目に出て付いてない。混乱して苛々
(いらいら)していた。
 競馬、競輪、オートレース、競艇と、それぞれのスタートにはレース特有のスタートがある。例えば競馬の場合は、一斉にゲートが開いて飛び出す形になっているため、視覚的にも素人には分かりやすい。しかし競艇の場合は、作戦の展開や選手特有の思惑があって、特異なスタートがあり、これは非常に頭脳的である。そして競艇の場合は、最初の一周で勝負のケリの付く場合が多い。

 昨日のやくざ者の男が私の傍
(すば)に来て、また声をかけた。
 「兄さん、付いてないようじゃのう。ところで、今日は上玉のスケ、連れてきとるやないけ」とガラ悪く話しかけてくる。私が何処かで、上玉の女を弄
(もてあそ)び、巧妙に騙(だま)して「すけこまし」でも働いたという言い方だった。

 これを聞いた由紀子は、その男を不安そうな眼で見ながら、
 「あの方、どなた?岩崎君のお知り合い?」 
 「いいえ、知らない人です」
 「そう……」
 彼女は、初めての処に来ている為か、私の腕にすがりついて、十七、八の女学生のような好奇心でこの場を捉
(とら)え、何となくワクワクして、莫迦(ばか)にはしゃいでいる様子だった。そのあどけない女学生のような匂いを、振り撒(ま)いた仕種(しぐさ)が、また実に可愛い。
 そして汚れを知らない、純情な乙女のように無邪気だった。
 これがいつもの私の勘?を狂わしている原因かも知れないと思った。不思議と、どのレースも取れない。次から次へと、ボロ負けする。

 艇券
(ふなけん)を破るのを見て、
 「どうして破ってしまうの?」
 「外れたからです」
 新聞を読む振りをして、それを聞いたやくざ者が、
 「兄さん、今度もスッたようじゃのう」と、一々私に絡み付く。一瞬いらんお世話と思う。
 そして最終レースを迎えた。
 これで外れれば、スッテンテンである。投票場に由紀子を連れて艇券を買いに行った。

 その時、由紀子が、
 「これって面白そう。あたしも買ってみようかしら」
 「買っても、中々当たるものじゃありませんよ」
 「じゃァ、どうして岩崎君、お買いになるの?」
 螺子
(ねじ)の外れた質問に、まともに答える気持ちも起こらない。
 由紀子のこの突っ込みに一瞬ムッとしたが、彼女は初めてなのだから一々噛
(カ)み砕いて競艇場のシステムとルールを説明しなければならないという冷静さが残っていた。そして彼女は頭の何処かで、この大人の博奕(ばくち)と言う、火遊びを懸命(けんめい)に理解しようという思考が働いていたようだった。

 「あのですねェ……」
 「なあに?」彼女が、私の言葉を受けて返した返事は意外と冷静であった。
 「競艇は六漕で競うものなのですよ。連勝複式では、当たる確率が三十六分の一なのです。三十六通りの組み合わせから条件を満たすものを拾い上げていくのです。要するに、数学的確率を、各選手の今日までの戦勝成績と、その選手の癖や性格を分析して、当たると思われるものを検討します。
 いいですか、競艇は6レースまでが連勝複式で、7レース以降が連勝単式なのです。連勝単式はこれまでの連勝複式と違って、例えば1〜2と買ったら、2〜1と入っても、当選という分けにはいかないのです。一着と二着を正確に当てる必要があるのです。レース後半の方が難しくなるのです。
 更に、これにその日の天候や気温が加わります。これらを加味して当たる確率条件の高いものを冷徹に洞察します。それを更に吟味して、長年の勘と経験で、この新聞に書かれた情報を分析し、緻密
(ちみつ)な予想を立てて、僕は買うのですよ。従って、盲(めくら)買いの人より、当たるか確率が高いのです」
 分かり切ったことを一々説明するのは、顎
(あご)がだるくて面倒だ、という答え方をしていた。

 「でも、長年の勘と経験で、冷徹に情報を分析するわりには、今まで買った艇券が全部外ずれているじゃありませんこと」
 彼女の切り返しは手厳しかった。そして尤
(もっと)もだと思った。しかし、押し捲(まく)られるのも口惜しかった。

 「それはですねェ。いつもの霊妙
(れいみょう)な勘と、いつもの調子が狂っているからです」
 「変な、負け惜しみ……ですこと」と言いながら、由紀子は何かの組み合わせの艇券を買ったようだ。
 私も散々迷い抜いた末、有り金を叩
(はた)いて、固くて安全なところを買った。連続の惨敗で弱気になっていたのだ。

 投票口の小さな窓が一斉閉まり、投票時間が締め切られた。
 プール中央にある大時計の秒読みが始まった。六艇のエンジンの音が、けたたましい音を上げている。一斉にスタートを切った。艇券を握りしめて、心の中で「いけ!」と大声を張り上げていたが、僅か一週目で勝負は付いた。またもや外れてしまった。会場から、どよめきと溜め息が上がった。

 冬空の中、ありらこちらで破れた艇券が桜吹雪のように宙を舞う。これで私が、掻
(か)き集めた道場の月謝を一円残らず遣い果たした。要するに私の大事な虎の子は、全て玉砕(ぎょくさい)したのだった。

 その時、「あたしの勘、当たったみたい」と由紀子が艇券を見せた。バッチリ来ていた。素人はこれだから恐ろしい。

 中央正面にある電光掲示版に配当金が掲示され、再び会場からどよめきが上がった。約十倍の配当になった。意外な大穴だった。一度は考えついた組み合わせだったが、怖くて手が出せなかった連券である。しかし今となってはもう遅い。後の祭だった。

 「此処で待ってらして。あたし、これ、替えてきますから」
 初めての処でありながら、もうしっかりと競艇場の勝手を覚え込んでしまったようである。由紀子は交換所に向かった。
 私は、彼女を見て、私より莫迦
(ばか)に経済感覚が発達しているではないか、そんなことを思い浮かべながら苦笑を趨(はし)らせていた。やはり金持ちは、その金持ちたる所以(ゆえん)が、経済感覚の発達に源泉があるのではないか、と思わずにはいられなかった。逆に貧乏人は、その経済感覚の疎(うと)さから、いつまで経っても貧乏から抜け出せないのではないのか。そんな軽い反芻(はんすう)が、脳裡(のうり)を交錯していた。

 この時、また、やくざ者が声を掛けた。
 「兄さん、今日はツキに見放されて駄目だったようじゃのう」
 「そのようです」と、がっかりした声で言うと、
 「いい仕事があるんやが、手伝う気ないかのう?」

 この男は、実に、この事を昨日から言いたかったのである。それを辛抱強く、私が一文無しなるまで待っていたようだ。私は既に以前からマークされていたらしい。そして、一文無しになった今、私に再び声を掛けたという訳である。
 「やってみましょうか。幾らです?」
 「一日、百万だ」
 「一日、百万?」一瞬上ずった。
 「いや、半日で百万だ」と考えるように言い直した。

 ギクッとして、
(やばいな)と思いながらも、聞くだけ訊(き)いてみようと思った。
 「危ない裏仕事でしたら、《前》
(前科)ありますから出来ません。それに執行猶予が、まだ消えていません」
 「ほう、兄さん、《前》があるんかい。何やったんかい?」
 「傷害です」
 「素手でかい?」
 「いいえ、長刃
(ながどす)を持っての、一対一の果たし合いです」
 やくざ者は一瞬息の止まったような顔になった。

 しかし一呼吸置いて、
 「まあ、いい……。面白い処
(ところ)に案内するぜ。わしの後を蹤(つ)いて来な」
 やくざ者は、私をどのように理解したのだろうか。

 その時、由紀子が戻って来た。千円が一万円程に化けたという。嬉しそうな顔で答えた。この金で、後で私と食事をしようというのだ。

 私は誘われる儘
(まま)、やくざ者の後を蹤(つ)いて行く他なかった。
 しかし、由紀子をどうしょうかと思っていた。由紀子をこの場に待たせて、置き去りにすることはできない。こんな柄の悪い狼だらけの競艇場に、由紀子一人をほったらかしにしたら、攫
(さら)われることはないにしても、狼どもに絡まれて大変なことになる。あるいは啖(くら)われるかも知れない。ここには金銭欲、物欲、それに性欲が渦巻いているのだ。いい女は絡まれて、それらの餌食(えじき)になって行く。

 また彼女は、こんなところに、全くと云っていい程、免疫
(めんえき)というものがないのである。全てが鷹揚(おうよう)なのだ。彼女はこういう場所でも、人を疑うということを知らないであろう。もしかすると、人間総てを、皆善人に見ているのかも知れない。

 「渡る世間に鬼はなし」という俚諺
(りげん)通り、生まれつき良い環境に恵まれた彼女のことだ。狼を狼と見ないであろう。彼女は狼を知らない純心無垢(じゅんしん‐むく)な《赤頭巾ちゃん》なのである。
 世間知らず。環境の違うところが理解できない。そう、ある意味で理解できないということは実に美しいことだ。
 天真爛漫
(てんしん‐らんまん)で、純情な、天使のような魂は、最初から悪を理解する能力を持たないのである。だから私の傍(そば)から離れて、万一のことがあったら大変だと思っていた。それで彼女も連れて行くことにした。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法