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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 14


●特攻隊の決意

 案内された場所は、この競艇場の地下室であった。
 重い鉄の扉を開けて中に入った。更に、奥に鉄の扉があり、そこに後ろ手に組んだ歩哨
(ほしょう)の制服姿のガードマンが一人立っていた。
 由紀子は、この場所をギャング映画か、何かに出てくる秘密の場所ではないかという風に、好奇の眼で捕らえていたようであった。

 別に恋人のそれではないが、彼女の人なっこい性格は、私の腕にしっかりと縋
(すが)り付いていた。それはあたかも、お化け屋敷にでも入って、その中を見物する時のように……。

 またこの時、そこはかとなく忍び寄る、共犯者じみた感情が、どちらともなく顔を見合わせて、戯
(おど)けたように微笑を交わし、あるいは、蹤(つ)きつ、離れつの、為体(えたい)の知れない怕(こわ)いもの見たさの心境が、由起子に取り憑(つ)いていたのではあるまいか。ハラハラ、ドキドキのそんな感情が、由紀子にあったに違いなかった。彼女は生まれてはじめて、未知なるところに踏み入れたという、初めての経験を感得しているようであった。

 そして二人は、これだけで曾
(かつ)てないほどの近さに導かれて行くようであった。彼女との仲が、ぐーんと縮まったような感覚を抱いた。運命の陰陽を操る何者かが、私をこのように導いているのだろうか。
 その時私は、何者かに操られているのではないかと言う知覚を、うっすらと感じていたのである。

 二人はやがて、迷路の行き詰まりと思える部屋に通された。そこはアコーディオン・カーテンで間仕切りされ、その部屋の向こうに、誰か居るようであった。

 やくざ者は、その中の人物に、私を会わせようとしていたようだ。そして、私だけを中に入れようとした。

 「ねぇちゃんは、外で待ってな!」と、由紀子だけ中に入ることを
(こば)まれたが、
 「いや、この人も一緒に入れてやって下さい」とゴリ押しした。
 「このねぇちゃん、兄さんの何やねん?」理に合わない事を承知で押し通す私に、些
(いささ)か不満の仏頂面(ぶつちょうづら)を示し、やくざ者はこう切り返してきた。
 「僕の婚約者です。一身同体ですから、絶対に他言はしません」私はすかさず、こう応えていた。

 「ほおッー、婚約者ねエー」と、不釣り合いなカップルに、一瞬意外な切り返しに躊躇
(ちゅうちょ)しながらも、最後の駄目押しに期待を繋(つな)ぐと、「ほんなら、しゃあないなア……」という言葉が返って来た。私の駄目押しに、半ば諦めたような態度であった。そして二人とも中へ案内された。

 この時、由紀子は、私が口から出任せに「婚約者」といった言葉を、どんな顔をして聞いていたのだろうか。

 「君の噂は、よう聞いとる」
 中にいた男が、ふてぶてしく言い放った。その言葉の裏には
(あんたは大した悪党だ)と言う刺々(とげとげ)しさがあった。私の選挙ブローカーとしての噂は、この男の耳に入っているらしい。

 その男の眼には、水銀のようなキラッリと炯
(ひか)る、冷たい光沢があった。根性が坐っていて、何処か筋金が入っていた。海千山千の老獪(とうかい)さが滲(にじ)み出ていた。それは現世と言う、せちがらい世の中の裏も表も知り尽くしていて、まさに蛇のしたたかさを思わせた。
 そして、和紙で出来た派手な大判の名刺を私に指し出した。名刺には、『B警備保障株式会社・代表取締役社長、佐々木慶太郎』と書いてあった。恐らくこれは表向きの肩書きであろう。

 「頼みは政治のことだ」と、予想した通りのことを切り出した。
 私には、既に予期した事であった。
 「それを私は一体どうすればいいのでしょうか?」
 「なアーに、簡単な仕事だ。しかし、手慣れたあんたしか出来ん仕事や。整理券を朝9時から夕方5時まで、配ればそれで終わりだ」
 「それだけ百万円も頂けるのですか?」
 「ちと、多いが、残りはあんたの道場への寄附
(きふ)と思ってくれ。では、やってもらえるかな……?」訝(いぶ)かしさを相半ばして、私に返事を迫った。

 毎度の事だか、この手の仕事は一瞬躊躇
(ちゅうちょ)を覚えた。
 「はあ……」と、やや心許
(こころもと)無い返事をした。
 「どうだね?!」この駄目押しに引っかかった感があった。私の眼を、キッ!と睨
(にら)み付けて動かそうとしなかった。私はまさに蛇に睨まれたカエルであった。「選挙違反の裏仕事をやれ」と言う犯罪を強要されているのである。

 「分かりました、その程度の仕事なら引く受けましょう」
 これは売り言葉に買い言葉であった。最早
(もはや)こうなったら仕方ないと言う妥協があった。
 そして承諾しまっていた。
 しかし暫
(しばら)くして、内心は「しまった」と思った。既に承諾の意志表示をして、全ては終わってしまっていて、今更、取り消すとは云えなかった。

 特攻隊とは、ズバリ選挙違反を請け負って、依頼者に一切の助けを求めず、それを個人的に消化する事であった。仮に官憲に逮捕されても、その出処は絶対に洩らさないと言うのが掟
(おきて)であった。万一逮捕されれば、官憲の脅(おど)しと拷問(ごうもん)に耐えなければならない。それは今日では想像も付かない過酷なもので、不眠と心理戦に大いに苦しむ結末が待っていた。当時の警察の捜査二課は、そんなに甘くはなかった。それだけに、依頼者の佐々木慶太郎は「あんたしか出来ん仕事や」と言い捨てたのである。

 私は金に転んだ観
(かん)があった。何よりも、「その程度の事なら」という安易な言葉が、それを証明していた。毎度の事ながら、私の言動には甘さがあった。
 結局、百万円の金と、簡単という内容で、具体的な内容も詳細に聞かず、これを受けることになり、此処を由紀子と二人で出た。

 この依頼は、はっきり言うと選挙違反の裏仕事の依頼であった。それを思うと、一抹
(いちまつ)の不安が付き纏(まと)う。何かしら、空恐ろしい「勘」というものが働く。既に、しくじって、官憲に逮捕された時の事を予期したのかも知れない。あるいは小心者の所以(ゆえん)だろうか。

 悪党の私の毒を、その上の悪党が利用し、ダシに使って、悪党の上前を撥
(は)ね、更に使いこなすという悪魔的発想が、この依頼の中には窺(うかが)われた。
 由紀子は、まだこの時、私の選挙ブルーカーという裏稼業のことを知らなかった。

 駐車場に行った時、殆どの車は既に去った後で、由紀子の赤いフェアレデがぽっんと残っていた。二人は一先ず、黒崎に戻った。
 車を駐車場に入れて、私は近くのレストランに彼女を誘った。

 今はないが、当時は『フジシマ』という名前が付いていた高級レストランがあった。そこの店は静かな趣味の良い、クラシックのピアノの引き当たり流れていた。
 私たち二人が、店の中に入ろうした時、私の異様な姿に気付いたウエーターが慌
(あわ)てて飛んで来て、
 「当店は、革靴以外の御客様は入れないことになっております」と待ったをかけた。

 私はこれに何の怯
(ひる)みも見せず、冷静を装って、
 「僕の足も人間の皮で出来ていますから大丈夫です」と訳の分からない事を言って、ウエーターの肩をポンと叩き強引に店内に入った。

 ウエーターも、私の訝
(おか)しな言い掛りとも見える狂暴な?言動に、これ以上何も言えないようだった。私に殺気のようなものを感じ、逆らわない方が賢明と考えたのであろうか。

 店内に居た品の良い紳士淑女の客たちが、私たち二人に注目し、興味深げにジロジロと見る。恐らく奇妙な取り合わせのせいであろう。
 この私と彼女のアンバランスな二人の服装は、人を振り向かせるだけの威力があったらしい。興味津々
(きょうみしんしん)という客たちの目付きは、私たち二人を不思議そうに見ていたのである。
 (どうしてあんな訝しな奴が、上品な美人を連れているのだ?奴とは、一体どういう関係なのだ?)という風な懐疑(かいぎ)の眼が、二人に注がれていた。

 身なりも、彼女は言わば知的さを象徴するような訪問服のような小粋
(こいき)な紺色のスーツにピンクのブラウスの幅広の襟を出し、教養と気品に満ちた美貌の持ち主である。私がそれに相応しくなければ訝しいのである。
 だが、彼女とは桁外
(けたはず)れに違っていた。このギャップは実に大きい。私の姿は、誰が見ても、こんな店とは無縁のドブ鼠(ねずみ)のような、捻り鉢巻きの方がよく似合う日雇い人夫スタイルである。この奇妙な取り合わせを周囲の人たちは、これをどう穿鑿(せんさく)していたのだろうか。

 優雅な仕種
(しぐさ)で席に着いた由紀子が、
 「岩崎君て、大人しいように見えて、本当はライオンや虎のように獰猛
(どうもう)で、狂暴なところがありますのね」
 「いや、普通ですよ。僕を狂暴といったら、犬や猫でさえ獰猛な肉食獣になりますよ」
 「岩崎君から見てライオンや虎が、犬や猫じゃありませんの?」こういって彼女はクスクスと笑った。
 こんな冗談のような会話をしている時、高給レストランを裏付けする、品のいい接客訓練が行き届いたウエイトレスが、いかにも物慣れた微笑を湛
(たた)えてオーダーを取りにやって来た。

 「僕は、この店で一番高いフランス料理のフル・コースにします。あなたにもおごりますよ」
 「でも、岩崎君。競艇場で全部お金使ってしまって、一文無しじゃありませんの?」
 「安心して下さい。お金はちゃんとあります」

 これは私の見栄である。
 私は、この店でツケをする覚悟でいた。そんなことは通らないかも知れないが、その時はその時だと思っていた。所謂
(いわゆる)私の劣等感から、困窮する貧乏人ではないという意地を、彼女の前で張ったわけである。そして、二人とも同じ、フランス料理のフル・コースにした。

 息巻いて、恰好
(かっこう)を付けたまでは良かったが、私は全くこの料理のテーブル・マナーを知らなかった。訳の分からないスプーンとホーク、それにナイフが数々並べられた。次から次にスープなどがどんどん出されて、客席係のウエーターが、各々の名前を一々いって説明してくれる。

 「僕はテーブル・マナーを知りません。好きなように食べますので笑わないで下さい」
 「お料理なんで、それでいいのですわ。食べる人が、美味しく食べればそれでいいのですよ。テーブル・マナーも、日本人が作った、勝手な盲信が入っていることが多いのですよ。そんなこと気にしなくていいですわ」
 そして、幾らかの知的な会話を楽しんだ。その会話の中で、忘れたかに思っていた言葉が飛び出した。

 「競艇場の地下室で言ったこと、本当ですの?」
 「何が……?」
 「婚約者て言ったことよ」
 私はこの言葉に狼狽
(ろうばい)し、口に含んだ物を咽喉(のど)に支えさせそうになったが、何とか飲み下し、
 「気にしないで下さい。あれは緊急の場合の口から出任せです。気分を悪くしたら許して下さい。僕の失言でした。不愉快でしたら許して下さい。第一、僕があなたの婚約者になれる筈
(はず)がないじゃありませんか……」と、ふてぶてしく逃げ口上(こうじょう)を言って、改めて座りなおし、頭を下げて、お詫びの意味の許礼(きょれい)をした。

 それで納得したのかどうかは分からないが、彼女が世界の違うお嬢様と言うことで、私を分相応な、然
(しか)も従順な人間にしていた。所詮(しょせん)彼女とは、一期一会(いちごいちえ)の間柄なのである。そう思った瞬間、彼女との会話が止まった。

 彼女は小さい時から、このような料理のテーブル・マナーを教育されていると見えて、食べ方が美しかった。
 レジで勘定を済ませる時、彼女は私に黙って三万円さし出し、これを使えと言うのだ。私が既に一文無しと言うこと見抜いていて、恥をかかせない為の、私に対する思いやりともとれた。

 私はこの日を機会に、博奕事
(ばくちごと)は一切辞めてしまうが、この辞める切っ掛けを作ったのは、この日の彼女の思いやりが、骨身に沁(し)みたからである。どうやら私は、戻り道のない一方通行の地獄道から、奇跡の生還をしたようだ。

 私はこれに勢いづいて、食後の口直しと称して、由紀子をお茶に誘った。しかしこれとて、行きつけの馴染みの店がある訳ではなく、行き当たりばったりの気持で、何処か知らないが、それらしい店に飛び込んだ。

 ドアを開けて中に入った途端、二人のアンバランスな格好を異様な眼で見た、店の主人だか、あるいは店員だかは知らない男が、私にちらりと鋭い一瞥
(いちべつ)を投げた。
 この男は「いらっしゃいませ」の一言も言わず、私を突然不愉快な気持に陥れた。この店は、客の誰をも、このような、冷たい持て成しで出迎えるのだろうか。あるいは私の、皮ジャンに雪駄履きという、この服装が「いらっしゃいませ」の一言も言わせない原因をつくっているのだろうか。
 客を見て、ものを言っている言動が、その態度から容易に窺
(うかが)われた。

 (何と愛想の悪い店だ)という感想を持ちながら、二人でカウンターに腰を降ろすと、黙って水の入ったコップを出し、
 「何になさいますか?」と無愛想な訊ね方をした。
 「コーヒー下さい」
 店の主人だか、店員だかは知らないこの男は、一層不機嫌な表情を露
(あらわ)にさせて、
 「うちは紅茶専門店なんです。表の看板をよく見てから入って下さいよ。表には《ティー・ルーム・カジキ》とあつたでしょ」

 その不機嫌な態度から窺
(うかが)えることは、(あんたのような場違いの田舎者は、何も分っちゃいない)という言い方であった。私の日雇風の服装から判断したようにも思えた。
 一瞬これにムッときた私だったが、隣に由紀子の居る手前上、軽々しく怒ることも憚
(はばか)られ、苦笑いを走らせながら、
 「要するに、ここは《通
(つう)》の店ですね」と言ってやった。すると、「そうだ」と言わんばかりの表情で頷(うなづ)いた。

 「じゃあ、仕方ない。紅茶にしましょう」
 「では、紅茶は何になさいますか?メニューはこちらに出ておりますので、お好みのものをどうぞ」
 こう言われて、前方のマホガニー色の板壁を見上げると、私には全く訳の分からない色々な国の紅茶の銘柄
(めいがら)が英語で書かれていた。その何処から何処までが気障(きざ)に、気取り通していて、「紅茶通の店」という印象が滲(にじ)み出ていた。このメニューから由紀子は素早く、自分の好みのものを探し出したようだった。

 「あたしはインド産のアッサムセカンドフラッシュに、ミルクを入れたミルクティーを頂こうかしら」
 「お嬢さんはスモーキーな甘い香がお好きなのですね。ミルクティーだと渋味の中に、よりコクのある香が引き立ちます。実に《通》でいらっしゃる」
 男が私をあざ笑うように気障
(きざ)な言葉を吐いた。

 私は
(何んば言いよるとかー)と博多弁を沸々とさせながらも、一方では苦笑いを噛(か)み殺して、「じゃあ、僕は《通》でないから、お勧めのものを、何でも構いませんからお願いします」

 これに店の男は、「折角
(せっかく)うちの店にこられたのですから、ご自分で何か、銘柄の一つでも選ばれたらいかがですか?」
 この男は、どうやら由紀子の前で、私に大恥をかかせるつもりではないかという、勘繰
(かんぐ)りのような気持が湧き起こっていた。
 どことなく、何から何まで癪
(しゃく)に障(さわ)る男である。歯車が噛み合わない嫌なタイプの人間であった。心の片隅で訳の分からない腹立たしい気持が頭を持ち上げて来た。
 私の欠点は、直ぐに堪忍袋
(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れてしまって、カッとすることなのである。短気なのである。若気の至りなのだろうか。
 しかし由紀子を横にして、そんな衝動に駆られても、大人げないと思われて、最後に嘲笑
(ちょうしょう)されるのは私の方である。

 そのムッとした気持を抑えぎみにして、やや冷静を装って、
 「じゃあ、日東紅茶ください」と言ってしまった。
 私の紅茶の銘柄といえば、テレビのコマーシャルでしか見たことのない、あの紅茶会社の名前であった。

 カウンターの中に居た男は、手に持っていたティー・カップを一瞬落としそうになりながら、
 「えッ?!日東紅茶ですか?」と予期しない注文にその返事を訊
(き)き返した。
 「そう、日東紅茶!」
 この断定的に言い切ったような注文に、由紀子は何かが相当に可笑しかったらしく、口に手を当て俯
(うつむ)き加減に、クスクス笑い出した。
 「日東紅茶?」そう訊き返した表情は、呆れて、開いた口が塞がらないというような顔つきで、再度改めて訊き直した感じだった。

 「ご存じありませんか?あのティー・パックに入ったやつですよ。上の方に糸のような紐
(ひも)が付いていて……」

 由紀子は私の腕を軽く叩きながら、「もう、イヤ」という表情で、その可笑しさに我慢が出来ないという仕種
(しぐさ)を続けていた。彼女の性格は“笑い上戸(じょうご)”であるらしい。店の男を困らせてやったことで、今までの腹立たしさが若干薄らいで、少し愉快になってきた。

 「要するに、国産の普通のやつでいいということですよ」と、これ位で勘弁してやろうという気でいた。男は、苦笑して、しきりに首を傾げながら、「参ったなー」という表情を見せた。

 「では、ミルクになさいますか。レモンになさいますか。それとも爽やかさをプラスして、ハーブバリエーションでキャットニップになさいますか?」
 「ウィスキー」
 「えッ?ウィスキーですか……」
 「そう、ウィスキー!」
 「まあ、ご注文とあればやりますがね……」と、何処か納得がいかないという風な顔つきで、しきりに首を捻った。
 この男が何事につけ、首を捻るのは、どうやら癖のようなものであるらしい。

 このやり取りを見て、由紀子がまた俯
(うつむ)き加減に笑った。どうやら私のピント外れのギャグに、笑いは止まらないという様子であった。この店の格調高いイギリス風のティーマナーは、私一人に掻き回されていたようであった。



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