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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 21


●収監

 悪い予感ほど、よく当たるものである。翌朝午前6時頃、官憲の捜査の手が回った。
 以前から選挙ブローカーとして、既に警察にマークされていたのだ。
 そこを寝込みを襲われたのである。

 朝ぱらから捜査課の刑事が来て、参考人として出頭を命ぜられた。母には何でもないから直戻るといって、彼らに同行した。
 私の両腕を側面からガッチリと二人がかりで掴み、車の後ろの座席の真ん中に、挟むようにして押し込められた。手錠こそ掛けられなかったが、まるで凶悪な犯罪者のような不当な扱いだった。

 昨夜のうちに、ワラジを履くべきだった。旅に出るべきだった。身を晦
(くら)ますべきだった。温泉にでも逃げておけば良かったと後悔した。しかし由起子の幻影が、それを鈍らせ、後ろ髪を引いたのだった。

 車は、Y警察署の裏側の駐車場に止められ、容疑者を連行する通用門から中に入った。取調室に連れていかれ、共犯者と依頼主の名前を言えと、半ば脅迫
(きょうはく)めいた口調で脅(おど)された。しかし、推測の範囲を出るものではなかった。

 取調べは、この日の午前中一杯続いたが、どうやら私を起訴する有力な証拠がないらしい。帰る時、明日も任意出頭を命ぜられた。何か帰る時、不安な予感が付き纏
(まと)った。
 そんな不信を抱きながら、この日は道場に向かったが、万一のことを考えて、違法選挙で稼
(かせ)いだ金を道場の雨漏り等の修理代に当てるため、一旦この金を指導員の大谷に預け、近日中に修理するように命じた。残りは道場の運営資金にせよと指示したのである。

 ─────収監される一日前の、そんな時に由紀子から電話が掛かって来た。
 裏仕事とを働いた、昨日のことが、彼女は何となく気に掛かって仕方ないというのだ。今から逢えないだろうかという。私への叱責
(しっせき)が、まだ足りないのだろうか。あるいは、私が仕掛けた、離れ離れになる「すれ違いの恋の方程式」に、由紀子も私も絡められているのだろうか。
 そう想うと、何故か切なさが募った。事態は逼迫
(ひっぱく)しているものと思われた。

 私は指導員に後を任せて、一先ず道場を開けることにした。行きつけの、指定した中央町の喫茶店で落ち合い、それから彼女を食事に誘った。二、三日の、先行き短い一時
(ひととき)を贅沢(ぜいたく)する金くらいは充分に持ち合わせていた。人間は金を持つと何かしら、積極的になり、大胆になり、強引になるらしい。その金が、況して泡銭(あぶくぜに)から派生したものであるとなると、尚更(なおさら)だった。

 彼女を誘った店は、以前私がこの店で休みの度に、高校時代、時々博多から帰省する度にアルバイトをしたある小さな料理屋であった。この店で、私は随分と日本料理の腕を仕込まれたことがあった。何となく懐かしくなって、この店に彼女を誘ったのだった。

 店の中へ導く飛び石には、水がまかれてしっとりと苔産
(こけむ)した風情が、「わび」と「さび」の世界を醸(かも)し出していた。
 入口の、戸口へと誘
(いざな)う短い通路の両側には、竹林を思わせる竹や笹の植込みがあり、緑の葉を照り返しの街灯の下で輝かせていた。そしてそれらは生垣の美しさを瑞々しく湛え、それが風にサヤサヤと鳴っていた。
 そこには、こじんまりと纏
(まと)まった、数寄屋(すきや)造りの、離宮の重みを思わせる佇(たたずま)いがあった。

 戸口の開けて中に入ると、入口近くの生
(い)け簀(す)には、右手に淡水の小魚が入れられ、沢山の泥鰌(どじょう)が水槽の所々で一団の塊(かたまり)をつくり、群れるように賑(にぎ)あっていた。また左手の一回り大きな生け簀には、真鯛(まだい)や黒鯛(茅渟鯛/ちぬだい等の高級魚が悠々(ゆうゆう)と泳いでいた。

 この店の主人は、庭の造りや店内の内装迄を自らの手で手懸
(てが)け、隅々に至るまで自分の設計であることを誇らしげにしている人であった。
 凡
(おおよ)そ、日本の造園術や寝殿造(しんでんづくり)が、中世の歴史上の名の有る隠遁者(いんとんしゃ)の権力そのもの具現であるのと対照的に、ここに具現されているのは鄙(ひな)びた山寺の枯山水(かれさんすい)を思わせる簡素な数寄屋造(すきやづくり)の佇(たたずま)いであった。

 「いらっしゃいませ」という掛け声と同時に、私の顔を見るなり「おう、随分と珍しい人のお出でましじゃなか」と店の主人が、昔を懐かしむような声を懸けてくれた。
 時間が早いせいかい、まだ客は一人もおらず、がらんとしたカウンターに隣り合せで由紀子と席に着いた。そしてまずは、ここの名物の「泥鰌
(どじょう)の踊り喰(ぐ)い」を賞味することであった。

 私は、由紀子の注意を引こうと無意識な行動に出ていたのかも知れない。恐らく「柳川
(やながわ)」という、食した経験のない彼女に対して、この「泥鰌の踊り食い」は興味津々(きょうみしんしん)のものであったと値踏みしたのだった。
 店の主人がカウンターに、泥鰌の入ったグラスを差し出した。グラスの中では五、六匹の泥鰌が一点を軸に群れ合っていた。
 まずはこれで乾杯という訳であろう。主人は、これをグラスの水と同時に飲むようにと勧めるのである。一瞬驚いて躊躇
(ちゅうちょ)した由紀子に、このグラスの中の泥鰌は、二、三日泥を吐き出させたので安全だと、何度も念を押すように言った。

 「これを、この儘
(まま)飲んでしまうの?」何だか可愛そう、というような顔をして、彼女は私にこう訊ねた。
 「そうです、こうやってね」
 私は手本を示すように、一気に飲み込んで見せた。

 これを見た由紀子は驚愕の表情の儘、
 「あたしも同じことをやるの?」と
(真逆(まさか)……うそ)という表情を崩さない。
 「そうです。今更、頭を捻ってみても仕方がないでしょ。ただ単純に飲み干せばいいのです」
 「えーッ?」
 だが、由紀子は何処から手を下していいものか、まだ決心がつかないでいるらしい。
 「さあ、お嬢さんどうぞ」
(今度はあんたの番だ)と言わんげに、躊躇している由紀子に、主人が勧めた。そこには、《駄目だ》と言おうものなら、タダでは済まないぞという、店の威信を賭けた顔があった。

 これに堪忍したのか、由紀子は怖々とグラスを口に付け、飲み込んだ。飲み込む際に少し咽喉
(のど)につかえて噎(む)せたせいか、うっすらと目に涙の跡が窺(うかが)えた。その彼女の顔には、初めてのものを口にしたという驚きと、無理にでも取り乱すまいとする婉然(えんぜん)とした微笑みが交互に交差していた。そしてやがて、それが一色に落ち着いた。

 此処で小一時間ほど柳川鍋や魚料理などを堪能
(たんのう)した後、今日の彼女の逢いたいという第一の目的が達せられたように思えた。その目的は私の安否だったらしい。

 人間、腹が膨れて満足すれば、次に手を出すのはアルコールであるらしい。これは私個人の流儀であるかも知れないが、私は腹が一段落すると、酒の力を借りないと一日が終わったような気がしないのである。酒の力のよって、明日への第一歩を踏み出すのである。
 彼女を次に誘ったところは、時々足を運んでいたカクテルバーであった。

 店内は煙草の煙が靄
(もや)のように霞(かす)み、洋酒党の酒好きが詩作に耽るように、思い思いの一時(ひととき)を過ごしていた。
 サム・テイラーのサックスの気怠いジャズ調の音楽が、煙草の煙で煤
(すす)けた店内の内装とよく調和していた。カウンターに腰を掛けると、初老のバーテンダーが、「いらっしゃいませ。何になさいますか?」という、いつもながらの声を懸けた。
 私はいつものようにブランディー・ベースのジンジャーエールを適量に加えた、ブランディー・ジンジャーと答え、由紀子にはドライジン・ベースのグリーン.ペパーミントの青い珊瑚礁
(さんごしょう)を注文した。

 こんな時、青い珊瑚礁は、まあ妥当な婦人同伴をした時の注文であろうが、ブランディー・ジンジャーは酒好きの、それを中国語に要約するならば《通串飲酒》であり、酒を串に通して飲むという直訳が浮かび上がってくる。
 しかし日本語的に考えれば、ハシゴというイメージにも似ている。その意味でこのハシゴという言葉から窺
(うかが)えることは、辛い宿酔(二日酔い)の明日への悪夢をイメージさせるものであった。

 その時、由紀子が一枚の壁に掛かった絵に気付き、
 「あの絵、もしかしたらマリー・ローランンじゃないかしら?」
 「そうですよ」
 「へッ…、素敵な絵」
 フランスの女流画家マリー・ローランン
Marie Laurencin/1883〜1956)は最初キュビスム(点・線・面で幾何学的の再構成)を手掛け、のちに装飾風フォーヴィスム(色彩・線条・形態の配合・調和)に転じた画家である。
 由紀子の言葉には何かを思って安堵
(あんど)し、何かを嗅ぎ分けて懐かしさに耽った、数年前を回顧させる気持ちが込められていた。
 「覚えていいますか、福岡美術館のことを」私は懐かしさを込めて言った。
 「ええ」
 それ以上由紀子は、何かに満足したかのように何も答えなかった。

 私は、間歇泉
(かんきつせん)が噴出するような勢いでブランディー・ジンジャーを重ねていた。それは太く短い定められた時間内に、少しでも早く燃焼しようとする裂帛(れつばく)の気合いが込められていた。

 「岩崎君を見ていると、まるで帰りを急ぐ渡り鳥みたい。何かに、随分と自棄
(やけ)になっているみたいですわ。違うかしら……」
 その先は続けないが
(本当はどうなの!違うかしら?)という問い詰めに近い訊き方であった。

 一体私が何処に帰って行くというのだ。もしかしたら、彼女はその行き先を知っているのではないかという、勘の良さに警戒を示さずにはいられなかった。
 「僕は帰りを急ぐ渡り鳥ですか、これはいい……」
 私は自嘲
(じちょう)ともつかぬ、わざとらしい苦笑をして、本心を見抜かれないように微笑を作った。
 「話を反
(はぐ)らしちゃ駄目!」
 昨日と同じ様な叱責するような眼があった。

 「今晩ここで、明日の朝まで飲み明かしませんか?」
 これに対して彼女は暫
(しばら)く返事をしなかった。そして思い出したように切り出した。
 「本当に、何処か遠くに行ってしまうの?」
 彼女の突然に切り出した質問は、私に空しさを押し付けた。今宵
(こよい)の私が異常であろうが、正常であろうが、そんなことは私にはどうでもいいことであった。明日までの短い一時(ひととき)を、此処で全て燃焼することに賭(か)けていた私には、彼女の質問が愚問のようにさえ思えていた。

 「それは僕が、何処か異常ということで訊いているのですか?」
 「異常というより、何処か危なかしくて訊いているだけですわ」
 「世の中の常識派の人に比べれば、僕は完全に異常者ですよ。異端者ですよ。決して正常でもなく、世間風の常識も持ち合わせないのが僕の実体です。そんなこと、今頃気付いたのですか」
 自分でも驚くような、たちの悪い皮肉だった。
 「今日の岩崎君、本当にどうかしている……、何かあったの?」
 私はこれを否定もせず、肯定もしなかった。世の中には適度な自らの本分を守り、常識派といわれる人が余りにも多い。

 それは恐らく、可もなく不可もなくの、無力な善人に適用された言葉であろう。そのために私のような少数派に属する異端者は、何処までも隔離され、スーパー・アウトロー的な譏
(そしり)を受けて、何者からも警戒される運命にあるのではあるまいか、という疑念が趨(はし)っていた。
 しかし私はこれに、あえて否定する気持ちはなかった。本
(もと)を正せば、その持って生まれた宿業(しゅくごう)は、極めて超過激なスーパー・ウエポンのような、異端分子であったからだ。ある種の、金で雇われる鉄砲玉である。

 私は微かな辟易
(へきえき)を覚えた。この時、遊び女には不自由していなかったが、何か今夜は由紀子が無性に欲しかった。由紀子の艶(なま)めかしい肉体が頭の中を空回りしていた。ラブ・ホテルに誘うかどうか迷っていた。しかし、切り出せなかった。まだ世間風の常識は腐っていなかった。

 由紀子と情愛を交わしたいと常々思いながらも、彼女の高貴な気高
(けだか)さに打たれて「片思い」の儘で、踏み止まっていた。嫁入り前の娘に手を出して、彼女の両親の失望を買うこともあるまいという冷静さが、僅かに残っていたのであった。

 そうこうしているうちに、彼女が言葉を切り出した。
 「もう遅いから、今晩はこうけれで……」
 彼女のその言葉で時計を見たら、まだ午後9時前であった。

 私は、
(まだ、宵(よい)の口の9時前ではないか。少年少女のお行儀の良い夜間外出であるまいし、何をそんなに急いで帰る必要があるのか)そんな穿鑿(せんさく)を走らせながら、これから長い今宵をどのように過ごそうかと思案に暮れていた。私も潔(いさぎよ)く彼女の言葉に従うしかなかった。やはり彼女は、手の届かない遠い存在のように思えた。そういう意味で、彼女は箱入り娘なのだ。
 簡単に「すれ違いの恋の方程式」は功を奏しないものだ。本当にすれ違いになり、最後は離れ離れの結末で終わる、そんな終りを象徴していた。

 私は、「さようなら」を言って、彼女と此処で別れた。
 私の「さようなら」は、もう二度と裟婆
(しゃば)の景色にお目にかかれないかも知れない、再び逢う事の無い「さようなら」であった。彼女がこれを何処まで理解したか知る由(よし)もない。
 私は思っていた。ささくれ立っている今のうちなら、何の躊躇
(ちゅうちょ)いもなく、何処にも行けそうであった。どんな罰でも恐れるに足りない気持ちであった。例えそこが刑務所であっても……。
 そして彼女との仲は、今晩をもって、もうこれで完全に終了したと諦めた。


 ─────次の日の朝、雪駄
(せった)を履(は)こうとしたら鼻緒が切れた。

 一瞬不吉な予感が脳裡
(のうり)を翳(かす)めた。これは悪い予感を暗示させるものであった。要するに悪いツキばかりに絡まれているような予感があったのである。再び、Y警察署の捜査二課に出頭した。
 この日も昨日同様、事情聴取をされて、直に帰されるであろうと甘く考えていた。

 しかし驚くことは、この出頭と同時に選挙違反の重要参考人として身柄を拘束されたのである。身柄拘束の令状が、昨日のうちから密かに裁判所から用意されていたのである。自ら捕まりに行ったようなものであった。間抜けだった。先を読めなかった軽率さがあった。

 身柄拘束のための拘束状は、選挙における買収行為と、その違反行為の容疑であったが、その時の詳しい内容は、よく覚えていない。いつの間にか、参考人が重要参考人となり、既に容疑者として扱われる破目になっていた。完全な証拠がないから、まだ容疑者としての呼び名が使われないだけのことであった。

 私の手には、その場で手錠がかけられ、躰
(からだ)の前後は太い縄で腰が縛(しば)られた。収監である。早速、取調官と捜査課の若い刑事に付き添われて、強引に取調室に押し込まれた。

 作業は取調調書から始まり、取調官が私の口答を調書に筆記していく。氏名、生年月日、住所、本籍地、職業等の申告から始まった。次に躰の特徴が記録される。身長や体重はも勿論の事、その肉体的特徴なども全て申し出なければならない。そしてこれらが終わったところで、容疑内容の核心に迫っていくのである。
 この作業は、中々時間のかかるものであった。少しでも取調官が誤字などをおかして書き方を間違うと、一字訂正、一字挿入の訂正書きが調書上部に付け加えられ、長時間に亙
(わた)って行われた。だから取調官の筆記速度が遅いと最悪であった。途中、昼食を挟んで、更に続けられた。

 取調室は四方がコンクリートの厚い壁で覆われた、脱走不可能な三畳程の堅固な部屋で、天井は高く、飛び上がっても届かない上の方に30cm四方の小さな窓があり、その窓には鉄切り鋸でも容易には切断できない鉄格子がはまっていた。その窓から差し込む陽差しは長く傾斜をし、もう既に時間が黄昏時
(たそがれどき)であることを教えているようだった。

 その斜めに傾いた陰気は陽差
(ひざ)しは取調官の肩辺りを照らし、その影は、更に小さな部屋の壁に届いて淀(よど)んだ。調書の作業が遅いので、私は時々退屈紛れに辺りを見回す余裕が生まれた。見回しても、これといった変化はなく、見回すことで、これから先のことを思い悩むのであった。
 こうなった以上、俎板
(まないた)の鯉(こい)であるが、自分に何か重大な罪があるのではないか、という不思議な懸念(けねん)に駆られた。此処には不思議と、人間の人格と信念を崩壊させる疫病(えきびょう)のような何かがあった。理由もなく良心が萎縮(いしゅく)して、囚(とら)われの身の恐怖が、己自身を破滅に導くのである。

 私は崩れ落ちていく己の心と戦うことで必死であった。そして共犯者と依頼主の名前だけは、絶対に喋らなかった。
 取調官が、そこに触れてくると、黙秘権を行使して、頑
(かたく)なに貝の如く、口を閉ざした。

 私のこの態度に、痺
(しび)れを切らした取調官が、
 「お前は、中々強情
(ごうじょう)な奴やのう。全部、吐いて、早く楽にならんかい!」等と、机を掌(てのひら)で激しく叩いて怒鳴った。それでも私は、取調官が確信に迫ってくると惚(とぼ)けていた。それは依頼主への忠誠心ではなく、共犯者になってしまう大谷の身を庇(かば)ったからである。
 夕方、食事が終わった後で、指紋、手形、写真、前科歴を確認された。写真、指紋、手形はここでも取られた。
 そして写真を撮られる時、不図
(ふと)学生時代、野仲という悪友と、H警察署の留置所に入つた時のことを思い出していた。


 ─────学生時代のことである。
 当時は共産主義の嵐が巷
(ちまた)を襲っていた。
 猫も杓子
(しゃくし)もプロレタリア階級闘争に入れ揚げていた。ブルジョワ粉砕を叫び、階級打破の精神を掲げることこそ、最先端を行く進歩派の共産主義青年を代表するインテリ学生と思われていたからである。

猫も杓子もプロレタリア階級闘争に入れ揚げた時代。そこには常に暴力と破壊の嵐が渦巻いていた。そして、この暴力と破壊こそ、階級闘争のシンボルであり、これこそが正義であると、若者の誰もが、信じて疑わない一世風靡(いっせいふうび)の熱病があった。また、その時代は「全共闘」が猛威を奮った時代であった。階級闘争において、暴力こそ正義と信じられていた。

 アメリカ帝国主義粉砕、国家権力の打破は、当時の若者の共通したスローガンであった。そして革命という暴力こそ、階級闘争における「正義」であると信じられた時代であった。
 当時の学生の多くは、他人や周囲から賢く思われるために、カール・マルクスの『資本論』に書かれた単純労働の理論を、社会システムの最高の理論と信じて疑わなかった。
 誰もが学者気取りで、時代の流行に乗り、唯物弁証法を口にし、革命分子として、個人よりは、全体としての全体主義的思考で物事を捉え、共産主義礼賛
(らいさん)に惜しみないエールを送っていた。

 モスクワ放送の『プラウダ』や、中共の『人民日報』の、日本人向けの短波放送に耳を傾け、大企業の粉砕を叫び、アメリカを植民地主義・帝国主義を、悪
(事実ユダヤのマスコミを操作する画策がなければそうであるが)の最たるものだと極付け、一時的な熱病にかかったように「反戦」を高らかに謳(うた)い上げた。しかし、ここには大きな矛盾があった。それは反戦を標榜しながらも、一方で暴力革命を肯定していたのである。
 そして誰もが、国際ユダヤ勢力の画策によって作られた虚構理論に入れ揚げ、画策され、騙されているとも知らず、共産主義者を模倣するしかない刹那的な時代の、その縮図の真っ只中にいたのである。

 多くの学生は国公立や私学を問わず、直線的に共産主義青年たり得ることを自らの誇りにして、熱っぽい小批判者として、政府自民党及び国家権力に対して徹底的な敵愾心
(てきがいしん)を抱き、歴史を革命で作り替えようと乏しい画策を展開していた。やがて革命と云う名は、正義の代名詞となり、階級闘争の名を以て、多くの若者に信仰された。

 そんな時、悪友の野仲と二人で、左翼学生のデモ隊に暴行を加えたことがあった。
 私たちは、彼等の行動がグロテスクな印象にしか映らず、一種の熱病に浮かされている夢遊病者のように思えていた。そんな印象を持っていた時のことである。

 この日は朝から左翼学生が、博多駅前広場を占拠して、大きなプラカードと赤旗を掲げ、スピーカーのボリュームを一杯に上げて、大声でガナリ立てていた。
 道は何処も彼等に占拠されて、一旦こうした渦に巻き込まれると、進むことも戻ることもできなかった。私と野仲は馬場新町で、一晩中女郎屋で遊びまくっての朝帰りで、頭がボーとしていた。早く家へ帰って、寝るだけの作業が残さっれていたのである。

 野仲が、「おい、今日の太陽は黄色いぜェ」と、妙な疲れた声を上げた。
 「あッ!本当じゃ。真っ黄色じゃ」私も合槌
(あいつち)を打って、気怠い声を漏らした。
 「ああー、ああ。もう、俺、なーんも出てこん。出るのは、玉が二個出てきて、それで終わりじゃ」と、私たちは、こんな馬鹿な会話をしていた。
 するの野仲が、
 「あちゃ。今日は、こげんとこでデモやっとうやなかや。これでは家に帰えられんぜェ、どぎゃんしてくれるとや」と悲鳴に似た声をあげた。
 「どぎゃんもこぎゃんもなか。こいつら、クラ
(殴る)しあげちゃりたいなァ」
 「ほんなこて
(本当とのこと)、こいつら、邪魔やなァ」
 「ほんまじゃ」
 「ああ…!今日、こいつらのおかげで、汽車とまっと
(止まっている)。何ばして、ほんなこツ、こげなところでデモばするとかねェ」そして強引に人込みを掻(か)き分けて、前に進んで行った。

 「ここでも、《赤》が出張っとやなかや」と、集団に取り巻かれた人込みから出口を捜していた。とうとう進むことも退くこともできなくなった。もう完全に渦の中に嵌
(はま)っていた。

 これに苛々
(いらいら)した野仲が、デモ隊の左翼学生に向かって、
 「君たち!ボボはしてええけど、デモはしゃいかん!」と例の調子で怒鳴り始めた。周りの左翼学生から、ドット笑い声が上がる。

 短気で喧嘩ぱやい野仲は、
 「きさんら
(貴様ら)!デモやっとって、何が、おかしいとかァ!」と言って、デモ隊の前列の奴に、下駄を履いた儘、一発蹴りを入れた。
 興奮状態の野仲の赤い顔からして、大量のアドレナリンホルモンが分泌されているということが如実に窺
(うかが)われた。これからが大乱闘である。

 私も、野仲が火蓋
(ひぶた)を切ってしまったものだから、彼の友人の一人として、この乱闘に付き合わされる破目となった。この乱闘の中に、更に機動隊が参入した。
 とうとう三つ巴の乱闘になってしまった。学生服がぼろぼろに破れた。機動隊員の持っている警棒で嫌という程、躰中を叩かれて、頭はたんこぶだらけで、凸凹になった。数人の警官から取り押されられ、公務執行妨害の廉
(かど)で、引き回され、更に別の警官数人から警棒で袋叩きされた。

 野仲が、警官に向かって、
 「俺たちゃ、あんたたちの味方やなかや」と言つたが、取り合ってくれない。
 機動隊の警官の眼から見た場合、左翼も右翼も区別が付かず、等しく同罪なのである。

 私たちと格闘する巡査の階級をつけた警察官の年齢は、ほぼ私たちと同じ年齢であろうか。高校を卒業して警察学校に入り、そこを出て警察官になり、機動隊に配属され、まだ二十歳に満たない若い警察官たちだった。

 彼等の乱暴に喋る方言に、熊本弁、宮崎弁、鹿児島弁の何
(いず)れかが混じる。人情の念が湧いて、一瞬の躊躇(ちゅうちょ)と手加減が走る。
 私の家も貧乏とはいえ、些
(いささ)かのペーパー試験に合格する、ちょっとした頭と、文部省から僅かながら保護を受けた奨学金で大学生がやっていられて、所詮(しょせん)右翼学生と豪語したところで、ノンポリの一種であった。

 野仲も図体ばかりは大きいが、弁護士の息子の世間知らずのボンボンであり、所詮親の脛
(すね)かじりの放蕩(ほうとう)息子である。懸命に、職務に励む機動隊員の比ではなかった。九州の片田舎の「おらが村」の優等生の彼等は、上官の命令する通りに健気(けなげ)にも、職務に全うしていた。
 二人とも、地面に押えつけられて後ろ手に回され、公務執行妨害という罪状で、強引に手錠が掛けられた。他の左翼学生も、逃げきれずに何人か捕まった。彼等と一緒に護送車に乗せられ、一路H警察署へ。まずは十把一からげの集団に纏
(まと)められて、留置場の同じ監房に叩き込まれた。

 「お前らのせいで、こうなったちゃろが!」野仲が左翼学生に愚打
(ぐだ)を巻き始めた。

 口争いしているところに看守の警官が来て、
 「お前ら、静かにせんか!」と言っても、野仲は聞き分けが悪く、口争いが止まらず、とうとう我慢出来ずに再び手を出てしまった。二人のアドレナリン分泌は、未
(いま)だに冷(さ)めあらぬらしい。二人で、左翼学生の全員を畳んでやった。
 そして私たち二人は、「狂暴である」という廉
(かど)で、一時の間、隣の房の非常に狭い、畳一畳ほどの一人用の監房に移された。その日は交互に、一人ずつ取調室に呼ばれ、長い長い調書を取られた。取調官の筆記速度が遅いので、まる一日かかった。
 これで終わりかと思っていたら、今度は二人一緒に呼び出されて、指紋や写真
(正面と真横)を撮られてた。

 野仲が写真を取られる時、坊主頭をポマードでセットするようなジェスチャーをして、にこっと笑って「はい、チーズ」と言ったので、これを聞いた中年の鑑識課の警官が怒って、「こら、お前は警察をなめとるとか!」と、野仲が怒鳴られた。

 此処で一泊した後、野仲の叔父さんの加藤警部という人の助言で漸
(ようや)くこの場から釈放された。

 此処から出る時、私と野仲は、彼の叔父である加藤警部の課長室に呼ばれた。
 「義治、一晩泊められた感想はどげんやったか?」
 加藤警部は、即座に野仲に感想を訊ねた。

 野仲は少し躊躇して、頭をかくように照れ笑いしながら、
 「はあ、たまには別荘もよかと思います。しかし飯の不味のには閉口ました。あれじゃ、豚も食わんです。即刻食事の改善ば、求めます」と率直に留置所の感想を述べた。
 「何ば言いよっとか!あげんな大暴れして、これ位で済んだのは誰のお陰と思とっとか!昨日のことはお前の親父
(おやじ)にもよう伝えておいた。後はしっかり怒られてこい!」と大変な剣幕で怒鳴られた。

 しかし今思えば、実に寛大な処置であった。
 「はあ、すいましェーん」何が済まないのか、社交辞令のような「すいましェーん」だった。

 「義治。お前、鑑識で写真を取る時、うちの署員をコケにしたそうじゃのう?」
 「何ばですか?」
 「馬鹿なこと言ったそうじゃのう。帰りに鑑識に寄って、よーく謝っておけよ」
 「はあ……」
 そう言った野仲は、全く反省の色がなかった。彼は暖簾
(のれん)に腕押しであり、寔(まこと)に天真爛漫(てんしんらんまん)あった。


 ─────だがこの時、さすがに、野仲のように、「はい、チーズ」とは言えなかった。
 指紋、手形、写真、前科歴を確認された後、護送車でT警察署の中にある特別留置場に護送された。

 そこに着くと、看守が全ての金銭、時計等の貴重品、ベルトや紐
(ひも)のようなものは全部取り上げてしまう。ベルトや紐(ひも)の類を取り上げるのは、監房内での自殺を防止するためである。金銭、時計、その他の貴重品を袋に入れて、自分で封をして、左手の人差し指で割り印を押す。貴重品簿にも署名、拇印を押す。履物も一旦留置所内の保管庫に仕舞われ、此処では監舎用の薄いビニール製のスリッパに履き替える。

 この留置場の監房の中には先客がいた。
 当時流行の長髪で、二重瞼の痩せ型の四十歳位の男であったが、その男の眼は茶色で、疑い深く、刺すような目つきが何処となく根っからのワルを思わせた。そして、それは既に濁
(にご)っていて、決して優しくなかった。

 「兄さん、何やらかしたんかねェ?」
 入ったばかりの私に、気楽に声をかけてきた。黙っていることもないと思って気軽に返事した。
 「選挙違反の重要参考人です」
 「重要参考人ということは、容疑者ということか?」と傲慢
(ごうまん)に畳み掛けてきた。
 「……………」それは的を得ているだけに、この男の容疑者という言葉に一瞬狼狽
(ろうばい)した。
 「そうか。儂
(わし)は強盗じゃ」と、一見根性の据(す)わったような態度をちらつかせ、それを自慢そうに言った。此処への留置も、今回が初めてではないらしい。

 こんな所では、犯罪にもランクがあって、殺人や強盗の容疑者は、留置場内で幅をきかす。それに比べ、コソ泥や強制猥褻
(きょうせいわいせつ)等の痴漢のような、軽犯罪法の適用に落ち着く者は馬鹿にされる。私は、そのどちらにも着かない位置にあるらしい。

 傲慢
(ごうまん)に、強盗だと云い放ったこの男は、扉の無い便所に立ったが、そこから戻ってくると、やがて毛布を被って転がるように寝た。
 この男が「強盗だ」といった言葉がいつまでも耳に残った。そして不図
(ふと)この男の歩き方に気付いた時、「おや」と思った。

 跫音
(あしおと)を立てずに歩く、あの歩き方は、果たして凶悪犯罪にランクされる強盗の歩き方だろうか、とそのような穿鑿(せんさく)が趨(はし)った。あの歩き方は強盗というより、コソ泥のそれではないか。この男は、度々このような場所の世話になっているに違いない。留置所に犯罪ランクのあることも熟知していると思われた。
 そのために、ちんけなコソ泥の分際でありながら、強盗と息巻いて、私を威圧したかったのかも知れない。

 だが、世間には某
(なにがし)かの犯罪が存在する限り、実はこの男のような臆病風に取り憑(つ)かれている男が、意図も簡単に人を刺したり襲ったりするのだ。強盗だ、といった、この男の言も、満更(まんざら)嘘ではあるまい。

 しかしこんなことは、私にはどうでもいいことであった。が、このような状況にありながらも、人を観察する観察眼が未
(いま)だに衰(おとろ)えていない自分に苦笑せずにはいられなかった。

 監房の壁の上の方には小さな窓があり、そこに鉄格子が嵌
(はま)っている。部屋の広さは六畳程で、便所には扉がなく、床はビニール製の柔道畳のプラスマットが寒々と敷き詰められていた。ここには暖をとる火のようなものは一切ない。廊下に面した側は、太い鉄格子が嵌っていて、何処からともなく、隙間風(すきまかぜ)が吹き込んでくる。そして、その隙間風が、わが身が囚われの身であることを再度認識させるものであった。

 何度、留置場の監房に来ても、「ブタ箱」とは良く言ったものだと、その言葉の語源に感心する。そして私も、このブタ箱の中で、この日は寝た。寒々とした落日であった。

 今日の、この日までに至るまでの反省は、困窮する生活を支えるために、選挙ブローカーに身を窶
(やつ)したことだった。
 矛盾に満ちた卑しい私心が、実に情けなかった。濡れ手に粟
(あわ)の暴利の欲に取り憑(つ)かれ、無態(ぶざま)な自分の醜態が情けなかった。そして、こうした醜態を曝(さら)しつつ、しかも、それで糊口(ここう)をしのぎ続ける自分が情けなかった。
 こんなことが正義である筈がない。ただの金で買われた政治屋の飼い犬ではないか。
 僅かな金の力で、動かされているような人生では、自分の一生に誇りがもてないではないか。自尊心すら、金で売った観があった。
 そんな自縄自縛
(じじょうじばく)に襲われ、自分を叱れば叱る程、段々惨めになった。そんな反省が、頭の中を交錯(こうさく)し、それが空転して、更に、一層の悲壮感(ひそうかん)を加速させるのであった。



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