●ある日の追憶
此処は、私を勾留するための代用監獄となっていた。
底冷えを淀(よど)ませた留置場の冷たい床に、膝を抱えて座り、高い位置にある鉄格子のついた小さな窓から、外の寒空の様子を眺(なが)めていた。今にも雪が降り出しそうな気配であったが、とうとう霰(あられ)が降り出した。
その勢いよく降り出す霰の音は、分厚いコンクリートで囲まれた留置場の中からは窺(うかが)い知ることができないが、激しい音を立てて降り出したようだ。
不図(ふと)、私の『禁断の書』に指定していた衝撃の俳人・種田山頭火(さんとうか)の行乞(ぎょうこつ)姿が頭に浮かび上がって来た。
突如、音をなして降り始めた霰模様の寒空の中、鉄鉢(てっぱつ)を手に持っち、錫杖(しゃくじょう)をついて、一銭の寄捨(きしゃ)の施しを願って、民家の前に呆然と立ちすくむ山頭火の姿である。同時にその句も浮かんで来た。
山頭火を芭蕉以降の俳人だといったら言い過ぎだろうか。
山頭火というと、私は直に松尾芭蕉(ばしょう)を思い出す。そして、それ以外の俳人は、誰一人として浮かんでこない。それは両者が旅に明け、旅に暮れた俳人であるからだ。
大学三年生の夏休み、図書館からの帰り、大学の部室に一人来て、寝転がっていると、近くに一冊の漫画雑誌が置き去りにされていた。それを何の気なしに手にしたことから、山頭火との出会いが始まるのである。
それは少年マガジンだったか、ジャンプだったか、はっきり憶(おぼ)えていないが、その中に、心打つ衝撃の劇画が掲載されていた。その劇画は種田山頭火がモデルになっていた。
いつしか私は、その中に惹(ひ)き込まれていった。行乞(ぎょうこつ)の旅人山頭火に共感を覚え、震(ふる)えるような戦慄(せんりつ)が身体中を駆け抜けた。それから、どうしても山頭火の句集が読みたくなったのである。幾日か、大学の帰り博多界隈(かいわい)の古本屋を捜し歩いたが、中々見つからなかった。
そしてもう諦めていた頃、偶然にも博多土肥町(どひまち)の古本屋で、大山澄太(おおやま‐すみた)著の『あの山越えて』という、四巻がセットになった山頭火著作集を見つけ出したのである。実に嬉しかった。
早速、一気に読みふけった。
ひしひしと訴えて来る強烈な彼の肉弾人生。五七五調から食(は)み出した非定型自由句は、一見何の変哲もないが、現代の松尾芭蕉を思わせ、そでれいて、芭蕉と何処か違った「生のリアリズム」に、ある種の強烈な戦慄(せんりつ)を覚えさせずにはいられなかった。
その生き態(ざま)の凄じさに、何か言い知れぬ男のロマンを感じた。この生のリアリズムは、人生のキレイゴトでだけでは、決して済まされない、有り触れた文学の極致を突き破り、その表現の凄じい点では、芭蕉を越えているのかも知れないと思った。それが私の心をしっかりと捕らえてしまったのである。
五七五調の定型句を破ることによって、芭蕉や宗祇(そうぎ)にもない詩境は、涙の出るような哀愁がある。行乞僧(ぎょうこつそう)としての修行日記が、読む者に強烈に迫って来て、その情味を掻き立てるのである。魂が、その度に揺すぶられるのである。その中に私自身の新たな発見があった。
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▲ 種田山頭火(48歳)
南阿蘇方面を行乞中に撮った写真。
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私は山頭火の、
の、この句が大好きである。
この句の中には、時雨(しぐれ)の情趣(しょうしゅ)を愛しながらも、ある種の哀愁(あいしゅう)を感じさせるものがあると同時に、行乞僧として、生々しい肉体を自らぶっけて、読む者の魂を呼び起こし、それをついには揺り動かす迫力を持っている。
山頭火の経歴にも、凄じい人生の足跡(あしあと)を見た。その足跡の一歩一歩の凄じい歩き方に、いつしか魂は触発され、その虜(とりこ)になっていた。自分のグウタラを常に反省しながら、ついにそのぐうたらから抜け出すことが出来ず、もがき苦しみ抜いて、
「どうしようもないわたしが歩ゐている」と、この一句を残して行乞の旅を続けた山頭火。
そこに私の過去と、何か同じ共通点を見い出すことができるのである。そこに私と山頭火の共鳴の因子があるのだ。
そんな時は柄(がら)にもなく、その句集を読みふけって、心が冴(さ)え亘り、夜が寝つかれなくなるのである。渇いた心の中に強烈に染み渡り、捨身懸命(すてみけんめい)の野ざらしの中に、渾身(こんしん)の畏怖(いふ)が燃え上がるのだ。
私にとつては、そういう意味で、山頭火の句集は、夜の『禁断の書』なのである。
山頭火自身、彼が十一歳の時、母親が井戸の中に身を投げて投身自殺している。私も、千代が自殺した時、十三歳であった。私も辛かったが、彼も辛かったに違いない。
だが、今の私のような留置場に収監されている辛さとは、また別の異次元の辛さであったろう。
寒い留置場の中で、壁に向かい合い、50cm程の間隔を隔ててキチッと静坐(せいざ)し、一人山頭火の句を頭の中で詠(よ)み続けていた。
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風のなか米もらひに行く (山頭火)
大樟も私も犬もしぐれつつ (山頭火)
分け入っても分け入っても青い山 (山頭火)
生死の中の雪ふりしきる (山頭火)
旅の法衣がかわくまで雑草の風 (山頭火)
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詠みふける句は、次から次へと尽きることなく錯綜(さくそう)する。
そして犯罪者を囲む荒涼(こうりょう)たる留置場の風景は、何処となく悲壮(ひそう)な無常観を沸き立たせる陰鬱(いんうつ)さがあった。何故ならば、此処には日光を自由に浴びる裟婆(しゃば)での権利が、全くないからである。
●再会
恐怖は小刻みに引き伸ばされ、拘留延長は続いていた。
この中に居ると段々身体が鈍ってくる。ただ食って寝ての繰り返しの生活は、段々の躰(からだ)の端(はし)の方から病魔が蝕(むしば)み、脊髄(せきずい)や筋肉や内臓までも、更には気力までも蝕み始める。
収監されて以来、長い間使わずにいた私の筋肉は、軽い呻(うめ)き声を上げて、その不安を訴えてくるようであった。武術家として稽古不足ほど怕(こわ)いものはないのである。
不透明な運命は、衰亡の翳(かげ)りを浴びて、希望のない生活の中に絶望を余儀なくされ、何一つ装飾品のない周囲の殺風景の現実は、凛然(りんぜん)として、一際(ひときわ)悲劇的に、一際優柔的に、鈍い牛が涎(よだれ)の長い糸を引いて田舎道を歩くように、一層の鈍痛と絶望感を強(し)いてくるのであった。
この人生舞台の終末は、惨劇(さんげき)で幕が閉じられるのか。そんな惨劇の危惧(きぐ)を、辛(つら)い側面から垣間見ていた。
やがて私に訪れるであろう破局の汐時(しおどき)と、その悲劇の断面は、一種独特の違和感で彩(いろ)どられていた。
毎日の私の日課としては、壁に向かって慎(つつま)しく、反省事項を挙げて静坐(せいざ)をすること。
次に鉄格子の縦枠(たてわく)の鉄棒を足の親指と人差し指で挟んで、腹筋運動を朝晩百回ずつ繰り返すことであった。文字通り、鈍りつつある躰を叱咤(しった)して、腹筋運動の最中であった。この一見無駄とも思える運動は、私の最後の居直りであった。そしてこの中は暖房がないため、こうでもしないと非常に寒いのである。
一時も躰を動かさないと、心まで凍りつきそうな気持ちになってやりきれないのである。これらの運動は一通り終わると、今度は周天法(しゅうてんほう)の練習に入るのである。
周天法はその効用からいって、躰を温める効果があると聞いていた。
周天とは、全身に陽気(ようき)を巡らすことを言う。丹田(たんでん)での陽気の発生は、この以前に、何とか起こせるようになっていたが、この陽気を任脈(にんみゃく)と督脈(とくみゃく)に巡らす小周天は、まだ完成していなかった。
この時、退屈紛(まぎ)れと寒さの克服から周天法を試みていたのである。丹田で発生させた陽気を、まず会陰(えいん)に送り、会陰から後ろ腰の命門(めいもん)に引き上げ、脊柱(せきちゅう)を通って玉枕(ぎょくちん)に至る。玉枕で暫く玉枕温養を行い、次に泥丸(できがん)へと引き上げる。更に印堂(いんどう)を経由して天突(てんとつ)に至り、ダン中を経由して、再び元の丹田に戻って来るのである。これが周天法の一サイクルである。そして何度か繰り替えしているうちに、これがスムーズに行えるようになったのである。
一日の殆どを、このような事に使っていたが、これはこれで、それなりの楽しみが生まれていた。あるいは過去の人の話を思い返して、頭の中のスクリーンに投影もしてみた。
以前、ある人からこのような話を聞いたことがある。これは戦犯容疑で収監された人の話である。
その人は終戦直後、中国大陸から日本に引き揚げる際に、八路軍(はちろぐん/日中戦争期に華北で活動した中国共産党軍)に戦犯容疑で逮捕され、後に有罪となって、中国の軍事刑務所を転々と盥(たらい)回しされた挙げ句、各県(省)の軍事法廷で七回も死刑の有罪の判決を受けたという。
この人はKさんと言い、食品関係の日本本社から派遣された中国支社の支社長をしていた人であった。
Kさんの戦犯容疑は、中国人に長時間に渡る不正就労を強要し、奴隷のように彼らを酷使し、あるいはその酷使が原因で死亡させたという容疑をかけられたのであった。そして七回も絞首刑の判決を受けた。
足には中国の風習特有の足枷(あしかせ)が嵌(は)められ、暗い牢獄(ろうごく)に約一年間閉じ込められていたという。
最後の七回目の判決を受けた時、《もういけない》と思ったらしく、この日からKさんは絞首台(こうしゅだい)に上るための、足腰の訓練を始めたという。
結局、最後はアメリカ側の嘆願によって釈放され、その二年後に日本に戻ってきたが、Kさんは当時の思いを顧みて、死に際しては潔(いさぎよ)く、堂々と死んでいきたかったと感想を洩(も)らしたのである。
私は当時、Kさんからこの話を聞いた時、ルイ十六世の王妃、マリー・アントワネットのことを重ねて思い出していた。
彼女は死など、ものともせず、悟り切った尼僧(にそう)の面影を漂わせながら、断頭台に上ったという。
彼女は、オルレアン公の庇護(ひご)の下にパレ・ロワイヤルに集まった革命主義者やルソー主義者やフリー・メイソンらの不平分子と結託(けったく)した一握りの銀行家や金貸しに踊らされた革命家の毒牙(どくが)にかかったのであった。
勿論、これらの不平分子や革命家たちに資金を提供し、裏側から彼らを操ったのは、革命主義や共和政治の名のもとに、金融独占を企てた一握りのユダヤ系の銀行家や高利貸したちであった。そして、彼等を背後で操ったのはフリー・メーソンであった。
これ以降、世界の経済はユダヤ資本の銀行家や高利貸したちから、裏で操作されることになる。
また彼女は、口先だけで、自由・平等・博愛(当時のフリー・メーソンのスローガンは、この部分が友愛)を唱え、血を血で洗う欺瞞(ぎまん)に満ちた革命家たちの利殖(りしょく)と打算を心から軽蔑し、恐怖政治の狂気の沙汰を尻目に見ながら、一切の嘆願もせず、抗弁(こうべん)もせず、一度も取り乱したり、あるいは自信や気品すら失わなかった。
三頭(さんとう)政治を形成した沐猴冠(もっこうかん)のロベスピエール、ジャコバン党公安委員のサン・ジュスト、躄(いざり)のクートンたちの、骨を刺す毒舌家(どくぜつか)の脅嚇(きょうかく)にも恐れず、なぶり殺しに等しい責苦(せきく)の中にあっても、終始ハプスグルグ流の気高き誇りを片時(かたとき)も忘れず、その気品を保ったという。
また、身の熟(こな)しも、王家出身の気品を保ち、背筋を伸ばし優雅であったともいう。囚(とら)われの身になって、その間の扱われ方は、殆ど嬲(なぶ)り殺しに等しい責苦(せきく)の中にも、人道をわきまえぬ共和体制側の者に対して、終始人間としての気品と誇りを忘れず、毅然(きぜん)とした態度を崩さなかったマリー・アントワネット。そこに今なお、私の眼には新たな涙が溢れるのである。流石(さすが)マリア・テレサ(マリア・テレジア/Maria Theresia)の姫君に恥じぬ堂々たるものであった。
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▲マリー・アントワネット
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▲母としてのマリー・アントワネット
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フランス革命の恐怖政治の下(もと)で断頭台の露(つゆ)と消えたのは、一説によれば約七万二千人以上といわれているが、王侯貴族から庶民に至るまで、死に際して非常に立派な人が多かったという。マリー・アントワネットも、その一人であった。
Kさんがフランス革命の惨状を知っていたか、そうでないかは分からないが、最後の最後まで、ありったけの精神力を駆使して、潔(いさぎよ)さを望んだのであろう。死に臨(のぞ)んで、じたばたする輩(やから)を、「命長くして、恥多し」と冷ややかに叱責(しっせき)でもしたかったのであろうか。
このKさんの話を思い出した時、私もこれにあやかろうとしたまでであった。それが毎日、朝晩の腹筋運動を百回繰り返すという、Kさんに比べれば、一ランクも二ランクも小ぶりの行動であったが、またその精神力に肖(あやか)り、自らを正そうとした行動でもあった。
この最中、鉄格子を挟んだ廊下側のコンクリートの床に、明瞭(めいりょう)な尾を引いた鮮やかな影を見た。瞬時に照りつけた午後の太陽の光が、一筋の伸びた細い影を鮮明に映し出していた。誰か近寄ってくる、そう感じとっていた。腹筋運動をしているところを見られたくなかったので、急いで側にあった毛布に躰を包(くる)め、何事もなかったように装って壁に持たれ掛けた。
その時、突然「おい、岩崎。面会だ。直ぐに用意しろ!」と看守の声が飛んだ。
「なに、面会?」と疑念が起こった。
(一体誰だろう?)と、不信に思いながら、包まった毛布の中から、のっそりと立ち上がった。
母ではあるまい。母には警察に任意出頭を求められた時に、万一の時のことを事前に予想して、一ヵ月ばかり、旅行に出てくるといっていた。だから来る筈(はず)がない。また此処に居ることなど知る筈もないのだ。
(では誰だろうか?まさか由紀子では?いや待て、彼女である筈がない。そんな筈がない……)そんな自問を繰り返しながら頭(かぶり)を振り、不図(ふと)彼女のことを考えていた。
由紀子は正月の三箇日(さんがにち)だけ北九州にいて、もう、とっくに東京に戻っている筈だ。確かに彼女は、あの時そういったのだ。第一、私がT警察署の留置場に居ること等、どうして知ることが出来るのだ。
今日は、看守の話によると一月七日であった。
留置場内の鉄格子の外に出た時、私の手には、再び冷たい手錠がかけられ、腰には手錠に連結された白い太目の縄が腰の前後から巻かれた。無精髭(ぶしょうひげ)を伸ばし放題の髭面といい、その両方は何処から見ても、実に惨めな姿である。手錠を掛けられた両手が、犯罪者のそれを物語って居た。
こんな醜態(しゅうたい)を、一体誰が見たいと思うのか、不思議でならなかった。そう思いながら、長い廊下を重い足取りで歩かされ、面会室に連れていかれた。
銀色の冷たい手錠が、一瞬の電灯の光を受けて、銀盤(ぎんばん)の冷たい光沢(こうたく)を放った。それをはっきり目にした時、この醜態を恥じて気後(きおく)れが 伴った。面会室のドアの前で躊躇(ちゅうちょ)していた私は、いきなり看守の警官から面会相手の居る、太い番線で出来た網格子の前に無残にも引き立てられてた。
いつまでも椅子に座らずにいると、後ろから肩を小突かれて、直ちに座れという無言の合図が送られて来た。そして椅子の前に寄った時、面会室の重い鉄の扉の鍵が、ガチャンと大きな音を立てて落とされた。
貌(かお)を上げて網格子の向こうを見ると、面会相手は由紀子だった。眼を疑いたくなる程、意外な相手であった。
醜態を曝(さら)しながら、恐る恐る彼女の方に近寄って、顔を背けるように冷たい鉄製の折畳(おりたたみ)椅子に座った。この椅子はごつごつした、尻に違和感を与える椅子であった。何十年もの間、容疑者と、その都度(つど)対面した容疑者の身寄りを座らせ続け、その異様なへこみ具合が、苦悶(くもん)する容疑者の歴史を刻み込んでいるようにも思われた。そんな感想を持った時、看守は居なくなっていた。一体何処へ行ったのだろうか。
由紀子は網格子越しに、酷く心配そうな顔をして、
「どう、お元気?少し痩せたようじゃない」
「どうして此処が……?」
「あれから随分気になって、あなたの居所を捜してもらってましたのよ」
由紀子は険しい顔で答えた。
私のことを、「あなた」と呼ぶ声を聴き逃さなかった。そして一瞬、耳を疑った。私は彼女の、どのような存在なのであろうか。
手にはしっかりと手錠がかけられ、それを由紀子は悲しげな、そして痛々しい眼で見つめている。私はそれを隠したかったが、錯乱(さくらん)と動揺の余り、敢(あ)えてそれは行動にはならなかった。
私は心にもない嘯(うそぶ)いた照れ笑いで、
「こんなもので僕を縛(しば)ろうとしても、心まで縛れるものではありませんよ。これは何かの間違いです。ハァハァハァ……」と、言い訳と作り笑いを添えた。
私は手錠を掛けられたことの言い訳をし、作り笑いで逃げ切ろうとしていた。それは事実を隠す、醜さの上塗りのような言い訳であった。
「まあ……酷いおっしゃりかた……」由起子は淋しい顔で、私に反目した。
「酷いのは、無実の僕に手錠をかけた官憲ですよ」
「……………」
由紀子はこれについて何も答えなかった。《じゃあ、どうして此処に居るの?》という厳しい眼で、寧(むし)ろ言い訳をする私の態度を悲しそうに哀れんでいるようであった。どうやら私は、二重の醜さを曝(さら)け出してしまったらしい。
彼女の顔は、一層沈鬱(ちんうつ)な表情に変わり、私の言い訳に、また新たな悲しみをつくったようだ。そしてその眼が濡(ぬ)れて、そこに光る一雫(ひとしずく)を見た。
二人は暫(しばら)く無言でいた。時々、軋(きし)む椅子の音以外は何も聞こえてこない。この場は陰鬱(いんうつ)な空間だった。それが更に拍車をかけたのか、何となく情けない気持ちで一杯になった。愚劣(ぐれつ)な言い訳をしなければ良かったと熟々(つくづく)思った。惨めだった。私は声を失ったように、次の言葉が出てこない。
その時、別の看守の警官が、面会簿を手にして慌(あわ)ただしく、面会者側の部屋に入って来た。何か忘れ物を思い出したような慌ただしさだった。この警官には、私たちの間柄を詮索(せんさく)する好奇に満ちた眼があった。
「失礼ですが、参考人とあなたはどのような関係でしょうか。続柄の欄(らん)の記載が洩(も)れておりましたので、お窺(うかが)いしているのですが?」その問いかけは、まるで初(うぶ)な少年のような緊張があった。
「婚約者ですわ」
由紀子は軽く微笑んで少し首を傾げ、そう答えて会釈した。
彼女の少し首を曲げ笑顔で返すような独特の仕種(しぐさ)は、持って生まれた癖のようだ。殺風景な面会室が、その由紀子の微笑みだけで華やいだ雰囲気に変貌(へんぼう)した。
警官は由紀子のその仕種(しぐさ)と笑顔に少し照れ、緊張したように、
「ああ、そうでしたか。大変失礼しました」と言って、難解な謎(なぞ)解きができた少年のような顔をして面会室を出て行った。
私の耳には、彼女が言った「婚約者」という言葉がいつまでも耳に残った。この言葉の意味に、私は苦しんだ。咄嗟(とっさ)の緊急措置に、仕方なく洩らした、彼女の口からの出任(でまか)せなのだろうか。
時々、私に哀願(あいがん)するような切ない眼を向けて、心の裡(うち)の秘めやかな思いを伝えてくる。
暫(しばら)くして、
「あなたは僕のことを婚約者と言いましたが、以前競艇場の地下室で、僕があなたのことを婚約者と言った時のお返しですか?」と皮肉な質問をぶつけてやった。
それを聞いた由紀子は、焦点を失ったように呆然(ぼうぜん)と私を見ていたが、見る見る間に、目に涙が珠(たま)をなした。そして顔を抑えて突然泣き出した。
必死の女心を無視して、拙(つたな)いことを言ってしまったと、後悔が先立った。彼女の泣いている姿が可愛くもあり、何ともいじらしかった。
それから暫くして由紀子が顔を上げた時、見開いた眼尻の繊細(せんさい)な溝には、まだ涙が伝わっていた。これには何も言葉が出てこなくて、慰めることも、謝ることもできなかった。呆然とするしかなかった。馬鹿なことを言ってしてしまったいう反省で胸が一杯になった。
時間がどんどん過ぎて行くようだった。こんな遣(や)り取りではなく、もっと大事な事があるのではないかと思ったが、その大事な事が思い出せずにいた。
そして何処からともなく、空耳のようにコチコチと時計の音がした。
二人だけの限られた貴重な時間が、私の一言で無駄に使われてしまったように思えた。それが鮮明に感じられたのだった。
由紀子が泣き終った頃、二人は眼だけを見合って、僅か5分か10分の短い面会時間を終わった。この時、看守の怠慢(たいまん)か、あるいは看守の心遣いなのかは知らないが、本来容疑者と同席しなければならない看守は、この場に居なかった。
そして時間終了間際(まぎわ)、慌てたように入って来た。
「申し訳ありませんが、面会時間が終わりました」
看守は短い面会時間を申し訳なさそうな口調で、面会が終わったことを告げた。
帰っていく時、由紀子の眼が泣いていたのが印象的で、私の心に何か鋭く突き刺さるものを感じた。その眼は、私が今までに一度も見たことのない哀切(あいせつ)な光りに満ちていた。由紀子は、私に何を感じたのであろうか。
兎(と)に角(かく)辛かった。私の心を締めつけたのは、今にして思えば、彼女への思いやりのない我が儘(まま)で、不注意で、弁明をする軽薄な子供じみた言動であった。まさに「覆水(ふくすい)盆に返らず」とは、このことだった。
身から出た錆(さび)とは言え、自堕落と絶望感に苛(さい)まれて、明日をも知れない投獄生活を、半ば強制的に余儀なくされているのである。そして無実を取り繕(つくろ)い、抗弁(こうべん)に至った自分自身を恥じた。
─────七回も死刑判決を受けた、Kさんのことを再び思い起こしていた。
Kさんの人柄から窺(うかが)える毅然(きぜん)な態度。その毅然な態度から、誇り高い豪胆者(ごうたんしゃ)としてのKさんを想像できるのだ。
Kさんは法廷に引き立てられた時、直立不動で、頭をしゃんと起こし、胸を張り、一切の嘆願(たんがん)や抗弁もせず、何の動揺の色も見ぜず、落ち着いた眼差しで、連合軍の軍事法廷の裁判官を見据えたという。
果たして今の私に、その気迫(きはく)が備わっているか、それを思うにつけ、後味に悪いものが付き纏(まと)い、事実、「ああでなけらばいけなかったのだ」と言う、今日一日の大きな反省が生まれた。
─────次の日、今日は昨日と打って変わって、素晴らしい天気となった。高窓(たかまど)から差し込む陽差しが、それを物語っている。
昨日の湿っぽい言動が嘘(うそ)のように一変していた。そして何よりも、今朝も快便である。
我ながらに、何と言う恥知らずかと叱咤(しった)し、昨日由起子に吐いた言動に後悔せずにはいられなかった。彼女には済まないことをしたと思った。
排便の際、便器に跨(また)がった前方の壁の高窓に、一匹の虫が影を落とした。外から名も知らぬ昆虫が便所の小窓に止まったらしい。その這(は)うような影は、私の興味をそそった。私は排便後、不図(ふと)、高窓に、その一匹の虫の行動を凝視した。
その虫は最初窓枠の四隅の一角に身を寄せていたが、その隅から動き始めて、素晴らしいサインカーブ(sin curve/sin =y/r)を描くのだった。そんな小さな虫ですら、仲間みたいに感じてしまうのだから不思議なものである。
そして夜は夜で、畳の透き間から出入りするゴキブリと顔を会わす。そんなファーブル(Jean Henri Fabre/フランスの昆虫学者)の『昆虫記』に似た毎日の日課が、私の唯一の楽しみになっていた。
─────もう、来る筈がないと思っていた由紀子が、また何日か日を置いて、ある日の午後やって来た。
彼女は、こんな殺風景な留置場という場所には似つかわしくない、目の覚めんばかりの艶(あで)やかな、赤地に金糸の繊細(せんさい)な線で描かれた鳳凰(ほうおう)の図柄の友禅(ゆうぜん)の長振袖を着て来た。
正月三箇日はとっくに終わった筈であり、些(いささ)か、場にそぐわない観があったが、見る者を魅了し、惑わすには十分であった。
そして彼女は先日までとは打って変わっていた。恐らく彼女が、日本で最初の、留置所の容疑者の面会に振袖の晴れ着を着て来た、最初で最後の面会人ではあるまいか。
美しく結い上げられた髪と、ちょっと取り澄ました彼女の艶やかな振袖姿は、此処の留置場の看守たちを驚かせたに違いない。
これは彼女の次元の違いか、あるいは些(いささ)か、社会の趨勢(すうせい)とズレた、世間知らずの面が、こんな処にも出たのであろうか。それとも意図した彼女の優しい心遣(こころづか)いであったのだろうか。そんな穿鑿(せんさく)が、私に追跡を強要した。
しかしともあれ、振袖は女性にとって、第一級の礼装であることは間違いなく、私を多いに喜ばせてくれた。
先日私に同席しなければならなかった看守は、今日は私をぴったりとマークしている。私をマークしていると言うよりは由紀子をマークしていると言った方がよかった。看守の興味は、専(もっぱ)ら振袖を着て姿を表わした由紀子にあり、時々視線を彼女の方に投げているのが分かった。
今日は、私の着替えと手料理の差し入れを持って来たという。不図(ふと)私は、綾羅木(あやらぎ)の海水浴場で、由紀子たち三人が、私たち道場生の貧者に、差し入れをしてくれたのを思い出していた。そしてあの不思議な西日を浴びた、落日の風景まで脳裡に鮮やかに蘇(よみがえ)って来た。
一枚の忘れていた絵画でも思い出すように、今まで遮断されていた時間と空間が過去を再び遡(さかのぼ)り始めていた。あの朱色の色彩と、その枠組みが……何故か、重なって共通点を見い出していた。
此処に持ち込まれた差し入れの手料理は、御節(おせち)料理のようなものであった。
「あなた、お正月まだでしたでしょ?この御節、あたしが作りましたのよ」と言って三重になった重箱を開いて見せた。
編み格子で遮られているが、見ると中々手が込んでいた。彼女の料理の腕は中々のものであるらしい。先日とは打って変わり、一変した振る舞いが印象的だった。それは、只管(ひたすら)男に尽くす女のいじらしさが漂っていた。無理にそうしているようにも思える。しかし何はともあれ、嬉しかった。
あまりの嬉しさに勝利者のような有頂天な気持ちになった。
そして彼女の心遣いが嬉しかった。
もう由紀子には、ありふれた言葉を云い尽くしても、感謝の意を表すことは出来ないくらいであった。逆にそうなれば、ほろりと涙が込み上げ、言葉に詰まってしまうのである。
「どうかしました?何かご不満?」
由紀子は立て続けに、私の感情を無視して問いかける。
私は言葉を出せずに、慌てて頭(かぶり)だけを振った。必死で頭を振るだけしか出来ないのであった。
そして心の中では、(もしかしたら彼女は俺に心底惚れているのでは……?真逆(まさか)……まだ自惚れるのは早い)そんな自問の繰り返しと、快い余韻(よいん)が躰の中を駆け巡っていた。
私のような単純な男は、つい、こう思いたくなるのである。
そして少なくても、この幸福は半永久的に約束されたのではないのかなどと、ありもしない空想に飛躍していた。
女っ気 のない留置場暮らしは、由紀子の再度の来訪に落ち着きをなくし、彼女の細部の美しさに再び感動を覚えた。美しく結い上げられた髪とその項(うなじ)は、心を和(なご)ませてくれる。晴れ着姿の艶(あで)やかさと由紀子の女らしい仕種(しぐさ)に暫(しばら)く見とれていた。彼女の姿を見ながら、雪の中に咲く一輪の艶(あで)やかな、赤い雪椿を連想した。
何故、留置場での面会に晴れ着を着て来たのであろうか?考えれば考える程分からなくなる。
やはり世間知らずのお嬢さんなのだろうか。それとも私に細やかな正月の雰囲気を味合わせるための、彼女の心遣いであったのだろうか。
その穿鑿(せんさく)に余念がないが、結論が出せない儘、それでいいと思った。しかし彼女の、一昔前のような、ちょっと御転婆(おてんば)で、ちょっと古風な、日本女性のような、いじらしさが、私を苦しめた。
恋は貪欲(どんよく)に相手を傷つける。しかし愛は、愛するが故に相手を傷つけまいとして、己の欲望に耐える、と何かの本で読んだことがある。『葉隠』で言う、「忍ぶ恋」はこの忍耐を言うのではあるまいか。
やがて15分程度の短い面会時間が終わった。
そして由紀子の持ち込んだ料理と着替えを念入りに点検された後、看守から監房に戻る途中に、それを受け取った。
私は振り袖姿の、艶やかに彩られた由紀子の美しい余韻(よいん)を静かに心に残した儘、再び薄暗い監房に戻って行った。この落差は天国と地獄の隔たりがあった。
監房に戻った時、既に此処には別の男が入っていた。
歳は六十歳を越えているように思えた。この歳になって、どんな犯罪を犯したのだろうか。
格好は見るからに浮浪者のようなルンペンを思わせた。やたらとお辞儀する。小心な気性をしているせいか、のら犬のような眼がおどおどしていた。
由紀子の作ってくれた御節(おせち)料理を開いて、この男にも食べさせた。私は食欲がなかったので、由紀子には悪いと思ったが、殆どこの男にやった。
大変感謝して、「旨い、ほんまに旨いわア。こんな上等なもの食べたん、生まれて始めてやねん。ほんまに、おおきに」と言ってくれた。
男は御節にガッ付きながら、何度か言葉を繋(つな)ぐ。それは感謝も含めてであろうが、誰がこれを作り、誰が持ち込んだのか気になるらしい。
「これ、つくりはったん、あんさんのお母はんでっか、それとも奥さんでっか……?」と切り出して、私は一瞬躊躇(ちゅうちょ)した観があった。一見好人物を思わせるこの男の言葉には、大阪訛(おおさかなまり)があった。
今までに、久しく、いいものを食べてなかったのであろう。何処となく食べ方が、ガツガツしていた。
山頭火の句の中に、老ルンペンと共にした食事の句がある。
という句である。
私も、この、のら犬の眼をもった男との句ができた。
という句ができた。
どことなく定型句の五七五になっていた。右左 とは、そのまま右左に別れて、互いが何処かに行ってしまうさまを言う。そしてこの男とも、この時、既に右左の暗示を持っていた。
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