●スナック乱闘事件
この日は荒れていた。無性に腹の立つことがあった。その原因とはこれだった。
「岩崎君。既に承知であると思うが、道場を一か月以内に開け渡して欲しいのだ」
「どうしてですか?急に、そんなことを言われても……」
「兎(と)に角(かく)檀家(だんか)がうるさくって、私も辛い立場にあるのだよ」
「話がよく分かりません。開け渡す理由を教えて下さい」
「君自身で考えてみたまえ。反省する点が多々ないかね……」
私はそう言われても、今までのことを思い返してみたが、心当たりはなかった。寝耳に水であった。
家賃は毎月前家賃で支払っているし、盆と暮れのお中元やお歳暮は欠かさずに、その心遣いと、礼節への配慮に気を配っていた筈だった。
時には、私自らが先頭にたって、陣頭指揮し、寺の境内の掃除や町内の防災訓練や、寄合事(よりあい‐ごと)には積極的に参加していた。それなのに何故このような状態になったのか。
(俺は、誰かに恨まれているのだろうか?)そんな自問が脳裡(のうり)を過(よぎ)った。
「兎に角そんな訳だ。期限通り、あそこは一か月以内に開け渡してもらうよ」
「ちょっと待って下さい。急に言われても、僕の一存では返事をしかねます。暫く猶予(ゆうよ)を下さい。幹部のものと相談しますから」
「何と言われようと、法的には、既に決着がついたことだ」
私の必死に嘆願する願いは、聞き届けられなかった。
狐に摘(つ)まれたような不思議な気持ちだった。この寺の住職は、私を追い払うように、この後の話を続ける意志はなかったようだ。
寺の事務所と道場を隔てた僅かな歩行時間に、色々な反省が蘇(よみがえ)った。これまでそんなことは考えてもみなかったが、一旦このような事態に陥ると、誰かに恨まれているのではあるまいか。あるいは、陥れらているのではあるまいか、等と疑心暗鬼(ぎしん‐あんき)に陥るのであった。
そして、この数時間後、事の真相が明らかになった。それを聞いて、更に私は腹が立った。
私はこの日、夕飯の支度が済んだであろう、由紀子の待つアパートに戻る気がしなかった。人間未熟のため、怒りで動転するばかりであった。無性に腹が立ち、そして気が苛立っていたのである。
(この俺は、一体どうすれば良いのだ!くそ!)何処からともなく怒りが込み上げてきた。
心に、一つの迷いが生まれ、混乱の余り、冷静さを失っていた。何処でもよかった。何でもよかった。無性に度の強い酒を呷(あお)りたかった。そういう苛立った心境にあった。卑怯にも酒で逃げようとしていた。
僅か一日前の出来事を反芻(はんすう)してみた。
突然、裁判所から、道場の借地明渡(しゃくち‐あけわたし)の退去命令書が来た。
最初は何かの間違いではないかと思い、気に止めずにいた。その封筒すら開封してみなかった。しかし気になって、今日開封して驚いたのである。
寺の住職が、何の事前の相談もなく、一か月以内に道場を明け渡せという手続きを裁判所に申し立てたのだった。それが今日の退去命令だった。
弟子を百数十人も抱えて、今更、何処に行けというのか。八幡区内以外に、我々が落ち着く安住(あんじゅう)の地が何処にあろう。
早速、翌日これに抗議をした。しかしこれは空しく潰(つい)えて、聞き入れて貰(もら)えなかった。
後で分かったことだが、明渡の話は、以前から内密に進められていたようだ。
躍進(やくしん)する私の勢いに嫉妬(しっと)を抱いた、もう一人男がこれに「待った」を掛けたのである。
それは寿司屋の島田という五十年輩の男で、私の世話役を自称していたが、何事につけても嫉妬深い男であった。何事も遣(や)ることが、こせこせしてよく騙された。避けても小判鮫(こばん‐ざめ)のように張り付いてくるこの男が、寺の住職を唆(そそのか)し、檀家(だんか)の一部の派とグルになって、私の追い出しを以前から画策していたのである。世の中には、こうしたタイプの嫉妬深い人間は、実に多いのである。
こういうタイプは武道家を自称する人間に多く、大物に見せ掛ける輩(やから)が少なくない。
島田は私が困るのを承知の上で、わざと妨害し、私が頼みに来るのを待っていたのである。人が頭を下げるのに、無性に優越感を感じ、一方で世話役面(づら)をするのだ。
これを知って、この日は無性に腹が立っていた。この事実を、この男に問い詰めて、怒りの鉄拳の一撃を食らわせたが、知らぬ存ぜぬで嘯(うそぶ)いた。巧妙に仕組まれていて、私を陥れる手段としては上出来(じょう‐でき)のものであった。この男は以前から、私の何処かに、憎しみを抱いていたのだろうか。
あるいは破竹(はちく)の勢いで飛躍する私の道場が妬(ねた)ましかったのだろうか。
その理由が何にせよ、知らぬ間に恨みを買い、憎しみを抱かれる可能性はあるのだ。それにしても、まんまと嵌(は)められたものだ。
世の中の常は、出る杭(くい)は必ず打たれるのだ。
しかし打たれる事を嫌っていたら、出るものも出る事が出来ず、世の中で頭角を顕(あら)わすチャンスが永久に失われてしまうのである。
むしろ「打たれる」ことを善しとしなければならないのである。打たれる時には打たれる。打たれて鍛えてもらう。そして様々な、火と水の試煉(しれん)としての洗礼を受けて、それでもへこたれない。そんな余裕のある自己を確立していなければならないのであるが、私はこの時そんな余裕がなかった。自分自身すら見失っていたのである。私と言う、小心者の習性であろうか。
一瞬、我と吾(わ)が身を、苦笑せずにいられなかった。知恵足らずの自分を恨みたい気持ちになった。そして、気持ちの持って行きようがなかったのであった。
私の、このような動転と、苛立ちを先取りしたかのように、私を嵌(は)めた男は、私の慌てようを愉快に笑っているかも知れない。妄想にも似た怒りが込み上げてきた。他愛のない、子供じみた怒りを舞い上がらせてしまえば、それまでのことだが、この辺が私の人間修行の未熟なところであった。
しかし、手塩にかけて、育ててきた道場生を路頭(ろとう)に迷わし、私は無職同然となる。こんな事が意図も簡単に、裁判所の冷酷な紙切れ一枚で、済まされていいものなのだろうか。法は庶民に対して冷酷なのか、あるいは盲なのか、そう思った。
その為に何処でもよかったのである。
この怒りを沈める今日一日の、酒を呷(あお)る場所を捜していた。酒で逃げきろうとした私は、軽率と愚行の頂点に居たようだった。
だからこの儘(まま)アパートに戻れる分けがなかった。由紀子との家庭的な和(なご)やかな情緒を一度に金繰(かなぐり)捨てて、放蕩息子(ほうとう‐むすこ)のように、幾重にも放蕩を重ねたい気持ちが湧き上がっていた。
(何処かが間違っている、何処かがおかしい……)得体の知れない厭世観(えんせい‐かん)が湧き起こる。このようなことを何度も反芻(はんすう)する度に、潮(うしお)のような怒りが込み上げて来た。
こんな時、出来ることは酒を飲み、放蕩を繰り返すしかない。それは仕事に比べれば何でもないことであった。酒の飲んで酒に呑(の)まれ、一時の慰安(いあん)を愛欲や快楽に求めても、それは難解な仕事を醫(いや)す疲れた後の、贅沢(ぜいたく)な閑(ひま)潰しであったかも知れないが、そんな贅沢(ぜいたく)をこの際(さい)味合わなければ、私の気持ちは他に持って行きようがなかった。私の人間未熟は此処にあった。
私は無性に苛立っていた。そんな時、後ろから女の声がしたのである。透(す)き通るような声である。真逆(まさか)俺を呼び止めたのでは、否(いや)、そんな馬鹿な。私は頭(かぶり)を振り、この声を無視した。
しかし再び同じ声がした。私は一瞬耳を疑った。
そしてその女は、私の前に立ちはだかるようして、
「お茶でもご一緒しませんか?」と、微笑んだ顔を纔(わずか)に傾けた。
何となく愛くるしさを湛えていた。実にチャーミングである。心の中で思わず「かわゆい」と発したくなるような衝動に駆られた。
予想もしない、見知らぬ若い女が、通りすがりに声を掛けて来たのである。服装もごく普通の恰好であったが、別段水商売風でもなく、どちらかといえば生娘(き‐むすめ)のそれに近いような清潔感の溢れる小綺麗(こ‐ぎれい)な恰好であった。
どうしてこの女が私などに声を掛けて来たか、私としては理解に苦しむ、不可解さが脳裡を駆け巡っていた。
「えッ……?」
私は真逆(まさか)と思った。聴(き)き間違いでなかろうかと、首を捻っていると再び、
「お茶でもご一緒しませんか?」と同じことを言うのである。
それはあたかも同じ言葉を、一分(いちぶ)の間違いも無く、録音テープが繰り返したとしか思われないような正確さで、私に同じ言葉を告げたのである。これは最近現われた、タチのよくない男騙しの悪戯(いたずら)なのだろうか。
私はまじまじと、彼女を見つめた。少し頭が訝(おか)しいのだろうか。
それとも私の知らないうちに登場した、今、流行(はや)りの、六本木(ろっぽんぎ)辺りに猛威を振るっている新手(あらて)の、男をナンパするスーパー珍種なのだろうか。
しかしそれにしても、目付きは何処も異常が感じられないし、突飛(とっぴ)で、前衛的な考え方の持ち主とも思われない。また新興宗教の勧誘とも思われない。
そして私は自分自身を振り返っても、通りすがりに女から声を掛けられるような容貌(ようぼう)は備えていないし、恰好もいたって不恰好である。
その私が声を掛けられたのである。耳を疑い、目を疑う方がむしろ当り前というものである。
年齢は私より、一つか二つ下というところだろう。その服装からして一見卒業を半年後くらいに控えた、女子大生のようにも見える。決して遊び慣れして、摺(すれ)れているようにもいるようにも見えない。純情そうに映ったのは、私の目の錯覚だろうか。
私は下から順に彼女の服装を見上げていた。可愛らしいワイン色の今流行のハイヒール、ダークグリーンのミニスカートに白い薄手のハイネックセーター、肩にはショルダーバックを掛けている。清潔感の溢れた女性であった。
手にはエッジバンドで巻いた二、三冊の教科書らしき本を手にしている。外見は全く女子大生のようであった。その全身から醸(かも)し出す雰囲気に、何処か良家の育ちの良さを感じさせた。碧(みどり)の黒髪は、毛先の方をカールさせて肩まで延ばし、愛(あい)くるしい笑顔を私に投げかけている。私は暫(しばら)く、唖然(あぜん)とした素振りが隠せないでいた。
「お茶って、一体どういうこと?」
「決まっているじゃありませんか」
「決まっているって?」
「もう、鈍(にぶ)い方」ツンと拗(す)ねるような言い方をした。
これは作戦だろうか。そんなことが、一瞬脳裏を翳(かす)めた。
「どう鈍いの?」
「もう!」また、というように可愛く拗(す)ねて見せる。しかしこれが彼女の作戦であったのだ。私はまんまと嵌(は)められ掛かっていた。
「あたしとお茶を飲むの、お厭(いや)ですか?」と、しよんぼりして俯(うつむ)いた。その仕種(しぐさ)といい、芝居にしては実に中々堂に入っていた。
「別に……そんな訳ではないのだが……」
お人好しの私は、言い訳のようなことを言って、しどろもどろになり、慰めの側に回っていた。
「じゃあ、近くでお茶でも如何かですか?」
私はこれを聞いて、後に退けない気持ちになっていた。こうまで言われて断われば、男が廃(すた)ると思ったからだ。
一旦は不審に思いながらも、彼女に誘われる儘、のこのこと蹤(つ)いて行ってしまったのである。結果が、善しにしろ、悪しきにしろ、一度蹤いて行って、その正体を見極めねば、はっきりとした結論は出せないではないか。
彼女に誘われてある喫茶店に入った。
店の中は薄暗く、所謂(いわゆる)同伴喫茶であった。各々のボックスに中では、男女が抱きあっているのが、ぼんやりと窺(うかが)える。此処は彼女の育ちの良さと、その言葉使いから考えて、似つかわしいような処ではなかった。
彼女はこの事を知っていて、『お茶でも如何ですか』と言ったのだろうか、と頭の中でその不可解さを反芻(はんすう)した。
しかし彼女には、周囲の男女が抱きあうような不埒(ふらち)ことを強要して、某(なにがし)かの金銭を巻上げるようなプロの女には見えなかった。
更には、近くに面倒なお兄さんが見張っているのではと思ったが、「八方眼(はっぽう‐がん/顔は前方を向きながらも、約270度の視野範囲で辺りの様子を感知する術)」を遣って、周囲を警戒したが、それらし者は見当たらなかった。彼女には別の何か、隠された目的があるのだろうか。
そんな思索に耽っている時に、コーヒーが運ばれてきて、私に「どうぞ」と薦(すす)め、自身もコーヒーカップの淵(ふち)に上品に口をつけていた。
私も薦められる儘(まま)にコーヒーをすすりながら、暫く彼女の話を聞いていた。妙に彼女は行儀がよく、そして言葉遣いの上品さが、いつまでも耳から離れなかった。しかしそれでいて、やや下がりぎみの目付きに、一種独特の淫蕩(いんとう)さがあり、それは誘惑的であった。
また彼女を見つめると、座に耐え切れぬ素振りで俯き、赧(あか)くなって、下を向いてしまう仕種(しぐさ)を繰り返すのだった。芝居なのだろうかと思いつつ、それが彼女への駆逐(くちく)の判断を狂わせる原因になっていたのである。
彼女は一種の煽情的(せんじょうてき)な仕種を作りながらも、話は大学での友達のこと、授業や先生のこと等が中心であり、饒舌(じょうぜつ)に任せて、一通りを話し終えたところで、私と打ち解けたような素振りを見せた。
話の内容からすると、どこかの大学の文学部の学生であるらしい。私も意気投合したかのように思い込んで、彼女もお近づきの印に、次に何処かで酒でも呑みに行こうとう言うことになった。その言葉に従って、一先ずこの店を出た。
私に備わっている筈(はず)の分別というものが、全く役に立たない局面に面していた。しかし不埒(ふらち)な誘惑に駆られて、しめしめと思ったものの、実は財布の中味が気にかかった。彼女を酔わせるだけ酔わせて、ホテルに誘う金子(きんす)としては些(いささ)か心細いものであった。
一方で由紀子という想(おも)い人を心に置ながらも、もう一方で通りすがりの名も知らぬ彼女と、一時のアバンチュールを楽しむという、私自身の精神構造は悪辣(あくらつ)な二重人格構造的な要素があった。この意味で私は、恋愛と肉欲を、他所行(よそいき)と普段着(ふだんぎ)のように、上手に分類していた。
私の狡猾(こうかつ)な一面を物語る悪態(あくたい)かも知れないが、さして私は咎(とが)められる程の道徳的な良心も、あるいは女難という仕掛けられた罠(わな)に墜(お)ちる危険も、些かも感じなかった。今はただ、騎虎(きこ)の勢いであった。
「何処か、お酒の呑める素敵なお店知りません?」と、可愛い仕種で、私の顔を覗き込んできた。
「えと……(この際、立ち呑み等の角打や焼き鳥屋はムードがなさ過ぎて駄目だろ……、えと……、えと……)」と、素早く検索をしているのだが、咄嗟(とっさ)には思い浮ばない。
彼女の言った『素敵なお店』を念頭において、私は女性を同伴して、気軽に入れる店を思案していると、彼女は自分が良い店を知っていると言う。
彼女は笑顔で再び私の顔を覗き込み、そして今度は、私の腕に両手を絡ませて、すがるような恰好をとり始めた。まあ、彼女に任せておけばそれでいいか、と思いながらも、一体彼女は何者だ、という詮索(せんさく)が拭い切れずにいた。それでも、のこのこと蹤(つ)いて行く破目になった。
そして彼女が案内する店が近まった途端、私は自分がキャッチ・ガールに捕まったことを悟った。まんまと、してやられたのだ。
噂に聞いていた新手の女子大生風のキャッチ・ガールであった。アルバイトでこれをやっているのだろうか。そう、世の中は、自分が買い被(かぶ)る程、都合の良いように出来ていないのだ。心の隙(すき)を突かれて、旨く填(は)められた観があった。
物心両面に亙(わた)って苦悶(くもん)し、危ない綱渡りをしている状況下に居る私としては、このボッタくられるであろう、思わぬ出費は、実に痛いものだと想像出来た。人は不思議なことに、そういう苦境に立たされている時に、思いも寄らぬ誘惑に駆られてしまうものである。何と皮肉なことであろうか。
迂闊(うかつ)に蹤(つ)いて行くことからして、私には冷静さに欠けていたのである。彼女はその界隈(かいわい)で、何処も知り抜いているような足取りで私を誘導していく。まるで鼠(ねずみ)の穴蔵まで知り抜いているように、あっちに曲がったりこっちに曲がったりして、路地に靴音をたてて歩いた後、訳の分からない奇妙な店に誘導した。
スナック規模でありながら、店の名前は『高給クラブ・雅城』とあった。ここは間違いなく高級だと思った。
店の中は薄暗く、上品とは言えない卑猥(ひわい)なピンクのウォール・ライトで照明がなされていた。
サングラスを掛けたヤクザ風のバーテンが、カウンターの向こうでグラスを拭いていた。ホステスは五、六人いたが、高給クラブにしては、下品な低級ホステスたちであった。
お絞りが出され、それで顔を拭いた。何気なく投げた私の目が、一人の女の目に留まった。その女が私の傍(そば)にやって来て、隣の席に座った。
「何になさる?」
「水割り」
その女がボーイを呼んだ。それは声高(こわだか)な、早朝の時を知らせる鶏のような派手なけたたましい声であった。馬鹿な所に入ったものだと、自らの軽率と、愚行を後悔した。出されたコップ一杯の水割りを一気に呷(あお)ったが、趣味に合わないので一、二杯で此処を出る予定でいた。これ以上、悪鬼羅刹(あっき‐らせつ)のような所に居ても仕方ないではないか。
そんな時、横に居た女が、私の太腿辺りを撫(な)でて、今にも一物に届かんばかりであった。これに黙っていたら大胆にも、ズボンのジッパーを降ろしてきたので、この手の店は高くつくと思って、何とか早く此処から逃げ出すつもりでいた。次に出てきた水割りも、一気に呷(あお)り、早々に出ようとした。立ち上がってバーテンに訊ねた。
「いくら?」
「五万円いただきます」
値段は目玉が飛び出る程、超高級ではないか。《おいおい冗談だろう、それはないぜ》という言葉が口から出かかった。
「今、二万しか持ち合わせがないんだが……」
「困りますねー、お客さん。ちゃんと耳を揃(そろ)えて払ってくれなきゃ」
「どうすればいいんだい?」
「若いもん、付けますから、そいつに、金渡してくれませんか」
凄(すご)みのある声でバーテンが言う。
目付きはサングラスで隠れていて、その凄みの程は分からないが、ドスの利いた声から想像して、かなりの根性の坐った男のようにも見えた。
一見の、飛び込みで入ったサラリーマンであれば、これに恐れをなして素直に金を置いて逃げていくであろうが、私は一筋縄(ひとすじ‐なわ)で軍門に降ることが嫌で、無駄と思えたが一応ゴネてみた。
「水割り二杯で、二万でも高い。五万とは、一杯二万五千円てっわけ?」
「お客さん、変な言い掛りつけないで下さいよ。うちはまとーな商売をしている店なんだ。言いが掛りつけると、ただじゃすまないよ」
バーテンは私の耳元に口を近付けて、ガムの匂いがする口臭を匂わせながら言った。これは勿論(もちろん)脅しのつもりであろうが……。
こんな時、行動家はどうすれば良いか。行動の新鮮さを考えた場合、無分別を露(あらわ)にし、残忍な犬歯(けんし)を剥(む)き出しにして、鋭く打って出なければならない。ここに至って軽率と愚行は、その頂点に至ったのだった。
「それ、どういう意味?」私は居直った。
肩を押してきたので、カウンターの上に飛び乗って、バーテンの顔に一発蹴りを入れて、何も払わないで即座に逃げた。バーテンは床に転げたようだった。
バーテンが慌てて、
「あいつは無銭飲食だ。追え!」と、入口に居たボーイに私を追わせた。店の四人程が後を追って来て、やがて路地に追い込まれた。追い込まれた先に、スナックが一軒あったので、仕方なく此処に飛び込んだ。男たちも一緒にドッと、雪崩(なだれ)込んで来た。私の後肩を捕まえて、追って来た男が「貴様!」となった。
これから此処の店の中で大乱闘となる。辺りは喧々囂々(けんけん‐ごうごう)とした騒ぎになり、店内に居た客は、早々に避難を開始した。
昔、山村師範から聞いていた言葉を咄嗟(とっさ)に思い出した。
『水は高き処から、低き処に流れる』
この鉄則に隨(したが)って、いつの間にか、カウンターの上に飛び乗っていた。客の飲み残したボトルやグラスを蹴散らしながら、自分の留まる陣地としての足場を作り、奴等の攻撃に備えた。
男たちの一人が、「こいつは無銭飲食だ。叩きのめせ!」と怒鳴った。カウンターの上で、下から襲いかかる奴等を蹴りまくった。
孫子(そんし)の言う、『凡(おおよ)そ軍は、高きを好みて低きを憎み、陽を好んで陰を卑(いや)しむ』とある、これ実践をしてしまったのだ。
店の中が目茶目茶になり、乱闘に加わった数名に怪我人が出た。通報されて、例の如く警察にお世話になる破目となった。
Y警察署の、いつかの見覚えがある取調室に居た。私の顔を憶(おぼ)えていた取調官が、
「お前、今度は喧嘩か?!」と私の顔を侮蔑(ぶべつ)するように鋭く睨(にら)んで言った。
今日はとんだ厄日(やくび)であった。
─────その夜、家に帰されたが、身柄引き取りに当たり、誰かに連絡しなければならなかった。仕方なくアパートの電話番号を教えた。電話でこの事を知った由紀子は慌(あわ)てて飛んで来た。そして彼女が、私を払い下げ、身許(みもと)引受人になった。
此処から出て、彼女の車に乗せられた。今日の厄日には未(ま)だ続きがあったのである。
車の中は今までになく息苦しくて、屠殺場(とさつ‐ば)に向かう羊にも似た心境であった。今まで警察署の廊下をシャナリシャナリと歩いて来た天女は、調書を取られる私の姿を見て、即座に夜叉(やしゃ)の表情になり、キッと睨(にら)みつけて一瞥(いちべつ)をくれた。
取調官の言われる儘に、某(なにがし)かの書類に記載し、あるいはサインして、捺印(なついん)する彼女の姿が繰り返され、これを暫(しばら)く反芻(はんすう)した。
由紀子はあの書類に、私との関係を、どのように記載したのだろうか。婚約者と書いたのだろうか、それとも内縁の妻とでも……。
私には弁解の余地がなかった。
況(ま)して一種の下心から、新手(あらて)のキャッチ・ガールに填(は)められ、この態(ざま)に至ったのは、私の女好きな一面が、この結末を招いたともいえるのである。
運転している彼女は、怒っている様子で、何も話しかけてこない。一向に夜叉(やしゃ)の表情を崩さない。車は小倉方面に向かって走っているらしかった。
横を振り向こうともしない。えらく嫌われたものだ。某(なにがし)かの言い訳をして、喋らなければいけないと思うのだが、その機会がなくて、全く取りつく島がなかった。
車は深夜の路上を順調に走っているように思われたが、心なしか、スピードが次第に加速されて、怒りに任せて暴走しているようにも思われた。一体由紀子の心の中に、何が波だっているのだろうか。
兎に角、突っ走ることに徹底していて、女にしては大胆で、乱暴な運転をしていた。その上、カーラジオのスイッチを乱暴にオンしたのである。カーラジオから流れ出すロックのリズムが、しつこい蝿(はえ)のように羽音(はおと)を立てて纏(まとわ)り付いてくるのだった。そして私だけでなく、また彼女も蝿の唸(うな)りに苛立っていた。
(運転免許を取って、何年になるのだ?)と質問がしたかった。
乱暴な運転が、危なくてしょうがなかった。途中、道路のアスファルトが剥(は)げた穴に、車の片輪を思いきり突っ込んだ。
この突然の衝撃は、私の首に直接伝わった。彼女が態(わざ)とそうしたようにも思える。車輪を穴に突っ込んだということは彼女が、まだ怒っているという証拠なのだろうか。そんな詮索(せんさく)を駆逐(くちく)していた。
少なくとも、彼女の横顔の側面からそのように想像して、これが円満に納まるとは言い難かった。
こんな場合、私の方から一々話を切り出して言い訳をし、更に彼女の怒りを買うこともあるまいと思った。だから私も黙って、この場の成り行きに任せた。
その時、急にブレーキが踏まれた。車は軋(きし)むような激しいブレーキ音を立てて急停止した。乱暴な停車であった。支えるような物のない私は、前につんのめりそうになった。フロントグラスに頭をぶっけんばかりの、実に乱暴な止まり方であったが、辛うじて車の天井を支えて、それを免れた。見れば何処かの深夜喫茶の前であった。
「此処で、お降りになって!お話がありますの!」
沈黙を破り、開口(かいこう)一番、由紀子が口を尖(とが)らせた。その言葉で、私は叱られることを恐れる、子供のような表情になっていた。
喫茶店のドアを開けると、軽食らしい食べ物の匂いと、コーヒーの香りがこぼれ出て来た。店内には、数人の男女客が片隅で屯(たむろ)していたが、彼女の後を蹤(つ)いて店の中に入り、一番隅の目立たない席に身をせばめて座った。
彼女は自分の一旦座った席で、また更めて私の方に躰を向けて座り直し、少し柳眉(りゅうび)を逆立てるような形相(ぎょうそう)をして、
「どうして、あなたはいつも問題ばかり起こすの!」と詰め寄った。
彼女は眼を三角に尖(とが)らせ、私を睨(にら)んでいる。暫(しばら)くの間、彼女の眼を正視することが憚(はばか)られた。
こうなったら彼女の好きなように言わせて、何にでも素直に、「はい、はい」と言うしかない。俎板(まないた)の鯉になるしかなかった。どうにでも料理してくれと諦(あきら)めていた。反論の余地も、弁解の余地も全くない。
第一、弁解をしても、やがてそれは悪質な副作用となって、今晩の出来事の真相を益々複雑にしてしまう虞(おそ)れがあった。私は彼女から、自分の弱点に触れられるような辛い時間を過ごすしかなかった。今から米搗(こめつ)きバッタのように、頭を只管(ひたすら)下げ続ける作業が始まるのである。私は頽廃的(たいはい‐てき)な雰囲気に支配され始めていた。
暫(しばら)くして、ウエーターが注文を取りにやって来た。私は、この彼が妙に味方になってくれるのではないかと期待した。
「何になさいますか?」
私はテーブルに備えつけられたメニューを見て、
「酒のようなものは置いてない?」
「コークハイのようなものでしたらありますか……」
「もう少し命に関わるような、度の強いテキーラかブランディーは置いてない?」
「当店には、生憎(あいに)くと置いてございません」
私の期待はこの言葉で裏切られた。仕方なく由紀子に合わせてコーヒーにした。
「命に関わるようなお酒を飲んでどうなさるの?」
「あの……、今晩の晩酌が、まだでしたので……」
「もう晩酌は、例のスナックで済ましたんじゃありませんの?」
(ううッ……何と言う皮肉!何と人の揚げ足を取るのが上手なんだ、この女)
こんな時、命に関わる酒でも引っかけなければ素面(しらふ)ではいられないではないか。
この不意を突いて、再び彼女の言葉が尖(とが)った。
「今日のことは、どう言う経緯(いきさつ)ですの?!」と、言った儘、暫くの間、無言で睨(にら)みつけた。私は黙(だ)んまりを決め込むつもりでいたが、どうもそれは許されないらしい。経緯の最初から終わりまでの遂一を、私の口から語らせる気でいるらしい。
「あのですね。これを、一言で言うのは非常に難しいのですが……」
何か言おうとしたが、頭が混乱し始め、それに、ある種の戸惑いが伴った。その戸惑いの余り、一連の出来事の全貌(ぜんぼう)が直に語れなかった。
「別に、一言でなくてもいいわ。一言で言えないのなら、二言でも三言でも、どうぞ、ご遠慮なく、お好きなだけおっしゃって!」
彼女の舌峰(ぜっぽう)は冴え渡っていた。
今更、《済みませんでした》と謝る分けにもいかず、下を向いた儘(まま)で畏(かしこ)まっている自分自身の姿は、何か滑稽(こっけい)であるようにも思われた。
「……………」
話の接(つ)ぎ穂(ほ)がない感じだった。
彼女は私を叱責する敵愾心(てきがい‐しん)に燃えていた。それが妙に、魅力的にも思えた。怒られながらも、いい女だと感じていたのである。しかし、私の胸中を由紀子に悟られれば、彼女はいっそう激昂(げっこう)するだろう。私はひたすら打ち拉(ひし)がれながら、ただ項垂(うなだ)れて、恭順(きょうじゅん)の態度を示していた。これを昔風に云うならば、彼女に仕種(しぐさ)は柳眉(りゅうび)に逆立てると云った形容がぴったりで、怒っている女は中々なものだと食指が動くのであった。
「兎に角あたしが納得のいくように、今晩あったことを一部始終、包み隠さず説明なさって下さい!ゆっくりと聞いてあげますから」と、容赦(ようしゃ)がない。
冷静を装いながら、そこまで立て続けに一気に喋ると、次に悍(けだけだ)しい説明を促した。
彼女の髪伐(かんぱつ)もつかせない舌鋒(ぜっぽう)には妙な迫力があり、一方で鋭く、また一方で隙(すき)がなく、隅々まで精密に冴え渡っていた。逃げ場を失った仔鼠(こ‐ねずみ)に、何を喋らそうというのだ。
(うわちゃ、えずかー《博多弁で「怖い」の意味》 )と内心思いながら、至近距離から直撃弾(ちょくげき‐だん)を食らったような気がした。私は反撃できずに、蟻(あり)にでもなって、穴の中に入りたい気持ちであった。
「さあ、躊躇(ちゅうちょ)することはないわ」彼女の声が更に尖った。
「……………」全く付け入る隙(すき)がない。まるで姉から説教を食らっているようでもあった。考えもなく下手に喋ると、二次災害が生ずる虞(おそ)れがあった。とんだ厄日だった。
「何とかおっしゃって……!」
由紀子は激しい口調で、私の尻を叩いた。
「何でござんしょ?」私は、どこまでも惚(とぼ)ける気でいた。
「まあ、何でござんしょって、白々しい!」
「……………」
「何を言い淀(よど)んでいるの?!」
彼女は逃げる隙(すき)を与えない。
「うう………」
問い詰められ、益々戸惑の坩堝(るつぼ)に堕(お)ちた。
次から次に攻め立てられて、私は答を返す機会を失っていた。これ以上逆鱗(げきりん)に触れない努力が必要である。
そして事は最悪なのだ。それに彼女は思ったより手強(てごわ)い。
誰か話術名人に、こんな最悪の非常事態に、どんな顔をして、どのような言葉を交したらいいか、教えてもらいものだと思った。話の糸口が見つからず、言葉を探す頭の中が混乱して、以前、H警察署で写真を取られた時の、坊主頭の野仲の顔が頭に浮かんだ。
仕方がないので、ニコッと笑って、「はい、チーズ」と言って、軽率にも不真面目(ふ‐まじめ)なギャグで逃げ切ろうとした。
退廃(たいはい)的な気分に陥っていた私は、些(いささ)かの開き直りも伴って、このような馬鹿なギャグまで口走ってしまったのである。これは一条の寸劇(すんげき)であったが、受けなかったらしい。この軽率で、的外(まとはず)れなギャグは、彼女を更に怒らせた。
「もう、バカ、バカ!全く、人の話を真剣に聞いてないんだから……」
私は不真面目だということで、更に散々絞られた。
そして、私は段々、彼女から尻に敷かれ始めているのを感じていた。
此処で一時間程、こってり絞られてアパートの戻った。本日は二重の厄日であった。
勿論、大乱闘をやって弁償させられた挙げ句、怪我人の治療代まで払わされたことは言うまでもない。これで私の貯金はゼロになってしまった。
|