第六章 宿命の因子
●太子流平(兵)法と八門遁甲
この日、恐ろしいことを知ってしまった。
今まで密(ひそ)かに研究していた書物の中から、不思議な事実に行き当たってしまった。太子流平法(たいしりゅうへいほう)の奥儀の確信に触れてしまったのである。これは決して、触れるべきものでなかった。
太子流平法は、そもそも聖徳太子の名前に由来し、望月相模守定朝(もちづき‐さがみのかみ‐さだとも)を、その流儀の祖とする軍学平法(兵法)である。定朝は、聖徳太子(推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い本名は厩戸皇子/うまやど‐の‐おうじ)の軍要の奥儀を夢の中で悟り、甲斐(かい)武田家に属し、屡々(しばしば)騎馬を以て、奇襲攻撃で軍功(ぐんこう)を立てた人物である。
甲斐(かい)武田家が滅亡すると、芦名盛氏(あしな‐もりうじ)の地頭(じとう)の代から、定朝の門弟が、会津や仙台の東北各地で活躍していた。会津藩初代当主・保科正之(ほしな‐まさゆき)は、当代希(とうだいまれ)にみる名君で、徳川四代将軍・家綱(いえつな)の補佐役を勤めた人物であった。朱子学(しゅしがく)の山崎闇斎(やまざき‐あんざい)、神道の吉川惟足(きっかわ‐これたり)を招いて、自らの修身と、藩士の教育に勤めたのである。
保科正之は、江戸初期の徳川御三家の水戸藩・徳川光圀(とくがわ‐みつくに)、外様大名岡山藩・池田光政と並ぶ、儒教的な文治(ぶんち)政治を行った三大名君の一人であった。
因(ちな)みに、幕末の会津藩家老・西郷頼母(さいごう‐たのも)は、明治になって保科近悳(ほしな‐ちかのり)と名字を改めるが、藩祖保科正之の末裔(まつえい)である。会津藩では、この太子流平法が極秘のうちに伝わり、二流派に分かれていた。
浦野派と中林派である。太子流は平法(兵法)として、山鹿(やまが)流と甲州(こうしゅう)流の影響下にあり、八門遁甲方術(はちもんとんこうほうじゅつ)の流れを汲(く)む複雑な三元式(さんげんしき)遁甲の騎馬戦法を用いる流派であったと言われている。
特に山鹿流の影響が強く、剣術、柔術、杖術、棒術、槍術、弓術、薙刀術、小太刀術、殿中(でんちゅう)居合、馬術、操船術、騎馬軍法を含んでいた。
因みに山鹿流の二大宗家は、平戸藩(藩主・松浦静山)と津軽藩(特に有名なのは四代藩主・津軽信政で、遁甲は用いないが日取りの方術を得意とした)であり、長州の吉田松陰(よしだ‐しょういん)は、長州藩代々の山鹿流兵術師範の家にあり、長崎遊学の際に何らかの特命を受けて平戸を訪れている。
この特命が何だったか、実際のところ定かではないが、歴史的な暗示と謎を与えて、現代に問いかけているようにも思える。
太子流の根本は、『孫子の兵法』であり、これに騎馬民族の、複雑な三元式の八門遁甲の騎馬戦法が組み合わさったものと思われる。
八門遁甲は、別名「奇門(きもん)遁甲」とも言い、昨今の占いブームに屡々(しばしば)奇門遁甲の名前を目にするが、正確にはそのような占いの類では断じてない。
奇門遁甲の看板を掲げた占い師の仕事場や事務所には、宗教儀式のような神棚を祀(まつ)っているが、奇門遁甲と霊的な神聖は、一切関係ない。
極めてシビアーな、そして神も仏も存在しない、電磁気、力学、幾何学を用いる中国の古典物理学であるのだ。したがって、一切の神聖なものや占いは、ここに入り込む余地がない。
もし、ここに神聖なものや、占いとしてのものが入り込んでいたとしたら、これらは全て偽物(にせもの)であり、自分の遁甲知識の無知を補うために、神や仏を持ち出しているに過ぎない。奇門遁甲の名を語り、拝金主義に墜落した詐欺(さぎ)商人である。
遁甲は、元々「地理風水(ちりふうすい)」の一種であり、正確には「八門金鎖(てっさ)の陣」と「奇門遁甲」の二つが合体して、「八門遁甲」になったと言われ、漢籍書(かんせきしょ)では子部兵書に属しており、列記とした「兵術」なのである。
中でも、三元式の八門遁甲は、満蒙の騎馬民族の兵術であるとされ、騎馬戦法に際しては、恐るべき威力を発揮するといわれている。
わが国における遁甲の由来は、推古天皇(すいこ‐てんのう)の御代六百二年十月に、百済(くだら)の僧侶、観靭(かんじん)が日本に訪れた際、『暦本』『天文地理書』と共に朝廷に献上(けんじょう)したことから始まる。
直伝は、「符使式」とは違う「三元式」のもので、朝廷の命に従い、大友村主高聡が習得し、天武(てんむ)天皇自身もこれが大変上手であった謂われる。
遁甲は満蒙の騎馬民族の兵術であった為、中国でも学ぶことが禁止された。
唐六代・玄宗(げんそう)皇帝は、王室以外の者に漏れるのを恐れ、金属製の箱に厳封(げんぷ)したとある。やがて日本でもこれが禁じられた。
後に皇室が、一切の遁甲に関する秘巻を焼却したのを始め、これらの兵書は悉(ことごと)く禁止されて、日本からは、その殆どが消滅している。
密かに伝わったものとして、甲州流(山本勘助)や山鹿流、他に越後(えちご)流、長沼流、宮川流、宇佐美氏等の兵術が存在しているが、今日では一番肝心な日取りの軍配術(軍立/いくさだて)などの、奥儀と称される秘伝が悉く消滅しているのである。
したがって、山鹿流でも直伝のものは失われ、大方は室町期に複製書物として、後に作ったものであると謂われている。
しかし、その威力(この威力というものはあくまで電気的エネルギーという意味で、霊的エネルギーは一切存在しない)を恐れるあまり、徳川年間になっても、それを研究したり、用いたりすることは厳罰に処され、これらの書物を持っていただけで、即刻打ち首になったとある。
遁甲の語源を岩波書店の『広辞苑』で索引すると、「人目をまぎらわせて身体を隠す、妖術。忍術」とある。
これは語源学者自身の不勉強から起こる誤った解釈であろう。遁甲は忍術のように、その術者が姿を隠すものではない。
遁甲は、あくまで隠れるのは、十干(じっかん)の「甲」が、六儀(ろくぎ)(戊、己、庚、辛、壬、癸)の中に隠れるのであって、人間が姿を消したり、隠れたりするのではないのである。
十干の「甲」が、六儀の中に隠れるとは、方術(ほうじゅつ)の術法に隨(したが)って、物理学と同じような物理法則に随い、電気的法則(今日でいう常微分方程式のような)に則って、これを用いる。
甲または乙が、各々に変化して、三奇(さんき)(乙、丙、丁)の中で入れ替わり、複雑な行動を示す術として最重要視されていたのである。
蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)諸葛亮孔明(しょかつ‐りょう‐こうめい)が使ったといわれる「八門の陣」という得意な戦法も、この八門遁甲に由来している。
これは別名を「八卦(はっけ)の陣」と謂って、八つの陣から成り立ち、この陣へ攻撃を加える攻撃者の目から見れば、どれが一体本当の陣か分からないのである。
攻める側としてみれば、攻撃部隊を八つに分けるわけであるから、戦力は八つに分散され、攻撃機能が低下するばかりか、下手をすると攻撃側の命取りにもなりかねないのである。
指揮官の戦場心理の一つとして、戦闘展開のプログラムをどう演出していくか、そして当面の敵に対し、何処に優先順位をつけて、攻撃にかかるかと言うものに心を砕(くだ)くものである。したがって一定兵力を、攻撃目標に対して、それぞれ割かなければならない。
しかしそれには優先順位があり、本隊に主力を結集させれば、別動隊は攻撃に至っても完全な勝利は望めず、戦闘も手薄の状態で展開が始まる。
逆に別動隊に主力を結集させると、本隊は手薄となり、辛い状態で戦わねばならなくなる。二つに割かれても、このような驚異の影が付き纏うのであるから、八つに分けられた陣を攻撃するのは慎重な対策がいるのである。
これらを攻撃する側から見る場合、更に悪い事は、この八つの陣は、均等に八つに分かれているのではなく、どれが主力であるか分からないばかりか、変化に富んだ複雑な地形に陣配置がなされているのである。
丁度、一人に対して、八人の敵が包囲してしまった時と同じ状態になっていまうのである。これには魏(ぎ)の最高司令官であった司馬仲達(しば‐ちゅうたつ)も散々悩まされ、大いに苦戦したとある。
司馬仲達は、孔明の「八門の陣」という布陣の見事さに感嘆の声を上げ、「天下の奇才(きさい)なり」と唸(うな)らせ、その英知と力量を率直に評価している。
会津自現流の中には、「八方分身(分散)」という秘伝の高級技法がある。
八方向に分散した多敵に対し、一瞬の攻撃を促して誘い入れ、一気に殲滅(せんめつ)する恐るべき秘術がある。
この秘術は『誘い入れの誘(ゆう)』というものがあり、一斉に誘い入れる導入の通路を、自らを取り巻く空間に作って、心理的に「今が攻撃の汐時(しおどき)」という錯覚を、敵に起こさせて誘導する術である。
八人の敵を八人と思わず、常に一人であるとして、その内の一人に注目して、一人を倒す事が全体を倒す事と考える得意の戦術である。これを会津自現流の『やわら(弥和羅)之術』では、「秘伝・八方分身」という。
これらの戦術を土台として出来上がったものであり、根源は全て、八門遁甲の複雑な奥儀に由来するのである。
会津自現流の技の中には、他武道では見られない多数捕りは、江戸年間に由来しているものと思われる。
そして八門遁甲の奥底に秘めた、何か恐ろしいものの、見てはならない全貌を見てしまったような気がした。なぜならば、その奥底に秘められた『秘め事』には恐るべき註釈(ちゅうしゃく/但し書き)が付けられていたからだ。以降、これが私を悩ませ続けるのである。
●二人の銀座
道場で機関雑誌を作って、印刷代が払えなくなったことがあった。
この刊行物については、私は全く知らなかった。一部の幹部道場生が勝手に広告を集め、『大東流修気会・和合への道、創刊号(ここでは実際名を記載する)』を、私に何の相談もなく発刊したのである。内容も他派の歴史を引用し、間違いだらけであった。
この間違いが二十五年を経て、『合気ニュース』というマイナーな武道雑誌から誹謗中傷の原因を作ることになる。
この誹謗中傷の仕掛け人は、曾(かつ)てわが流の熊本支部をしていた西某(現在は北海道大東流の九州総支部長)が、自称宗家代理を自称する近藤某に、ご提供ご衷心(ちゅうしん)したものと思われ、某氏の意向が、『合気ニュース』の社説欄に二ページにわたり、外国人編集長スタンレーの筆によって、インチキ武道家として、私の名前が実名で記載さたことがあった。
内容は一方的で、公平と公正に欠け、四流五流週刊誌並みの、当方の発行物の誤りを、スキャンダル情報のような形で載せ、鬼の首を取ったかのように得意げに誹謗中傷されていた。近藤某は、余程私が憎かったのであろう。
さて、この間違いを記載した機関雑誌には、私の巻頭言や紹介欄はなく、専(もっぱ)らこの雑誌を作った数名の者が雑誌の冒頭に紹介されていた。私は発行人になっていたが、全くこのことを知らなかった。
そして、福岡市のF印刷屋から印刷代を35万円請を求されたのである。この雑誌には広告欄があり、この広告の集金については既に集金が終わった後で、この金銭も一体どこに消えてしまったか分からなかった。
兎(と)に角(かく)印刷代35万円を請求されたのである。
だが、この時期、私にはこの金額がなかったので、この印刷代を作るために自分の持っている刀剣類の処分をするしかなかった。それを処分するべく、東京に行くことを決意したのである。
自分の持っている日本刀や小道具を整理し、売れそうな物を選別して、東京の古美術商に売却する予定であった。北九州の地元より、東京の方が高く売れるためである。
この時、これを知った由紀子は、この金額を道場の寄進として提供するといってくれたが、私は彼女の有り難い気持ちだけを受け取って、東京へと旅だった。
金のことで、絶対に彼女の世話にはならないという私の意地があった。自立していることが、私の誇りでもあったからだ。
途中、彼女が、乗車駅である門司駅まで車で送ってくれた。門司から乗車した理由は、寝台特急『はやぶさ』が、当時小倉駅に停車しないためであった。翌朝、東京駅に到着した時、古田という大学時代の友人が迎えに来てくれていた。
この古田の家を宿として、三日程世話になり活動した。東京都内の道案内もしてもらった。
東京の大手の古美術商の柴田刀剣や、その他の古美術商を廻り、何とか五十万円程の金を作った。この日、代々木参宮橋の刀剣博物館に寄って、刀剣を鑑賞した帰り、当時この近くにあった合気道養神館にも足を運び、稽古を見学させて頂いた。
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▲合気道養神館で、館長の塩田剛三先生、串田先生、寺田先生から貰った各々の名刺。
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受付で私の名刺を渡し、二人で道場内の末席で暫(しばら)く座っていると、そこに寺田先生が名刺を持って現れ、私に丁重に挨拶した。
そして稽古時間が早いということで、二階の応接室に案内された。更にこの後、串田先生が入ってこられ、大東流の技のことについて色々と訊かれたので、踏み技と影技を説明したら、合気道にはないということで感嘆の声を上げられた。
稽古が始まった時、稽古風景を撮影する旨を伝えたら、快く了解して下さり、8ミリ撮影を一時間程させてもらった。(【註】合気道養神館で撮影したその時の8ミリフィルムは尚道館に保存されている)
その途中、塩田先生が名刺を持って現れ、私に丁重に挨拶をした。事前に私のことは、寺田先生の方から連絡済であったようだ。道場内の人々は私のような若造に、次々と先生方が挨拶されるので、私がどういう人物であるか興味を持たれたようだ。
稽古が終わって、塩田先生の稽古終わりの締め括りの挨拶に「今日は、九州から大東流の師範が、この道場を見学に来られている」ということを言われ、有り難い紹介を受けて、私は道場生全員の前で一礼した。
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▲二人の銀座(レコード・ジャケット)
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稽古が終わり帰る時、ある女性から話しかけられた。
私は、彼女が誰であるか知らなかったが、目の大きな美人であったと記憶している。袴を履いていたので(当時養神館では師範以外は袴を許可する風習はなかったようであるが、彼女は履いていた)有段者であると思い、「何段ですか」と言った意外は、何を話したかはっきり憶えていないが、立ち話で彼女と十分位話したであろうか。
私の案内役であった古田の話では、彼女が女優(当時はアイドルだったようだが)の和泉雅子(いずみ‐まさこ)であるというようなことを言っていたが、彼女が女優であることを知ったのは、九州に戻った後の、テレビの中で彼女が、男性歌手と、『二人の銀座』という歌を唄っている時であった。
芸能情報に疎(うと)かった私は、合気道養神館での彼女との立ち話を、意外にも淡泊な表情で受け止めていたようだ。ザ・ベンチャーズが作曲して、山内賢とデュエットで唄っていたと記憶している。
●テレビ出演
私が北九州に帰るに当たり、見送りに来てくれた古田と東京駅の新幹線ホームに立った時、昭和45年4月の、フジテレビ『万国びっくりショー』に出演した当時のことを思い出していた。
二年前のことが鮮やかに蘇(よみがえ)ってくる。
私がまだ、大学四年になったばかりの春休みのことであった。
私は弟子二名を連れて上京した。
しかし心外だったことは、東京駅の改札口を出て、八重洲口からタクシーの乗ろうとした時、数人の警察官に取り囲まれ、私の手に持っている刀袋の中の日本刀のことについて職務質問を受けたことだ。
この二週間前に日本刀と猟銃で武装した、赤軍派の「よど号事件」が起こっていた。
東京駅の派出所に同行を求められ、それに応じる以外手が無いと踏んだ私は、素直に蹤(つ)き従い、刀剣の登録証を提示した。
しかし更に身分、上京の目的等を訊かれ、少々腹立たしい思いをした。そして此処から解放されたのは職務質問から二時間以上経った、夕暮れに近い時間だった。
テレビ局の人に、時間の遅れたことの理由を述べてお詫びし、その日は用意してくれた宿屋に落ち着き、翌日の午前中フジテレビに向かった。
この番組は大阪で行われてた、世界万国博覧会を記念して催された番組であり、毎週金曜の午後九時(録画番組)から全国ネットで放送されていた番組である。この時、二人の弟子を従えて、揚々(ようよう)とテレビ局に乗り込んだものである。
私の演武の企画をプロデュースしたのは、大阪の『萬年社』というテレビ番組制作会社で、テレビ出演は昨年の『桂小金次アフターヌーショー』に続き、今回で二回目のことであった。したがってテレビカメラやスタジオ見学者の視線も気にならない程、テレビ慣れしていた。
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▲この時、「よど号」ハイジャック事件が起こった。
1970年(昭和45年)3月31日午前7時40分、富士山南側上空で日本初のハイジャック事件が発生した。過激派(赤軍派)学生9名による羽田発福岡行き日航機351便(よど号)乗っ取り事件である。彼等は日本刀や猟銃で武装していた。そして北朝鮮行を要求した。
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この当時起こった事件としては、日航の『よど号事件』で、日航機が日本刀や猟銃などで武装した赤軍派学生からハイジャックされた事件(極左の赤軍派九人が日航機よど号をハイジャックし、乗客解放後、朝鮮民主主義人民共和国へ亡命した事件)であった。
この事件は、テレビ出演と前後して、ほんの一、二週間前に起こっていた。
当時はまだ革命に嵐が吹き荒れていて、左翼系学生や勤労共産主義青年が健在であった時代である。そんな時代背景の中でのテレビ出演だった。
私たち三人は、番組が録画される一日前に、萬年社の手配するフジテレビの近くの旅館に滞在して、簡単な持て成しを受けていた。
テレビ録画は翌日の午後から行われ、録画前に腹拵(はらごしらえ)と言うことで、フジテレビの大食堂に案内された。大勢の人がセルフサービスの食堂で食事をしていた。何やらテレビで見覚えのある人たちが数人いた。
萬年社のスタッフから、色々とセルフサービスのシステムの指示を受けて席に着いたのであったが、丁度私の迎え合わせに居たのが、当時一世風靡(いっせいふうび)したカルメン・マキという女性歌手であった。私はこれを知らず、弟子からこのことを聞いて、テレビ局での芸能界の一面を垣間見たような気がした。
食事が終わって、控え室に案内され、私たちより先に司会のアナウンサーであった八木二郎氏(故人)が既に来て居て、台本を見ながら数人のスタッフと打ち合わせに入っていた。
私はこのような番組に、私の喋る科白(せりふ)があると言うことで、少し驚いてしまった。喋る一言一句が克明に決められて居るのである。
これには些か抵抗したい気持ちになった。
そして私独自のやり方で、やらせてもらいたいと言うことを司会の八木二郎氏とスタッフに申し入れて、要約その了解頂き、本番並みのリハーサルとなった。
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▲大東流剣術、枯竹斬りの妙技。
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| ▲大東流白刃抜きで、引き抜いた後の、刀を握った手を見せるところ。司会は八木治郎アナウンサー(故人)だった。 |
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▲白刃捕りの演武。一旦引き抜いた掌の鞘から、再び許の鞘に納める高度な儀法。
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この番組は30分番組であるが、私がメインと言うことで、私だけに15分の時間が割 かれていた。この15分は、ただ単に15分間淡々と演武をすれば良いと言うものではない。一時間近い録画の中から、よいカットだけを絞り込んで編集し直すものであった。私の演武は、有に二時間に及んだのである。
私たち以外に二組の外人招待ゲストがいて、彼らはアクロバットやジャグラーのペアーであった。私は彼らの演技に興味はなく、失敗しないように決められたことを確実に熟(こな)す事ができるかどうかと言うことだけを念頭に置いて、一人壁に向かい、静坐して、壁の一点を凝視しながらイメージをくり返し、精神統一を図っていた。
もし怪我をしたり、失敗したりすると、私のみのが恥ではなく、流派と道場を代表して来ている関係上、一つのミスも許されなかった。ミスは、即ち、流派と道場のミスに繋がるからである。
私の背中の後ろには、この流派と道場の代表者としての金看板が担わされていたのである。そんな私を見つけた八木二郎氏が、和(なご)やかに話をしかけて来た。番組の科白(せりふ)とは全く関係ない世間話であった。
「少し前に日航機のハイジャック事件がありましたね。覚えていますか?」
私は、アナウンサー口調の歯切れの良い声に振り向いた。八木氏の緊張を解すような優しい心遣いが窺(うかが)われた。
「はい」
「もし、君だったら、ハイジャックされた機内で、彼らをどのようにして、取り押さえますか?」実に鋭い質問であった。
八木氏は気軽に訊いたのであろうが、私には鋭かった。
「君は真剣白刃取りが出来るそうですね。それもかなり高度な白刃取りが……」
即座の返事として、私はこれにどう答えてよいか分からなかった。
「そんなに真剣に考えなくてもいいですよ。彼等はライフル銃も持っていたそうですから、真剣は取れるとしても、銃に立ち向かうことは不可能でしょう。私は君を緊張を解す気持ちで言ったことが、逆に緊張をさせてしまったようですね」八木氏の笑顔が走った。
何か、つまらないことを滑らせてしまった世間話に、八木氏は逆に恐縮したように言葉を繕い、そのお詫びを無言のうちに述べているようであった。
「まだ、時間があります。お弟子さんも一緒に連れて、喫茶室でコーヒーでもいかがですか?」
私たち三人は八木氏の誘いを受けて、喫茶室でコーヒーをご馳走になったが、私の頭からは「よど号」をハイジャックした赤軍派と機内で遭遇し、戦わなければならなくなった時、私は一体どういうことが出来るであろうか?という自問自答が生まれた。
相手の斬り込む刀を受け損なって、無慙(むざん)に斬り刻まれるか、あるいは首尾よく白刃取りが出来たとしても、ライフル銃で頭を打ち抜かれているのでは?という、自問が脳裏を駆け抜けていた。
この自問は本番の時には消えていたが、本番が無事終了すると、再び頭を持ち上げて来た。
テレビ局の玄関で八木氏と別れる時、
「八木さん。僕は今後の課題として、あのハイジャックに遭遇していたら、どうするかを今後の修行で結論を出しますよ」
「えッ?まだ、あのことを考えていたのですか」ちょっと驚いた様子であった。
私の中に、何かの迷いが吹き切れた、清々しい風が吹き抜けていた。八木氏と喫茶室で話した話にも、満足行くものでなかったが、《あの時、ハイジャックに、もし遭遇していたら》という自問自答は、今後の修行の励みになった。
しかしその結論は未(いま)だに出ていない。そして八木氏も既に故人になってしまっている。
だが、この日のことは、未だに忘れてはいない。窮地(きゅうち)に追い詰められた事態になると、八木氏に言った言葉を、時々思い出す今日この頃であった。
死を恐れて、武士道は成り立たない。死を超越したところに本物の武士道の崇高(すうこう)さがあるのだ。私の格闘は、外の敵ではなく、心の裡(うち)の敵との戦いであった。
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