運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 34


●不吉な予感

 その予感は的中していた。
 八門遁甲の奥底に潜む、平法「秘伝」の核心に触れて、知らなくていいもの迄を追いかけてしまったのである。
 『秘め事』
ひめごと/秘めて人に知らせない極秘の事柄)の註釈(ちゅうしゃく)に少しずつ真綿(まわた)で首を絞められているような感覚に陥ることがあった。この時、八門遁甲の詳細な遣(つか)い方は、まだ知らなかったが、大まかな基本玄理(げんり)は分かっていた。

 私は二ヵ月間も何処にも動かずに、このアパートに住み着いてしまったのである。そろそろ人間の持つ、電気線の影響が現れる筈だと思った。
 人間は同じ場所に二ヵ月もじっとしていたら、電気線が、下に沈んでしまい、自己の先天的な生まれの宿命の因子
(いんし)に振り舞わされていまうのである。これを「電磁沈下」という。

 つまりコップの中の泥水を掻
(か)き回して、暫(しばら)く置いておくと、水と泥は上下二層に分離され、泥は下に沈んでしまう現象である。
 これは私のような道場経営者にとって、これは大変危険なことであった。余りにも、長期間動かずに停滞し、停滞し続けていたのだった。人間に内蔵されている俗称「電気線」は、長距離を動くと電気線は上に上昇し、同じ場所で動かずにいると下に沈む特性を持っている。
 これは攻め込まれる側には、非情な弱点となる。まさに、その弱点を曝
(さら)した儘(まま)、敵の仕掛けた攻撃の日取りをじっと待っているようなものであったのだ。

 それは丁度、目標物として浮いている巨大な火薬庫を晒け出すようなものであった。これを目標に、攻撃されたら一溜
(ひとた)まりもない。全滅は避けられないのだ。これを知って顔面が蒼白(そうはく)になった。恐ろしい宿命の因子を、既にこの時、予感していたのである。何(いず)れ、これが発火点となって、途轍(とてつ)もない大爆発を起こすということを……。
 そして私は、運命の陰陽の周期によって、自らのこれから先が操られ、支配されていくかのような予見を観じていた。


 ─────朝の食事の時の会話である。
 「あなた、どうかしたの?何んだか顔色が悪いようですが……」
 「……………」
 「何か、心配事でもありますの?」
 「……いや、ちょっと考え事をしていたのですよ」
 「考え事って?」
 「……………」
 「災いのような事ではないのでしょうね?」
 女の勘
(かん)というものは、こういう時、実に良く当たるものだ。物事を的確に捕らえて、その真意に迫(せま)るものがある。そう云う意味で由紀子の勘は鋭いものがあった。

 この日の午後、私は早速山村師範を訪ねた。
 「何じゃと!いつからそのような事をほじくっておったのじゃ?」
 「はあ、かれこれ二年程に……」
 「全く、馬鹿なことをしたものじゃ」
 「はあ、仰
(おお)せの通りで……」
 「お前は、人を呪えば穴二つという例え話を知らなかったのか!」
 「はあ……」私は萎えていた。

 この意味は因果律
(いんがりつ)を説いたものである。壁に投げた投げたボールは必ず跳ね返ってくるという、この世の因果律を示したものである。白いボールを投げれば白いボールが、黒いボールを投げれば黒いボールが跳ね返って来るのである。黒いボールを投げて、白いボールが跳ね返ってくることはないのだ。

 私は脂汗
(あぶらあせ)を流していた。
 「お前は、この儘
(まま)では死んでしまうぞ」 
 「どうしてで御座いましょうか?」
 「運命に逆らったからじゃ」
 「……これを食い止めるものは御座いませんでしょうか?」
 「無いこともないが……」
 「それは如何なるものでしょうか?」
 「……いいか、良く聞け。お前は命と同じ位ものを持っておるか。または、それ以上のものでも構わん」

 一体、何のことを言っているのか、絶句していたが、薄々分かり始めた。そしてその言葉の先を言われることに、口には言えない恐れを抱いていた。
 「それを生贄
(いけにえ)にして、運命に差し出すのじゃ」
 「……何ですと?」
 「諸葛亮孔明も窮地
(きゅうち)に追い込まれ、困窮の挙げ句、これを行っている」
 これを聞いた時、
 (泣いて馬謖(ばしょく)を斬るとは、このことか……)と思い出した。
 「全て宇宙法則である。人はこれに逆らうことができん」
 「……もし、逆らった如何相成りましょうか?」
 「お前の命は最早これまでじゃ」

 この断片的な言い種
(ぐさ)に、次の質問が出てこない。
 困窮
(こんきゅう)で、絶句した儘(まま)ここを立ち去らねばならなかった。そして空しくたち帰る際、一言発した。
 「下手に藻掻
(もが)いて、死ぬなよ!」
 この言葉は、どういう意味であったのか。師が弟子を思う気持ちであったのだろうか。その真意に取りつけない儘
(まま)、困窮していた。
 山村師範は、八門遁甲の奥儀を極められておられたが、これを私に絶対に教えなかった。それは、このような事が必ず起こるということを予知していたからであろう。

 運命に生贄
(いけにえ)を出すとは、由紀子を生贄に出せと言うことであったのか、と突然一つの不安が過って、心臓ために良くない想像をした。これが過激な想像となって、疑心暗鬼に陥る。
 由紀子を生贄に出さなければ、こちらが運命から殺されてしまうのでは、等と良くない事ばかりが脳裏を翳
(かす)めた。ただただ唖然(あぜん)となった。山村師範の言いたかった事は、人間は運命の陰陽の支配を受け、その中で人生を経験すると言う事だったのである。

 私は、遁甲の恐ろしさを十分に承知していた。
 人間の持つ電気線の玄理
(げんり)は、電磁波などに代表される宇宙現象、あるいは宇宙法則である。それを無視して生きて行くことは出来ないのだ。
 人間が生まれ、そして死んで行くかは、総
(すべ)てこの玄理(げんり)の中で管理され、それが人間の叡智(えいち)を越えたところで忠実に実行されている。それを人間は知らない事だけなのである。

 如何なる天才も、如何なる美貌の持ち主も、あるいは大富豪でも、やがては時を終えると滅んで行く。天才だから、美貌だから、大富豪からという理由で、延命は一切行われない。姑息
(こそく)な手段で、流れ行く時間に逆らって、大枚(たいまい)を叩(はた)いたところで、それはほんの一瞬の延命でしか過ぎない。繰り返せば、宇宙の玄理において、延命はないのである。その人がどんなに正直者で、善行を積んだとしても……。

 宇宙の構造は、流れるようにして、流れる方向に流れて行く。この流れを逆らって、流れが、敢えて遡
(さかのぼ)る事はない。これが宇宙の真理であり、玄理であるのだ。
 つまり、これこそが「予定説
(よていせつ)」であるのだ。
 神の預言は、まさにこの「予定説」から成る。

 善人は「善を行う」から善人ではない。また悪人は「悪を行う」から悪人ではない。それは善を行うようにはじめから定められてものであり、また悪は悪を行うように定められたからである。
 原因があって結果があるのではない。結果が先にあり、その後に原因が来るのだ。これこそが、今まで日本キリスト者は、誰もが説明できなかった「予定説」である。

 喩
(たと)えば病気は、病気になる病因を作るから病気になるのではない。病気になった結果が、病気になる病因を招いたに過ぎない。病気と云う結果が、先にあって、病気と云う病因を招いたのだ。
 また、病気の病因は、先に述べた人間の電気線を、意識的か、無意識的にかは別にしても、無理に上げたり下げたりする事で起こるものということを、四千年前の賢人が、既に発見していたのだ。病気と云う結果は、電気線を上げたり下げたりする、その人の「予定説」によるものである。
 「予定説」は遁甲の玄理であり、また宇宙の真理でもある。
 そして、それが余りにも真理に迫っていたので、これをこれを知る者は世間に公開しなかったのである。


 ─────アパートに帰ってからも、この事を考えていた。由紀子の作った折角
(せっかく)の昼食を食べない儘、困惑をし続けていた。

 八門遁甲
(はちもんとんこう)は恐るべき術である代わりに、その術を使う者に対して、恐るべき責任を問いかけてくる。これは決して占いの類(たぐい)ではないのである。その人間の『命(めい)』に関わって、一生涯にわたり取り憑(つ)て、運命を左右する。
 聖徳太子以降、朝廷や幕府が、一切の遁甲に関する秘巻を焼却したことから見ても、その恐ろしさが分かると言うものである。私は、その禁を侵してしまったのである。

 この日は、方策
(ほうさく)に苦慮(くりょ)して、途方に暮れていた。気力が失せていた。そして部屋の電気をつけない儘(まま)、じっとしていた。何時間そうしていたか憶(おぼ)えていない。そこに由紀子が帰って来るまで気付かなかったのだ。黄昏(たそがれ)時であったろうか。そして黄昏時は、「大凶時(おおまかどき)といって、一日のうちで凶事を暗示する時でもあったのである。これから先の起る事を暗示しているのであろうか。

 「どうなさったの?電気もつけないで……」
 「もう、こんな時間なのですか」
 「どうかなさったの……?」
 「……別に何でもありませんよ」
 「最近、あなたの様子が訝
(おか)しいわ。何か困ったことでもあったの?随分と顔色が悪いようですけど」
 「……………」
 「私にも話せないこと?」
 「話すには、まだ考えが纏
(まと)まっていないのです」と力なげに答え、彼女に質問をはぐらかしていた。

 夕黄
(せきおう)まさに斜(ななめ)なり。そんな黄昏(たそがれ)が、私の頬(ほほ)を赧(あか)染めるような夕暮れ時であった。

 由紀子は、既に何かを感じ取っていたようだ。勘のいい女だ。危ない綱渡りをしている私の姿を既に察したらしい。
 しかし、私の沈痛
(ちんつう)の想いを察したのか、これ以上の詮索は続けなかった。こういう点が彼女の賢明なところなのだ。

 しかし私には、複雑な課題が残った。蜘蛛
(くも)の糸とのように、複雑に絡み合う糸の發(ほつ)れを、どういう方法で、解(ほぐ)していくかという複雑で難解な課題が……。


 ─────遁甲を一言で説明すれば、十干
(じっかん)・十二支(じゅうにし)と方術の組み合わせから、「方徳(ほうとく)と「方災(ほうさい)の攻めの吉凶を割り出して、それに六十四卦(ろくじゅうよんけ)の易(えき)を付随させ基本形の七千六百八十通りの攻略の日取り(正確には日時分秒の決定と接近に要するまでの侵入口)を決定し、敵陣に攻め込むと言う恐るべき秘術である。決して占いの類いではないのだ。
 そして、これは極めて古典的な中国の物理学なのである。

 三元式遁甲は威力絶大なもので、満蒙
(まんもう)の騎馬民族の集団戦法で、略奪及び他国を侵略する時に用いる方術(ほうじゅつ)である。この方術は、動き(秘伝では、左回りの旋回をある中心軸に対して、繰り返す特殊な技法)を伴わせて用いる為に威力が絶大になる。
 道教の中に太平道
(たいへいどう)というのがあったが、黄巾賊(こうきんぞく)の乱を指導した八門(パーモン)先生(張角)は、この三元式遁甲を巧みに使い、また彼自身相当なカリスマを持つ霊能者であったと謂(い)われている。それ故に、その的中と、預言は群を抜いていた。したがって八門遁甲は決して占いの類ではないのだ。

 また九星気学とも根本的に異なっているので、その的中率は凄まじいものがある。
 これは九星気学が過去のデータを集積して人間のタイプを九つに大まかに分類して、それに性格や、星廻りから来る方位の吉凶を占うのに対し、八門遁甲は一切そう言うものを排除して、方角の吉凶をシビアに計算するものであり、これは占いと物理学程の差があると言えよう。



●黄巾賊の乱

 黄巾賊の乱は、後漢の霊帝(れいてい)の中平元年(184年)に勃発する。張角を首領として河北で起った農民反乱である。張角らは悉々(ことごと)く黄巾(こうきん)を着け、黄老の道を奉じて太平道と称し、貧民を救済したので、たちまち強大となり、蜂起した。
 この時代、まさに世は、風雲急を告げる、動乱の時代であり、国家は分裂状態にあり、乱れる様相を呈していた。

 この発端は、宦官
(かんがん)の横暴に始まり、政治は濁流(だくりゅう)に押し流されて地に落ちていた。
 長年の間、度重なる盗賊の襲撃に収奪を繰り返されて、飢饉と破産に苦しむ華北の民衆は、八門
(パーモン)先生こと天公将軍張角(こうてんしょうぐん‐ちょうかく)を指導者として仰(あお)ぎ、続々と集結した。河北、河南、山東など八つの県で、一斉に蜂起(ほうき)した事件が起こる。これが世に言う「黄巾党の乱」こうきんとうのらん/一般には黄巾賊の乱で知られる)である。

 この時、奇襲攻略として用いたのが、威力絶大な三元式遁甲である。
 指導者側の側近としては、次男の張粱
(ちょうりょう)、三男の張宝(ちょうほう)で、この三兄弟は特殊な道教呪術(どうきょうじゅじゅつ)をも心得ていた。
 病に苦しむ大勢の農民たちを、霊符
(れいふ)の書いた紙を水の上に浮かせ、その水を飲ませて病気を治したりして、益々その人気は高まった。動乱の世情不安の中、瞬く間に数十万の大組織に膨れ上がったいった。

 集団の各々が戦闘の時には、頭に必ず黄色い布を巻き、勇敢に戦ったとある。
 黄色は、道教の宇宙循環理論の五行説
(ごぎょうせつ)から成り立った聖色であり、漢帝国を打ち立てた火の徳「赤」は、土の徳「黄」をもって、新しく循環されにばならないという意味が込められていた。

 土の徳を表すこの集団は、黄色い布を巻いていたことから、「黄巾賊」の異名が付いたのである。彼らは黄色い布を身に着ける事によって神聖化されたと信じ、武器が貧弱にもかかわらず、その戦いぶりは神懸
(かみが)かっていた。非常に勇敢で、それを鎮圧する政府の征伐軍は大いに苦戦したとある。
 しかし同年末、張角の病死によって一旦は衰えたものの、その後も残党の反乱は長き、能
(よ)く八門遁甲を遣わしめて、ついに後漢滅亡の契機となった。



●八門先生の遺産

 黄巾党(賊)の指導者・張角は、カリスマ性を持った超人間的な人物であり、三元式遁甲という世を混乱に陥れる恐ろしい秘術を伝承した人物であった。
 その秘術の中に秘める術理の危険性は、人間の運命と深く関わり、人の明暗相剋
(めいあんそうこく)を操って、人間の運命に永久に纏(まと)わり着いて、離れない人間の宿命を操作する恐ろしさにある。
 はっきり言ってしまえば、この術は古典物理学的な行動を表す、「呪
(のろ)いの藁人形(わらにんぎょう)」であり、攻撃することのみを中心に置いた巧妙な兵法である。

 諺に「人を呪わば、穴二つ」というのがある。
 これを使って攻撃した者は、また人からこれによって攻撃を受けるという意味を持っている。即ち、襲う者は、また襲われるのだ。
 敵を滅ぼした者は、やがて敵の子孫によって滅ぼされると言う皆殺しの戦法である。民族や国家の浮沈は、統
(すべ)てこの中に含蓄(がんちく)されているのである。その戦法の基礎となる基盤が、「命(めい)と「数(すう)である。

 「人間には命もあれば、数もある」と言ったのは、明治の文豪・幸田露伴
(こうだ‐ろはん)である。数は霊をなし、これを数霊(かずたま)として命を操るのだ。

 八門先生
(張角)も三元式遁甲の中心術理である「命(運命)」と「数(物事の複雑な関係)」を使って後漢政府を滅ぼし、農民王国の理想国家を造ろうと考えていた。しかしそれは果敢なくも実現しなかった。何故それが実現しなかったのか。

 それは才力や知力だけでは理想の新天地は開けないという、俗世間の素直にこれを認めない排擠
はいせい/他人を押し退け、自分が上位に立つこと)が働いて、現実とは違う方向に進んでしまうからである。それにより指導者・張角は、歴史上の悪党として、中国史に名前を刻まれることになる。

 太平道の指導者・八門先生は、「蒼天
(そうてん)(すで)に死し、黄天(こうてん)(まさ)に立つべし。歳は甲子(きのえね)に在(あ)り、天下太平とならん」と号令して、四十万の農民革命軍を指導して、新しい国造りを目指した。
 黄巾
(こうきん)を頭に巻き武器をとって蜂起した革命軍の最初の出だしは目覚ましかった。全国各地の官府を悉(ことごと)く焼き払い、燎原(りょうげん)火の如く掠(かす)め去った。

 しかしこれを封じ込める後漢政府は、黄巾を象徴とする彼らに対して、悪名高き「賊」の汚名を被せ、鎮圧軍を編成して、封じ込めを敢行したのである。
 だが、指導者・八門先生の巧みな遁甲戦術に政府軍はなす術もなく、この対応策に地方の豪族や私兵を動員して殱滅
(せんめつ)作戦で彼らと応戦した。これによって最初の華々しい出だしとは打って変わって、至る所で農民革命軍は敗走を重ね、更に指導者・八門先生の急死にともない主軍は壊滅するのである。

 農民王国の理想を掲げた太平道の世直しは、ここで事実上崩壊する。
 しかしこの農民王国の理想を引き継いだのが、五斗米道
(ごとべいどう)であった。盟主・張魯(ちょうろ)は、教義に帰依(きえ)したものたちに、五斗の米を与えたという。五斗米道の由来はこれに始まる。
 しかし彼らも、最後は殱滅作戦に封じ込められて、理想の農民王国は完成を見なかった。そして八門先生の遺産であった三元式遁甲が、世直しを掲げる革命の度に浮上してくるのである。

 唐帝国が滅亡する時も、三元式遁甲と思われる戦法に、太平の世に慣れ切った政府軍は、軽挙妄動を煽る攪乱策
(かくらんさく)に陥り、これを裏で操った北方系の侵略者の影があったといわれる。

 唐代末期の詩人・李商隠
(りしょういん)の詩に『楽遊原(らくゆうげん)』というのがある。
 これによれば、「晩
(くれ)に向(なんな)んとして意(こころ)(かな)わず、車を駆(か)って古原(こげん)に登る。夕陽(せきよう)限りなく好(よ)し只是(ただこれ)黄昏(こうこん)に近し」と詠(うた)っている。
 つまり、「夕方になると何となく心が落ち着かず、車で楽遊原に登ってみた。夕日は限りなく美しいが、もうそこまで黄昏
(たそがれ)が迫ってきているではないか」という意味の詩である。

 大凶時に詠ったこの詩は、方
(まさ)に的中であった。この詩の中には、世情の不安を詠(うた)い衰亡を思わせる暗示があったのである。唐は、この詩から僅か五十年後に、この暗示と共に滅んでいる。

 私の心情も暗い暗示に取り囲まれて、これと似ていた。
 私自身にも得体
(えたい)の知れない悲壮感(ひそうかん)に貪(むさぼ)られ、黄昏(こうこん)は、もうそこまで押し寄せていたのである。



●頼みごと

 それは四月の下旬のことであった。
 由紀子から五月の連休を利用して、病院に仲間と旅行に行きたいが、何処か良い宿は知らないかという相談を受けた。彼女の切り出した相談事は些
(いささ)かの遠慮が感じられた。何故ならば、この相談を受けた時は四月下旬であり、連休といえば後三、四日後のことではないか。

  内心、
(そんなことを、今頃になって持ち出しても聞けない相談だ。何処もこの連休は半年前から一杯の筈だ。少なくともそんなことは一か月前に言うものだ。何と計画性がない奴だ)という気持ちが込み上げて来たが、突然切り出した由紀子にも、私など想像もつかない急な事情があるらしい。

 私はそれを察して、
 「良い宿でしたら知っていますよ」
 「えッ?」由紀子の驚きは、番狂わせを思わせ、予期しなかった意外な返事という感じであった。

 由紀子は、私の「今頃になって」という言葉が返ってきはしないか、という懸念
(けねん)を予想していたらしい。それに対して、「知っていますよ」という意外な返事は驚かない筈がない。

 「突然のことで、あなたが怒りはしないかとちょっと心配だったの」 
 「僕は頼りがいのある人間です。特に窮地
(きゅうち)に至っては、特に頼りがいがあります。大船に乗った気持ちでいて下さい」
 「えーッ……?またそこで自惚
(うぬぼ)れる。それを言わなかったら、真当(ほんとう)にあなたは大物ですけどねェ」
 「じゃあ、小物に準じて、知らないと言いましょうか?」
 「意地悪!」
 「だったら、もう少し素直にお願いしなけりゃ」
 「またーッ、そうして直ぐ人の弱みに付け込む。そこがあなたの悪いところよ」

 彼女に指摘されるまでもなく、どうやら悪い性格をしているらしいと内心苦笑いが趨
(はし)った。

 由紀子は、病院で連休旅行の幹事を押し付けられてしまったらしい。
 彼女の話によると、計画していた旅先の旅館が、突然の火事で焼けたと言うのである。事実この年、旅館の火事事件が多かった。
 その後、何軒か別の宿を捜したが、何処も連休のことであり満員で、仕方なく諦めようとして、半信半疑の、ほぼ絶望的な気持ちで、私に話しを持ち出したと言うわけである。

 「ただしですね、急なことですから、余り贅沢なことは言わないで下さいよ」
 「贅沢って、どんなことですの?」
 「少々不便でも……」
 「分かっています。時間を忘れて、のんびりと何処かで日頃の疲れを取って、ゆっくり羽が伸ばせればそれでいいの」
 「じゃあ、任せてくれますね」
 「勿論ですわ」

 大きなことを言って請け負った私は、この彼女の笑顔に、多少の重荷と責任と不安の影を感じた。
 話はこれで一件落着したように思えるが、これからが私の奔走
(ほんそう)するところであり、私の苦労の始まりとなる。私が引き受けたのは、心当たりがあるからであり、これを頼りの綱(つな)にしていた拠(よ)り所があったからだ。

 その頼りに綱と言うのは、私がY大学の師範をしていて、そこに四国出身の学生がいたからだ。
 彼は口癖
(くちぐせ)のように、「俺の叔父さんは、四国の奥道後温泉の旅館組合の会長をしている」が、決まり文句であり、これを後輩たちに自慢げに話していた。

 「一度四国に遊びに来るようなことがあったら、いつでも俺の所に寄ってくれ。後輩のお前たちから金など取ろうとは思わない。俺の顔で高級旅館にタダで泊めてやってもいい」などと、日頃から大きな口を叩いていた。

 彼のこの言葉は、後輩たちの信望を仰ぎ、いつでも頼りがいのあり、ある意味で面倒見のいい先輩で通っていた。
 彼は一年前に卒業して行ったが、噂によると叔父さんの顔利
(かおき)きで、何処かのホテルの支配人になっているということであった。
 私は、いつも彼の口癖
(くちぐせ)を心の片隅に仕舞い込み、孰(いず)れ何かの時には、彼に頼むかと言う気持ちでいた。

 そして、ついに「孰れ何かの時」が来たのである。

 この彼の名をTと呼ぶことにしよう。私は学生たちから彼の電話番号を聞き出し、Tに早速電話をした。Tの返事は、私の想像していたものと大きく異なり、その予想を反していた。

 「先生の気持ちは急遽
(きゅうきょ) のことで痛い程良くわかりますが、幾ら顔の広い私でも、今頃になって、そんなこと言われても無理です。一年の内で最大の連休を前にして、今頃申し込んできても、空き部屋があると思う方がおかしいじゃありませんか」その口調は少々傲慢(ごうまん)で、不機嫌に苛立っていた。

 Tの一言で呆然となり、それ以上、返す次の言葉が出てこなかった。

 (顔の広い君だからこそ、この無理な願いを聞き届けるくれるのではないかという絶大な信頼と、期待で頼んだのではないか。「今頃」だからこそ、無理と分かって居て、頼んだのではないか)という気持ちでいたが、Tは期待外れの小物であった。

 私はTを過大評価していたのである。人を見抜く目が養われていなかったと言ってよい。
 この時、口や表面に何らかの飾りつけをする人間は、実に信用のおけないものだという感想を持った。

 さて、この事を毎年五月が来る度に、当時の回顧するにつけ、Tのことが思い出され、凡人は如何にも当たり前のことを、当たり前にしか答えられないのか、という悲しい私感に陥ることがある。

 もしあの時、Tが渾身
(こんしん)の力と、自分に置かれた環境と、裁量をフルに活用して、私の願いを聞き遂げていたならば、私は彼に対して生涯感謝し続け、その地位は揺るぎのない尊敬に値するものであったであろう。
 彼には、一人の人間を、畏敬
(いけい)の念で閉じ込める絶好のチャンスがやって来たのであるが、これを無慈悲にも退けたのである。

 世間風の解釈では、ピンチはチャンスと言うが、これは言葉の綾
(あや)で、好機を当て込んだ虫のいい解釈のように思える。窮地(きゅうち)に陥った、その殆どの人は、窮地の圧力の押し潰(つぶ)されて、果敢(あえ)なく消え去るのが運命のようだ。

 好機を招き寄せるには、「発想の転換」という、今までの暗い固定観念を捨て去った打開原則を全
(まっと)うしない限り、心身ともに向上していく糸口は見つかりそうにないようだ。
 私はこの時、断られたショックに打ちひしがれる間もなく、次の手を打たなければならなかった。次にどのような災難が降り掛かるかを考える暇
(ひま)すらなかった。今やることは、次の手の新たな模索(もさく)であった。

 私の泥
(どろ)出来た大船は、その使命を果たすことなく、脆(もろ)くも崩れ去ろうとしているのである。早急に次の手を打たなければならない。そのことだけしか眼中になかった。
 そして考え抜いた挙げ句、ある場所が思いついた。

 山村師範と曾
(かつ)て訪れたことのある若宮(わかみや)の英彦山(ひこさん)の梅林寺(ばいりんじ)であった。
 此処には宝蔵院流槍術
(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の遣(つか)い手、鹿島玄幽(かしまげんゆう)老師がいる。玄幽老師は文武を極め、禅によって自らを完成させ、その微動だにしない立ち振る舞いは、若年の私を畏敬の念で畏(おそ)れさせていた。

 「あそこしなかない」そう思うと、そこへ頼みごとを持ち込む以外、この急場は乗り切ることができないという勝手な妄想が私を支配していた。私の脳裏に閃
(ひらめ)いたのは梅林寺の離れにある宿房(しゅくぼう)であった。善は急げ、そう思うと直に行動を開始した。
 仮に断られる場合があっても、その時はその時で姑息
(こそく)な手段として、地べたに這(は)いつく張り、平蜘蛛(ひらくも)のように土下座して、私の苦しい胸の内と、事は急を要するということを熱っぽく語って、老師に同情をうるしかないと思っていた。

 作戦は先ず、山村師範を訪ね紹介状を書いて貰った後、梅林寺の鹿島玄幽老師に、その了解を取りつけるというものであった。
 その時山村師範はポツリと最後に言葉を付け加えた。

 「程々にしとけよ」
 私はこれがどういう意味なのか、最初よく分からなかった。
 「程々と申しますと?」
 「女だ」
 「女?」
 「女は一時頼られると天国になるが、一生頼られると地獄となる」
 「はあ……?」

 私は煮え切れぬ返事をしたが、言われて見れば尤
(もっとも)だと思った。山村師範の最後の言葉が耳から離れず、暫(しばら)く余韻(よいん)を引いた。
 しかしこの時、捻
(ひね)くれ者と思われた山村師範は、難なく紹介状を認(したた)め、後はそれを梅林寺に届けて、老師の許しを乞うという作業だけが残された。事は順風満帆(じゅんぷうまんぱん)のように全てが順調に運ばれていると思われた。

 私はその足で直ちに梅林寺に向かった。
 八幡駅から列車を小倉、城野
(じょうの)と三回乗り継いで、一路英彦山に向かった。
 久しぶりに見る若宮の英彦山の山々は美しい。駅から曲がりくねった坂道を黙々と昇って行く。40分程昇ると、寺の第一の門前の黒門が見え始めた。

 此処は戦国期の出城
(でじろ)造りになっていて、急な坂を利用した堅固な要塞(ようさい)を呈している。参道(さんどう)に差し掛かると門前に萩(はぎ)の蕾(つぼみ)が小さな実を付けていて、開花する時機(とき)を窺(うかが)っていた。
 不図
(ふと)、足許(あしもと)に目をやると、そこらここらに早蕨(はやわらび)が萌(も)え始めていた。
 その向こうに目をやると、近所の小さな子供たちが、はしゃぎながら、芽を吹き始めたばかりの柔かな鶯色
(うぐいすいろ)をした蕨を摘(つ)んでいた。

 息を弾ませながら参道の石段を昇って行く。陽気は夏を思わせるせいか、暖かく躰中が汗ばんでくる。
 石段はおかしな処から再び急に曲がりくねり、甃
(いしだたみ)が急な勾配(こうばい)を造っていた。これも恐らく軍略上の配慮(はいりょ)から、そのように造られているのであろう。
 山間には鶯
(うぐいす)の声が木霊(こだま)して、清々(すがすが)しい空気が優しいそよ風となって、あるが儘(まま)に心に吹き付けてくる。

 第二の門を抜けたら天を突き刺すような伽藍
(からん)があり、そこを潜(くぐ)ると厳(いかめ)しい寺の間口の広い玄関があった。
 玄関で声をかけると初老の寺番らしい男性が出て来て、玄幽老師にお目通りしたい旨を告げ、山村師範の紹介状を渡すと客間に通され、暫くそこで待たされた。

 客間の床柱
(とこばしら)は、どっしりとした黒檀(こくたん)と檜(ひのき)を組み合わせたもので、床飾には一輪の菖蒲(しょうぶ)が、紫檀(したん)で出来た花台の上の一輪挿しに生けられていて、後ろに掛けられた掛け軸の「飛翔(ひしょう)」という力強い筆捌(ふでさば)きの字に、良く調和していた。

 庭に面した方の障子
(しょうじ)は全て開け放たれ、客間の座敷から美しく落ち着いた石庭が一望できる。簡素で、さりげなく敷き詰められた石砂利(いしじゃり)を海と見立て、その中央に苔(こけ)で覆われた味合いのある、横広がりの大きな石が、二つバランスよく置かれていた。そこは静かな湖(みずうみ)の湖面に洗われる岸壁の一影を思わせた。

 此処には一種独特の荘厳
(そうげん)な謐(しず)けさがあった。空は何処までも美しく晴れわたり、時々木霊する鶯の鳴き声は、春の長閑(のどか)を告げて耳を楽しませてくれる。まさに瑞兆(ずいちょう)を暗示する長閑さであった。

 一面に広がる緑の木々や石庭も、目前に遠望する青き山の頂きも、また美しく木霊する鶯の声も、何もかもが、瑞兆の一部に他ならなかった。ここは俗悪な世間を悉々
(ことごと)く遮断し、別天地の様相を極め、何もかもが森羅万象の潤いに満たされている歓喜の滴(しずく)に溢れている所であった。

 この構え、この造り、この広さ、この景色。何処を見ても日頃の疲れを癒
(いや)し、羽を伸ばすには絶好の場所である。ここなら、その辺の傲慢(ごうまん)を気取るサービスの悪い二流三流の旅館には、決して引けは取らない筈だ、とその絶景と日本建築の妙(みょう)の素晴らしさに目を奪われていた。

 由紀子は此処で一時
(ひととき)の満足感に浸り、満喫(まんきつ)の限りを尽くして、私に感謝するのではないかという、奢(おご)りに似た感情が立ち上っていた。(してやったり)これが私の今の感想であった。

 そんな風景に目と心を奪われている時、玄幽老師が私に待つ客間に姿を現した。
 「ご貴殿は、以前山村先生と一緒にござったごお人じゃな」
 「実は……」とそう話を持ち出そうとした途端、
 「それ以上言わなくても宜しい。了解しよう。ただし、拙僧
(せっそう)の相手が済んでからじゃ」
 「お相手と申しますと……」
 「これじゃよ、これ」
 老師は一本の筆を手にして、私の前で書を窘
(くるし)める素振りをした。私は老師が一体何を言っているのか、また何を行おうとしているのか理解に苦しんだ。
 (一本の筆は何を意味するのか。単に禅問答の一種なのか)などと思案に苦しんだ。訳の分からない儘、一瞬の困惑に固唾(かたず)を呑んでいた。私はこの時、試されて居たのである。

 「拙僧の後を蹤(つ)いて来なされ」
 老師は、そう言って、私を僧兵堂
(へいそうどう)と言う、この寺の特設道場に案内してくれた。中に入ると雨戸は、入口の一か所を除いて全てが閉ざされ、締め切られていて、中は薄暗かった。

 この僧兵堂は、戦国期僧兵たちが、武技の稽古を積んだ場所であるらしい。槍の修練をするためか、道場にしては高すぎる程の天井が、吹き抜けていて、二百畳程の檜の板張りに黒ずんだ太い柱が両脇に各々四本どっしりと立てられていた。
 その柱の至る所に、木刀や木槍だけではなく、真剣か、長刀と思われる傷が、深く斬り付られており、その跡がはっきりと確認できた。昔は此処で真剣勝負が行われたのであろうか。

 僧兵堂の中央上座には、雛壇
(ひなだん)のような神棚が祭られていて、神仏両輪の不思議な空間が辺りを支配していた。
 神棚の下には、入口の方から差し込む一条
(ひとすじ)の光で仄(ほのか)にうっすらと、「ゝ」の一点の筆跡の掛け軸が掛けられているのが窺(うかが)われた。
 その筆跡には、風の中を一気に駆け抜けたような凄
(すさま)じい気迫が示されていて、恐ろしいまでの痕跡(こんせき)が、唯中央の一点のに、「ゝ」の一文字で打ち込まれていた。

 何と言うエネルギーの集約か!そう感じずに入られない程、鋭くも、恐ろしい気合いが感じ取れた。
 私はここに至って、老師が何を行おうとするのか分かりかけてきた。「ゝ」の一点が、私の躰の何処かに打ち込まれるのではないかという、身震いするような恐れが躰の中を駆け抜けた。老師は、このような私を一瞥
(いちべつ)すると筆に墨を付け、徐(おもむろ)に私の前に立ちはだかった。
 「拙僧
(せっそう)の筆を躱(かわ)してみなされ。獲物は何を使ってもよろしい。存分に好きなものを選びなされ。何なら真剣でも構わん。それでこの筆を躱わしてみなされ」
 この言葉で内心
(随分と年寄りに嘗められたものだ)という侮られた感想が込み上げてきた。

 玄幽老師の噂は、山村師範に聞かされてよく知っていた。
 しかし筆対武器では、最初から勝敗は決まっているではないか、という甘い気持ちが私の脳裏を先行していた。
 私は老師の注文通り、真剣だけは遠慮して、一番軽いと思われる木刀を手にしていた。

 それを手にした私を見ると、
 「拙僧を何処からでも打ち据えなされ。拙僧の躰を少しでも掠
(かす)ることが出来れば、ご貴殿の頼みは全て叶(かな)えてしんぜよう」
 (駆け引きを出すとは、些か癪(しゃく)に障るが、持ち出した条件の、何と他愛のないことか)と甘い気持ちが隠し切れないでいた。

 昼間とはいえ、この僧兵堂の中は一か所を除き、雨戸が全て閉ざされていて薄暗い。眼の遠近感に障害を持つ私としては、逆に薄暗いことは好都合の場所であった。耳も、人よりは何倍か良い。これを一つのチャンスと思いながら、私が木刀を構えて老師と正対しようとした瞬間、一気に場面は変わって、一枚だけ開け放たれた雨戸側を背にして、老師が床から燃え上がる熱陽炎
(かげろう)のように姿を揺らして立っているのが確認出来た。
 しかし逆光線なので、その、お姿やお顔の表情までは、はっきりしなかった。

 木刀を打ち据える間もなく、私の額
(ひたい)に濡れたものを感じた。不思議に思って手を当てみると墨の跡が付いた。立ち竦(すく)む老師の姿を窺(うかが)ったが、老師は音を立てて動いたような気配がなく、ただじっと雨戸から差し込む一条(ひとすじ)の光を背にして無言の儘(まま)立っておられた。

 私には今一体何が起こったのか、全く分からなかった。もしこれが墨を付けた筆ではなく、一揉
(ひとも)みに、脳まで揉み進む鋭い錐(きり)であったら、と思うと、次第に恐ろしくなった。額に付けられた墨の跡は、血の跡に変わっているのではないかという恐ろしい戦慄(せんりつ)が湧き起こった。老師を蔑ろに出来ないという畏怖(いふ)の念が込み上げて来た。
 老師の早業
(はやわざ)が、単なるまぐれに似たものだと思いつつも、今度こそはという気持ちで、間違いなく打ち据えたつもりでいたが、またもや、額に墨を付けられた。
 この期
(ご)も、二度三度と往生際悪く必死で斬り込んだつもりでいたが、暖簾(のれん)に腕押しであった。老師に全く触れることも出来ず、完全な敗北に終わったのである。

 私は愕然
(がくぜん)となり、ガックリ床に手を付いて肩を落としていると、
 「そんなに墜
(お)ち込まなくてもよろしい。お相手頂いたお礼に、ご貴殿の頼み、しかと聞き届けよう。あとは寺番の作治に細かい事は聞きなされ」こういう言葉を残して、この場を後にされた。

 不思議な目に合わされた事と、後味の悪さから、素直に願いの適
(かな)ったことが喜べなかった。私には大きな衝撃であった。
 帰り際に、再度老師にお眼通りを願いことの旨を、寺番の作治氏に再度申し出たが、老師は既に何処かにお出かけになった後で、その願いはかなわず、ここからの帰り道は、考え込む道中がしばらく続いた。
 考え込むあまり、何処かのドブに片足を落とし、靴とズボンの裾を汚してしまった。

 駅舎の待合室で時間待ちしている間でも、この衝撃と後味の悪さは交差していて、ドブ臭い匂いに誘われて、寄り付く銀蠅
(きんばえ)の羽音(はおと)も、そこから匂う腐臭(ふしゅう)も、私の感覚器には何も感じ取ることができなかった。
 八幡に戻ってからもアパートには戻らず、その足で山村師範を訪ねた。

 この謎を何が何でも解き明かさねばならないのである。山村師範にこの事を告げると、唯笑って、何も答えようとしなかった。
 それでも更に問い詰めると、
 「十年早い!」と血相を変えて怒鳴られ、それ以上何も答えてくれなかった。
 この後味の悪さは、この後十五年以上も続き、私の心の中を今なお、燻
(くすぶ)り続けている。この難解な謎は、山村師範が仕組んだのだろうか。
 今になっても、解き明かしができない謎として、修行の課題となっている。
 仕方なくアパートに戻って、ぼんやりしていると、そのうち由紀子が帰って来て、
 「電気もつけずに何を考えているの。真逆
(まさか)お願いしたお宿が駄目になったのではないでしょうね?」

 何と勝手なんだ、ひとの気持ちも知らないで。
 彼女の頼みごとは意外な方向に展開し、変な後味の悪さを引き摺
(ず)り出してしまったのである。私は彼女に、事細かに梅林寺までの地図や、電話番号を教え、宿泊に関する一切を寺で教えられた通りに伝えてやった。

 私は由紀子が出かけた後、一人だけぽつんと取り残されて、隔離された感じだった。日頃、勤めに追われ、忙しく行動している勤め人にとって、ゴールデン・ウイークはまさに命の洗濯に違いない。私のような定職を持たない社会不適合人間にとって、ゴールデン・ウイークは参加の許されない無用の長物であった。しかしゴールデン・ウイークとは、よく謂
(い)ったものだと思う。

 この連休を黄金に準
(なぞら)えることは、単に休みが連続しているから、そう名付けたのではあるまい。ただ単に休みが連続するのであれば、年末や年始もあるし、盆休み等も休みが連続する。
 五月始めのこの頃を、殊更
(ことさら)ゴールデン・ウイークと呼ぶのは、五月晴れ下で手足の伸ばし、日頃の疲れから解放されて、羽を休める為であるらしい。そして新緑の爽(さわ)やかさを楽しむ季節が、そこにはある為であるらしい。
 そして快適な季節の五月、その喜びも含めて、人はゴールデン・ウイークと呼ぶのであろう。

 車で出かけた二泊三日の彼女の小旅行は、非常に有意義で良いものであったらしい。彼女のリフレッシュは叶
(かな)い、帰宅してからの評判は上々で合ったが、私はこの三日間何処にも出かけず、食事もとらずに、思いに耽って寝込んでしまっていた。
 社会不適合人間にとっては、最も相応しい連休の過ごし方であったかも知れない。




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