●観月会
あれから二日ほどが過ぎた。
私はその後も、徹底的に研究し、基礎固をしていた。繰り返し思われることは、少なくとも、『三宝堂』の主人に負けないくらい、あるいは同格に近い目利きになっていなければならないのである。研究を繰り返し、常にそのことを反芻(はんすう)しながら、益々の猛勉強を重ねていた。
私は久我宮老人の謂(い)った、「売る人が目が利かず、買う人が目利きならば、売る人の負けでおます。また、この逆もおます。したがって、いい加減な研究で、自信過剰に陥ったり、修羅場(しゅらば)の真剣勝負を避けて通るようなことをしていては、よい物を見る目は養われず、こうした事では、まことに浅慮(せんりょう)と言わねばならず、これこそ、固く慎(つつし)まんと、いかんのと違いますやろか」の言葉が、いつまでも頭から離れなかった。この修羅場の真剣勝負は、私には避けられない現実である。人生に於て、こうした局面は避けて通れないようだ。
そして明日からは、旗師(はたし)として、いよいよ諜報活動に入るとそう決心して、その夜は、由紀子にお構いなしに、草々に早寝したのであった。
─────翌日の朝である。久し振りの蒼空(あおぞら)だった。朝から透き通るように、よく晴れていて、真夏の太陽に焼かれる日々が続く八月の初旬であった。そして今日が、旗師として活動をする第一日目であった。
「おはよう」由紀子が微笑んで声を掛けた。
毎朝突き合わせる笑顔であっても、「忍ぶ恋」を実践している男女は、肉の交わりの一線を崩していない為、どこか新鮮で、どこか清々しい。
それはあたかも、ユースホステルで一夜を明かした男女のように、実に健全であった。朝起きての早朝体操こそないが、青少年に清潔で、健全で、安い宿泊施設を提供する目的で設けられた宿泊所擬きの、わが家は、そんなところがあったのである。したがって、由紀子の笑顔は毎日見ていて飽きることがない。倦怠感、いまだ遠しの観があった。
「ああ……ッ、おはようございます」
「ねえェ、今日は随分とお天気が宜しいですわ」
「そのようですね」
いつも、こんな具合の朝の挨拶であった。別に快晴でなくとも、曇りでも雨でも、そこには由紀子の新鮮な笑顔があった。しかし、快晴の日は、由紀子は特に機嫌がおかった。今日も何だか朝から機嫌がよいのは、今日と云う一日が、終日快晴であると思われるからであろう。
「ねえ、今晩、Y庭園で観月会(かんげつかい)があるの。それに出掛けません?」
と、まあ、こんな調子である。天気の日には、こんな特別賞与のような誘いを受けるのである。
「観月会……?」
「観月会って御存じ?」
「はあ、“あらまし”だけは……」
「じゃあ、今晩出掛けましょうよ」
「ああ、そうか。今日は水無月(みなづき/陰暦六月の異称で、水を田に注ぎ入れる月の意)の、新暦で言うと八月×日で望(ぼう)、旧暦では六月。すると月齢15.6だから、次の新月の朔(さく)まで後14日」
「へーッ、随分と詳しいのですね」
「急がなければ……」
「えッ……何を?」由紀子が問い返した。
「いいえ、別に……」私は素早く頭(かぶり)を振った。
私は由紀子から観月会と聞いて、「朔の日」を計算していることを再び思い出したのである。これまで書画骨董に没頭していたので、八月下旬の朔のことをすっかり忘れてしまっていたのである。ところが、由紀子から観月会の誘いを受けたことで、忘れて居た事が浮上したのである。今日の快晴は思わぬ狩獲を齎(もたら)したのであった。
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▲観月会の意味するもの。
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観月会は、多くは「月待(つきまち)」に行われる。旧暦の17日、23日などがこれに当たる。この夜の月に供物(くぶつ)を供え、飲食をする習慣が日本では、古くから上流階級の一部の間に於いて行われていた。しかし、今でもこの日に、茶会などを催して、観月会をする習わしがある。あるいは旧華族など組織するところでは、メンバーズ制の「講(こう)」の組織になっていることが多い。秘密結社的な“講”を組織する団体もある。
「講」の歴史を辿ると、鎌倉時代から行われた「頼母子講(たのもし‐こう)」があるが、これは町家の互助的な金融組合であった。その一方で、神仏を祭り、または参詣する上流階級では、二十三夜講が有名で、既に平安時代に登場している。その他にも中流以下のものとして、伊勢講、稲荷講、大師講の類(たぐい)がある。
また現代では、企業経営者の、表向きの親善を目的とする親睦団体である「漁り火会(いさりび‐かい)」などが、これである。しかし実業家の中には、「漁り火会」の本当の活動を知らず、単に親睦団体と信じて入っている経営者も少なくない。あるいは商工業の発展を図る為の、一定区域内の商工業者が組織する商工会議所のように考えている経営者も少なくない。しかし、実情は違う。上部団体は、国際ユダヤ金融資本やブナイブリス(ユダヤ・フリーメーソン)に繋(つな)がる傘下の組織が「漁り火会」や「ロータリー・クラブ」あるいは「ライオンズ・クラブ」などである。
これらは国際ユダヤ金融資本の意向により、ある方向性と目的性を持って活動をしている。一種のTC(The Trilateral Commission/日米欧三極委員会)のようなものである。あるいは政治や経済や文化などの政策形成に多大な影響を与える、アメリカ東部のエスタブリッシュメント(establishment)の如きである。権力機構をなし、権威的組織をなし、時に体制などに既成秩序を植え付け、巨大な勢力を持つものである。
─────このとき由紀子から、観月会と聞いて、それに参加する来賓(らいひん)あるいはその主催者を想像したのであった。
「ねえ、急がなければ……ッて、何を急ぎますの?」
こう問われて、もう少しで、自分の思惑を暴露してしまいそうになった。「朔(さく)」つまり私は、新月の日を計算して「軍立(いくさだて)」を組み立てていたのである。
月待(つきまち)は、満月の出る日を基準にして組み立てられた行事である。八門遁甲にも、敵陣に夜襲をかける場合に、この日を基準に「軍立」を考えることがある。
したがって月待は、重要な日取り計算をする、一種の目安となるのだ。この目安に随(したが)い、月の運行から「軍立」を、一種の積分計算で出していくのである。八門遁甲が占いではなく、中国の古典物理学と云われる所以は、このためである。八門遁甲に神仏や霊感の類(たぐい)いは、一切附随(ふずい)しないのである。
潮の満ち引きは、あるいは干満は、月の運行の関係のよって起る。そしてこれにも、ある種の法則がある。
満月に日を基準にして考えると、満月が出た日から、月の欠けるのは段々と遅くなる。一日約50分程度遅れるというが、同じ日を正月のケースに当て嵌(は)めると、満月が出る夕方の時刻が5時13分、立待月(たちまちづき)の17日が7時4分、居待月(いまちづき)の18日が7時58分、寝待月(ねまちづき)の19日が8時52分、更待月(さらまちづき)の20日が9時46分である。このように約50分のズレが起るのだ。
「あ、えッ?……こちらのことですよ」
「何かこの頃、少し変ですわ。東京の国会図書館まで出かけてみたり、何かに夢中になって書画骨董に没頭したり、朝から晩までお庭の写真を眺(なが)めたり、茶道の稽古をしてみたり……、本当にちょっと変……ですわ」
「あの、つかぬ事をお聞きしますが、観月会って、茶道関係者も大勢来るのでしょうね?」
「ええ、少なくはないでしょうね」
「やっぱし」(そうか、これはいいことを聴いたぞ……)
「何でそんなこと訊(き)きますの?」
「いや、何でもありませんよ」
「本当に変ですわ……このごろ」と彼女は頸(くび)を傾げる。
月待とは、特定の月齢の日を忌(い)み籠(こも)りの日とし、同信的な「講(こう)」を組織して、食事しながら月の出るのを待って、この日に、月と共に結ばれた同志の絆(きづな)は堅くて深いと信じられて来た。
その為に上流階級(公家階級や旧華族階級のことで、敗戦後の1947年新憲法施行までこの階級は「華族」と呼ばれ、今日では「旧華族」といわれるかつての爵位階級のことである)では、“十七夜講”“十九夜講”“二十三夜講”などがあり、この組織は精進潔斎(しょうじんけっさい)を必要とし、酒食やセックスをタブーと課して、厳粛(げんしゅく)に月を礼拝するのであった。イルミナティやフリーメーソンの儀式にも、何処か通じたところがある。
しかし、今では、一部の特権階級がこうした「講」を催し、庶民の知らぬところで、特殊な儀式を開いていることは殆ど知られていない。
しかし、由紀子の誘いの観月会は、こうした種類のものではないらしい。むしろ茶会と観月会がセットになったようなものであろう。だが、この来賓者の多くは、『紳士録』に掲載される地元の高額所得者や有志仲間で固められていることは容易に想像がつくものであった。これも一種の特権階級の観月会であることは間違いなかった。
「そんなに僕が変ですか。これが普通ですよ、普通。何の変わり種もない普通の僕ですよ」
「でもねェ、普通の、そんなボクが、時々危ない超曲芸的な綱渡りをやらかすんですもの。綱渡りを見せられる度に、観客のあたくしとしては、いつもハラハラ・ドキドキ。もうこれ以上、こうしたことは本当に御免ですわ」
「いやだなァ、綱渡りの話を持ち出して、僕の揚げ足とっちゃァ」
「だって、そうでしょ?」
「あなたはいつもハラハラ・ドキドキというけれど、玉手箱を開ける時は、ハラハラ・ドキドキという気持ちで開けるものではありませんよ。こうした未知の物を開ける時はねェ、普通、ワクワク・ドキドキするのが本当でしょう。それをハラハラ・ドキドキだなんて」
「玉手箱を開ける時は確かにそうかも知れませんが、あなたの“未知”はワクワク・ドキドキじゃなくて、いつもハラハラ・ドキドキなのです。これはつまり、危ない綱渡りをしているということを物語っているのではありませんこと」
「僕だって、あなたが言うほど危ない綱渡りばかりしているわけじゃありませんよ。最近は一流とは言えないにしても、二流程度の綱渡り師にはなっているつもりですよ。安心して見ていて下さい。滅多に落ちるもんじゃァありませんから」
「あらッ、いま何とおっしゃいましたの?」
「いえ、別に……」
「変なことをおっしゃいましたわねェ。また危ない綱渡りをほのめかすようかことを……!」
「もう、綱渡りなんでしませんよ。次は……」と云いかけて、言葉を止めた。
これに由紀子はじろりと睨(にら)んだ。
「何か訝(おか)しいぞ。この頃の訝(おか)しな行動といい、素振りや態度といい、書画骨董に熱を入れる姿といい、少しばかり臭うな……」クンクンと匂いを嗅ぐ仕種(しぐさ)をした。
「いやだなあ、銭湯には昨晩行ったばっかりですよ……」と惚(とぼ)けてみた。
「おい、岩崎健太郎!」
「はい!」
「ちょっと、このごろ変だぞ。あたしの目を見て、目を」
「はい」
私は、由紀子が私の心の中を覗(のぞ)こうとしているのを百も承知していた。この儘、まともに見てしまっては、何かを見透かされてしまう。それを何とか阻止しなければ……。
そう思うと、「寄目之術(よせめ‐の‐じゅつ)」しかない。
寄目之術は、単に瞳(ひとみ)を鼻柱に寄せて近距離を視(み)る術だが、本来は「八方目」の鍛練の為に行う術であり、寄り目の状態にしておきながら、それを外に開いていき、270度が見えるまでの広角を開く為の鍛練法である。
私はそれを思い切り遣(つか)って、出来るだけ鼻柱の中央に寄せてみた。
由紀子はこれが可笑しかったと見えて、大声を出して笑った。
「何て目をするのですか。もっと普通にして、普通に」
「これが普通です」
更に、中央に寄せてやった。
「もうイヤですわ、そんな目をしちゃァ」可笑しくて溜まらないと言う顔をする。
「見ろというから、見ているのです。これ以上の普通はありません」
「ねえ、お願い。本当に、本当の自然体で」
「これが僕の自然体です」更に寄せてやった。
由紀子は可笑しくて溜まらないという風に、笑い転げた。
そうこうしているうちに、由紀子自身、何で目を見つめるのか、その目的自体を忘れたのか、彼女の目的はついに達成されなかった。これで私も、危ない急場を凌(しの)ぐことが出来たのである。
私の『旗師』作戦は、今日は取り止めにした。もう一度、頭を整理して、観月会と夜の茶会のことを再検討しなければならない。それに「茶道関係者も大勢来るのでは?」と言う問いに対して、「少なくはないでしょうね」という由紀子の言葉が引っ掛かるのだ。
もしかしたら『三宝堂』の主人の素顔が見られるかも知れないという、一種の期待があったからだ。
そして今日は、観月会の勉強に費やすことにしたのである。
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▲観月会は庭園観賞とセットになっていた。
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─────その晩の観月会の事である。
やはり、居るところには居た。
例の『三宝堂』の主人である。この主人がこの観月会の何かの役員でもあるらしい。来賓客一人一人に挨拶を交わし、能弁な世辞を垂れ、中に招き入れている。此処に集まって来ている客は、その風貌(ふうぼう)からして相当なメンバーであることは疑いようがなかった。
綿密に月の出るのを計算して、その時刻がセットされているらしい。私は由紀子に誘われて、北九州市戸畑区の、さる資産家のお屋敷の会場に、午後7時丁度に由紀子の車で到着し、月の出るのを待つことにしたのである。
午後7時と言っても、夏場の夕暮れは明るい。そして昼間の、木漏れ陽の隙間から襲い掛かる煩(うるさ)いような蝉の鳴き声は、この時刻に至って、それは形(なり)を潜めていたが、何処からともなく、茅蜩(ひぐらし)の声がしていた。日暮れに、高く美しい声で「かなかな」と茅蜩が鳴いていた。もう立秋なのだ。
受付で、招待状を渡し石柱の門を潜った。既に早くから数十人の人で賑(にぎ)わっていた。
夏というのに、錚々(そうそう)たるメンバーの集(つど)いであるせいか、誰もが優雅に着飾り、納涼の観月の宴(うたげ)を楽しもうとする気持ちが窺(うかが)えた。由紀子も夏物のスッキリとした白いスーツに身を固め、この会場に私と共に顕(あらわ)れたのであった。私も由紀子に合わせて、夏物の明るいグレーのスーツに身を固めていた。
本来、観月と称するものは、九月に行われるものが最とも多いが、八月と言うのは、逆に珍しい事であった。それだけに、この催しの宴は、何かを孕(はら)んでいるのではないかというような、勝手な想像が、私の頭に過(よぎ)っていた。
そして、やはり、居るところには居たのである。あの『三宝堂』の主人が。そう思うと、そのしたたかさが窺われた。
この場は、美意識と教養の対決の場だと思われた。
由紀子と二人で並ぶ処(ところ)から窺(うかが)える眺(なが)めは、植込みも、石の佇(たたずま)いも、何もかもが、この庭園の所有者の美意識と教養と貯えのほどが窺(うかが)われ、それが今宵(こよい)の主催者の握る「切り札」であるのであろうと想像した。
その「切り札」を、客の一人一人に、手持ちのカードとして溜め込んでおき、いざとなれば、「切り札」を切り出すことは容易に想像出来るのである。また客が、それをどう受け取ろうと、客の勝手ではあるが、主催者が客に対して、挑戦を挑んでいることだけは確かであった。これは一つの「決闘である」と言ってもよい。
一度、挑(いど)まれた客は、これを受けて立つのもよいであろうし、さらりと受け流して、降り掛かる火の粉(こ)から退避するのも客の勝手であろう。最初から戦意を持ち合わせない客も居ないではなかろう。
観月会と銘打ったこの茶会は、その対決の場が茶室にあると思われた。茶室が美意識と教養の対決の場であるならば、この広い庭園もまた、来賓者の観賞の対決の場となるようだ。
茶室が今宵の主催者の小宇宙であるように、この庭園もまた来賓者の小宇宙に他ならなかった。そして誘われた小宇宙の中に、私と由紀子は佇(たたず)んで居た。
庭の中央には、小舟で周遊出来るような、かなり大きな池がある。その池の周りには、幾つかの築山(つきやま)があり、茶亭などを配して、道がそれらを繋(つな)ぎながら、池の周りを回遊しているのである。つまりこの庭園は、回遊式庭園ということになる。そしてこの造りは、文献や写真で調べ上げた、仙洞御所に何処かよく似ていた。
表門から入り、少し玉砂利(たまじゃり)を踏んだあと、次は長い甃(いしだたみ)が続いていた。更に門を潜(くぐ)ると、そこは庭園という小宇宙の世界が展(ひら)けていた。一つの小宇宙の絶景を思わせ、かつ、それは非常に見事だった。実に美しかったと表(ひょう)すべきであろう。
かつて「美しいもの」は、人知れずに仕舞われたものである。
ところが、今宵の観月会の主催者は、自分の財を自慢する為か、また陽が沈まない内から、来賓客を寄せ集め、黄昏時(たそがれどき)の夕映えと同時に、月の出る時刻を合わせてセットし、更にこれを同時に披露しようとする心の裡側(うちがわ)を垣間見たような気がした。要するに、したたかなのだ。
つまり仕舞われていると言う、仕舞い方をせず、剥(む)き出しにして、その力を見せつけようとする意図が窺(うかが)われたのである。そう思うと、やはり美しいものは仕舞われるべきだと思うのである。
本来の「美しいもの」は、剥(む)き出しでは困るし、第一これでは教養と言うものが、後に遠退(とおの)いてしまうではないか。そんな感傷に浸りながら、私は由紀子と灯籠(とうろう)の灯された庭園内をゆっくりと回遊していた。
「ねえ、きれい」由紀子がそう言って指を指した。
それは回遊して歩いているうちに、「なるほど」と思わせる箇所が俄(にわか)に登場してきたからである。これは、この庭園の所有者の意図的な企てか。
小径(こみち)は、林と隔てられいて、静かな風を感じさせ、その片面は、なだらかな傾斜となって池へと向かっているのである。然(しか)も一升石(いっしょうせき)と言われる、びっしりと敷き詰められた石を、なだらかな傾斜に張り付け、池がまるで海を思わせる、海浜を模した着想は確かに面白いものであった。しかし面白いには面白いが、どこか奢侈(しゃし)が感じられ、必要以上な、分限を超えた大名風の匂いがしないでもなかった。些か驕(おご)りが感じられるのである。
海浜へと向かうこの一升石は、例えば、雨に濡れた時などは、その濡れた石の佇(たたずま)いに風情があって美しいと思われるが、このような八月の、しかも晴天で、地面が炎天下の強い陽差しで暖められ続けた乾いた日は、それがそれ程までの効果を果たさないようにも思えたからである。
しかし、それは寧(むし)ろ一升石の集団が、隔離されたまま、特異な抽象模様を見せ付けているに過ぎないようにも思える。その結果、静寂のはずの磯(いそ)の香りが、どこか大胆で、しかも、驕(おご)った感じを齎(もたら)さないでもなかった。
悪く言えば、大胆な模様化であり、枯山水の寂寥(せきりょう)などを顕わすには、石が余りにも贅沢(ぜいたく)過ぎるのである。
芸術的に見れば寂寥よりも、石の見事さを強調する方が、この庭の作者には第一義に掲げる課題であったであろうが、私のような貧乏育ちの人間には、この贅沢な、驕るような大胆な発想には、何処かついていけないところがあった。閑寂(かんじゃく)な風趣(ふうしゅ)に欠けているからだ。
しかし、多少なりとも草庵の趣(おもむき)がある。それは池の周りに配置された岬灯籠(みさき‐とうろう)に火が灯(とも)され、宵闇(よいやみ)迫る夕暮れ時の池の至る処に、幽(かす)かに揺れる灯影(ほかげ)を映し出していることだった。
ただ、こうした光景を見れば、黄昏時(たとがれどき)から宵闇に掛かるこの時刻を、何か幻想的な誘惑で、来賓者を包み込むような未知的な思惑があるようにも感じられた。
誘惑する者が、実は誘惑される側の人間であり、やがて未知が既知へとなりはしないかというこの庭の構造に、何か、言葉では言い表せないような無数の意図が隠されているようにも思えた。だからこそ、八月の観月会ではないかと思ったりもしたのである。しかし、そこまで考えるのは、私の考え過ぎであろうか。
だがしかし、こうした幻想の中を歩いていると、ちょっと視点をずらすだけで、由紀子と私は「誘惑」へ向かって歩いているのではないかと言う錯覚に捕われたのである。つまり、これこそが、回遊式の庭園の妙なるところなのである。
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▲“つくばい”脇の茶客の為の待席
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「ねえ、あの“つくばい”(蹲踞の漢字が当てられ、茶庭の手水鉢(ちようずばち)を指し、その脇には待席がある)に寄ってみませんこと」由紀子がそう促した。
池の中央へと掛かる石造りの橋を渡ると、その先には躙(にじ)り口に続く手前の“つくばい”と小さな待席があった。この待席は庭園の作者が、客の休憩場所か、躙り口へ続く持て成しの席として拵た場所であろう。
橋の下には、一叟の小型の屋形船(やかたぶね)が通過しようとしているところであった。今宵の観月会は、舟遊びも楽しめるような催しになっているようだ。雅(みやび)と言うより、随分と豪勢なものであった。
─────柳田国男の『二十三夜塔』には、「二十三夜といふ不思議な風習」という題材を上げ、月待(まちづき)のことを述べている。柳田国男は月待のその起源を古(いにしえ)の新嘗(にいなめ)の祀りに遡(さかのぼ)るとしている。これによれば、同じ土地に棲(す)む人達が集まり、風呂をたてて身を浄(きよ)め、男女が別々になり、月待をしながら全員で一夜を共にするのである。日本ではこうした風習が各地にあったようだ。
女性達は夜が更けて、月が昇るまで、坐らずに、あるいは腰掛けずにいるのである。これを「立待ち」と言うらしい。あるいは川の岸に立ったり、その瀬に立つのを「瀬待ち」などと呼び、月の出る方向に向かって歩き続けることを「迎待ち」などと称した。
ところで月待の「待ち」は、月の出るのを待つのではなく、「お傍(そば)に居る」という意味であるらしい。それは月の神と、夜を明かすという意味であると柳田国男は述べている。一説には、農民から始まったものとも言われるが、新嘗(にいなめ)の祀(まつ)りなどが加わっていることを見ると、その起源は、公家(くげ)などの貴族社会から発したものであるかも知れない。
人間は月に対して、人間が織り成して来た文化的結晶を集積した媒体であるが、「月待」という古くからの風習は、決して荒唐無稽(こうとうむけい)の伝説ではないようだ。その証拠に、人間が紡(つむ)ぎ出した月への織物は、SF紛(まが)いの『竹取物語』になったりして、その影響を、今もなお、人間に与え続けているという事である。
科学万能主義の現代、月は宇宙工学などで論ずると、既に征服する対象となり、人間が月に影響されているという発想は、今日では非科学的な思考に看做(みな)されるようになってしまったが、月は確かに今でも、人間に何らかの影響を与えていることは事実である。
その証拠に、今宵の観月会には、こうして大勢の来賓客が、この場に、一堂に会していることこそが、何よりの証拠でもあった。そしてこの講(こう)こそ、観月会の主旨ではなかったか。私はそんな気がしていたのである。
現代社会は、人が時間の奴隸になった社会である。
少なくとも、自称「自分を中流」と確信している階層は、時間と、仕事の多忙と、納期の鬩(せめ)ぎ合いで、忙殺されている。確かに太陽暦を基準として、太陽の運行を基準にした農業社会と、産業社会はそれなりに人類に繁栄を齎(もたら)したが、同時にそれは、太陽を通じて、人類に君臨する時代の象徴をつくり出して来たともいえる。
しかしこの時代の象徴は、十九世紀は石炭をエネルギー源とした蒸気機関であり、二十世紀は石油と原子力にとって代わられた、過信と思い上がりの時代を構築した。その最たるものが科学万能主義であった。だが、ここに至って、そのエネルギーも行き詰まりを見せ始めている。石油は無尽蔵に埋蔵されているものではないし、原子力は未(いま)だにコントロールの難しい厄介な代物である。
人間の階層を構築する上部と、下部の分離比は、ユダヤ黄金率によれば、28対72という。圧倒的多数を構築する72の大多数は、太陽暦を基準に時間と仕事に忙殺されている。
一方、上部の28は、月にその神秘を感じ、月に回帰し、月を信仰する思考を抱いて、下部と対峙(たいじ)しているのである。今宵の観月会では、こうした上部と下部を隔てる、何か言葉で言い表わされない、不自然さを意図するものが漂っているように思われたのである。
ある意味で、28対72という、配分分離で、この観月会には上流階級と中産階級以下の鬩(せめ)ぎ合いのような雰囲気が漂っていた。
─────庭の一部に設けられた豪奢(ごうしゃ)な月見台には、真紅の絨毯(じゅうたん)は敷き詰められ、絽(ろ)の和服姿の若い女性が忙しく来賓客にお茶を振るまい、酒を振るまい、あるいは懐石料理を振る舞って、給餌(きゅうじ)に余念がなかった。幽(かす)かに感じる夜風は、既に秋のものであり、俳句の世界でも、新暦の八月三日から十月三十日までは秋なのである。
そして、秋のはじめの今宵の八月×日は、一体何を意味するものなのか、まだその謎解きが出来ないでいた。
イギリスの作歌コリン・ウィルソン(Colin Wilson/小説『賢者の石』などで有名)は、博学を駆使した幅広い評論で著名であるが、特に意識的精神と潜在的精神の両方からなる精神面積を等分に分離した、人間の精神構造を最も拮抗(きっこう)が取れた人間として、これを理想とした。そして彼は、西洋科学が齎(もたら)した科学万能主義の歴史を批判的に捉えている。
したがって彼の言う、人間の理想形とは、意識的精神行動と潜在的精神構造が等しく二等分され、この拮抗(きっこう)の取れた人間こそ、人間のもっとも良き理想と考え、かつ、双方の精神の複合こそ、秘められた力の、新たなる能力の獲得として定義付けている。そしてそれは、「月の暗い裏側の部分」に見い出す事が出来ると言うのである。この裏側こそ、隠れた秘密の力であり、秘められた生命としているのである。
だからこそ、「月の魔力」や「月の神秘」に、ユダヤ・カラバ思想はこれを基盤にして神秘主義を構築し、イルミナティやフリーメーソンなどの秘密結社の儀式に、月のエネルギーを求めたのかも知れない。
その意味で、今宵の八月×日は、何かが起る予感めいたものがあったのである。
─────午後は八時を過ぎた頃に、月がぽっかりと夜空に浮んだ。由紀子と共に月見台に招かれ、いよいよ観月の宴が始まろうとする時、池のほぼ中央にある茶亭に向かって、一叟の屋根のない舟が移動しているのが分かった。舟からの観月なのであろうか。ところが、そうではなさそうだ。
舟から観月をすると言うことより、むしろ夜空を仰ぐ仕種(しぐさ)は窺われず、何かを話している樣子であった。
その一叟の舟の中には、確かに『三宝堂』の主人と思える男と、別に二人の見覚えのない男が乗っていて、舟の中で酒を酌み交わしているような素振りが見受けられた。だが、月の光で湖面は照らされているが、別の二人に顔は、よく分からなかった。
ただ、『三宝堂』の主人だけは、その体型からして、はっきりとそれと分かるのだった。あの舟の中では、何か、密談めいた事が行われているのであろう。しかし、それが何であるか、私には知る由(よし)もなかった。
しかし、由紀子はこの観月会の招待状を、どのような手段で手に入れたのであろうか。
それが気になって訊ねてみたところ、自分の上司である小児科部長から、「自分は都合でいけなくなったので、もしよかったら八月×日の観月会に行ってみないか」といわれて、今宵の観月会の招待状を貰ったと言う事であった。
そして小児科部長は、なぜ今宵の観月会の招待状を貰ったのかと訊くと、大の骨董の蒐集家と言う事であった。つまり、お茶を嗜(たしな)む人であったのだ。
それを訊いて、なるほど今宵は、こうしたメンバーが、これに参加しているのかと言う事が分かったのである。それにしても『三宝堂』の主人は、相当な人脈と、これだけの人脈を引き付ける以上、その眼力は、したたかなものであると言うことを感じざるを得なかったのである。
「敵は恐るべし」の新たな戦慄(せんりつ)が脳裡を駆け抜けたのである。
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