●われはフクロウ
左肩の出血が、いつまで経っても止まらない。
肩から下の左腕の感覚は全くなくなり、動物の尻尾(しっぽ)にように、ダラリと、ただぶら下がっているだけだった。ピッケルで一撃された腕が重い。痛さは重みに変っていた。この重い腕を切って捨てたい気持ちがした。
激痛が上半身を重くしているのだ。それだけで息苦しくなる。鉛のような重さに、上半身はやたらと重い。脳裡(のうり)から重さが消えなかった。
上着が血に染まって、左袖から滴(したた)り落ちていた。この儘(まま)では出血しているので怪しまれて、タクシーにも乗れない状態にあった。私はタクシーに乗ることを断念した。乗れば不信に思われて、直にでも無線で警察に通報される恐れがあったからだ。
そして、至る所に警戒態勢が敷かれ検問が設けられていた。パトカーは屋根の赤色灯を回転させながら、縦横にうろついていた。一瞬、夜間外出禁止の戒厳令を思わせた。非常事態が敷かれているのではないかと、見紛(みまが)うほどだった。
私は不図(ふと)、自分の左手首に填(は)めていた腕時計を見て、時間を確かめようとした。腕時計のクリスタル・ガラスは、血と汗で無慙(むざん)にも赤く縁取られていた。そして時計の文字盤は、赤褐色一色に染まり、既に血液の凝固(ぎょうこ)が始まって、腕時計から時間を確認することができなかった。耳に持って行っても、時計の秒針の音は完全に消えていた。時計は血液の凝固で止まってしまったものと思われた。血染めの腕時計は、要を為(な)さなくなっていた。
この時、絶対に捕まるわけにはいかなかった。以前起こした傷害事件で、「執行猶予三年・求刑六月(ろくげつ)」が、まだ消えてないのである。
逮捕されるようなことがあれば、今回の事件の刑罰に、更に求刑六月(ろくげつ)が加算され、今度こそ、執行猶予のつかない実刑を食らうことは確実だった。これは何としても避けたかった。
この夜、幸運だったことは、黒っぽいジャケットを着ていて、血の滲(にじ)んだ跡(あと)が、夜目(よめ)に目立たなかったことである。更に犯、行に遣った金槌も、同時に持ち帰って、その証拠を一切残していないと言うことであった。現場検証が行われても、T公園で乱闘があったことは立証できないし、犯行の張本人が逃走しているのだから、首謀者を特定することも出来なかった。
私が陣を張った「八門遁甲・金鎖(てっさ)の陣」の秘術は、見事に功を為(な)した。その古人の智慧(ちえ)は偉大な効力を発揮し、敵に甚大かつ壊滅的な打撃を与えたようだ。内心、こんな大それたことを仕出かして、よくぞ生き残ったものだと思った。
そして何とか歩けたので、歩けるだけの最後の気力を振り搾(しぼ)って、歩けるだけ歩いた。傷が癒(い)えようが癒えまいが、そんなことは問題ではなかった。朦朧(もうろう)としていたが、歩いている最中は、傷の重みは余り感じなかった。生還へのはずみが付いたようである。
(さあ、家へ帰ろう、わが家へ)そんな独り言を呟(つぶや)きながら、自分を自分で励ましながら歩いていた。
そして、昔、聴き憶(おぼ)えた疎(うろ)覚えの、こんな歌を、繰り返し、口遊(くちずさ)んでいた。しかし、その歌詞が正しいかどうか、解らずに、口から迸(ほとばし)り出て、ただ口遊んでいたのである。(【註】私は少年時代、ボーイスカウトに入団していて、日本ジャンボリーや世界ジャンボリーの参加経験を持っていた。富士山の麓で行われた日本ジャンボリーでは『われはフクロウ』がよく歌われた)
われはフクロウ、楽しきフクロウ
務め果たし、今宵(こよい)さやか
われはフクロウ、月明りに
わが古巣へ帰えらなん…………
………………
嗚呼(ああ)、富士のふもと、
山中の森かげに…………。
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今では、この歌詞が正しいか、そのメロディーが正しいか、それは分からない。ただ漠然と、疎覚(うろ‐おぼ)えの歌詞を気の向くままに、昔、聴き覚えたメロディーに合わせ、繰り返し、口遊ずんでいたのである。
自分の意識が希薄になっていることを能(よ)く自覚した上で、出来る限り、しっかりとした足取りで歩いていた。両足から伝わって来るアスファルトの道路の固さが、肩の傷に響き、自分の躰(からだ)が極限に達していることを教えてくれるのであった。
だが希薄ではあるけれど、それ以上に意識が薄れないのは、由紀子の顔を一目見なければという気持ちが、薄れがちな意識を支え続けているようにも思えた。
しかし足は縺(もつ)れ、ややともすると、転びそうになった。足許(あしもと)がよろけ、ズルズルと、何かに引き寄せられているのだが、上半身だけは平衡感覚を失っていたようだ。左腕をダラリと垂らし、右腕だけで、ありもしない幻影と格闘するように、窪(くぼ)んだ眼で前方に向かい、まるで、水中の中を泳いでいるという感じであった。
意識が辛うじて転ぶのを支えていたが、ついにそれも適(かな)わなくなり、何度か無態(ぶざま)に斃(たお)れた。
斃ては、のろのろと躰を起こし、無意識的に、躰(からだ)に着いた埃(ほこり)を払い、今、斃れながらも、自分が何をしているのか、何を考えて歩いているのか、そんなことは当(とう)に忘れてしまっていた。だが歩いていた。“どっこい”、生き残り、したたかに歩いていた。
何処からか励ます声が懸(か)かる。
その声に応じて、そうだと思う。私は、自分が主人公であったことを思い出す。主役であったことを思い出す。此処で斃(たお)れて、動けなくなったら、この大スペクタクル映画のような戦争活劇を見ている観客は、金を返せと、怒るだろう。ここは“どっこい”、生き残らなければならないのである。土俵際(どひょう‐ぎわ)では、どっこい残って、“うっちゃり”を喰(く)わせなければならないのだ。それでこそ、スペクタクル映画の活劇の醍醐味(だいごみ)なのだ。
観客が、わざわざ入場料を払って活劇を見るのは、最後の土壇場(どたんば)で、“どっこい”相手の一方的な行動を阻止し、そこで“うっちゃり”を喰わせる逆転劇があるからだ。
義経の鵯(ひよどり)越え、正成の千早城(ちはやじょう)、信長の桶狭間(おけはざま)などの、「小が大を倒す逆転劇」を、観客は期待しているからに他ならない。この「小をもって大を制する」この一点のみに、観客は木戸銭(きど‐せん)を払うのだ。
そして、そうあって欲しいから、よれよれの主人公に声援を送るのである。私の傍(そば)にも、確かな声援が上がっていた。「ここで斃ては駄目だ」と云う声援が上がっていた。そんな観客からの声援を錯覚していたのである。
大観衆から、大声援を送られているような、錯覚に陥っていた。まとまって発する応援の叫びが、何処からともなく聞こえた。まさにそれは大合唱のシュプレヒコールになって渦巻いていた。それは確かに励ましのエールであった。だから転んでも、起き上がらねばと思ったのである。主役の役目は観客受けに気を遣い、これくらい軽傷で幕を下ろすことは許されないのである。
私は歩き続けた。それは本能的なものであったろう。
ただ渡り鳥が、寒い冬になったら、南に飛んで行くように、私も一種の帰省本能のような働きがあって、……わが古巣へ、そして……由紀子の待つアパートへ、足を一歩一歩出して、わが古巣へと急いでいた。まさに、「われは梟(ふくろう)」だった。
アパートに辿り着いたのは、午前3時過ぎた頃であったろうか。
部屋にはまだ明りが点(つ)いていた。よく此処まで辿り着けたものだと、自分でも思った。
生き残れた全ては、見も知らぬ私に、あの温かい食べ物を差し出してくれた、あの髭面(ひげづら)の浮浪者男のお陰であった。主人公と言う私に、彼は立派に脇役としての役目を果たしていた。
由紀子は、まだ起きていて勉強している様子だった。左肩を右手で抑え、二階への階段を上り、よろけながらドアを開けた。玄関の三和土(たたき)を入ると、積み上げた荷物が崩れるようにドサッと倒れた。何もかもが一挙に崩壊するように。
その音に驚いた由紀子が驚いた顔で、
「あッ。あなた!一体どうなさったの?!」と、悲鳴のような声を上げて駆け寄ってきた。
私は気力だけで、上半身を支えていた。肩から流れ出る血が、腕を伝わり、三和土にポタリポタリと落ちている。とても手で抑えるだけでは、納まりきれない。
「手が上がらないんです」
「どうなさったの?……まあ、酷い血!」動転したような声であった。それはまるで胸を抉(えぐ)られたかのような、一種の悲痛な悲鳴に似ていた。
「……コ、此処で治療して下さい。ケ、警察が捜しているから、ビョウ、病院には行けないんです」言葉がもつれ、私は吃(ども)るように吐き捨てた。これだけ言うのに、それに使うエネルギーは相当なものであった。
「駄目よ、此処では。何の設備もないし。……病院に行かなくちゃ……」
「お願です!病院にも……、何処にも連れていかず……、此処で……、疵(きず)の手当ていて貰えませんか?……応急手当てでいいのです……」私は切れ切れに言った。
「……困ったわ。此処には何も手術するような医療器具や薬も置いてないわ。あたしは医師としては経験も浅いし、それに救急治療は専門外だし……。やはり、病院でなきゃ駄目よ。今すぐ救急隊に電話するわ」
「やめて下さい!」
私は病院に担ご込まれれば、その傷から足が付き、直ぐに今晩のことが分かってしまうのである。警察への通報は免れる筈がなかった。
「でも、……この儘(まま)では……」
「駄目です。誰も呼ばないで下さい。……お願いです、……救急隊は絶対に駄目です」
「でも、あたしには自信がない。やはり駄目だわ」何度も頸(くび)を振った。
「いいですか、よーく聴いて下さい。……僕を助けられるのは、……あなたしかいないのです。……どうか僕を助けて下さい」私は念を押すようにいった。
「……そこまで見込んで下さるのは、本当に光栄ですわ。……でも、あたしは外科医じゃないから、自信がないんです。ほんの駆け出しの、一介の臨床研修医なんです。やはり駄目だわ、あたしには出来ない。とても無理です……」彼女は繰り替えし、頭(かぶり)を振っているのが、ぼんやりと眼に映っていた。
「いいですか、……もう一度、よーく聴いて下さい。救急隊を呼ばれたら、……僕はこの儘、警察に直行となります。今、……捕まるわけにはいかないんです。……今の僕を救えるのはあなただけです、お願いです……」私には最後の頼みだった。
「でも……」
「ほんの、応急措置だけでいいのです。後は……」と言いながら、激しい貧血の襲われながら、もうこれ以上立っていられない状態になり、意識を失いかけていた。
彼女はこれ以上の問答は無駄である、というふうに悟ったのであろう。考えが浮かぶ儘に、何らかの作業に取りかかっていたようだ。恐らく、肚(はら)を決めたのであろう。
そして、私は自分の都合から、由紀子に、医師法ならびに医療法違反のような行為を強要していたのである。
由紀子は、まず私のジャケットを脱がしにかかった。少しばかり忘れていた痛みが再び蘇(よみがえ)って来た。ジャケットは、何とか脱げたようであったが、その下に着ていたワイシャツと半袖のアンダーシャツは、血と汗で固められていて、絆創膏(ばんそう‐こう)のようにしっかりと肌に貼り付いていた。古い血と、その上に動いた時の傷口が開いて、出血したと思える新しい血が、二重に色を染め、各々のシャツに染み込んでいて、凝固(ぎょうこ)しているのである。
「痛いでしょうけど、少しだけ我慢して。もう少しだから」
由紀子は言い訳をするように、こう云って、これをどうしたものかと、束の間(つか‐の‐ま)の思案に暮れているようであった。
「構いません。それを思いきり引き剥(は)がして下さい」
「駄目よ、そんなことしちゃ。また傷口が破れて、血が噴き出してしまうわ」
彼女の考えたことは、各々のシャツを鋏(はさみ)で切り裂いてしまうことであった。慎重に作業にかかった。
傷口の全貌(ぜんぼう)が明らかになる度に、彼女は困惑と難色の色を示した。あるいは、自分に自分で言い聞かせ、心の中で「落ち着け、落ち着け」とでも繰り返しているのであろうか。それが脈を打つように聴こえて来るようであった。
あるいは医科大学時代での、外科実習の手術の講義を、頭の中で反芻(はんすう)でもしているのであろうか。
傷口の酷(ひど)さもさることながら、傷の内部を想像していたらしい。外科実習の手順を必死で思い起こそうとしているらしい。
まず、外傷部の創(きず)の状態は……?と所見を疾(はし)らすだろう。
鎖骨及び肩甲骨(けんこう‐こつ)上部複雑骨折、あるいは三角筋または僧帽筋(そうぼう‐きん)の破損。腕神経叢(うでしんけい‐そう)の破損。そして鎖骨下静脈または鎖骨下動脈の切断もしくは一部の破損による出血の可能性大いにあり……。一刻の猶予も許されない。急がなければ……。
患者の頭痛は?、眩暈(めまい)は?、吐き気は?、心拍数は?、血圧は?、意識は?、酸素吸入の有無は?、レントゲン検査の結果は?、以上を総合すれば緊急手術、その後、直ちに入院、絶対安静などの手順を追った、一連の外科実習の講義を、何度も繰り返して反芻(はんすう)しているのだろう。
まずは、何とか私の上半身の衣服を切り裂くことに成功したようだ。
「流しの所まで歩ける?」
「はい」云われる儘(まま)に、身体を捻って傷口を庇(かば)うように立ち上がろうとした。どうしても、うまく立つ事が出来なかった。
「駄目!ちょっと待って。動かないで!動かないでいいのよ、その儘にしてて下さい」
私が動くことは無理であると判断したようだ。
「そこにその儘にしていらして。今、傷口を洗って消毒するから。痛いでしょうけど、我慢して下さい」
薬用石鹸と水で傷口を洗い、エタノールで消毒をするらしい。念入りに洗い始めた。と同時に火のような痛みが走った。キリキリと錐を揉(も)み込まれるように痛かった。本来は、こういう大怪我の治療は麻酔が遣われる筈であろう。
沁(し)みて、飛び上がるほど痛かったが、しかし痛いということは、まだ私が生きている証拠でもあり、また良いことであった。
私は目を閉じて痛みに、必死に耐え、臍下丹田(せいか‐たんでん)の一点に力を集中し、心の中で『般若心経(はんにゃ‐しん‐ぎょう)』を一心に唱えていた。これも一つの自己暗示である。
やがて傷口は洗い終え、ガーゼで丁寧(ていねい)に、水分が拭(ふ)き取られていた。
私の大怪我は、早急に手術をする必要があったが、由紀子の代用品を使った応急措置で、何とか止血だけは成功したようだ。
そして、私の焔(ほのお)のような痛みの箇所に、鎮痛(ちんつう)の注射を打ってくれた。痛みはやがて和らぎ、遠い波の彼方に、連れ去っていくように引いて行き、安堵(あんど)の気持ちが訪れた。
●無一物、雑踏離れて蝉時雨
肩の鎖骨は、折れて砕けていたようだ。複雑骨折である。
これは稽古で何度も経験済なので、私としては大した事ではなかった。だが動けなかった。少なくとも、三日間は絶対安静にしておかなければならないと由紀子に釘を刺された。数メートル動くことも厳禁だった。
─────次の日の早朝のことである。私は静かに目を覚ました。
肩の傷は、少し動くだけで刺すような感じがあった。昨夜のことの反芻(はんすう)が起こった。何処で、何をして来たか、由紀子から問い質(ただ)されることが怖かった。
しかし、持ち前の彼女の聡明(そうめい)さから、この事は敢(あ)えて問い質(ただ)そうとしなかったようだ。
「どう?ご気分は。少しは落ち着きました?でも、これだけの傷を追いながら、麻酔なしで、よく我慢できましたわねェ」
彼女は少し驚嘆(きょうたん)ぎみで言った。
「ええ、何とか……」
私はこれに対して、全く言葉がなかった。
「これがあなたの云う、“どっこい”生き残ったということなのでしょうか?」
これはきつい冗談だった。
「はあ……」面目(めんもく)ないと思った。
「あたくしも必死で治療しましたが、後で考えてみると、こんな大それたこと、よくも出来たものだと思います。あなたの我慢強さにも平伏しますが、麻酔も無しに、こんな大治療、よくも自分で出来たものだと本当に驚いていますわ」
「……………」(すいまっしェーん……)と博多弁の無声音が出た。
「お陰で、治療技術の腕も、たった、ひと晩で凄腕の外科医のように、相当に上達しましたわ」
由紀子は矢継ぎ早に、皮肉を並べた。
「……………」
「あなたって、三流四流どころの、本当に下手な綱渡りしか出来ない癖(くせ)に、度々こんな臨場感ある、デッカいお芝居ばかり、あたくしに見せつけるんですもの。幾ら主役が死なないからと言っても、これ以上見せつけられたら、もう、お芝居の入場料だけで、あたくし、とっくに破産してしまいますわ」
「そんなご冗談を……」
「いいえ、冗談ではありませんわ。おまけに、あたくし自身、あなたのお陰で、ハラハラ・ドキドキの、いつもい変な脇役ばかりに廻されて、てんてこ舞いばかりしていますわ。
言っておきますけど、あたくしの専門は外科じゃなくって、小児科ですの。この事だけは、よく憶えておいて頂きたいわ!」
きつい、お叱りだった。由紀子は、愚痴とも、皮肉とも付かないことを、すらすらと云い放った。
だがこれで、自分の気持ちがおさまったのか、この後の事については、殊更(ことさら)突っ込んだ訊き方をしなかった。
また、それが「馬鹿なことをしてしまった」と、反省にも似た気持ちで、私を神妙にさせていた。
「怪我の理由は訊(き)かないんですか?」と恐る恐る訊いてみた。
「訊いても教えて下さる……?」
「……………」
「喧嘩か、何かだとは想像つくけど……。ねェ、図星でしょ?」
「はあ……」
由紀子は私が二、三人相手に喧嘩したと思ったらしい。四十名以上ものヤクザ相手に戦争のような決戦をしたとは夢にも思っていないようだ。それを知れば、間違いなく吃驚仰天(びっくり‐ぎょうてん)するだろう。
私のやらかした、デッカいこの戦争活劇は、絶対に知られてはならないのだ。この戦争活劇は、私にとっては大スペクタクル映画のようなものだったのだ。私は悟られないように、言葉を濁(にご)していた。
「理由は訊かないから、これ以上、もうこんな無茶な真似しちゃ厭(いや)ですよ」
しんみりとした口調で、由紀子が涙混じりに言った。
大きな美しい目に、涙を一杯溜めた、涙癖のある彼女を見た時、私は全く言葉がなかった。
既に夜が明けていたが、私はまた少し眠ってしまったようだ。
由紀子は、一晩中起きて、私の症状を見守っていたらしい。肩の傷から熱を誘発したようだ。頭は熱冷ましの氷枕(こうり‐まくら)が当てられていた。
いつもと違って、顔全体が腫(は)れぼったかった。恐らく熱のせいであろう。傷は相変わらず痛かった。既に、痛みは私の一部に同化しているらしい。このことがまた、生きている証拠でもあった。
トラックの下に潜って、傷を庇(かば)い、身を潜めている時の錯乱状態に比べれば、天地の開きがあった。私は一息つき、生還の思いを新たにしたのだった。
─────便所に行こうとしたが一人で立てない。
困った事になった。動くと傷がずれて激痛が疾(はし)る。全く、どうすることもできないのだ。
「ああッ!動いちゃ駄目よ。傷口が、再び破れて広がるわ」
「あの……ッ、トイレに行きたいのですが」こんな私は、どうすればいいのかと思った。
人生の中で、こんなに困る事は、そうざらにはあるまい。私たちは形だけの同棲ごっこである。所詮(しゅせん)は、図体だけが大人の、子供の飯事(まま‐ごと)なのだ。その飯事を、成人男女が演じているのだ。
肉体関係豊富な、性行為に飽き飽きしている倦怠期寸前の夫婦ならともかく、「忍ぶ恋」の意地を通している私としては、自分の一物を彼女から見られることに、抵抗するだけの羞恥心というものがあった。
更に、由紀子は天敵のような存在であり、その天敵に対し、自分の急所を無態(むざま)に曝(さら)すことは、非常に抵抗感があった。
「困ったわ」
「困っているのは僕の方ですよ」
「……………」
そうこうしているうちに、由紀子が何かの広口のボトルのようなものを捜してくれて、事なきを得た。しかしこの後も、排便排尿の度に、彼女の世話になった。そして、一人このアパートに籠(こも)って、傷の手当てをして貰っていた。
その後、どうして調達したかは知らないが、由紀子が、病院から持ってきてくれた抗生物質の化膿(かのう)止めを飲んだ。外傷薬と消毒薬の世話にもなった。
三日目位から何とか痛みは治まったが、動けるまでにはならなかった。まだこの時には、一分一厘(いちぶいちりん)動かすことが叶わなかったのである。
由紀子は、傷の手当をする度に、患部に当てたガーゼを外しながら、「うわーッ、酷い傷」と顔を背けるような言葉を洩していた。ガーゼを剥がす時はかなりの痛みを伴った。一部の疵(きず)にガーゼがぴったりと貼り付いているからである。
「一気にむしり取る方が簡単なのですが……」と、彼女は遠慮ぎみに云った。
「構いません、一気に遣って下さい」
「結構、痛いわよ」脅し気味にいって、私を試そうとする。
「我慢します」
一旦私を脅しておいて、彼女はガーゼの上からマーゾニン液を浸しはじめた。これは疵とガーゼの膠着(こうちゃく)して凝固した血や膿(うみ)の塊(かたまり)を柔らかくする為の思われた。そして一旦柔らかくなったところで、少しずつ端の方から剥(は)がしに掛かったのである。
剥がし終えて、毎度のように「うわーッ、酷い傷」と洩らすのであった。
「これはやはり、縫った方がよかったかも知れませんわ」
「このままではいけませんか?」
「このままでは、やはり時間が掛かりそうですわ」
そう云われて、頸をひねって左肩を見ると、パックリと疵が開いていて、それを見ただけで疵の痛みが蘇ってきた。
彼女は疵の周りを、切り傷専用の軟膏で拭き取り、その後、マーゾニン液で丁寧に拭いて消毒し、あらたに新しく薬を塗ったガーゼを当てるのだった。
彼女の毎日の口癖であった「うわーッ、酷い傷」は、日を追って、恢復(かいふく)するにしたがって、少なくなっていった。
この間、私は、治療中は上半身を起こして床の上に正坐するのだが、それ以外は寝た儘(まま)だった。外科的な方法で、疵を縫うという治療が出来ないので、傷口が開かないよう、寝ている以外なかった。
食事は由紀子が一箸(ひと‐はし)一箸、口まで運んでくれた。あるいは林檎(りんご)を剥(む)いて、その八つに割った林檎の切れ端を、一つ一つフォークに刺して、私の口まで運んでくれた。彼女の横顔と、林檎を剥く彼女の白い指が、赤い皮の林檎と共に、実に美しかった。私にとっては、まるで聖母のような手であった。
それは、いつか幼い時に経験したことのある、病気の時の、母の看病に似ていた。しかしその味は、何を食べても一日中、血の味がした。血生臭い、私のもって生まれた習性のせいだろうか。
由紀子は、私のことが気掛かりだったのか、昼間も病院を抜け出して、私の様子を見に来てくれた。食事や身の廻りの世話をした後、傷の手当てをして、また病院に戻るということを毎日繰り返していた。
二週間目位から少しだけ動けるようになったが、自由に、外に出るまでには恢復(かいふく)していなかった。砕けた骨の固まりが悪くて、腕を動かすと創(きず)が摩(ず)れる感じがした。
だが夏場にも関わらず、由紀子の手当てが良かったせいか、大した化膿も起こさなかった。衛生面には非常に気を遣っていたようだ。
二日に一回位は、微温湯(ぬるま‐ゆ)に湿らせた脱脂綿(だし‐めん)で体を拭(ふ)いて貰(もら)った。全身隈(くま)なく拭いて貰うのである。そして、その一物(いちもつ)ですらも……。
思わず怒張してしまった自分の一物は、こうした度(たび)に、私を散々困らせた。躰を拭く時に限って、こうなるのだった。怒張する一物を叱ってみても、それは仕方のない事であった。
生きている証拠、恢復(かいふく)に向かっている証拠と言えば、一物の怒張はそれまでだが、必然的に横溢(おういつ)する愛欲の煩悩は中々度(ど)し難いものであった。
私が、かの円覚寺の僧侶のように、「わが一物、長さ三尺。どうだ!驚いたか!」と問うたら、彼女は慧春尼(えしゅん‐に)のように、高笑いして「たかが三尺、なにしきのこと。尼僧(に‐そう)が一物、底無し!」と問い返してくれるだろうか。
最初は、恥ずかしさと照れで躊躇(ちゅうちょ)して、由紀子の顔には羞恥(しゅうち)の朱(しゅ)の色がほんのりと滲(にじ)み出ていたが、医療の一翼(いちよく)を担う彼女は、直(すぐ)に馴れてしまったようであった。慧春尼(えしゅん‐に)なり切ったのだろうか。
そして衣類も、毎日着せ変えて貰った。
傷が段々治ってくると、やがて緊張が解けて、本当の傷の痛みに気付き始めた。着せ替えの際の、手を上げたり、下げたりの、手を動かす動作や、上半身を左右に捻(ひね)る動作には、ある種の苦痛が伴ってきた。
その度に顔をしかめ、「ああ、痛たッ……ッ」と声を発した。痛さは依然、躰を強張(こわば)らせた。左腕を動かす度に、肩の中心部から脳へ伝えられる痛みの伝達は、未(いま)だに健在であった。そして何よりも生きている証拠だった。
自分が招いてしたことであるから、何も言えない筈であるが、一般の家庭夫人に往々にしてある、「あなたが勝手に喧嘩をやったんだから、少しぐらいは我慢しなさい」等という叱咤(しった)や愚痴(ぐち)らしいことを、一言も彼女は洩らさなかった。
いわば顔を、痛さで歪(ゆが)め、「痛たッ……ッ」と声を発するこれは、私の甘えのような常套句でもあった。彼女は無言の儘、これに心安く同意していたようである。
だから私も歯を食いしばって、軽々しく声を発しないように出来るだけ心掛けた。しかし動かされる度に、「うッ!」と声が出ていた。
その度に由紀子は、今回の出来事を母親が叱咤(しった)するような厳しい目つきで睨(にら)みつけた。
私は自然と、目線を下に反(そ)らすしかなかった。痛いという発声も、いつの間にか、小さな掠(かす)れ声の無声音になっていた。そして子供が悪戯(いたずら)をして怪我をし、その怪我が原因で痛い目に合わされているという、不思議な錯覚を感じたとき、私は我ながら、子供が親の命令に従うような従順さが、まだ自分の中にも残っているということが可笑しくもあり、また滑稽(こっけい)でもあった。
約一ヵ月間、このような状態が続いた。死に掛かったにも関わらず、我ながら、よく生き残ったものだと思った。主人公は、“どっこい”生き残ったのだった。九死に一生を得たのである。
そして道場の事が気になっていたが、電話で病気?のことを知らせておいたら、誰かが、きちんとやってくてたようだ。
私は運命と云う言葉について考えた。九死に一生を得たということについて考えた。人間の生死には、何処までも運命が付き纏(まと)う。運命の陰陽が絡み付く。その運命だが、人生の戦いにおいて、運命は一度位は勝ちを譲(ゆず)って呉れることはあるだろう、それも私のような若造(わかぞう)に対しては……。
しかしこれが、二度三度となると、果たしてどうだか。恐らくこの次は、決して容赦(ようしゃ)しないだろう。その戒めを、慎んで肝に命じなければならない筈だ。
あの新月の夜、確かに、何かが起こった。それは十数人の負傷者を出す程の大乱闘であった。しかしこの事件は、誰が行ったかも警察は特定することが出来ず、捜査は迷宮入りとなり、以後、何の咎(とが)めも、何の話題にもならなかった。
奴等からの慰謝料の件もこの儘、有耶無耶(うや‐むや)になり、いつの間にか不問になってしまった。少しは、男の土性骨(どしょっ‐ぽね)の意地を見せて、私も怖れられたようだ。
奴等もおいそれと、私には手出しが出来ないだろう、もし、訴え出るようなことがあれば、自らの首を絞めることになり、彼等も叩けば埃(ほこり)の出る躰らしい。
この事件から得たものは、実戦の経験が出来たことと、分別の無い行動の威力であった。そして、よく生き残ったものだと思った。
私は子供の頃、急性小児脱腸炎で死にかかった事があったし、何年か前の学生の頃にも傷害事故で死の淵を彷徨(さまよ)ったが、今回の事件も、それに等しいものだった。まさに「九死に一生を得た」と言う感じであった。われながら、よく生き残ったものだと思う。
そして勿論、由紀子には大変な迷惑をかけたが……。
─────動けるようになった頃、参禅するために、一人で大正寺を訪ねていた。外はすっかり夏空の中に、時折爽(さわ)やかな秋風が吹いて、初秋を感じさせた。もう直、白露(はくろ/二十四節気の一つで、秋分前の15日、すなわち太陽暦の9月8日頃に当る)なのである。
私は寺の縁側(えんがわ)に腰を降ろして、静かに結跏趺坐(けっかふざ)を組み、耳に焼け付くような蝉時雨(せみ‐しぐれ)を聴き入っていた。そして、蝉の声には法師蝉(ほうし‐ぜみ)がクツクツボウシと鳴く声が混じっていた。
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▲私は独り縁側に坐り、蝉時雨に耳を傾け、それを聴き入っていた。
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縁側に坐(ざ)を組み、こうして坐っていると、人間の「我(が)」として背負う、金銭欲、食欲、性欲、物欲、支配欲、名誉欲など、遂げられないそれらの欲望の裏には、常に恨みや妬(ねた)みが潜(ひそ)み、次第にそれが歳月とともに降り積もって行くことが分かる。それは人間が「我」としての生き物の宿業(しゅくごう)を背負っているからだ。その宿業が深まれば、それはやがて怨念(おんねん)となる。
怨念には、軽い、重いはあるにしても、そうした念を持たない人間は、この世には一人も居ない。
人はみな、それぞれの念を持っている。しかし、それぞれの念が、病的に嵩(こう)じれば、それはまさしく怨霊(おんりょう)となる。魂が、畸形(きけい)に変形すれば、人の生死(しょうじ)に関わらず、生きた者は生霊(いきりょう)となり、死んだ者は死霊(しりょう)となる。人間は、そんな憑霊(ひょうれい)構造を持つ。
霊魂や精神が異常か、あるいは健常かに分けなければならないとしたら、その根拠には、その人の行為や行動による動機が絡んでいよう。
行為や行動は、欲望への奔走(ほんそう)から始まる。しかし、それを求めても、真の意味で魂の解放は訪れないであろう。
私たちの人生には、「これを捨てれば随分楽になるのに」と思う物が数多くある。肩書きや地位や名誉、更には財産や家族。こうした煩(わずら)わしい、いろいろな重荷を担ぎ廻って、悩み、苦しみ、迷っているというのが凡夫(ぼんぷ)の実体であり、悲しさであろう。
捨てれば楽になる。何も持ってない時の、放下著(ほうげじゃく)こそ、裸で生まれた人間の正体である。
したがって、何も悩んだり苦しんだり迷ったりすることはない。また、生にも、死にも執着する必要がない。生死に執着しなければ、人間は、もっと自由に、伸び伸びと、自在な解放感を味わうことができる。
もし、病気をになったら、病気をの真っ只中で、とことん病気と闘い、苦しみにある時は、苦しみの中で、ただ、苦しみに藻掻いて、のたうちまわるだけのことである。病気をに、苦しみに、悩みに、迷いに、「こだわる」ことはない。「こだわり」こそ、人間の最も愚かな悪しき世俗だ。だから、それに囚(とら)われて、何も苦悶(くもん)することはない。
無一物(むいちぶつ)で生まれた者は、ただ、無一物に帰るだけのことである。
当たり前の事を、当たり前に受け止め、当たり前に「行い」をすれば、そこには「こだわり」から解放された世界は広がっているのである。
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無一物(むいちぶつ)雑踏(ざっとう)離れて蝉時雨(せみしぐれ)
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そして、
と詠った、山頭火の句を想い出していた。
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西郷派大東流合気武術
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※これより『旅の衣』青春の群像は“後編”につづきます。
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