死の荘厳
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▲ 天上から見渡した下界の現象人間界。
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●死生観を超越する
人類に、公平かつ対等に課せられているのは「人の死」である。
人の死は、時代の古今東西、長幼も、あるいは性別に関係なく訪れるものである。何人(なんびと)も、生・老・病・死の四期は踏(ふ)まえなければならない。そしてこれは、逃れる事も、延ばす事も許されず、必ず果たさねばならない「人間の責務」のようなものである。生まれたものは、やがて死ぬ。それが生きとし生けるものの定めである。
人生の終止符は「死」によって齎(もたら)され、生きた証(あかし)の人生の総決算は、「死」によって訪れる。人の世で、「死」こそ一大事の、大事業である。何しろ、顕幽両界(げんゆうりょうかい)にあって、その境目が生と死を司っているからである。
「死」には、「切れ目」と言うのがあって、ここが現世との生を断ち切る処となっている。また、「繋(つな)ぎ目」というのがあって、生まれると言う、「生」の繋ぎ目になっている。
人間の最後の欲望があるとしたら、それは「生」に固執する「生命欲」ではないではないだろうか。
あるいは「延命欲」かも知れない。少しでも長く生きていたいという欲である。死にたくないとする欲である。
ひたすら「生きる」ことに縋(すが)り、死を先延ばしにしたい欲望であろう。死が差し迫っていても、死にたくないと思うのが、死を前にした人間の最後の欲望なのである。
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▲ 黄昏時の秋の夕焼けの中に、幽界の寂寥が漂う。
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この欲望が、「生」への執着するとすれば、「生」を断ち切る断絶の悲痛な現実は、「死」によって意図も簡単に断ち切られてしまう。また、生命欲を断つ、断絶が「死」であるからこそ、「死にたくない」と思う、痛切な悲願にも似た願いであり、この唸(ねん)が最後まで強いのも人情からして、当然の事と言えよう。ここに限り無く「生」に固執する現実がある。
しかし一方で、こうした人生最大の悲痛な叫びを乗り越える方法として、死生観を超越する、「克服の道」を模索していなければならない。これこそ、人生の最重要課題であり、これに向かって、人は努力を惜しまぬようにしなければならない。死生観(しじょうかん)は蔑(ないが)ろの出来ないのである。生きているうちに、死生観の解決策を見い出していなければならないのである。こうした努力を「死の超剋(ちょうこく)」と言う。
しかし、人の所有する生命の本質は玄妙(げんみょう)なものであり、人の死は、人生の終わりを意味するものではない。一切の人生の成果は、「死」で完結するのではなく、死は、単に生の終焉(しゅうえん)でしかないのである。あるいは古い肉体を脱皮して、新しい肉体へと再生する行為であるかも知れない。
生きていると言う事は、「形を有する」ことであり、また、これに応じて成長するという事であり、変化し、現象人間界に「形を変化させる」(【註】体格や体質を変化させる)という現象が現れ、ただ、こういう事を、「生」と云っているに過ぎない。
しかし、隠れた真の存在は、「顕幽(げんゆう)」なる反面があり、これは何処までも無形の存在である。この無形の存在は、常住(じょうじゅう)であり、不変なる面を持ち、絶対界の存在である。人間の持つ魂は、こうした世界の帰属した存在なのである。
一方、人間の思考は、形あるものに執着し、形のみに囚(とら)われて、現象世界の形を見て、それを「科学」と名付けたり、科学的(【註】多くの日本人が「科学的」と称する科学は、17世紀の「ニュートンの古典物理学」を指し、これを総称して科学的と呼んでいるに過ぎない。したがって量子力学などの自然科学を数学で洞察する難解な量子論を指すのではない。だがアインシュタインの論理も宇宙物議学では怪しくなって来ており、今日の科学と云うのは、未来から見れば、一種の仮説に過ぎない)と称して、自己満足に酔い痴(し)れるようだ。
しかしこうした、可視世界での科学は、現象の一局面を捉えたものに過ぎず、形の生を追いかけるが、本来、無形のはずの死の本質を見ようとしない。したがって、これを逃避するから、死は「恐れるもの」の主体となってしまうのである。
死を怖いと考える概念は、此処(ここ)から派生するのである。死んだら、総(すべ)てがそこで終るという概念が、死への恐怖を、更に増幅するのである。
「生」の本質を考えると、実は、生の実態は「無」に立った「有」であり、「空」に応呼した「色」に過ぎない。有は無から派生し、この有は形を造りながら、再び無に還(かえ)って行くのである。
したがって死は、死した後、何も無くなってしまうのではなく、無くなったように見えるだけのものなのである。有が無に還(かえ)っただけである。死は、人の魂が、還るべき処に帰る行為である。肉体か肉体の還るべき処へと還り、魂は魂の還るべき所に還って行くのである。
勿論、人間が死ねば、人間としての人体を構成する肉体は失われ、「色」を為(な)していた形は崩壊する。死後、肉体は還るべき処に還って行き、土に戻り、水へと還り着く。更に、複数の元素に還元され、肉体を構成していた生体としての容器は、命体の無形の魂(たましい)を解き放ち、魂は許(もと)あったところに回帰していく。
そして、生死は循環し、還元して、永遠の生きとし生けるものの生命が、再び繰り返えされる。
●さて、そろそろ死のうか
人は、「死を超剋」が出来るだろうか。死生観を克服する事が出来るだろうか。
死の人間の最後として、これを苦難ととるか、新たな次元への生命の再生ととるかは、その人の思考と、苦難に対する姿勢による。
現代社会において、「人の死」は次のように定義されるようだ。
人の死。
それは、生命活動の停止と、現代医学では解釈されるようだ。
成体が死亡すると、まず数十分後に有機質の分解が始まり、腐敗が進行する。つまり有機物、特に蛋白質が細菌によって分解され、有毒な物質と悪臭ある気体を生ずる変化が腐敗であり、この腐敗には腐敗菌が関与している。
腐敗菌は有機物に作用して腐敗を齎す細菌のことで、コリエロゲネス群細菌・プロテウス・枯草(こそう)菌群・クロストリディウム・プソイドモナス・セルロース分解細菌などが挙げられる。そして有機物を分解し始めるのである。
ところが、こうした分解が始まる時期に前後して、では「いつ死亡したか」ということについて、誰も正確に言い当てることは出来ない。医学者であっても、宗教家であっても、「いつ死亡したか」と言うことを、正確には言い当てられないのである。
一般に、臨床医の「死の判定」については、大方において、自然呼吸の停止並びに心臓の停止、もしくは瞳孔反応(どうこうはんのう/光の明暗、近距離にあるものの注視、開瞼あるいは情緒の変化などにより、瞳孔の大きさが変化する反応)の停止というもので死の判定を下しているようである。しかしこれまでの人間の歴史の中には、単にこれだけでその定義に当て嵌(は)まらない事態が屡々(しばしば)起こっており、少ない例外として蘇生(そせい)する人もいるということである。
こうした場合の事を考えて、埋葬する為の法律としては、死後24時間については死体を処理する場合、この時間を猶予(ゆうよ)する法律が設けられている。
特に、人間の中枢を司る脳は、人体内の諸器官の中でも、最も酸素欠乏に対しては非常に弱いところである。心臓の停止によって血液の供給が杜絶えると、数分で脳細胞は死滅し、やがて腐敗という分解が始まるのである。こうした医学的な状態の過程段階が、「脳死」という死の認定の仮説を作り上げた。
脳死は、脳幹(のうかん)を含めた脳全体の総べての機能が非可逆的に停止した状態を指す。したがって、臓器移植などの医療技術の進歩に伴って問題とされるに至ったが、脳死を確実に診断する方法と、基準および脳死を、即「個体の死」と見なし得るか否かについて、日本では、なお種々の意見があり一致していない。「脳死」という、一種の仮説に過ぎないのである。
脳皮質が死んでも、脳幹が生きているという場合がある。心臓移植や、その他の移植においても、「真当(ほんとう)の脳死とは何か」という問題が一つの争点となり、一頃(ひところ)はこれが世間を騒がせたが、最近では脳細胞の死滅と同時に腐敗と分解が始まる時点を「脳死」と定義し、脳死が人の死んだ状態と判定しているようである。
しかし、皮質脳波計では脳死の判定が正確ではなく、脳幹脳波計を必要とするのであるが、これはあくまで動物実験においてのみ可能であり、人間については殆ど開発されていないというのが現実のようである。どこまでも仮説の域を抜け出していないのである。
したがって今日でも、「死の判定」は、昔ながらの自然呼吸の停止並びに心臓の停止、もしくは瞳孔反応の停止というもので死を定義し、認定していようだ。
今日の医学上の死の診断は、死を認定しているのにもかかわらず、死後の分解と腐敗が進行しないという稀(まれ)に見る状態を、どう考えればいいのか、これを判断する判定は具体的な結論を見ていないというのが現実である。
「死」と「仮死」の違いを、生命活動の停止と一時停止の区別を如実に示すものは、まだ発見されていないというのが実情なのだ。
現代医学が定義する、三次元医学では、眼に見える現象として此処までが精一杯である。可視世界の事は論じているが、不可視世界の未科学の分野は一切論じていないし、また三次元医学の可視に見る現象が、此処までであると言う事を物語ている。
そして、可視世界の事だけを取り上げて、「人の死」とするのは、これで一切が切れるような錯覚を抱き、「死」とは、このように恐ろしいものかと、印象づけるものである。
したがって、「死」は遠ざけられ、想像以上の恐ろしいものに見えて来る。
現代人は死を徹底的に恐れ、生に固執する態(さま)は、こうした三次元世界で死の有様が、三次元医学の限界として、横たわっているからである。
例えば、三次元現代医学は、死を数日後に控えた末期ガン患者の命を助けることができない。また、末期ガン患者の多くは、投薬療法の副作用によって死んで行く場合が少なくない。死に行く者の、苦痛すら和らげることができないのである。その為に、死は、かくも恐ろしいものとなってしまうのである。死を恐れる原因の総ては、此処にあると言ってもよいであろう。
その為に、死は短見的に見られ、近視眼的に見られ、浅はかな思慮から「迷い」を生じさせるのである。そして、この「迷い」こそ、恐怖そのものであり、ここに死に行く者の苦悩がある。
しかし、こうした死への恐怖は、現代の偏見であり、理屈では分かっているが、感情が許さず、死は恐ろしいものになり、夜の寝覚めに「死」を思うと、心細くなるのである。
そして、古い服を脱ぎ捨てるように、「さて、そろそろ死のうか」と、古人の教えは聞き逃され、悲しく、恐ろしく、嫌になるのである。つまり、大自然から隔絶されてしまった現代人は、天地の道理が皆目(かいもく)分かっていないのである。
●死と死後硬直について
死後に現われる現象として、死後硬直がある。
これは諸筋肉が収縮し、硬くなる死後の現象である。頭部の筋肉と下顎に始まって、胸部から腹部に掛け、やがて上肢や下肢に及ぶ。
こうした硬直は、やがて時間と共に解けるものであるが、死体の上部から下部に向かって起こるのが普通とされる。
それは霊的に視(み)て、頭部と胸部にかけて神体域が集中している為であり、泥丸を抜けて霊体が離脱する現象が死後硬直に現われる。
死に方によっては、死体が息を引き取ってから、2〜3時間後に硬直が始まり、摂氏10℃位の温度では、おおよそ数10時間もこの状態が続き、霊体と肉体の分離が容易に行われなかったり、これに手間取る、死に方の問題に原因があることがある。
しかし、こうして死相(【註】死に近づいた顔つき。または死に際して顕れた臨終の際の人相)を顕(あ)わしつつも、肉体と霊体は生命体の遊離が行われ、死後硬直は解かれる。
現代医学の立場から「死相」というものを定義すると、「死相はない」と断定しているようだ。死に行くものが、死に臨んで、苦しみや、藻掻(もが)きを催(もよお)すことはないと断定しているのである。
しかし、これも病院で死亡して行くのが現代人の実情であり、病院で生まれ病院で死ぬ過程の中で、「生」も「死」も尋常な眼で観察する観察眼は失われていると言えよう。そうした通り一遍の作業が、人の死の実際を見逃し、「死相はない」と、仮説的に判断したに過ぎない。
さて、死後硬直は、各々の年齢に応じて異なり、小児や幼年者は成人に比べて早く起こり、逆に四十代から五十代の働き盛りの、現世に未練多き年代は、この死後硬直も長く、特に過労死や心臓マヒなどが死因で死んだ人は、この持続時間がかなり長いのが特徴である。
それに比べて乳幼児が死んだ場合は、極めて短く、また弱く、見逃される事もある位である。
全般的に、死後硬直は、周囲の温度が低ければ低いほど、その持続時間は長く、逆に高ければ短くなる。
特に、今まで殆ど病気もせず、健康体の人で、事故死などで死んだ場合、死後硬直は長い時間を継続させる。それは急激な肉体と霊体の分離が行われた為、その霊的なショックに対応できず、自然死のように緩やかな遊離とは逆の状態になっているからである。一種の恐怖から来る、霊的な衝動といえよう。
特に事故死でも、「横死(おうし)」という状態に至って死んで行く者がいる。例えば、交通事故などで五体を著しく破損させ、両足切断や下半身などを車輪で轢(し)かれ轢死した場合や、倒壊ぶつなどの下敷きになって圧死した場合も、同じ事故死であっても、病院で病死するのとは異なっている。こうした場合も、残された遺体に起る死後硬直は異なるのである。
逆に、幼児や老人が長い間の闘病生活で、死を覚悟しつつ死んだ場合は、比較的死相も穏やかで、死後硬直も短いようである。病死も、事故死の一種であるが、突然な事故死と比べると、その差は非常に大きく、死に方によって、死後硬直の時間が異なるのは確かなようである。
さて、死後硬直が起こる原因は、医学的には繊維維中(せんいいちゅう)に乳酸(【註】有機酸の一つで、乳酸発酵や激しい筋肉運動など、糖を無酸素状態で分解することによって生ずる物質)が出来て、屍体を硬くさせる為であるが、落雷や窒息で死んだ人は、死後硬直がない場合があると言われている。
これは米国の一部の州で死刑で遣われる電気椅子(【註】死刑に用いる刑具で、高圧電流を通ずるようにした椅子)刑や、日本の死刑で行われる絞首刑(【註】首を縄で絞めて殺す刑罰で、現行刑法で規定する死刑の方法)などが、こうした医学的な見地から、ある意味で死後硬直を抑えたものと考えられる。
こうした死因による各々の死に方は、人各々であるが、特に日射病で死んだ人は死後硬直が激しく、筋肉の硬直と共に心臓まで硬直すると言われている。こうした人を解剖すると、まるで木片にメスを当てているような音さえすると言われている。
人間が死に向かう現象は、人により様々であり、一様ではない事が分かる。また、この「一様ではない」ことは一体何に由来するのか。
畳の上で親族に見守られながら、安らかに息を引き取る人間が居る一方、交通事故で無惨な死体を曝して死ぬ者、飛行機事故で手・足や胴体がバラバラになって死ぬ者、爆発事故で跡形が残らないほど木端微塵になって死ぬ者などは、一体、前者と比べて、どこがどう、こうした運命の結末に違いが出て来るのであろうか。
後者は「死後硬直」など認められずに死んで行くではないか。
人間が宇宙の大生命と同根であると謂(い)れながら、実は死に態は同根ではなく、それぞれの異なるランクに分けられていて、死後硬直すた確認されずに死んで行く人間がいると言うことだ。したがって、生命は同根であっても、死に方には人各々の背負った因縁があり、その因縁の深さにより、死が決定されると云う事が言えそうだ。
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