●死ぬるも、また一大事
時間の本質は、「人間が生存する」と言う行為の中で、「行動した跡(あと)」というものではない。行動した軌跡に生存の意味はない。
行動の前にも、行動の後にも時間はなく、ただ行為や行動を横に並べ、数直線上に置き換えれば、前と後が出て来るだけである。
時間は何処までも、出来事の継起(けいき/時間的に前後の順を追って現れること。succession)する秩序である。この秩序は、不可逆的方向を持ち、前後に無限に続くものである。一切がそのうちに「在(あ)る」と考えられるものである。
しかし、数直線上のような「長さ」を借りて、一時的に、これを顕わす事は出来る。しかしこれは、何処までも「借り物」である。時間そのものの実体ではない。
もし、数直線上に、行為や行動の跡があったとしても、それは「在る」という今から、既に通り過ぎてしまった「過去」であり、持続している「今」を顕わすものではない。
時間を顕わす概念には、様々な考え方がある。
宗教学的には、永遠から生じ永遠に帰するとされ、有限の仮象(Schein/仮の形で感覚的現象を指す。対応すべき客観的実在性を欠いた、単なる主観的幻影)であるとしている。これをプラトン(Platon/前427〜前347)は永遠の動く影とした。また、古代ギリシアの哲学者アリストテレス(Aristoteles/前384〜前322)は運動の帯びる性質とし、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus/初期キリスト教会最大の思想家。354〜430)は時間の三様態、過去・現在・未来を意識の三様態し、記憶・知覚・期待に還元した。
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▲ 過去・現在・未来という時間の構造。時間は時の流れの2点間の長さで、空間と共に人間の認識の基礎を成す概念である。
一般に出来事の継起する秩序で、不可逆的方向をもち、前後に無限に続き、一切がその裡側(うちがわ)に在(あ)ると考えられている。これをプラトンは「永遠の動く影」、アリストテレスは「運動の帯びる性質」とし、アウグスティヌスは「時間の三様態」を示し、過去・現在・未来を、「意識の三様態」である、記憶・知覚・期待に還元した。
近代になって時間は、客観的規定と見られたが、カントは時間を空間と共に、非実在界で様々な現象を構成する主観の直観形式と考えた。
これに対し、弁証法的唯物論では、物質の根本的な存在形式であるとする考え方が生まれた。ベルクソンは、意識の直接的な流れとしての純粋持続をなすものとし、ハイデッガーは「現存在」の存在構造としての「時間性」を、時間の根源と見る考え方が生まれた。
また物理学では、現象の経過を記述する為の導入される量を「時間」と定義し、物理法則は、時間の原点のとり方によらないという性質を上げ、この性質から、エネルギー保存の法則が導かれとして、更には光速不変の原理が、物理的な時間の尺度となるとしている。
しかしこの概念は、人により、その単位時間が各々異なったものになり、感じる概念は意識が決定するものである。更に、空間と共に、人間の認識の基礎概念は、時間と共に物質界を成立させる基礎形式であり、相対性理論では、空間は時間と不可分であり、物質の存在の仕方により、変化するものであることが示された。 |
近代に至って、時間は客観的規定と見られたが、カントは時間を、空間と共に現象を構成する主観の直観形式と考えた。これに対して、弁証法的唯物論では、物質の根本的な存在形式であると定義した。
更に、フランスの哲学者ベルクソン(Henri Louis Bergson/自然科学的世界観に反対し、物理的時間概念に純粋持続としての体験的時間を対立させ、絶対的・内面的自由、精神的なものの独自性と本源性を明らかにした。1859〜1941)は意識の直接的な流れとしての純粋持続を、ドイツの哲学者ハイデッガー(Martin Heidegger/キルケゴールの影響を受け、フッサールの現象学の方法にもとづき、人間存在の根本構造を関心すなわち時間性として実存論的に分析した。1889〜1976)は「現存在」の存在構造としての時間性を、時間の根源と見る考え方が生まれた。
一方、物理学では、現象の経過を記述するため導入される量と定義し、その基本的な性質は、時間の一様性にあり、物理法則では、時間の原点のとり方によらないという性質であるとしている。そして、この性質からエネルギー保存の法則(【註】「外部からの影響を受けない物理系(孤立系)においては、その内部でどのような物理的あるいは化学的変化が起っても、全体としてのエネルギーは不変である」という法則)が導かれ、また、光速不変の原理(光の伝播する速さ。真空中の光速度で、毎秒29.9792458万kmは基礎定数を持つ)が物理的な時間の尺度となるとされている。
時間を総じて、人は感傷的に、「過去に生きる」などという言葉を口にするが、これは明らかに間違いである。過去に生きる人間など、実際には存在しないのである。
「過去」というのは、「過去を思う今の意識」であり、記憶と言う「今の意識」に重なった心像化現象に過ぎない。
また、これに重ねて「未来に生きる」などとも言われるが、これを予想する未来を「今の意識」に重ねただけのものに過ぎない。何(いず)れも、漠然としていて、抽象的であり、一方、感傷主義(sentimentalism)が混入されている形跡が否めない。
しかし心とは、「今の意識」から派生するもので、ここに感情に溺れる態度は入り込めないのである。そして、人間の本当の棲家(すみか)は、「今」にしかないのである。
したがって生には、前も後もなく、「今の意識」にも、その前後は存在しないのである。
人間の「今の意識」には、生まれたと言う出生も存在しなければ、終わったと言う滅亡も存在しないのである。在(あ)るのは、「今の連続」であり、無時間と言う意識しか存在しない事になる。
確かに、客観的に見れば、傍観者側の感得として、人間の生存には生まれた日が存在する。同時に死んだ命日もある。人生と言う生存した時間の長さもある。しかしこれは、総べて客観的に見た場合の話である。これが客体視(object)できるのも、他人の生存のみについて言える事であり、自分の意識は客観できない。但し、自分の行為の跡(あと)や、抜け殻(から)を模して、「客観された自分」というものは感知する事が出来よう。
しかし、生とは主体であるから、主体的な立場で考えるのが一番正しい考え方である。これが根源的な立場である。
ここに来て深い智慧(ちえ)へ辿り着き、死を超越出来るのである。そして現実に身を委(ゆだ)ねれば、自分と言う意識体は、「不死」である事が分かる。
生きているうちに、死は存在しない。あるいは死んでしまってからも、死は存在せず、死につつある時にも、死は訪れない。したがって自分の死は、自分では存在しないと言う事になる。まさに不死であり、ただ、この不死の現象が肉眼では確認されない事だけの話である。
肉の眼を超えて、真実の刻々たる「今」を思えば、全現実は、人生よりの解放的であり、自由があり、したがって永生(えいせい)がある。だから死を超越する次元に至れば、「自分は死なない」ということになる。死について、主体的理解を得たならば、「自己に死がある」と思うのは、他人の死を視(み)て、それを自分に類推しているだけの事である。
つまり、「死」とは、肉の眼で視た、他人の上の事だけなのである。
では、この結論は何処から導いたのか。
それは「他人の死」を視てである。肉の眼で視た他人である。
自分の中には、汚染された先入観と、暗い固定観念がある。その結果、「総ての人間は死ぬ」という結論を導き出した。その定義として、「自分は人間である」という定義が成り立ち、「故に、自分も死ぬ」という結論が出て来る。これこそが「推論」の最たるもので、総(すべ)ては、観念上の事である。主観的構成によって導き出された先入観、あるいは固定観念である。主観における単なる観念である。
実際には、自分は死なない。ただ、自分に死があると思うのは、他人の死を視て、一方的に、そう思い込むだけの事である。したがって、死を怖(おそ)れる考え方が派生する。死を怖れる理由は、実は死を怖れているのではなく、「死の観念」を怖れていると言う事が分かる。
「自分は死ぬ」という観念に、人は苦悶(くもん)し、当惑するのである。
肉の眼では、他人の死を視て、「人の死」というものを類推はできるが、これは実際的でなく、事実、人間は未(いま)だ曾(かつ)て「自分の死」を見た事がないのである。だから「自分には死がない」と言えるのである。自分の死は、想像と類推の上に成り立っているからである。
人間は生きながらにして、苦悶(くもん)する動物である。観念や幻覚に怯(おび)え、思い悩むのである。これを「迷い」という。
つまり、客体としての死があるからと言って、主体にも死があると考えるのは、妄想であり、迷妄(めいもう)である。主体に、死があると思うのは、明らかに錯覚なのである。
人間は普段、「死の問題」として、これを考える事がある。しかし「死の問題」は、実は死の問題ではなく、「死への恐怖」の問題なのである。死への恐怖が、死の問題として摺(す)り変わっているのである。
では、「死の恐怖」とは、何であろうか。
それは死に際(ぎわ)の苦痛であろうか。あるいは、死と言う終着点に至って、自分がこれで消滅すると言う、「自分が無くなる」というものが、恐怖心になるのであろうか。
第一に、苦痛は何故恐ろしいのか。
第二に、自分が無くなると言うのが、何故恐ろしいのか。
第三に、死に際に際し、生きていたいと言う生命欲は、一体何処から派生するのか。
以上の三つを考えると、「有る」とか、「無い」とかの次元の事である。つまり、生死を超越せず、生命欲に過去を思い、未来を思っているに過ぎない。また前後を思い、出生や死滅を思っているに過ぎない。
しかし、吾(わ)が生は、何処までも客体し得ぬものである。何処までも主体的に味わって行くものなのである。外から眺(なが)められるものではない。
客観すれば、人の生死は、出生と死滅であるが、自分と言うものについて考え、主体的に見れば、生死は存在しない事になる。したがって、自分の死と言うのは、観念の中にしか存在しないものなのである。
数直線上に、出生を始点として、死滅を終点として、そして、一直線上に引かれた長さを人生と言う考え方は、結局、観念からの錯覚に過ぎないという事である。
しかし、出生と死滅を数直線上に置いてしまうと、「いつかは死ぬかも知れないが」という呑気(のんき)な思考に誘導されてしまう。そして、この呑気さが、死は未(ま)だ遠いものと錯覚しまうのである。この錯覚により、人生をぞんざいに扱い、取り返しのつかないものにしてしまうのである。
私たちは、生まれてこのかた、今日まで死んだ事が無い。死を経験した事が無い。死を味わえば、それでお仕舞いである。経験した事がないから、忘れている。忘れるから、必ず自分に死がやって来ると思いもしないのである。
こうした考えの認識に中には、死とは、長い人生を経験して、その後にやって来ると錯覚しているからである。人の死とは、長い生活の終わりに訪れると考えているのである。これえこそ、とんでもない誤りである。
何故なら、死は生の終点では無いからだ。死とは、生と表裏一体であり、生と同根であるからだ。生の裏側が死であって、生の終わりが死では無いのである。生存は、数直線上の線で表せるものではない。始点と終点と言うものは存在しないのである。だから死は、生の終わりではない。死は、生と共にあるのである。
それは生きているものが何年か生きて、寿命が尽きればそれが終わって、死と言うものがやって来る事ではない。
これは、元来、死であるべきものが、不思議にも、今日もまた生きているという事なのである。
人間は「死すべきもの」であるが、これは「不思議にも、今日もまた生きている」という見地から見たものである。人間とは「いつか死ぬ」ものではなく、本来は「死であるべきもの」なのである。それが生きているのであるから、まさに不思議と言う他なく、その実体は「死」である。したがって「生」は、仮の姿と言う事になる。
生が終わって死が来るのではない。死であるべきものが、今日も生きているのである。これこそ不思議の最たるものである。
更に「不思議の最たるもの」を探究すれば、人間が「自分の力で生きている」と言う事が成り立たなくなるのである。自分の力で、一寸の命も、一秒後の生命の維持も、延ばしうるものではないと言う事になる。人間の生に、自分の力が関与するところは何処にもないのである。
もし、自分の意志と、自分の力をもって、生きる事が出来るのなら、何故、人は死ぬのだろうか。自分の力で死を回避出来るではないか。
ところが、自分の力で生きる事が出来ないのであるから、また死も、自分の力でコントロールする事が出来ないのである。総(す)べて因縁(いんねん)により生かされ、因縁によって死ぬのである。
一方、自殺者は、自分の意志で死ぬではないかと言う反論があるかも知れないが、自分で、自分の命を絶たねばならぬとする事こそ、まさに因縁であり、自殺者もまた因縁で命を失うのである。
生について言えば、人間の力で食物を食べ生きているのではない。生きていく因縁があるから、食物の方が人間に向かうのである。生きる因縁が無くなれば、眼の前に食物があっても、死ぬ時は死ぬのである。それは丁度、死を目近(まじか)にして病床に臥(ふ)し、見舞客のリンゴやバナナの食物が山と積まれているのに、病人は、これを一口も食べる事が出来ないではないか。
また、生きる因縁を失った病人を、どんな名医でも助ける事は出来ないではないか。
更に、名医が見放した、余命数カ月の病人でも、生きる因縁があれば、一年でも、二年でも生きているではないか。
生きる因縁がなければ、どんな滋養物を摂取しても、死ぬ時は死ぬのである。縁によって人は生かされ、縁が切れて死んで行くのである。だからこそ、死は、人間にとって一大事と言えるであろう。
これは容易ならぬ出来事であると同時に、人生の総決算が課せられた正念場でもあるのである。
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