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柔術 1


大東流柔術

柔術一本捕り・脇固


●柔術儀法の構成

 大東流柔術と言うものは、近年に興った、非常に新しい武技である。
 一部の大東流を標榜する指導者で、大東流が「清和天皇に始まり……云々」と標榜する者がいるが、これは明らかに明治三十年代に捏造
(ねつぞう)された後世の仮託(かたく)である。

 清和天皇は平安前期の天皇である。文徳天皇
(在位850〜858。827〜858)の第四皇子であった。母は藤原明子(ふじわらのあきこ)である。名は惟仁(これひと)と言った。そして水尾帝(みずのおてい)とも称された。在位した時、幼少であった為、外祖父・藤原良房(ふじわらのよしふさ)が摂政(せっしょう)となっている。その第六皇子・貞純親王からはじまるとは、如何なる理由からか。
 これを正しい歴史観で正視しただけでも、後世の仮託であると言う事は明白である。

 この時代、まだ武士団は興っていない。武士団が存在しないが故に、武技は存在しない。当時の武士とは、武技をもって、これを職能民
(しょくのうみん)とした集団であり、これが興るのは平安時代後期から鎌倉時代初期の事である。
 そして忘れてはならないのは、平安時代と言うのは、桓武天皇の平安遷都
(せんと)から鎌倉幕府の成立まで約四百年の間を指すのだ。
 繰り返すが、清和天皇は平安前期の天皇である。在位した時は幼帝であった。

 世が混沌とし、平家の擡頭
(たいとう)が起こり始めるのは、平安中期以降の事である。そしてこの時代は、戦闘思想の主体が遠くの敵を倒す、弓矢の術、馬術、槍術、薙刀術などが中心であり、素肌武術であった柔術など、存在する理由が全く無いのである。平素でも、甲冑を身に付けて暮らす時代に、何故、柔術が存在したのか。
 この歴史的な流れの中に、当時柔術は全く存在しなかった事が分かる。少なくとも、柔術なるものが、世に姿を顕わすのは、戦国時代に一段落がつき、世の中全体が甲冑
(かっちゅう)などを必要としない江戸期に入ってからである。

柔術儀法は近代になって技が洗練され、原始的な泥臭さが抜け、改良に改良されて、「柔術百十八箇条」なるものが、明治中期以降になって編纂された。しかし、これも「現代」という時代を考えれば、既に骨董品に成り下がっている。

 さて、西郷派大東流柔術の儀法構成は、「手解き」と「基本柔術」からなる。
 「手解き」とは、両手を塞
(ふさ)がれた場合の脱出方法であり、この脱出には「抜手」を用いる他に、敵に吾(わ)が手頸(てくび)を握らせたまま、儀法(ぎほう)を仕掛ける事を言う。

 また、術者の両手封じも、手頸を握らせたまま業
(わざ)を仕掛けるのである。つまり握られたり、掴まれたりした敵からの封じ手は、これを最初から無視したまま、業を掛け、次に手を解くという事である。握られた手頸や衣服の一部を、気に止め、それが気になるようでは、この状態からいつまで経っても脱出する事が出来ない。

北斎漫画(ほくさいまんが)の柔術図。北斎漫画では初歩的な肘詰の殺点を挙げ、「手解き」を紹介している。手根骨をせめ、手根伸筋を掴んで外す方法や、正対した状態で肘詰を行い、肘関節を極めて、制する方法を解説している。

 敵から、手頸(てくび)、袖、肘等を取られたらどうするか。
 手解きでは、これらを次のように教える。まず、こうしたものは、気に止めず、また、こだわるものでもない。意に止めず、サラリと流せば良いのである。固執しない事が「柔術手解き」の原則である。
 しかし、悲しいかな、術
(すべ)を知らない者は、これから逃れようとして、七転八倒の足掻きを繰り返す。この足掻きが、敵の術中に嵌(は)るのである。

 さて、昔のインドでの猿の捕獲法に、金網籠
(かなあみかご)の中に入れたバナナと、鳥黐(とりもち)を遣(つか)った方法があると言う。
 猟師は猿の通り道に、50cm四方の金網籠の中にバナナを入れて、獣道
(けものみち)に仕掛けを置く。この籠(かご)には4〜5cm程の小さな穴が開いていて、猟師は此処からバナナを入れておくのである。金網籠なので、外から見ても籠(かご)の中にバナナのある事はよく分かるのである。それを、獣道に仕掛けるのである。

 獣道
(けものみち)を遣って来た猿はまず、籠の中のバナナに気付く。バナナを見た猿は、どうしたらバナナが取れるか考え、やがて籠に小さな穴が開いている事に気付く。そしてバナナを取る為に、穴の中に手を突っ込み、バナナを掴むのであるが、バナナを掴めば自分の拳の太さとバナナそのものが邪魔して、籠から手を抜く事が出来ない。こうして猿は手を抜こうと七転八倒するのである。
 バナナを掴むのを止め、素手だけを籠の穴から抜き取ればいいのであるが、バナナを掴んだまま抜こうとするので、手は、どうしても籠の中から抜く事が出来ないのである。そして七転八倒している隙
(すき)に、猟師からまんまと生け捕られると言うのだ。

 また、鳥黐
(とりもち)で猿を捕獲する話もある。
 猿の通る獣道に鳥黐を仕掛ける。そこへ猿が通りかかって、それを見て「何だろう?」と思う。そして猿はそれを手で掴む。

 ところが鳥黐なので、手にくっつき、それを払い落とそうと、空いた片方の手で離そうとする。こうして益々、鳥黐は両手に粘着してしまう。更に、今度は足でこれを離そうとする。藻掻
(もが)けば藻掻く程、鳥黐は両手・両足にくっついて粘着し、猿はそれを離そうとして七転八倒する。そこへ、頃合い見計らって猟師が遣って来て、七転八倒している猿を難無く捕獲すると言うのである。

 以上の話が本当かどうかは分からないが、これを考えれば、生きとし生けるものの性
(さが)が存在し、性なる故に、持って生れた性格や宿命から逃れない一面があるようだ。
 ただ、このように生け捕られる態
(さま)を自分の「宿命」と皮相的に捕らえれば、それまでのことである。しかし、人間はこれを「宿命だ」と決定付けるには、余りにも智慧(ちえ)が無さ過ぎよう。
 智慧を用いるなら、「虚空」になる事である。

 虚空とは、「カラになる」ことを言う。だから「カラ」は「虚」
(から)であり、これに「空」(くう)が付けば、「何もない空間」ということになる。何もない空間とは、捕われる事もなく、また捕らえようとする事もないのである。解放された自由な事を言う。

 また、一切の事物を包容して、その存在を妨げないことを言うのだ。したがって、それにこだわり、そこから「何とかしなければ」という焦
(あせ)りは、七転八起を繰り返すだけで、徒労努力の最たるものとなる。

 西郷派大東流では、危険が吾
(わ)が身に迫った場合、実際に、何に頼ってそこから脱出するかを、まず第一に教える。吾が身に、命の存亡に関わるような危険に遭遇した場合、実際には、不正な暴力を前にして金が頼りになるとは思われない。「金を遣るから助けてくれ」と言えば、犯罪者はその金を受け取ろうとするが、暴力を加える事は中断しないだろう。益々弱いと見て、更に法外な要求を出して来るだろう。こうした時の結末は、「身包み剥がれる」ということだ。

 また物財もその限りではない。「○○を遣
(や)るから許してくれ」も通用しないだろう。では、何だろうか。心だろうか?!
 否、心など、頼りにならないと、昔から相場が決まっている。その証拠に、「女心と秋の空……」と言うではないか。
 したがって、心も頼りにならない存在になる。

 さて、心も頼りにならぬ、となれば、一体あなたは何を頼りにするだろうか。あるいは暴力を奮う相手に、この場に110番して、警察力の緊急出動を求めるであろうか。
 しかし、咄嗟
(とっさ)に襲われた場合、そのような暇はあるまい。即、反撃出来る術を遣うか、一方的に襲われて、暴行を受け、犯され、命を奪われれば、そこであなたの人生は焉(おわ)る。

 確かに法治国家である日本は、警察力によって人命や身柄が保護される事がある。しかし、その場にこうした警察力が、存在すると言う事が前提である。また、目撃者も大勢居ると言う事が警察力の要請の条件となる。

 しかし現実問題として、その場に頼りになる警察力がなければ、暴力者
(性格粗暴者、精神異常者、変質者、あるいは複数の暴行犯、テロリストなど)の意の儘(まま)にされる意外に道はなく、最悪の場合は殺害されるかも知れない。こうした不運で人生を閉じた場合、持って生まれた「身の不運」と、諦めが付くならそれもよかろう。

 しかし、人間の運命は、諦める前に、「人事を尽して天命を待つ」の心掛けは必要であろう。無抵抗の儘
(まま)、無慙(むざん)に殺される事はないのだ。
 最悪のピンチが遭遇した場合、自分自身で切り開くものである。こうした時に頼りになるのは、身分がこれまでに精進して身に付けた「術」である。九死に一生の、その一生に、一縷
(いちる)の望みを託して、やはりこれから抜け出す脱出法の「術」を会得しておかねばならない。



●他力一乗の妙技

 天命はこうした物に働くのである。これをわが流では「他力一乗(たりきいちじょう)」と言う。則(すなわ)ち、精進努力して「術」を身に付けるのは人間であるが、その術の効果がどうでるかは、人間の識(し)る処ではない。天が決める事である。運命が決める事なのだ。

尾骨を砕く術

 精進努力が充分に足りていれば、自分に有利に働くし、怪我する事もなかろう。しかし努力が不充分で、実戦に戦えるようなレベルでない場合、断然、犯罪者側が有利になろう。九死に一生を分ける明暗は、普段の、危険への心構えがものを言うという事が分かるであろう。怠れば、単に頭で理解しているだけでは、実際には役には立たないのである。

 不慮の事故にいつ遭遇しても対処出来るように、隙
(すき)を作らず、「転ばぬ先の杖」を、心の中に持っていなければならないのである。

 殺人事件や傷害事件などの凶悪事件が起れば、確かに警察は捜査網を張り巡らし、犯人を捕まえるであろうが、それで殺されたあなたの命が取り戻せる事はない。また生き返る事もない。
 また、殺される事はなくとも、それが致命傷となって残れば、それ以降のあなたの人生は不具者として生きる道しか無くなり、心にも大きな傷を追うであろう。これが許で、「杯中の蛇影」に怯
(おび)えるような生活が襲って来ないとも限らないのである。

 【註】「杯中の蛇影」について
 蛇の姿が見えた杯中の酒を飲んで重病になった人物が、その蛇が壁にかけた弓の絵が映ったものだと分ったとたんに治ったという故事に準
(なぞら)えて、わが国では、疑えば、何でもないことでも神経を悩ますもとになる事を喩(たと)えたもの。

 仮に、犯人が逮捕され、事件が解決を見ても、一件落着にはなるであろうが、何とも、被害者は納得出来ない結末である事には変わりがない。
 こうした事件は不幸な出来事として、テレビに放映され、新聞にも掲載されて、はじめのうちは、視聴者や読者が同情してくれて、見舞金や激励の便りも届くであろう。しかし三ヵ月もすれば、忘れ去られ、最後は、あなたの家族は一家離散
(いっかりさん)の運命を辿ることになる。

 そんな悲劇に見舞われない為にも、襲われたら、即、反撃出来るような必要最小限度の「手解き」の儀法を身に着けておかねばならないのである。
 手解きとは、一種の脱出法である。そして、不慮の事件や事故に遭遇した場合、本当に頼りになるのは金銭でも物財でも、また純真な心でもない。心は揺れ動くものである。そんなものは頼りにならないのである。
 本当に頼りになるのは、自分自身が身に付けた、儀法であり、これこそが最大の命を護
(まも)る拠(よ)り所となるのである。

 拠り所を得る為には、第一の手段として、反撃としての「手解き」を学び、反撃と共に脱出法を心得ておくという事である。
 そして特記すべき事は、心と言う存在は、自分の意志や力によって動いているものではない。その場その場の、環境や条件によって常に揺れ動き、つまり、「必然
(いんねん)という、目に見えない力で動いているのである。

 この必然は、「因縁
(いんねん)であり、先に述べた、猿の捕獲は、生きとし生けるものの必然を利用したものであり、これから抜け出そうと思えば、「こだわり」という必然から脱出する方法を心得ていなければならないのである。

 人は、柵
(しがらみ)から解き放たれて、はじめて自由になる。しかし現実には、固執や執着や「こだわり」を生み、やがてそれが固い殻(から)を作って、柵化する。したがって柵から解き放たれる、これまでの固定観念や先入観を捨て、ありもしない不安や不信から解放されなければならない。その解放される自由が、わが流の説く「手解き」なのである。
 この「手解き」の儀法を基礎に置いて修得し、次に「基本柔術」に入るのである。




●次段階の基本柔術

 基本柔術は、単なる型の反復動作ではない。あるいは意識によって、力によって、これを動かすと言うものでもない。虚空を旨としなければならない。
 つまり「虚
(から)」になることである。
 「虚」とは、肚
(はら)の中が空っぽであると言う事であり、肚の中に作為(さくい)を含む、何かの肚構え【註】肚に某かの意図があり、心中に策があること)というものがあってはならない。それを頼りにしていると、肚構えと異なった攻撃方法で敵が襲い掛かった場合、即座に対応する事は不可能となる。

 初めからそうしたものは、必要無く、虚空
(こくう)であると言う事が大事である。しかし、この事を本当に理解出来るまでには、かなりの時間を要するものである。それは、基本柔術のそれぞれの業を、一種の「型」と捉えるからだ。

 これを「型」と捉えた場合、動きが伴わず、「虚の妙技」が疎かになってしまうのである。「虚の妙技」とは、肚
(はら)構えを作らず、素手・素直になって、虚で立ち対(むか)事を言うのである。何故ならば、自由自在は「虚の妙技」から発動する儀法であるからだ。

初伝
中伝
奥伝
秘伝
表手解き
表柔術
表中合気
表上合気
裏手解き
裏柔術
裏中合気
裏上合気
奥手解き
奥柔術
奥中合気
奥上合気


 一般に知られている大東流は、柔術百十八箇条からなると言われているが、正確には「五箇条百拾八本の組技」であり、五箇条百拾八本の組技を体得した段階では、単なる型踊りであり、合気を施す段階の奥伝以上には辿り着けない。ここに、五箇条(ごかじょう)百拾八本を単なる「型」と検(み)るか、あるいは「動き」と検るかで、その後の上達の指針が自ずから見えて来る。

足鋏
腕固
腕縛り
腕帆掛け

 さて、「型」は型の範疇(はんちゅう)から抜け出すものではない。固定化されたものであり、変化自在の応用性が乏しい。応用力に欠ければ、巧みな変化に蹤(つ)いて行くことができない。動きが早くなれば、息切れもしよう。また、息切れは、実戦では「焦り」を生む。敗北の方程式は、こうして「敗北の答」を導き出すのである。

 こうした愚に陥らない為には、基本柔術を「型」としてではなく、「動き」として捕らえる必要がある。
 動きは、単に「動いている」ことを指すのではない。変動や変化に応じる体制を作る事であり、ここには「静動」が同じように起勢の態勢を作るのである。基本柔術を会得するには起勢の態勢を学ぶ事であり、一方で「動くこと」、もう一方で「封ずること」なのである。



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